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「勝利者キリスト、キリスト者」

「勝利者キリスト、キリスト者」
2006年3月12日

テキスト ローマの信徒への手紙 5章12節~21節①

「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

この箇所もまた、実に豊かな、すばらしい恵みの教えに満ち満ちていますから、いったい、語りつくすことができるであろうかと思います。しかし、ここでパウロが告げたいことは、ごく単純なことでもあります。つまり、罪と死の色でどす黒く塗りつぶされた現実は、2000年前にこの地上に来られ、死んでお甦りになられた、たったひとりの人のおかげでまばゆい光の色に全く塗り替えられたということです。暗黒は光によって追い出されたということです。光よりの光、まことの神よりのまことの神であられる主イエス・キリストの光が今や、この世界に輝いているのです。その光は、他のどこでもなく、今まさにこの礼拝式に射し込んでいるのです。この礼拝経験こそ、光よりの光なるイエス・キリストの光を浴びる場所であり、時なのです。この朝も、神の御言葉を聞くことによって神を礼拝する一人ひとりの上に、神の民の上に主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。

先週、ひとりの有名な仏教学者の書物を読んでおりまして、ひとつの言葉に驚かされました。「日本のプロテスタントの牧師は、キリスト教が分かっていない。」これは、実に、大胆な発言であります。この方への批判をここでする暇も必要もありません。しかし、この方の主張されたこと、書かれたものを読みながら、キリスト教信仰の本質について的をはずしてはおられないと思わされました。わたしは、万一、牧師が、この仏教学者が嘆いて見せたような聖書の理解を持っているなら、まさに、牧師がキリスト教を知らないという批判は当たっていると思いました。この方は、「信ぜよ、さらば救われん」というのは、おかしいというのです。「信じたら、救われるというのなら、お金を入れたら、自動販売機から品物が転がり落ちて出てくるようなものではないか」というのです。なるほど、救いを人間的な決断のもとに信じるということで左右することができるかのように、聖書を説く牧師がいれば、まさに、日本のプロテスタントの牧師は、キリスト教が分かっていないということになるでしょう。それなら、日本のプロテスタントの信者は、キリスト教が分かっているのかいないのか、そのことを、わたしも一人の牧師として、責任をもって考えさせられました。わたしは、これまでも、そしてこれからも、皆さんに、正しい聖書の教え、教理を身につけていただきたい、教会を真実に立てあげる為の筋道を身に着けていただきたい、自分勝手な先入観、人間的な考えで、聖書を解釈しようとしたり、教会生活をつくろうといすることから守りたいと願い、一回一回の集会で、説教で、祈祷会で、学び会で真剣に語っています。本日、与えられた箇所を読みながら、仏教徒の方に、あなた方はキリスト教の教えの真理が分かっていないなどと批判されるような読み方をしかねないと、あらためて思わされました。

この事柄と関連するのですが、これも先週、日本キリスト教会が出しておられる機関紙「ヤスクニ通信」のなかで、一人の長老の文章に目が留まりました。こう記されていました。「日本の教会代表が、我国の植民地下にある朝鮮の教会に神社参拝を説き、多くの教会がこれに屈した中で、主に従い殉教した牧師たちがあった。その中で生き残った孫明復牧師を1992年、韓国の自宅に訪ねた際、『クリスチャンになるということは、足の先から頭の先まで全部入れ替わることだ。日本のクリスチャンはノンクリスチャンとどこが違うのか分からない』と言われた言葉が、今ますます強く突き刺さってくるのである。」

ここでは、ひとりの日本からの厳しい迫害を生き残った韓国の老牧師から、日本の牧師、キリスト者は、ノンクリスチャンとどこが違うのか分からないと批判しているのです。これは、さきほどの仏教学者の批判とはまったく質をことにする、深刻な、真剣な批判として、私どもは、謙虚に聴かなければならないと、思います。

私どもはキリスト者であります。ここにおられる方は、多くの方が既に洗礼をお受けになっておられるのです。洗礼によって、私どもは、すでに足の先から頭の先まで、キリストのものとされていることをわたしは信じて疑いません。すでに、信仰によってそのような新しい存在にされていることを信じています。信仰によってとは、言い換えれば、恵みによってです。「信ぜよ、さらば救われん」とは、「恵みを受けよ、さらば救われん」ということなのです。信じることも、その前の罪を認め、悔い改めることもただ、恵みによってのみ与えられるものです。ですから、私どもは、信仰を「与えられる」と表現するのです。与えられる信仰によって、そのとき直ちに罪赦され、神の子とされるのです。頭の先から足の先まで、直ちに、キリストのものとされ、神の子とされるのです。それを信じないところでは、私どもの信仰は成り立ちません。しかし、同時に、聖書の言葉を、説教を自分に引き寄せて理解し、解釈することを避けなければならないのです。

パウロはここでも一生懸命、罪について語ります。アダムについて語ります。どうしてなのでしょうか。今朝くらいは、罪について死についての説教はしないで、恵みについての説教を聞きたいと思われるなら、それは、できません。なぜ、使徒パウロは、ここでも罪と死、アダムの罪について、私どもが置かれている悲惨な現実について語るのでしょうか。それは、パウロはここでも恵みを語ろう、恵みを明らかにしたいからに他なりません。そして恵みとは、神の恵みなのです。主イエス・キリストの恵みだからです。それは、この罪からの救い、死からの解放のことだからです。罪と死の問題を見つめることなしに、真の救いは必要もなくなります。罪と死の問題に悩み、苦しむことなしに、神の恵み、イエス・キリストの恵みを受けても、嬉しくともなんともなくなるからです。そのような恵みを求めなくても平気でいられるからです。

しかし、人間の本当の姿を知った人なら、自分の現在と将来の姿がどれほど惨めで、悲惨なものであるかを、知らされた人なら、この恵みなしには、生きてゆけないはずです。聖書が与える恵みとは、端的に申しますと、それは、信仰のことなのです。信じることができるということです。生ける真の神を信じることができること、これこそ恵みであります。私どもは、この恵みを与えられていることに、心から感動し、感謝する者なのです。
わたしは、今朝もまた、主イエス・キリストとお呼びすることができること、主イエス・キリストの父なる御神、天の父よとお呼びすることができることに心からの感謝と感動を覚えさせられます。毎日、それが、私自身の感謝です。神を、畏れの念と愛を込めてお呼びすることができる、これは、聖霊のお働きだからです。先週の朝の祈祷会で、いつものように最初に賛美歌を歌います。「血潮したたる主のみかしら」と歌いながら、涙がこみ上げてまいりました。それは、主に対する愛が与えられているからです。涙をぬぐわれておられた方もおられました。それは、主イエス・キリストの激しい愛、真実の愛、犠牲の愛を受けているからに違いありません。聖霊なる神のお働きがそこにあるのです。毎日、この信仰の恵み、神に祈ることができる恵みに、わたしの心、私どもの心は深い感謝に満たされます。今朝も、今日も主イエスを信じることが赦されている、この事実に驚きを持つのです。なぜなら、聖霊の恵みなしには、信じることも、悔い改めることも、できないことを聖書によって教えられているからです。

恵みとは何か、ここですでに明らかになっているはずであります。それは、今日自分の生活のなかで、何か良いことがあったかなかったかということに、根拠を置いていません。自分の生活のなかで、自分の望むような健康、繁栄、成功が与えられているからではありません。もしも、それが、神の恵みであり、それを感謝することが信仰であると考えるなら、それは、仏教徒であろうと他の宗教の信者の方であろうと、なんら変わらないのです。どこが、クリスチャンなのかという批判にどう答えるのでしょう。私どもは、自分が、祈ることのできる人間、天地の創造者なる神を父とお呼びすることのできる恵み、神の子とされた恵みを、神の恵みと信じているのです。キリスト者である。つまり、罪を赦された人間である。それこそ、あるいは、それだけが、私どもの誇りなのです。キリスト者であることに上乗せするような誇りなどはありません。自分がキリスト者であることに上乗せすべき恵みなどありません。このことを自覚することが、キリスト者なのです。

だからこそ、使徒パウロは、神の恵み、主イエス・キリストの恵みを語るとき、罪と死を語るのです。そこから救い出されたこと、これが、恵みであって、これ以外の恵みは、枝葉のものでしかないからです。逆に申しますと、どれだけ聖書を読んで、教会生活をしていたとしても、枝葉のものが自分の誇りであるなら、それを神から与えられた恵みであると考えるなら、それは、信仰生活にはならないでしょう。

パウロは、12節で「一人の人によって、罪が入り、罪によって死が入りこんだように、すべての人に及んだのです。」と断定しました。全人類は罪人であるのだと宣言したのです。人間はもともと罪人、徹底した罪人として生まれてきて、実際に罪を犯す、神に反抗する、神に言い逆らうのです。一人の人とは、アダムであると14節ですぐに説明します。アダムとは、我々人間の始祖です。はじめの人間を意味します。我々人類の代表であります。

そしてパウロは、アダムとは、「来るべき方を前もって表す者」といいます。来るべき方とは、他でもない人となられた主イエス・キリストのことです。「前もって表す者」とは、アダムとは、主イエスの言わば、モデル、タイプ、型、雛型であるということです。つまり、パウロは、ここでアダムと主イエスとを比較してみせようとするわけです。

ところが、まことに不思議な表現ですが、比較を試みようと語り始める前に、15節で、こう言うのです。「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。」比べられないのだと言うのです。釣り合いがとれないということです。つまり、我々の罪、そしてその力と神の恵み、その賜物とをもしも、天秤にかけるなら、バランスを保てないということです。もしも、天秤にかけるなら、天秤そのものをこわしてしまうような、神の恵みの賜物の方が圧倒的に重いのです。つまり、比較などできないのです。

ただし、パウロは、ここで実際に比較して見せたのです。そして、確かにアダムとキリストには、一つの対応関係があるのは事実であることが分かります。ひとりの人アダムによって、死が全人類に入りました。こうして全人類が、暗黒と滅び、光のない世界に閉じ込められてしまったのです。しかし、今や、2000年前に、ひとりのキリストによって、命が、永遠の命が世界に入り込んだのです。

アダムによって、全人類は、暗黒の世界のなかに閉じ込められてしまいました。そして、今日、我々は、この真の光が射し込んでいない世界こそが当たり前の世界であると考えて生きています。真の光がありませんが、擬似的な光を光と思い込んで生きているのです。いつの時代でも、さまざまな光が売り出され、人々はお金を支払ってそれを買い求め、つかの間の楽しみを持ちます。最近もある人が、「金があれば、欲しいものはなんでも手に入れられるのだ」と豪語しました。しかしその人じしんは今、幸せになれたのかどうか。いや、我々はその人のように大金を稼ぐことはできないから、身の丈にあったもので、満足しようと考えるのです。しかし結局、偽りの光で満足しようとするのです。そのような小さな光、つかの間の光を求め続けながら、まことの光がない暗黒であることに気づくこともない人々もまた多いのです。

このように確かに一人の罪によって罪と死が世界に入り込んだように、しかし、今や、2000年前に、ひとりのキリストによって、命が、永遠の命が世界に入り込んだのです。そして、この命こそが今、世界を支配するのです。そこに一つの類比が成り立ちます。

もとより中身はまったく正反対です。罪にたいしては義、死に対しては命です。しかしその影響力、力はまったく違います。神は、たった一つの罪でも有罪の判決を下され、人間は死の奴隷、死の力に屈服させられました。しかし、神の恵みが働くときには、一人の人のおかげで、いかに多くの罪があってもそのすべてに無罪の判決が下されてしまうのです。数え切れない罪の行為、生きてきたぶんだけ、より多く重ねてしまった罪の数々が、たったひとりの人のおかげで、このお方の恵みの御業によって、帳消しにされてしまうのです。一切の莫大な借金、数えらないほどの借財が、このひとりの人のおかげで、なくなるのです。相殺されるのです。いまどきの言葉で言えば、チャラになるのです。していただけるのです。

そこで、私どもは、決して誤解してはならないと思います。聖書の教えをきちんと受け止めないと、誤解されていると批判されかねません。どういうことでしょうか。それは、罪の借金の金額と命の金額とは、イーブンではないのです。差し引きゼロではないのです。借金返済のための命の財産、お金は、有り余るほどにある、用意されているのです。計ろうとする天秤など壊してしまうような恵みの重さなのです。

アダムの神への違犯、背きのために、全人類に死が及んだ力は、強大です。あまりにも強大ですから、誰も、死を見つめられなくなったのです。どんなに、すぐれた宗教家、宗教の開祖のような人でも、死を見つめることがほとんどできませんでした。生きている限りは生を考え、死を考えないことが良いことだ、死のときは何も考えられないのだから、生きている限りは、死のことを考えないというわけです。どうして、人間は、死を見つめることができないのでしょうか。それは、死の中に、おそれを見るからです。死の恐怖は、裁かれる恐怖に根ざしているのです。だから、その恐怖を見つめることはできないのです。

そのような暗黒のなかに閉じ込められている人に、しかし、主イエス・キリストがきてくださったことによって、難行苦行もしていないのに、仏教の偉いお坊さんでも達することのできない立場に立つことが許されているのです。ただの信徒、普通のキリスト者であれば、誰でも、死の勝利者になれるとパウロは言うのです。それが、キリスト者なのだと言うのです。それは、17節にあるとおりであります。「ひとりの罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」ここには、目もくらむような勝利の宣言が、圧倒的な恵みの勝利が歌い上げられています。すばらしい御言葉であります。要するに、ここでパウロが言いたいことはこういうことであります。「ひとりのアダムの罪によって、そのアダム一人のせいで、死がすべての人々を支配するようになったのであるけれど、それと比べるなら、なおさら、ひとりの人間イエス・キリストを信じてその恵みを受けている人は、これまでは、死に支配されていたのだけれども、これからは、死を支配するような人間になる、なっている」

支配者の反対は、奴隷であります。支配者とは、その国の最高権力者のことです。つまり、王なのです。私どもはかつて、死に支配されていました。ですから、神もなく希望もなく、日々、偽りの光の誘惑の中で、自分を傷つけ、隣人を傷つけ、憎み、争い、悲しい日々をすごしてまいりました。まさに、自分ではしたいとは思わない罪や汚れを行いながら、神にそむき、空しい生き方をしてきたのです。そうするしか生きられなかったからです。罪の奴隷であったからです。ところが、今や、罪を犯さない神のみ子がひとりの人間となってくださったのです。その人間イエスさまが、人間のわたしを救う為に罪の支払う報酬の死を身代わりに十字架につくことによって償って下さったのです。そして、このお方は三日目に墓からお甦りになられました。それによって、私どもの罪が赦されるばかりか、このキリストと結ばれることによって、キリストと同じものになったのです。キリストと同じものとなるということは、パウロの言葉で申しますと、「イエス・キリストを通して生きる」ということです。イエス・キリストと重なり合って生きることです。「わたしは道であり、真理であり、命なのです」と仰せになられたイエス・キリストとぴたりと重ねられて生きるのです。洗礼を授けられた人とは、まさにその恵みを授けられた人のことなのです。

そして、イエス・キリストを通して生きる、イエス・キリストから逸脱しないで、はみ出ないで、外に飛び出ないことです。イエス・キリストを通して生きる人の特徴は、祈りにあります。その人は、必ず祈っているのです。主イエス・キリストの御名で祈る、主イエス・キリストによって祈っている人は、誰でもイエス・キリストを通して生きている人なのです。その祈りによって、主イエス・キリストと一つに結ばれているものは、だれでもこのキリストを自分の代表、チャンピョンに持つことができます。わたしのために戦って買ってくださった勝利者です。その勝利は、キリストのものであり、同時に、主イエス・キリストを通して生きているわたしのものでもあるのです。いうなれば、わたしもキリスト、小さなキリストにならせていただいたのです。それは、自分が神になることではありません。人間になられたイエス・キリストと一つにされるのです。

私どもは、パウロがここにこのように記したことを読み飛ばしてはなりません。パウロはこう主張しているのです。「一人のキリストを通して生き、支配するようになるのです。」この支配するという主語は、誰を指すのでしょうか。キリストでしょうか。違います。それは、神の恵みと義の賜物、つまり一人の人イエス・キリストの恵みの賜物を受けている、私どもです。つまり、キリスト者とは、死を支配下にする、死の奴隷ではなく、死を奴隷にする王なのです。死に勝つ人間とされているのです。死を押さえつけることができる人間です。難行苦行もせず、ただ、恵みによって、本物の勝利者になっているのです。支配者は王さまです。その意味で、キリスト者とは、王であり、王女を意味するのです。これが、キリスト者の本当の姿なのです。すなわち皆さんの本当の姿なのです。私どもには、キリストの命、永遠の命が与えられているのです。永遠の命によって、既に死は圧倒されているのです。死は、しっかと踏みつけられて、もはや、私どもに向かって、そのとげを刺すことはできないのです。

これが、私どもに与えられた恵みです。この恵みの大きさにいつも感謝するものでありたいと願います。キリストのような王としてあるいは王女として、キリストのあふれる恵み、圧倒的な勝利の恵みによって生かされているのです。私どもは決して、この恵みを粗末にしてはならないと思います。この世の人々が求めてやまない恵みなどにかかわる必要はないのではないでしょうか。宗教を信じている人々が求めている恵みごときに、心を奪われてはならないのではないでしょうか。そのようなものは、私どもに与えられている真の恵みに比べれば、どうして恵みなどと呼べるでしょうか。私どもの恵み、それは、私どもがキリスト者であることです。罪が赦されていることです。これこそ、私どもの誇りなのです。この驚くべき事実は、すでに2000年前に起こった事実です。私どもがこの恵みの立場にたつことができたのは、それを伝えられたからでした。それならまだ、それを知らないままに、取り残されている人々のことを忘れることはできません。私どもの、周りにあふれています。そうであれば、私どもはそれぞれ手分けして、そして同時に力を一つに集めて、この知らせを告げ知らせたいと願います。それが、教会の喜ばしい特権であり、責任であります。

祈祷
アダムの子孫である私ども、つまり、神の裁きのもとにしか生きれない定めの人間であると、考えておりました。ところが、そうではないのです。私どもは、一人の人イエス・キリストの子孫なのです。キリストを通して生きる人間なのです。キリストとともに勝利者とされているのです。この事実を見失って、まるでこの世の人と同じように、空しい恵み、偽りの恵み、かりそめの光に誘われ行くことから守って下さい。私どもが、力強く、王様らしく大胆にまた、主イエスのように、謙虚に生きることができますように。私どもに与えられている恵みがどれほど栄光に満ちたものであるのかを、日ごとに悟らせ、日ごとに深めることができますように。   アーメン