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「なぜキリストは人間になられたのか」

「なぜキリストは人間になられたのか」
2006年3月19日

テキスト ローマの信徒への手紙 5章12節~21節③

「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

我々が初めて聖書、特に新約聖書を最初に読みますとき、おそらく多くの場合は、マタイによる福音書から読み始めることになります。そして、いきなり、そこで主イエスの系図を読むことになります。既に最初から、高いハードルを越えさせられるように思います。一語一語、きちんと読み進める日本人はほとんどおられないのではないかとすら思います。しかし、後になって、旧約聖書に親しむようになって、この箇所の読み方もまた、まったく変わってくると思います。聖書と私どもとの関わりとは、そのように豊かで、ときに時間がかかるものです。これは、説教と私どもとのかかわりも同じでしょうし、およそ、キリストの教会と初めて接する日本人は、同じようなことが実に多いと思います。後になって、主イエス・キリストを信じることができてから、よく分かってくるのです。私どもは、先週の祈祷会でも、出エジプト記を読みました。そこでもあらためて、私どもに与えられた信仰と恵みのすばらしさは、やはり、旧約聖書に慣れ親しむことがいかに重要であるかを、教えられたように思います。

マタイによる福音書は、主イエスが、旧約聖書において予告され、預言され、待ち望まれていた救い主であることを、当時の人々のために、実にオーソドックスな方法で、客観的な、直接的な方法で、最初に証しようとします。それが、系図を見せるということの狙いであります。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という冒頭の言葉の意味です。「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを」このように、アブラハムから順々にイエスさままでたどってみせるのです。アブラハムに与えられている約束、ダビデに与えられている約束は、このイエスというお方によって成就しているということです。

 さて、マタイによる福音書は冒頭に系図を掲げますので、わたしは、最初に新約聖書を開く方には、ルカによる福音書から読んでご覧になったらいかがでしょうかと、お勧めすることがあるのです。しかし、そのルカによる福音書にも、主イエスの系図が記されております。それは、第3章23節から始まります。このように始まります。「イエスが宣教を始められたときは、およそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。」そして、ルカは、父ヨセフから順々にさかのぼって行くのです。「ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、マタト、レビ、メルキ、ヤナイ・・・」聞いたこともない人の名前が登場します。そして、途中に、マタイが記しているように、ダビデが登場し、アブラハムが登場してまいります。

 ここですぐに気がつくことは、マタイは、信仰の父アブラハムから始めて順々に父ヨセフへとたどるのですが、ルカは、その逆であることです。マタイは上から下へ、過去から現在へとたどりますが、ルカは下から上へ、現在から過去へとさかのぼってゆくのです。ヨセフからはじめて、先祖へとさかのぼって行くのです。しかも、どこまでさかのぼるかと申しますと、それは、アブラハムで終わらないのです。実に、アダムまでさかのぼるのです。アダムとは、神に創造された最初の人間です。そうなれば、アダムにさかのぼれない人間などこの世に誰一人もおりません。つまり、ルカは、そこで何を明らかにしようとするのでしょうか。それは、この人間としてお生まれになられたイエスさまは、アダムの子孫である。アダムとつながっているということです。つまり、イエスさまと私ども、いへそればかりか我々人間は、たとえいかなる国民、人種、宗教をもっていたとしてもそれらの違いの一切を超えて、この最初の人間アダムによってこのイエスさまとつながっているということです。アダムの子孫は、みな、イエスさまともつながりがあるわけです。

 さらに気づかされることがあります。それは、アダムからヨセフまでの人類の歴史を見ると、最初に神がおられ、そして最後には、主イエスがおられるということであります。いわば人類は、神とイエスさまとの間に挟みこまれているわけです。しかもこの人類のなかには、王もいれば、奴隷もいます。およそあらゆる人類の経験がこの系図のなかに凝縮されているのです。そこに、神があるがままの人間を救おうとなさる激しい意思、神のご意思、強力な意思を見ることができます。

 そして、最後にもっとも大切なことは、主イエスは、アダムの子孫であるということであります。主イエスが人間となられたことによって、アダムの子孫となってくださったということです。そこでこそルカは言いたいのです。主イエスは、人間となられ、アダムの子孫となられることによってまさに、私どもの先祖になってくださったのだということです。逆に申しますと、私どもは、イエスさまの子孫とされたということであります。

 ただし、このような恵みの真理、福音の真理が、はっきりと分かる為には、やはり、本日の使徒パウロの手紙を読まなければならないと思います。ルカという人は、使徒パウロと共に伝道した人であります。その意味では、使徒パウロの信仰の理解、福音の理解が、ルカによる福音書にも反映していると見ることができるでしょう。ルカが、主イエスの系図を記したとき、マタイによる福音書とは違って、アダムまでさかのぼって記したのは、決して偶然のことではないと思います。

さて、使徒パウロは、12節で「一人の人によって、罪が入り、罪によって死が入りこんだように、すべての人に及んだのです。」と断定しました。ここでの一人の人とは、アダムその人のことです。アダムが、神の御言葉に違犯し、神の御前に罪を犯したことが言われています。そのアダムの罪が、アダムだけで終わったのではなく、アダムの最初の子ども達、兄カインと弟アベルとが、兄弟げんかをして、兄カインは一方的な逆恨みで、何の罪もないアベルを殺してしまいました。まさに、アダムの子は罪人として存在したのです。その罪は今や、全人類に及び、パウロが断定したように、一人の例外もなく、全人類に、そして、このわたしにも及んでいるわけです。

しかし、そこでパウロは直ちにこう告げるのです。14節、「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです」来るべき方とは、他でもない人となられた主イエス・キリストのことです。ここでの、「来るべき方」というのは、「来てほしいお方」とう意味であり同時に、「来ていただかなければならないお方」という意味でもあります。もしも、この一人の人が地上に、来てもらわなければ、罪の支配、罪によってもたらされた死の支配は永遠に終わらないからです。それどころか、どんどん悪くなるばかりだからです。

しかし、「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」さらにまた、「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」

一人の人アダムによって、アダムの子孫は、一人の例外もなくすべて罪人でしかなくなってしまいました。しかし、もう一人の人、イエス・キリストの誕生によって、このお方の正しい行為によって、すべての人間が義とされ、命を得ることになったとパウロは繰り返して語ります。

ここでのすべての人間というとき、それは、キリスト以降の人間、紀元一世紀以降の人間だけを指しているわけではありません。すでに、死んでしまったすべての人間、つまり、じゅんじゅんとさかのぼって、人間の始祖アダムにまで影響が及んだのです。アダムの罪によって、死が入り込んできた現実は、今や、このお方によって、逆の影響がつまり義によって命が入り込み、しかも逆にさかのぼって行きアダムにまで達するということです。
そのようにして、ルカによる福音書の系図によれば、一人の人、キリストの誕生によってアダムによって罪と死に屈服させられていた人々は、義と命によって解き放たれてゆくのです。ギネスブックに登録するために、ドミノ倒しに挑戦する人を見たことがあります。一つのコマが倒れると、次々に倒れて行きます。人類は、アダム一人が倒れてそれでは終わらずに、次々に倒れて行きました。自分が倒れるだけではなく、自分もまた誰かを倒してゆくのです。ところが、神はキリストをアダムのモデルとしてこの地上にお与えくださいました。そしてこのキリストは、倒れてしまっているヨセフから初めて過去へ、そして未来に向かってじゅんじゅんと起こしてゆくのです。どこまで起こしてゆくのかといえば、アダムまでです。さらに、キリストは、今後生まれてくるすべての人間をも起こして行くのです。

ただしかし、キリスト以降に生まれた人間は誰でも、いわば自動的に、義を宣告され、無罪を宣告され、命に甦ることができるのでしょうか。違います。それなら、いったいどうすれば、起こせるのでしょうか。「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」
ここでパウロが喜びにあふれて書き記したように、どうすれば、人間の究極の敵、死の力を屈服させ、死に勝利し、そのようにして人生の勝利者になることができるのでしょうか。つまり、我々は、どのようにして神の恵みと義の賜物を豊かに受けつキリスト者になれるのでしょうか。キリストと一つに結ばれるためには、キリストとつながるためには、どうすればよいのでしょうか。キリストは目に見えません。キリストとどこに行けばお会いでき、どうすればわたしと個人的な関係を結ばせていただけるのでしょうか。

ルカによる福音書は、系図の箇所で、こう告げます。「イエスは、ヨセフの子と思われていた。」「思われていた」これは、おかしな表現であると思います。ヨセフの子でなければ、ヨセフの系図を書くことなど何の意味もありません。ルカは、言うまでもなくヨセフの子として主イエスをここで描いたのです。しかし、ルカによる福音書の読者は誰でも知っています。第1章で、イエスさまはヨセフの許婚のマリアが生んだ子であると読んで知っています。ヨセフとは、その意味では何の関わりもありません。しかし、ヨセフは、このマリアを妻として迎え入れました。妻として迎え入れたということは、同時に、お腹に宿っていた主イエスをも、わが子として受け入れることを意味しています。それなら、どうして、ヨセフは、これを受け入れることができたのでしょうか。そのことは、マタイによる福音書が証しています。一言で申しますと、彼は、自分に語りかけられた神の御言葉を聴いて、信じて、受け入れたからです。つまり、信仰によってヨセフはマリアの夫となり、主イエスの父となったのです。その意味で、主イエスの血統は、ヨセフの血統とつながりを持ち、ダビデ、アブラハム、そしてアダムまで至るのです。

それは、つまりこういうことを意味します。主イエスの恵みの力、命の力が過去現在将来のすべての人間に波及するということは、いわば、電線に電流が伝わっていますが、その電線に接続しない限り、電気はつかないように、信仰という接続点を通して、この命の力は及ぶということであります。
実に、このお方が来てくださらなければ、いかなる人間が生まれても、私どもの救いの為には、何の役にも立たなかったのです。しかし、主イエス・キリストが来られたので、私どもは罪を赦され、死に勝利し、人生のまことの勝利者とされたのです。

それなら、なぜ、このキリストでなければ、ならなかったのでしょうか。キリスト以外にも、立派な人間ならいたかもしれません。もとより肩を並べることのできる人間はひとりもいません。しかし、それならこう問いたいのです。なぜ、神の御子は、わざわざ、人間とならなければならなかったのでしょうか。神の独り子であれば、そのような面倒なことをなさらずとも、人間をお救い下さることができるのではないでしょうか。

パウロは、アダムのことを、「前もって表す者」と申しました。口語訳聖書では、それを「来るべき者の『型』である」と言いました。新改訳聖書は、『雛型』といいました。つまり、アダムとは、主イエスの言わば、プロトモデル、プロトタイプ、型、雛型であるということです。しかし、アダムと主イエスとを比べれば、いったどこがどう似ているというのでしょうか。むしろ、何も接点などないではないかと考える方が当たり前のような気がします。そして、それはその通りなのです。

しかしそれなら、なぜ、パウロは、アダムは、主イエスのモデル、いわばお手本だなどと言うのでしょうか。これはとても不思議な言い方ではないでしょうか。しかし、お手本という言葉には、悪いお手本という言い方もあります。反面教師という言葉もあります。この人のようになってはいけない見本という意味です。ところが、パウロのここでのアダムの紹介は、そのようなニュアンスを感じとることができません。「みなさん、アダムは来るべき救い主を示す型、雛型、お手本であって、悪いお手本、反面教師です。だから、彼の真似をしてはいけません。」このようなことをここで告げているわけではないのです。むしろ、パウロは、読者に、アダムをよく見てみると、主イエスが見えてきませんか。主イエスのことがよく分かって来ませんかと言うのです。それは、イエスさまにアダムが良く似ているということではありません。イエスさまのなかに、アダムが犯した罪があるとか、その片鱗があるのだということではまったくありません。

主イエスは、この地上に人として来られました。私どもは毎主日の礼拝式で、ニカヤ信条を唱えます。「主は我ら人類のため、我らの救いの為に、処女マリアより肉体を受けて人となり、ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ」と続きます。有名な使徒信条も、「おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、陰府にくだり」と告白します。つまり、主イエスのご生涯を語る福音書の数々の教えもみ業も全部そぎ落として、私どもが救われるためには、ただ、このみ業を覚えていれば十分であるとして、人となられたイエスさまは、死なれるために、苦しみをお受けになられるために、来られたのだと言うのです。アダムが来るべき者のモデル、型であるというのは、そのような意味です。アダムは、死のイメージ、死をもたらした張本人なのです。ですから、主イエスは、このアダムのせいで、死ぬべき人間に成り下がってしまった私ども、罪の奴隷にされている私ども人間のその罪を償うために、まさに十字架につくためにおいでくださったのです。

しかしある人は、アダムより立派な、力強い人間でなければ、アダムが代表する人間を救うことはできないではないかと申します。なるほど、アダムより弱い人間であれば、アダムと同じ失敗を繰り返す以外にありません。しかし、同時に、このことも明らかな事実であります。それは、本当に、人間を救うのであれば、徹底的に、完全に同じ人間である以外にないとうことです。本当に、完全に、わたしを救い、わたしの悲しみも、苦しみも、喜びも、楽しみもすべて理解できる方、それは、完全にわたしと同じ人間でなければならないということです。頭の中で空想した救い主などでは、まったくまに合わないのです。正真正銘の人間でなければならないのです。しかし同時に、人間でありながらまったく、完全に罪を犯したことのない人間でなければ、わたしや、全人類の罪を贖うこと、償うこともできません。だから、生ける真の神が人となりたまわなければならないのです。神の独り子、つまり救い主キリストが、人間イエスとなってくださらなければ、私どもの救いを成し遂げられないのです。それゆえに、「我ら人類のために、我らの救いの為に」、御子なる神は、まさに、アダムと一つになられるのです。つまり、アダムがキリストの型、モデル、タイプであるというより、主イエス・キリストのほうが、アダムをモデルとし、型とし、それゆえに、アダムの罪と死を御身にお受けになられたのです。そのようにして、今や、アダムが抱え込み、アダムをはじめとして、全人類が抱え込んでいる死と滅び、罪の裁きを、キリストがすべて、ご自分にお引き受けくださったのです。全部、担って下さったのです。

今、あのはるかに過去の存在であるアダムですら、キリストの誕生のおかげで、そしてキリストの死のおかげで、キリストの復活のおかげで、アダムじしんも変わってしまったのです。アダムの罪は、このキリストが担って、アダムは、新しいアダムになったのです。それが、今のアダムの姿なのです。そして、パウロは読者に伝えるのです。「あなた方もアダムの子孫でしょう。アダムと同じように、自分で罪を犯して、惨めな、光のない、人殺しのように生きてきたはずだ、しかし、あなたはもはや、死ぬべきアダムの子孫ではない、キリストのおかげで、アダムは新しくされた、アダム以降、キリストと結ばれた人々は、皆、新しい人間に造りかえられた。だから、これから生まれてくる人間たちもまた、誰であっても、この主イエス・キリストを信じる信仰によって、言い換えると神の恵み、つまり主イエス・キリスト御自身によってもはや、単なるアダムの子孫ではないのだ、主イエス・キリストの子孫となれるのだ」こう言うのです。驚くべきことです。

私どもはクリスマスを毎年、心を込めて祝っているのです。それは、来るべき方が、事実来られたからです。そして、その意味を私どもは知っているからです。世界は、新しくなっている。この時代は、新しい時代に突入している。それは、誰でも、キリストを信じるなら、ユダヤ人であろうがなかろうが一切関係なく、ただ、キリストを信じることによって、キリストと結ばれるなら、誰でも、無罪判決が下され、命が及ぶからです。

誰でもこのキリストを信じるなら、アダムの子孫ではなく、キリストの子孫なのです。アダム自身も、既に主イエス・キリストのおかげで、罪の赦しを受けて、私どもと同じキリスト者として新しくされるのです。彼にも、キリストの命が及びます。旧約聖書の信仰者であるイスラエルも、新約聖書の信仰者であるわたしども教会も、ただひとりの人、イエス・キリストによって罪赦され、命に生かされるのです。これが、パウロがここで告げる福音です。この福音を知ったなら、私どもは伝道せざるを得ないのではないでしょうか。この驚くべき出来事が起こったのです。あの御子の受肉と十字架と復活とは、この世界を、この歴史を新しくしているのです。もはや、時代錯誤の生き方をしていてはならない。主イエスを信じないで、主イエスと無関係に生きていてはならないのです。あなたのために、主イエスはすでにお生まれになられたのです。あなたのために、主イエス・キリストはすでに十字架についてあなたのすべての問題、災いの根源を断ち切っていてくださるのです。あなたのために、主イエス・キリストは死を打ち破って、復活されたからです。もはや、時代は新しくなっています。この新しい時代のなかで、その真ん中で、私どもは主イエス・キリストを信じて生きることが赦されています。なんとういう光栄でしょうか。私どもは、今、主イエス・キリストの恵みをここで受け、この恵みにあずかっているのです。なんとういうありがたさでしょうか。神の独り子が、人間イエスさまになって、しかも今も、天において真の人間であり続けて私どものために、この説教をわたしに語らせてくださり、皆様に語りかけていて下さるのです。
主イエス・キリストを信じること、この恵みと賜物を今、私どもは新に受けます。受けています。そして、パウロと同じように、この良き知らせを述べ伝えたいのです。

祈祷
 アダムの子孫である私どもを罪から救い出す為に、人となられ、十字架に身代わりにはりつけられた主イエス・キリストよ、そして主イエス・キリストの父なる御神、今、私どもはあなたの明るい光、命の光を浴びています。私どもは、罪の圧倒的な力、死の力に倒されて、神なく、望みなく、その日その日を無目的に生きてまいりました。しかし今は違います。あなたに見出され、あなたに拾われ、あなたの命を受けているのです。どうぞ、私どもの全存在をもって、あなたを賛美し、感謝することができますように。罪と死の支配に押しつぶされ、真理に生きることができないこの国の根本的状態を、教会が突破するために、私どもの教会を永遠の命に生きる自由の共同体として、いよいよ形成してください。アーメン。