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「何に怒るべきか」

「何に怒るべきか」     
  2005年4月17日
          テキスト ローマの信徒への手紙 第3章1節~8節②

「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。  それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。
しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。
決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。
またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。」

 先週は、中部中会の第47回定期会、今年度の第一回の定期会議が開催されました。そこで、三名の伝道献身者たちが、教師候補者として中会に登録されました。すでに、神戸改革派神学校に入学しておられる兄弟たちです。わたしは、豊明教会の一人の兄弟が議場で挨拶されるのを聞きながら、「人間は変るのだ」と、神は人を変えられるのだと改めて思わされました。もちろん、この教会に仕える特権を与えられております私は、そして、皆さまもそうだと思いますが、ここで、洗礼をお受けになり、あるいは、転入、加入された方々が、変えられて行く姿を目の当たりにしながら、信仰生活を送ることができること、このことは、いったいどれほど感謝なことであろうかと思っております。しかし、この度、一人の若い伝道献身者の姿を見ながら、自分自身の不明を恥じてもいました。実は、大変申し訳ないことですが、その兄弟が献身するということを木下牧師から、伺ったとき、耳を疑ったのです。

 その兄弟が提出された証を読みました。就職活動をしていたとき、「自分が人生をかけてするべき仕事は何か」と数ヶ月かけて祈り続けた結果、御言葉をのべ伝える仕事をすべきだと言う志が与えられたのだそうです。しかしながら、自分で、牧師や宣教師には向かない、自分の実力ではできはしないと人間的に判断してしまったのだと言うのです。そこで彼は、6年間専門分野を学んだのだから、その技術を生かす職業選択を考えるほうが常識的ではないかと考えられます。そして、献身の思いから逃げるのです。いや、正確に言えば、伝道献身者としての道から逃げたのです。彼は、長老や執事になって、企業人として生きることを考えられたのです。もちろん、長老職に召され、そこに献身することと、牧師に召され、そこに献身することと、献身することにおいては、キリスト者であれば変りはありません。いずれも徹底しなければなりません。献身の道に上下などというものはありません。しかし、まさに、修士課程まで学び、誰もが羨むような会社勤めをしながら、教会人として生きることは、ご本人が言うとおり、人間的には常識的なことなのかもしれません。わたしも、一時は、社会人として働いたので、よく分かります。しかし、その論理は、まさに、人間的な論理であると、神の迫りに、神に捕らえられていることに気づき、その召しにゆだねられたのです。

 もう一人の教師候補者は、私どもの教会にも、執事の働きについての発題の奉仕をしてくださった兄弟です。彼もまた、伝道献身への神の導きを感じつつも、さまざまな理由を持ち出して、そこから、逃げることを考えられたと言うのです。献身を思いとどまる理由は、確かにいくつもあるわけです。しかし、彼もまた、御言葉の迫りを受け、導きを受けて、神にすべてを捧げていなかったことを思い知らされ、遂に神に降伏し、御言葉に従う決心が与えられます。このようにして、彼らは、いよいよこれから、正式に伝道者としての訓練を受けて行きます。まことにすばらしいことであり、中部中会としては大変幸いなことであります。

さて、本日は、先週と同じく、第3章1節から8節までを朗読しました。この箇所からの第二回目の説教となります。この手紙を書いたのは、使徒パウロです。伝道者パウロであります。先ほどの教師候補者たちは、伝道者になって行く過程のなかで、おそらく、ひとりの魂と向き合う経験を与えられることと思います。そこですぐに経験することがあります。いへ、何も、献身者だけではなく、皆さまも一人のキリスト者として、証をし、伝道し始めるとすぐに、経験すること、させられることが必ずあると思います。それは、「神さまなんて信じられない。」という嘆きです。いへ、嘆きなら良いのです。すばらしいのです。「神を信じたいのだけれど、なおはっきりと信じることができないのです。」このように嘆いておられる方であれば、おそらく、速やかに信仰へと導くことができるでしょう。しかし、問題は、表面上は、嘆きの口ぶりなのですが、その実、自分が神を信じられないのは、正当なことだと主張する人との出会いがあるはずです。彼らは心の中で、ときには、口に出して申します。「あなたのように、単純に、信じることができたら、良いですね。羨ましいです。」しかし、本当のところは、羨んでいるのではないのです。8節に「中傷する人がいます」とありますが、「そしり」、「軽蔑」の意味です。「見下す」のです。

 私どもは、いったいどれだけ、家族の者から、愛する者から、このように言われてきたことでしょうか。私は、未信者の家庭からキリスト者となった、つまり第一世代の人間ですから良く分かります。家族で一番最初にキリスト者になった方は、いったいどれほどこのような言葉を浴びせられたかと思います。「あなたは物事を深く考えないから信じられるのだ、よく、世界を見てみなさい。この世界で今、何が起こっているのか。あの国にもこの国にも、不正がある。大災害が起こって、普通に生活している罪のない人々がどれだけ、死んでしまったか。そのような中で、よくも神は愛だとか、全能の神だとか言える。無神経ではないか。」

 パウロは伝道者です。誰よりも伝道に心を燃やして、世界の果てまで伝道に出て行った人です。そのような彼だからこそ、私どもとは比べられないほどに、人々からの中傷、軽蔑、批判を浴び続けたのです。だからこそ、今日も読んでいるように彼らとの「対論」「論争」を記すことができたし、記さねばならなかったのです。

 私どもにとって、一番つらいのは、愛する者、家族からも、信仰を理解されないことであります。もちろん、信仰を理解することは、聖霊の御業ですから、家族が信仰を支えてくれるということは、信仰を支えるのではなく、信じているその家族への愛情にもとづくもの、信仰に生きているその人を支えているのです。その意味では、その家族の愛に支えられて、教会生活が成り立っていることを、この朝もあらためて感謝したいと思います。しかし、それは、どこまでも信じているその人を支えているのであって、信仰を支えているのではないのです。そこには、越えられない断絶があります。人間の跳躍力では決して跳びこえることのできない深淵であり、はるかなる距離があります。信仰を理解することつまり、信じることとは、聖霊の御業なのです。未信者の家族が信仰を理解せず、中傷することほど、悲しいことはありません。しかし、わたしどもはかつての自分の姿をそこに見て、忍耐の限りを尽くして、救われるようにと祈り、福音を証し、御言葉を語り、教会に招き続けるのです。

  
 さて、パウロはユダヤ人です。ユダヤ人とは、神を信じる民のことです。神を信じないユダヤ人というのは、まるで「黒い雪」というようなものでしょう。ありえないことです。ところが、パウロがこの第3章で問題にし、討論し、対決するのは、他でもないユダヤ人たちなのです。パウロの家族、同胞たちです。実に、彼らが言うのです。信じている者が、未信者や異邦人よりはるかにおそるべき言葉を聞かされるのです。

 先週、わたしは、聖書の中にはもちろん神の言葉が記されているけれども、同時に、悪魔の言葉も記されていると申しました。そして、この箇所の中には、まるで悪魔の言葉のような言葉があるのだ、その悪魔との戦いをここでパウロがしているのと言っても良いのだと申しました。それは、ここで出ております、三つの言葉、三つの主張です。
第一番目は、3・4節です。先週の説教で扱いました。つまりこうです。「神が誠実だとか、真実だとか言っても、ユダヤ人のなかに不誠実な者がいるとあなたは言う。しかし、そんなことを言うなら、そのユダヤ人を選んだのはいったいどこの誰でしょうか。神さまでしょう。そうしたら、神さまのほうにだって、不誠実、不真実があるということになりませんか。神さまが全能で、間違いないお方であったら、神が選ばれたユダヤ人の不誠実、失敗は、神さまに原因がある。悪いのは、俺たちじゃない。神にある。」パウロは、言いました。「決してそうではない。」「断じてそうではない。」「絶対にそんなことはありません。」今日風に申しますと、「ありえない」とか「とんでもない」あるいは、「ふざけるな」という言葉です。そこには、はっきりとした「憤り」の思いが込められているのです。「弁解の余地はない」というよりも、もっと激しい言葉であると思います。

 第二番目の議論、悪魔の議論はこうです。5・6節です。パウロの言葉つかいからは少々分かりにくいのですが、つまりこういうことです。「なるほど、神の義は、神の正しい裁きは、私たちが罪を犯して、それを裁かれるところにはっきりと現れるというのですね。1章の18節で、あなたは、不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して神は天から怒りを発すると言いましたね。それなら、わたしたちの罪が大きければ大きいほど、神さまの正しい裁きがはっきりと示されるわけですね。そうなると、神さまの正しさをはっきり示すことができるようになったのは、わたしたちのおかげではありませんか。それなら、何故、わたしたちを神は裁くのでしょう。むしろ、私たちのおかげで、神さまの正しさがわかるのだったら、裁くような神さまは不義ですよ。おかしいですよ。」

 ここで使徒パウロは、「人間の論法」という表現を用います。「人間的な言い方」とも訳されます。ただし、少し横道にそれますが、「人間的」という言葉は、丁寧に用いなければならないし、解説しないといけないと思います。私どもは、キリスト者は、他のどのような宗教、思想を持つ方々よりも人間的であるはずです。つまり、神を知っている人間こそ、まさに人間らしい人間、人間的な存在なのです。神を神とするときにのみ、人間は真の人間となることができるのです。ただし、ここでの「人間」とは、そのような意味ではないのです。むしろその正反対です。神を神としていない人間ということです。神の真理をないがしろにする人間ということです。

 パウロは、彼ら信仰の反対者、不信仰な人々に向かって、人間の論法に従っているのだと言います。それならいったい、人間の論法とは何でしょうか。それは、今までの二つの主張を見ればすぐに分かるのではないでしょうか。それは、自己弁護にもとづくもの、自己正当化の論理です。一言、屁理屈と言ってよいのです。理屈にならない理屈です。

 それなら、そのような人間的な論法、理屈に対してどのようにパウロは対応するのでしょうか。いえ、もっと正しく申しますと、パウロを通して、語られるのは、他ならない神御自身ですから、神はそのような人間に対してどのように、対応なさるのでしょうか。改めて記します。「決してそうではない。」

 もしかすると私どもは、この御言葉によって、ああ、パウロ先生怒っているな、もう少し上品に書けばよいのになどと偉そうに思ってしまうかもしれません。しかし、そうではありません、ここにはパウロを通して、神の怒りが現れ出ているのです。パウロは、彼らのそのような屁理屈に対して、議論を打ち切ります。彼らに同情などしないのです。「あなたの言い分もわかります。本当に、神さまにだって、文句の一つも言いたくなりますね。そして、その文句は、少なくとも一つくらいは、神さまの方でも、認めてくださるのではないですか。」などと決して言わないのです。一パーセントも、妥協しないのです。このような屁理屈、つまり、不信仰な議論に付き合わないのです。このような不信仰には、同情しないのです。これが、パウロです。これを、パウロの性格にして片付けてしまうことは決して、許されません。「パウロ先生には、しばしばこのように厳しいところがあるから、そのところは、どうぞ、割り引いて聞いて置いてくださいね。」などと、パウロを弁護することなど必要ありませんし、してはならないのです。神は、ここで憤っておられるのです。人間の屁理屈、人間の自己弁護、自己主張を、神は拒絶なさるのです。「決してそうではない」と、言わば「外からの」声が響くのです。

 我々、日本人は、その点、特別に弱いと申してよいと思います。現在、日本の外交関係、特に近隣のアジアとの関係が急激に悪化していることは皆さまご承知の通りであります。中国での抗日運動、排日運動は、かつてない高まりを見せております。いくつもの、経済的、社会的な理由があるでしょう。しかし、素朴に申しまして、その最大の原因は、我々にあります。我々が、60年前の戦争の罪、罪責を真剣に考えていないからです。心の底から、悪いことをしました。赦して下さいと、謝罪しないからです。謝罪しなくても、こちらが忘れる、こちらが過去を忘れてしまえば、相手もまた、忘れてくれるとすら思い上がっているのです。正式な謝罪なしに、どれほど、時間が経っても、きちんと解決することはできません。それが、問題なのです。それにもかかわらず、今更、昔のことを言い出して、もう、60年前のことを言い出すのは、おかしいと考えるのです。それこそが、人間の世界ではおかしいのです。

 今、日本は、隣国から、「決して忘れないぞ、忘れていないぞ」と言われています。自分が忘れても、相手がいることに今こそ、気づくべきです。しかし、それとは比べられないほど明らかに、ここで神は、人間たちに、「お前たちが今、人間の論法で、理屈をこねるが、神の御前に通用するはずなないのだ」と語りたもうのです。それが、、「決してそうではない」と言う外からの、神からの宣告なのであります。

 最初に伝道献身者のお話を致しました。彼らは、人間的、常識的に言えば、何も牧師になる道を選び取らなくても、誰からも怒られません。軽蔑されることはありません。長老として、執事として、教会や中部中会を支える志をもって教会生活に励んでいるわけですから、それだけで、すばらしいことでしょう。しかし、彼らは、それが、人間の論法であったと神に教えられたのではないでしょうか。自分には、牧師になる能力はない、今更、神学校に行くのは、遅すぎる。もっともな理屈はいくつもあったのです。しかし神は、彼らに、神の主権、御計画、御心をお示しくださり、彼らはそれに降参したのです。いへ、正確に申しますと、降参が始まったのです。神が、彼らの人生に立ちはだかってくださり、神のもっとも望む道、神に示される道を進む一歩を記したのです。

 
 最後の三番目の議論は、7・8節です。ここに至って、パウロの言葉は極まります。「こう言う者たちが罰を受けるのは当然です。」このような屁理屈、このような不信仰に対しては、断固、斥けるのです。そのままでは、神の裁きを受けると警告するのです。ここでも、最近、あるキリスト教系の宗教団体、自称はキリスト教会ですが、牧師と称する方が、自分の言うことに従わなければ、罰を受ける、地獄に行くのだと脅して、信者をコントロールしたという犯罪が起こりました。これこそまさに悪魔的な業ですが、しかし、それなら、パウロがここで、「こう言う者たちが罰を受けるのは当然です。」と言うのとどう違うのでしょうか。それは、パウロが、自分に対してあれこそ、批判していることに対して言っているのではないということです。神に向かって批判する、もちろんそこでも具体的には、パウロの福音の宣教に対してなのですが、しかし、パウロへの個人攻撃に対する言葉ではないことは明らかであります。

 さて、最後のパウロが容赦しなかった悪魔的な発言とはどのようなものなのでしょうか。「もしわたしの偽りによって、神の真実が、いっそうあきらかにされて、神の栄光となるのであれば、何故、わたしはなおも罪人としてさばかれなければならないのでしょう。もしも、わたしの偽りが神の真実をいっそう明らかにするのであれば、わたしはむしろ、罪の中に留まった方がよいし、むしろ、おもいっきり罪を犯して、その後に神さまに思いっきり赦して頂こうではないか。悪いことをしても、最後は、神さまに赦していただけて、それで、帰って、神さまの太っ腹なところ、その真実、栄光が明らかにされるのであれば、罪を犯し続けよう。」このような屁理屈です。これは、まさに屁理屈のなかの屁理屈です。おかしい議論です。しかし、パウロは、このローマの信徒への手紙全体を通して、明らかにしようとしたことは、第1章16節、「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」です。つまり、どんな罪人でも主イエス・キリストを信じるだけで救われるという教えなのです。しかし、これを聞いた人々、とりわけユダヤ人たちが反発したのです。中傷したのです。軽蔑、見下したわけです。ただイエスを信じるだけで、救われるなら、どんな罪でもただイエスを信じるだけで赦されるなら、神の赦しの大きさを味わうために、罪をどんどん犯したらよいではないか。このような中傷を受けたのです。しかし、パウロは、もはや、彼らと長々と議論しません。ユダヤ人は知らないわけではないからです。いわゆる未信者とは違います。異邦人ではないのです。そのような彼らが、そのような悪口を神に対してする、それを知っているパウロは、「決してそうではない」「ふざけたことを言うな」「そのような者には、神の刑罰が下るのだ」と糾弾するのです。

 彼は、いったい何に対してこれほど厳しく対抗するのでしょうか。それは、一言で言えば、不信仰です。屁理屈をこねて、不信仰の正当性を主張する者に対して、怒っているのです。そこには、おもねりがありません。
 わたしどもははっきりと弁えていなければなりません。ここでの議論は、未信者に向かうものではないのです。むしろ、教会を知っている人、教会生活を長くしているような人への、迫りなのです。教会生活のなかで、これだけは赦しておいてはいけないもの、見過ごしてはいけない事柄についての議論をしているのです。不信仰は、パウロにとって、存在の余地はないのです。不信仰に、対してだけは、「まぁまぁ」という態度は、パウロには考えられないのです。つまり、神は、それをお赦しにはなっておられないのです。もしも、言わば、物分りのよい牧師、あるいは長老が、教会の中で支持されるようになるなら、それは、教会のまさに危機です。教会のなかで、人間の論法がまかり通ってしますなら、おそらく、ローマの信徒への手紙を正しく読み続けることはできないはずです。

 何故、パウロはこれほどまでに徹するのでしょうか。それは、神が、それほど真剣に、真実に私どもの救いを願っておられるからです。パウロは、神がどれほど、真剣に私どもの救いを願い、それを成就してくださったのかを知っています。御子イエス・キリストの十字架の御業を仰げば、誰でも分かるのです。十字架のキリストを見上げながら、パウロは、これを書いたはずです。そのときには、「そんなことを言う人もいますね。」「そのような不平も、理由がありますね」とか言う言葉は、吹っ飛んでしまいます。

 私どもの教会は、「慰めの共同体」の形成を目指し続けて今日まで励んでまいりました。それは、決して「不信仰な生き方も、あなたの環境、状況なら、仕方がありませんね。それでも良いですよ。」などとお互いに慰めあうようなものとは、まったく違うことはここで明らかすぎるほどになっていると思います。

 しかし、同時に今、自らを深く顧みるとき、私どもがどれほど、神の御前に不真実に生きているのか、生きてきたのかを、改めて恥じる思いを禁じえません。私どもも、しばしばあちらに傾き、こちらに傾きながら、まことにたどたどしい歩みでしかないのです。ところがそれにもかかわらず、なお、神は忍耐して、私どもを育て続けていてくださいます。私どもは、時に神に激しく怒られながら、悔改め、信仰の道へと立ち返らされ、歩み続けるのです。
最初に、申し上げた教師候補者たちも、長い神の忍耐と訓練とがあったのです。そして、神は、その御心を実現するために、彼らに根気強く向き合い続けてくださいました。そして、今、神の御心へと向かう歩みがさらに確かなものとされているのです。それは、私どもも、また同じです。なぜなら、必ず、神の真実によって、信仰の道は上から、外から支えられるからです。ですから、神によって歩み続けることができるのです。そこにのみ、私どもが、自分自身の信仰の生涯を全うする望み、自分が常に新しくなる望み、変えられて行く期待を捨てることはありえないのです。そのような堅固な認識、堅固な理解が、神がつくり、お与えくださいました信仰なのであります。

パウロは、福音には、神の義が啓示され、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されると語ります。パウロは、この信仰の従順に私どもを導くために使徒となり、この手紙を私どもに書き送ったと申します。私どもは、今、神の義、神の真実の前でこそ、悔改めます。それができるのです。神の真実に触れられているからこそ、不信仰を捨ててしまいますし、何度でも、悔改め、信仰の戦いを継続することができるのです。

 祈祷
 私どもは、真実なる神の真実にあずかって、救われました。ところが、その真実の前に不誠実なものであることを、いつも言い訳をしながら、ときに開き直るようにして生活しております。私どものその罪を今、あらためてお赦しください。しかしあなたの真実になお支えられているからこそ、今朝も、御前にでることができました。私どもが、屁理屈を言うこと、不信仰のなかでとぐろを巻くように立ち止まることがないように。御霊をもって、改革し続けてください。   アーメン。