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「実を結ぶ歩み」

「実を結ぶ歩み」
2006年7月9日
テキスト ローマの信徒への手紙 第7章1節~6節②
「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。
結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。
従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。
ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。
わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。
しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」

ローマの信徒への手紙第7章の1節から7節までを朗読しました。本日は、このテキストから2回目の説教を聴きながら、礼拝をささげます。先々週まで学びました、第6章には、奴隷の比喩がありました。人間とは、罪に仕える奴隷として死に至るか。それとも、神に仕える奴隷として義に至るか。どちらかの人生。どちらかの生涯でしかないと言うわけです。そして読者は、かつては罪の奴隷であったが、御子イエス・キリストの命の代価を支払われて、罪の奴隷から神の所有へ、神のものへ、神の奴隷へと買い戻されたのだと学びました。今は、福音を信じて、その教えに従って生きるようになり、罪から解放され、義に仕えるようになったのであると喜びを込めて語りました。つまり、私どもは決着はきちんとついている、あなたがたは神の奴隷であるという勝利の事実が告げられたのです。

それなら、今、聞きました第7章で、使徒パウロは、何を語っているのでしょうか。それは、ほとんど同じことを語っていると言ってよいのではないでしょうか。ここでは、結婚の比喩です。もしも結婚相手が死んでしまえば、もはや結婚生活は解消されているので、再婚しても姦通の女、不貞の女などと呼ばれることはないと言うのです。まったく自由になっているということです。つまり、キリスト者とは、主イエス・キリストの十字架の死と一つに結ばれた者であるので、律法や罪とのかかわりも死んでしまった。キリスト者とはまったく自由になっている、結論ははっきりしていると事実を告げたのです。要するにここでも同じ真理をパウロは、言っているのです。キリスト者とは、白黒はっきりついているのだということです。決着がついてしまっているのだということです。キリスト者とは、主イエス・キリストの体によってキリストのものとされ、神のものとされている、神の側で生きているということです。

なぜ、パウロは同じようなことを何度でも語るのでしょうか。一つは、何度方っても語り飽きないからです。そしてもう一つは、何度語っても、しっかりと聴き取らない、信仰によって受け入れてその通りに生きない人が少なくないからでしょう。私どもの鈍さのせいです。罪に鈍感である鈍さが何よりの問題です。そして同時に、神の恵みをどれほど受けているのかについても鈍感なのです。そしてこれを認め、信じようとしないかたくなさが私どもにあるのです。ですから、何度でも、私どもは同じ福音の真理を聞き続ける必要があるのだと思います。

先週は、皆様にもお祈りしていただきましたが、何度か病床をお訪ねしました。病や得るとき、特に命にかかわる病を得るとき、あるいは身近な家族にそのような者がいるとき、我々は改めて生きることが死とうらはらであり、私どもの肉体の生命がいかに危うい状況のなかにあるものなのかを強く覚えさせられます。そこで、改めて人生を問う、自分の人生を改めて振り返らされます。毎日毎日を、主の御前に、真剣に生きて行くべきことへと強く促されます。そのとき、人間の一つの究極の関心は、自分の人生は一体なんだったのだろうと言う事、人生の評価についてであろうと思います。自分で自分の人生をどう評価するのか。これが重大な関心事になります。また同時に、家族は、さらにはそれまで関わってきた隣人は、他人は、社会は、自分の人生をどう評価してくれるのだろうかということです。パウロ自身もまたそのことを人間の究極の関心事として取り上げているのです。その問題の決着、回答を与えるのです。神を信じて生きる人生とは、どんな実りを結ぶことができるのかということです。反対に、神を信じていなかった人生とはどのような実を結ぶことになるのかということです。この差は歴然としているのです。黒白はっきりつくのです。

我々人間は、自分の人生の評価がとても気になります。そして、ローマの信徒への手紙第6章23節は、人間とは、神に反抗し、神に背いて生きているゆえに、罪が支払う報酬としての死を刈り取ることになる。言わば、死を実らせると断定します。おそるべき現実です。この死は、永遠の死であり、滅びのことです。永遠の滅びを、自分の不信仰の人生によって、刈り取る。たとい、どれほど大きく社会貢献した、どれほど大きな栄誉を手にしたとしても、もしも、神の前に、死で終わる以外にないのであれば、それは空しいものとなってしまうのではないでしょうか。死の向こう側にまで、その栄誉、その実りを持ってゆくことはできないからです。

ところが、同じ23節の後半では、まったく正反対のことが起こるのです。神を信じるとき、じつにただそれだけで、賜物としてわたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命を受けるという断定がなされているのです。永遠の命これは、賜物です。稼ぎではありません。地上の生涯ですばらしい、輝かしい実績、経歴、業績を残せたから永遠の命を獲得する、ということは決してできないのです。永遠の命は賜物です。一方的な神のご好意に基づくプレゼントなのです。

第7章でも、同じことが言われます。キリストの体に結ばれる、信じることによって、そしてそれを目に見えるしるしとして洗礼を受けることによって、死者の中から復活させられた方と一つに結ばれ、このキリストのものとされ、神に対して実を結ぶことになるのです。ここでのポイントは、この実りは、神に対して結ぶことのできる実りであるということです。言わば、霊的な実りです。さらに言葉を換えれば、新しい実りです。これまでとは全く違う新しさという意味です。これまでのものとはまったく質の違う新しさなのです。

話を分かりやすく申しましょう。先週、わたしも子どもの頃から関心を注いだ方、もと巨人軍の選手、ホームラン世界記録の保持者、さらには、ワールドベースボールで、日本を優勝に導いた監督、王貞治さんがおられます。王さんが、胃に腫瘍が見つかって、手術するために、監督職を下りられるとの報道を聞きました。王さんは、初代の国民栄誉賞を受賞されました。国民栄誉賞というタイトルは、すごいタイトルだと思います。この世には、さまざまな栄誉をたたえるタイトルがあります。キリスト教の世界でも、功労賞なるものがあるようです。一概に、そのような賞を否定する必要はないのかもしれません。しかし、少なくとも、わたしには未だに首をひねってしまうところがあります。

NHKの大河ドラマでは、「功名が辻」というドラマが放映されています。戦国大名、武士たちは功名、手柄を立てて名を挙げることに命をかけたのでした。その意味で、人間は、どの時代にあっても、必死になって、功名を、名誉を、栄誉を、人生のよき評価を追い求めているわけでしょう。今朝の聖書の御言葉に照らして申しますと、人間は、一生の間、自分がどれほど実り豊かな人生を送り、その実りを享受し、喜び楽しむことができたのかということを究極の関心、最大の関心事にしているといってもよいのではないでしょうか。

ところが使徒パウロは、そのような私どもにめがけるようにして、記したのです。「わたしの兄弟たちよ、わたしたちは今すでにここで、神に対して豊かな実を結ぶようになっているではないか。」ここに、私どもキリスト者の特権があります。キリスト者であるということがどれほど大きな、計り知れないほど大きな祝福を与えられていることなのかが、ここで明らかにされるのです。人間に対しての実りではありません。神に対しての実りなのです。それは、永遠の実りです。決定的な実りです。しかも、大切なことは、この実りは、すべてのキリスト者は、すでに神に対して実を結んでいるということであります。

この現実を見方を変えて表現した方がよいかもしれません。分かりやすいかもしれません。神に対して実を結ぶということは、神さまの側から表現すれば、ご自身の力によってわたしという一人のキリスト者を産み落としてくださったということです。つまり、わたしという人間は、実に、神の実りそのものなのだということです。ここに私どもに実り豊かさと私どもの実りの新しさ、実りの特殊性があるのです。わたしという存在が、神の実りになってしまう。これ以上にすばらしい実りがあるのでしょうか。わたしがしたことではないのです。私自身が神の実りになるのです。主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストの体に結ばれるなら誰でも、キリストと一つになるからです。主イエスさまは、ヨハネによる福音書第12章で、こう仰せになられました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」これは、ご自身がその後、十字架の上で成し遂げられようとなさるご自身の御業の予告でした。ご自身を一粒の麦になぞらえられたのです。そしてその麦が地に落ちてもそのままであれば、そのままの一粒の種のままです。種が死ぬということは、地に落ちて地の中に溶けてゆく、自らを変容させるということです。主イエスさまは、十字架で、死なれることによって、多くの実を結ばれました。その実りが、教会なのです。キリストの体なる教会こそが、主イエスの地上における実りそのものです。現在、統計上20億人がキリスト者であると数えられています。主イエスお一人の死の事実によって、これだけの大勢の人間が救われた、実ったという証拠です。驚くべき種の力です。私どもは、洗礼を受けたことによって教会員となりました。その意味で、洗礼を受けるということは、神が私どもをご自身の実りとして生み出してくださったということであります。しかも、この私一人の神の実りとしての誕生の背後には、独り子の死という永遠に消すことのできない、神の苦しみ、犠牲が伴ったのです。

主イエスは、種まきのたとえ話をなさいました。詳しく述べる暇がありません。三つの土地に種まきがなされたというのです。種とは神の御言葉を意味します。畑とは御言葉を聞いた人の反応であり、その人そのものを表します。道端に落ちた種は、すぐに枯れた。石だらけのところに落ちた種は、最初はすぐに芽を出しますが、すぐに枯れます。茨の中に落ちた種は、実らない人と言います。教会で読む者の内、おそらくもっとも切実に感じるのは、茨の中に落ちた種のことではないかと思います。少なくとも、道端ではない。教会でこの聖書を読み、説教を聴いている人であれば、道端に落ちてはいないということになるでしょう。しかし、心に疼くように聴き取るのは、石だらけのところに落ちた種です。既に信じているしかし、順調に信仰の歩みが進まない、実際、御言葉のために艱難や迫害が起こるとすぐに躓く。日本人キリスト者の場合は、おそらく洗礼を受ける前に、この艱難や迫害を味わい始めます。その意味では、この石地に落ちた種を多くの方はすでに経験しているかもしれません。しかし、いばらに落ちた種です。神の種が実ると共に茨も成長して、結局、その実を実らせないようにふさいでしまうというわけです。これは、将来のことです。だから、これを読んでどきっとしないわけには誰も行かないのです。皆、自分の未来のこと、自分の信仰の未来のことを知りません。まさに、未だ来ず、です。それなら、私どもの信仰の歩みというのは、まだ、結論がでないものなのでしょうか。それくらい、私どもの信仰生活は、どきどきして終わりまで見てみないと分からないものなのでしょうか。ここはとても大切な信仰の急所、勘所です。

私どもは、自分のことを良い地に落ちた種と見てはいけないのでしょうか。私どもは主イエスのこのたとえを聞きながら、いつも、「そうだ、自分は、石地ではないかとか茨も生えてきてしまうのではないか。たとえ今は調子がよいように自分では思えるけれど、それはまだ、茨が生え出でていないだけで、今後、もしも茨が生えてくれば、自分は結局実らないかもしれない。」このように自分に不安を覚えさせる言葉として聞いてしまうことが多いのではないでしょうか。これは、そういうたとえでしょうか。違います。もしそうなら、私どもに責任は、ないと開き直ることするできるのではないでしょうか。道端に蒔いた人の方が、責任を負わなければならなという議論になってしまうのではないでしょうか。

つまり、ここでの主イエスのたとえの主眼は、どこまでも、種の力にあるのです。種は、100倍、60倍、30倍にもなるのです。御言葉を聞いて悟る人はこうなるのです。この種は、神の言葉です。野菜の種であっても、花の種であっても、見事に実を結ぶのであれば、いわんや、神の御言葉の種は、どれほど力強く実ることでしょう。だから、信じるのです。主イエスがこの説教を愛する弟子たちに語られたとき、弟子たちは自分たちがこのお方を裏切るとは考えていなかったはずです。まさか、自分たちがそのようになるとは夢にも考えていなかったはずです。

そうであれば、彼らは、主イエスを裏切ったとき、主イエスが十字架につけられるとき逃げてしまったとき、やっぱり、石地、やっぱり茨の土地であったとでも言うのでしょうか。違います。彼らは、イスカリオテのユダをのぞいて、見事に豊かに実ったのです。失敗がありましたが、使徒たちは自分たちに託された神の御言葉、神の種の力がどれほどのものであるかを、目の当たりにします。聖霊を注がれたあと、使徒ペトロたちは説教しました。そのたった一回の説教を聞いて主イエス・キリストを信じた人は3000人でした。彼らの説教を聞いて信じた人3000人が洗礼をその日に受けたのです。ユダヤ人たちの目は、そのただ一度の説教で開かれたのです。そして神の前で実を結ぶに至ったのです。

主イエスさまは、ご自身が語られた、まかれた彼らがよい土地であることを、誰よりも信頼しておられました。だから、御言葉の説教が語られるのです。その意味でも、私どもは、繰り返し、自分がよい畑であることを自分で認めなければならない。そこから始まるのです。わたしにめがけて蒔かれた主に間違いはないと信じて、間違いないのです。

私どもは、信じます。キリスト者、洗礼を受けた者である私どもは信じます。私どもは、既に、神の御前に実っているのです。ここにいる者たちは、神の畑の実りに他ならないと信じます。実に豊かで、個性的な実りです。神は私どもが神の御前に勢ぞろいして実った姿をご覧くださることをこそ、最高の喜びとしてくださることを信じます。ですから、私どもは、ここに出てきた。ここで、他の神の作品、神の実りと一緒に、わたしもまたあなたの実りですと、わたしもまた独り子主イエス・キリストの御業の実りなのですとここにまかり出ているのです。そのようにして今、私どもは神の収穫物として、自分を献げているのです。どうして聖なる神に私どもを献げるなどということができるというのでしょうか。私どもはなお罪深く、なお不完全で、なお不十分な人間でしかないのに、どうしてそのような私どもが礼拝できるのか、献げものとなりえるのか。それは、他ならないこの私どもが神の実りだからです。それを信じるから、礼拝が成立できる。そうでなければ、私どもは神に顔向けできないはずです。自分を神の立派な、よい実りとしてここでわたしをささげますと胸を張ることは、できません。しかし、神が私どもをご自身の前に実りとして見てくださるなら、私どもは大胆になれます。なるべきです。わたしは、あなたの御子の実りでございますと、礼拝するのです。

先週、私どもは、緊急の祈りの課題として、ここで共に礼拝をささげた一人の兄弟のために祈りを集めました。まったく思いがけない命の危機の連絡を受けました。私は、聖書と式文を持参して病床を訪ねました。何故、式文を持って行ったのかと申しますと、病床洗礼を施すことになるかもしれないと半ば覚悟を定めたからです。病床洗礼、これは病床で、本人の意思を確認して施すことが通例であります。そのことを怠れば、日本キリスト改革派教会では、重大な違反として問われることがあります。しかし、私は、そこで自分でも思いもよりませんでしたが、病床洗礼をと考えたのです。それは、牧師として、この兄弟の信仰の歩みを見てまいりましたので、お嬢様と一緒に、時に引っ張られ、時に自分の意思で礼拝を求められたのです。それは一人のキリスト者がなんとかして信仰に導きたいという激しい祈りが背後にありました。私と家内が数週間前の父の日に、病床を訪ねたときにも、共に祈りのときを持ったのです。ですから、洗礼を受けることはもはや時間の問題であると考えたのです。今回、命の緊急の状況は回避できました。けれども、もしもわたしがご本人の意思を問うことができずに、洗礼を施すことになったとしても、それは、洗礼を施すべきであったとなお、考えています。

私どもは幼児洗礼を重んじます。幼児洗礼ほど、洗礼の恵みを鮮やかに指し示すものはないとも思います。それは、幼児自身は、信仰の告白、応答が何もできないからです。幼児は、人生が始まったばかりです。可能性に満ちています。しかし同時にまだ何者でもありません。どのように神の前に実りある人生を送るのか誰も、知りません。親も分かりません。親の信仰は問われます。しかし、親の信仰も、なお、危なっかしいところがある場合もあります。本当に、大丈夫なのか。親自身が、信仰に立つことなしに、教会は言わば機械的、自動的に幼児洗礼を施してはならないのです。しかし、どの親であっても、自分の信仰の教育がわが子を信仰者として育てるのに十分であると思っている人はいません。おそれがあるのです。しかし、親は、信じます。私自身が既に、神の実りであると信じるのです。自分が神の実りであれば、わが子も、神の実りであると信じるのです。

洗礼は、神がご自身の御業によって、その人を神に対して、神の御前に生かすことです。神の御前で、神に対して実を結ばせる恵みなのです。ここでも、徹頭徹尾、神の力、恵みの力、聖霊が働かれるのです。

ですから、すでに洗礼を施された私どもは、罪に死んだ人間ではなく、神の御前に生きているのです。生かされた人間、復活した人間なのです。そればかりか、100倍、60倍、30倍にも実を結ぶ人間にすでになっているのです。幼児洗礼は、洗礼の恵みを鮮やかに示すと申しましたが、ここでは病床における洗礼の同じ面があります。それは、病床洗礼は、悲しいことですが、洗礼をお受けになられて天に召されることがあるのです。地上では、神と教会のために何も奉仕ができませんでした。働けませんでした。しかし、そこで何が鮮やかにされるのでしょうか。それは、神に対して実を結ぶのは、その人の努力には全くよらないということであります。まさに、主イエス・キリストによる賜物として永遠の命が与えられるのです。主イエス・キリストを信じる信仰によるのです。主イエス・キリストの真実が、徹底して洗礼を施された者に及ぶのです。

そこに、この実りが新しさがあります。それは、霊的であるということです。このような神の実りを私どもの生涯をかけて実らせることが私どもの歩みであれば、私どもは、この世の人が囚われ、縛り付けられている業績、名誉、光栄、賞賛を追及して、その評価によって自分の人生の成果、結実を計るあり方をやめることです。これが霊に従う新しい生き方なのです。教会の生活でも、あの人と自分との奉仕を比べることはなくなります。

神に対して実を結ぶ生涯が始まっています。しかも既に実を結ぶところから始まっている不思議な生涯が始まっています。安心して、しかも地上にある限りは、全力を注いで、私どもに与えられた務めを、神に対して果たしてまいりましょう。最後の最後にも確認しましょう。聖霊によって結ばせられた実りです。そうであれば、聖霊によってのみよく実ってゆくのです。聖霊を求める祈りのなかで、御言葉を聴き、祈りを深めてまいることであります。

祈祷
私どもを神に対して実を結ぶものとしてくださいました主イエス・キリストと聖霊なる神よ、今、私どもの存在を受け入れ、これを喜びとしてくださる父なる御神、あなたによって始められたあなたの救いの御業が、私どもに一人ひとりにおいて、また教会においていよいよ豊かに実りますように。私どもがあなたの霊を求め、御言葉を聴き、祈り、そのようにして歩み続ける霊的な毎日、新しい人生を続けさせてください。深めさせてください。アーメン。