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「開かれた天を見よ-最初の殉教者-」

「開かれた天を見よ-最初の殉教者-」
2006年9月17日・中部中会信徒研修会の備え
 
テキスト 使徒言行録 第7章54-60節 
人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

本日は、午後から、中部中会信徒研修会がいつもの定光寺で開催されます。今回も、400名あまりの出席者が予定されています。今年の主題は、「過去を振り返り、われらの信仰を確認する」です。月曜日の二回の講演がそのメインになります。韓国の殉教者朱基徹牧師のご子息の長老が、子どもの視線でお父様の殉教を証言してくださいます。

 今、私どもキリスト者、教会が日本の社会のなかで、その置かれている状況は、言葉の正しい意味で、危機的状況におかれています。この説教においていちいち、その理由や、さまざまな状況を説明する暇はありません。かつてのあの戦前の状況と瓜二つのような、極めて分かりやすい状況、戦争前夜のような状態にあります。

 そのような秋、中部中会の信徒研修会で、殉教者朱基徹牧師について学びます。実は、昨晩、ご子息の朱光朝長老とお会いし、朱基徹牧師が近代史の教科書に載っている人物であることを確かめました。つまり、キリスト者はもとより、韓国人にとって誰もが知っている英雄の一人なのです。私どもが、目撃者の証言を伺うことができることは、どれほど大きな神の恵み、摂理であることかと思います。出席された一人ひとりが、深く神に問いかけられ、信仰の姿勢を再点検させられ、改めて私ども日本キリスト改革派教会がこの時代にどのような伝道と教会形成に励むべきか、深く問うことができたらと祈り願います。

 本日は、ローマの信徒への手紙第8章に入らずに、使徒言行録第7章から、キリストの教会の最初の殉教者となったステファノの物語から学びます。つまり今朝から、信徒研修会が始まっていると考えてくださってもかまいません。
 
 さて、ステファノの名前が最初に登場するのは、使徒言行録第6章です。しかし、人数を増した教会には、思わぬ課題が持ち上がりました。ギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者から、ヘブライ語を話すユダヤ人キリスト者に対して自分たちの仲間のやもめが軽んじられている、つまり、分配が少ないというクレームが寄せられたのです。使徒たちは、直ちに、弟子たちを呼び集めて、こう言います。この不公平は、主イエスの御前で、ほうっておいてはならないと彼らは考えたのです。また何よりも問題になったのはこのことでした。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」使徒たちはすでに解決方法を準備していました。そしてこう言います。「それで兄弟たち、あなたがたの中から霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らのその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」と使徒たちは提案します。そこで、弟子たちは、使徒たちが伝道に専念する体制を整えるために、いわゆる執事職、ディアコニアに専念する人を選びました。その七人のなかで最初に名前が挙げられるのが、ステファノに他なりません。「信仰と聖霊に満ちている人ステファノ」と紹介されています。その後、選ばれ、立てられたステファノは、やもめの世話に専念したのかといいますと、実は、違います。彼は、民衆のなかで、不思議な業としるしを行っていたのです。
 
さて、彼の活動を快く思わなかった人たちが、彼を懲らしめるために、最高法院に引いて行きます。その場所は、つい最近、主イエスが引いてゆかれた場所に他なりません。ステファノは、その最高法院で、「モーセと神を冒涜した」と、まったくの濡れ衣の嫌疑をかけられました。しかし、彼は、その最高法院、最高裁法廷、国会の場で、福音の説教、主イエス・キリストを紹介し始めるのです。その説教を聞いたユダヤ人は、怒りたけりました。彼らは、自分たちは神の民であるとうぬぼれていました。ところが、そんな彼らに「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。」とステファノは批判しました。これだけでも、「歯軋り」するような怒りを招いたのです。そして遂に、この言葉が彼の口から出たとき、彼の有罪は、確定し、しかも直ちに刑を執行されてしますことになるのです。「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」

ここで少し横道にそれますが、ここで、すこし考えてみたいのです。このステファノへの尋問は、確かに裁判いう形は、とられています。ところが、この裁判は、ステファノの弁明を聞いている途中に、審理はいきなり中断します。彼の一言の発言で、まるで狂ってしまったかのように、彼を法廷の外に引きずり出し、エルサレムの外へと引きずり出して、石打の刑を執行します。確かに神を冒涜する人間は、石打の刑に相当することは、旧約聖書によっても認められていたのですから、なお合法的です。しかし、このような形ばかりの裁判で決着をつけることは、決して合法的ではないのです。

さらにもう少し注意深く考えれば、気づくことがあると思います。それは、ユダヤの最高法院の決定で、ステファノを死刑にすることはできないはずだといことです。主イエスのことを思い出せば、直ちに気づきます。彼らは、主イエスを、自分たちの法律だけでは、死刑にしたくてもできなかったのです。ローマ帝国の支配下におかれていますから、自分たちだけの法律で国を治めることはゆるされていなかったのです。ですから、本来なら、ローマの総督の許可なしに、石打の刑の執行は許されていないのです。

さて、元に戻って、ステファノが、天をみつめ、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と語った言葉を学びましょう。彼がこう言うや否や、律法学者たちは、証言台にいる彼をめがけていっせいに、襲い掛かりました。

なぜそうしたのか。一つは、こういうことです。彼らが、十字架に架けて殺したイエス。他でもない、まさにこの場所で、死刑判決をくだした男が、神の右にいる。天にいる。それは、彼らにとって、とんでもない、ありえないことだからです。もしも、そうであれば、彼らは、まさに、神の敵であり、自分たちは神の御子を殺した者たち、あの裁判は、ユダヤの歴史のなかで、最悪、極悪の判決であったことになるからです。そんなことは断じて認めないと彼らは、いきり立ったのです。

もう一つの理由はこうです。ステファノが、神の栄光と主イエス・キリストを見たと言った言葉そのものにあります。確かに、この言葉は、旧約聖書に慣れ親しんでいる者にとっては衝撃的な言葉であると思います。なぜなら、天が開いて神を見た人間が、なお、生きているというのは、当時の彼らの宗教観からみれば、受け入れがたいことだからです。

たとえば、あの有名なイザヤの言葉を思い起こします。彼は、神殿にいるとき、天が開かれ、「御座に主が座しておられるのを見」ました。そこで彼はこう叫んだのです。「災いだ、わたしは滅ぼされる」つまり、聖なる、聖い神を、人間が直接に見るなら、そうなると考えられていたからです。あるいは、モーセのことを思い起こします。彼が、燃えるしば、燃え尽きない柴の木のなから、神から御声をかけられたとき、モーセは、「神を見ることを恐れて顔を覆った。」と言います。ですから、ステファノのように、堂々と「天が開いた」とか、「神の栄光」が見え、「神」とその右に「人の子」つまり主イエス・キリストが見えるというようなことを言ってのける者は、イスラエルの歴史のなかで、極めて違和感をもたらすものなのです。

しかしまさにそこにこそ、使徒言行録のメッセージがあります。つまり、確かに旧約聖書の時代には、まさに例外中の例外のような特別の恵みが、天が開かれること、神を仰ぎ見ることでした。しかし今や、聖霊すなわちキリストの霊を受けるなら、聖霊に満たされるなら、神の栄光が見えるようになる時代が到来した、始まったということです。誰でも、聖霊によって、神の右に立っている主イエス・キリストを仰ぎ見ることができるようになるということです。わたしどものような異邦人にさへ、神の霊、キリストの御霊、聖霊が注がれるようになったからです。そのような驚くべき恵みの時代が、主イエス・キリストが十字架におかかりくださり、お甦りくださり、天に昇り行かれた今や、始まったのです。

私どもの教会は、「教会の生命は礼拝にある」という日本キリスト改革派教会創立20周年宣言の言葉にアーメンと同意し、それだけに、生命あふれる礼拝式、聖霊の力あふれる礼拝式を毎主日目指してまいりました。今日も、私どもは、ここで、天が開かれ、主イエス・キリストが父なる神の右におられるその栄光のお姿を見続けてまいりました。

しかしもしかすると、そのことになお、確信をもっておられる兄弟姉妹がおられるでしょうか。いったい、毎主日に、ここで、天が開かれているかどうか。自分は、そのような信仰の経験がないのではないか。そのような問いがもしも自分のうちにあるのであれば、それはとても大切な問いです。そこから決して逃げないでいただきたいのです。ごまかしていてはならないのです。

その意味でも私どもが、とても感謝の思いを禁じえないのは、かつて祈祷会でヨハネの黙示録を2年あまりかけて丁寧に学んだことです。黙示録は、天国の礼拝、天の祝宴を私どもに見せてくれました。そして、わたしどもの地上の礼拝式が、天上の礼拝式と結ばれていることを、その現実を確認させてくれました。今、私どもの上には、天が開かれているのです。そうでなければ、私どもの礼拝式、キリストの御臨在する礼拝式は実現しません。私どもは、ここで、主イエス・キリストと一つに結ばれる礼拝を献げ、礼拝の恵みにあずかっているのです。

どうして、私どもは、確信をもって、天が開かれ、神の栄光とその右に唯一の主キリストが着座されていることを信じ、仰ぎ見ることができるのでしょうか。その一つの大変、客観的な理由を挙げましょう。説教の前に、私どもはいつものようにニカヤ信条を告白しました。確かに皆さんと声をそろえてこのように告白したはずです。「聖書に従って三日目によみがえり、天に昇り、御父の右に座したもう。」主イエス・キリストが今、御父の右に座しておられる。そう告白するとき、私どもは聖霊によって心を高く天へと引き上げられます。そして、栄光の主イエス・キリストをそこでこそ、仰ぎ見ることができるのです。そして、その栄光の、天におられる主イエス・キリストをここで仰ぎ見る。しかも天の主イエスは、ご自身の聖霊によって、この地上に御臨在くださいます。そのようにして天上と地上とが、つながるのです。このつながる場所こそ、ここ、この礼拝堂、この時間、この礼拝式なのです。私どもは、これからも、力を注いで、主の日の礼拝式に臨みます。自分を献げ、自分の全力を注いで、礼拝する、したいのです。それが、主イエスによってもたらされた新しい時代、救いの恵みを受けた者の特権なのです。誇りなのです。また最大の務めなのです。

 実は私は、今回の朱基徹牧師の殉教の証を昨年、日本キリスト教会大垣教会の集会で伺うことができました。そのお話は、あまり皆さんにしておりません。明日、直に聴くほうが良いと思うからです。その集会のなかで、一つの賛美歌が歌われました。私どもの賛美歌21には収められていませんが、「聖歌」のなかにあります。わたしも昔、よく歌いました。「めぐみの高き嶺」という歌です。これは、朱基徹牧師は、獄中でもしばしば歌われた歌なのだそうです。

「めぐみのたかきね 日々わがめあてに 
いのりつ うたいつ われはのぼりゆかん 
ひかりときよきと へいわにみちたる 
めぐみのたかきね われにふましめよ」

わたしは、そこであらためて思わされたことがあります。「ああ、朱牧師は、天を見ていたのだ。だから、地上の価値観、地上の権力、地上の偽りの力に抗うことができたのだ。」恵みの高き嶺。これは、天上の礼拝の姿です。そこには、父なる神と主イエス・キリストがおられるのです。その高い嶺を、昇ってゆくことができるのは、そこから聖霊が注がれているからです。牢獄でも、天が開かれていたのです。だから、戦うことができたし、勝利することもできたのです。

そうであれば、私どもは、ステファノの経験を特別視することはないはずです。ステファノのような人だけにしか見ることができない光景なのだと、受け止めたら、間違いです。キリスト者であれば、誰でも見る。今ここでみんなで仰ぎ見ているのです。はっきりと、くっきりと見たい。それが、私どもの祈りです。この祈りがあるところ、礼拝はますます真剣な、全力投球の場所となるのです。

しかし、このときのステファノの言葉は、やはり特別でもあります。それは、主イエスが父なる神の右に座している、座っているのではなく、「立ち上がっておられる」と報告されているからです。なぜ、主イエスは立ち上がっておられるのか。それは、ステファノをご自身のもとに迎え入れられるからではないでしょうか。最初の殉教者を主イエスが迎えられるのです。ですから、立ち上がっておられるのではないでしょうか。

ただし、私は今回の説教準備において、これまでの自分の解釈をいささか修正してもよいのではないかとも思わされました。それは、どういうことであるかと申しますと、私は、主イエスは、殉教者であるから、立ち上がっておられるというようにずっと考えてまいりました。確かに、ステファノはキリストのための最初の殉教者となりました。しかし、使徒言行録を読みますと、この物語は、キリストにあって死ぬ人間、キリスト者の最初の死の物語とも読めるのです。

実は、使徒言行録には、先に、アナニアとサフィラ夫妻のことが記されています。彼らも死にました。しかし、彼らの死は、神への裏切りの結果の神の裁きを受けたものでした。彼らの最後のことごとを、使徒言行録は、冷めた目で描き出します。「息が絶えた。」「死体を包み、運び出して葬った。」夫アナニアも妻サフィラもこのような表現でその最後が報告されています。ところが、ステファノは違います。注意して読みたいのですが、ここでは著者ルカは、こう表現するのです。「こう言って、眠りについた」一方では、「息が絶えた」。ここでは、「眠りについた」。まったく違います。この眠りにつくとは、主イエス・キリストとともに復活するということが定められている、永遠の命のために甦ることが約束さえている者に対する表現なのです。そうであれば、主イエスが再び来られるとき、永遠の命へと主イエスとともに復活するキリスト者の死であれば、誰の死でも、眠りについたと表現することができるはずです。ステファノのような殉教者だけの特権ではないわけです。誰でも、主とともに死ぬ、キリスト者として死ぬ者は、誰でも眠りにつくのです。そして、主に立ち上がっていただいて天へと迎え入れられるのであります。

また、横道にそれますが、昨年の夏の読書会で、私どもは、キリストの抵抗について、同時に殉教について館が増した。誰でもが殉教者になるわけではありません。何よりも基本中の基本は、私どもは、二度とこのような殉教者が出てはならないと思います。そのために、権力者に法律を守らせることが必要です。また、私どもの信仰を圧迫するような悪法を作らせないようにすることが極めて重要です。

しかし、キリスト者の死であれば、キリストのために生き、キリストのために死ぬ死であれば、どのような死に方であったとしても、病気であっても、事故であっても、老衰であっても、眠りにつくのです。そうであれば、ステファノが「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」という言葉は、誰でも死ぬときの言葉にすることができることが分かります。この言葉は、使徒言行録と同じ著者のルカによる福音書の、十字架の主イエス・キリストの御言葉、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と同じです。このように語ることは、ステファノだけに許されているのではなく、すべてのキリスト者の死のときの言葉であると思います。

そして、主イエスに立ち上がっていただいて、ご自身のみもとに迎え入れられることが定まっているのです。死は終わりではない。それが主イエスのご復活と昇天によって明らかにされ、確かなものとされました。主とともに生き、死ぬキリスト者は、死は眠りなのです。ここに私どもの底力があります。この地上になにものをも恐れないですむ秘訣。秘密があるのです。天を仰ぎ見ながら生きている人間は、自分がその天に迎え入れられることを信じることができるのです。私どもは、地上の生活が永遠であると教えられていません。そうではなく、主とともに永遠に生きることができるのです。騙されてはなりません。

最後に、ステファノの感動的な言葉を学びましょう。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」最後の言葉、大声で叫んだ言葉です。この言葉を聴いたのは、サウロ。後の使徒パウロに他なりません。このステファノがサウロを救いと信仰に導いたといっても良いのではないでしょうか。ステファノの説教とこの祈り、この生き方、死に方が、彼をキリストの使徒へと導く糸口、手がかりになったのではないでしょうか。そして、この祈りの言葉もまた、ルカによる福音書の十字架の主イエスの祈りを真似したものに他なりません。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

ここでも、私どもはもしかするとステファノと自分の信仰とはあまりにも開きがある、到底、自分はこのように祈れないと、はじめから、彼を、別人のように祭り上げて、それで安心してしまう、そのような誘惑があるかもしれません。しかし、彼のこの祈りは、主イエスの真似なのです。ステファノは愛しまつる主、救い主イエスさまにどこまでも従い行こうと信仰の態度を決定している人です。ですから、主イエスの命じられるように生きようとしたのだと思います。私どももまた、同じように、主イエスに教えられています。命じられているはずです。それはまったく特別のことではありません。それは、すでにここで皆さんと声をそろえて祈ったばかりの祈りです。「われらに罪を犯す者を、われらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまへ」主の祈りの第5祈願です。

私どももまた、信仰の戦いをここでしています。それは、徹底的に愛の戦いです。ステファノは、どうしても説教をやめないのです。それは、主への愛であると同時に、隣人への愛だからです。もしも、彼が、死の恐怖におびえ、福音を証することをやめてしまえば、どうして、人々は救われるでしょうか。キリスト者パウロ、使徒パウロは誕生したでしょうか。彼は、伝道する。証する。それは、人々を救う福音は、主イエス・キリスト以外におられないからです。このステファノの信仰は、そのまま、後のパウロの福音になります。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

私どもは今や、わたしどもを悪しき力が私どもを包囲しているかのような息苦しさを感じています。しかし、どれほど小さな私どもの教会であっても大丈夫です。主イエスがともにおられるからです。もし、私どもの小さな教会がこの主によって贖われた主のものであり、主のために生き、主のために死ぬキリスト者の集いであれば、私どもの勝利はすでに定まっています。私どもの上にも、はっきりと天が開かれています。父なる神と御子、王の王、主の主なるイエス・キリストが着座されているのです。かしこを仰ぎ見続けて歩むわたしどもは、ステファノに連なる神の民なのです。名古屋岩の上教会は、そのような教会としてこれからも主の御前を歩んで行くのです。

祈祷
私どもを御子の命をもって贖ってくださいました主イエス・キリストの父なる御神、私どもは小さな、弱い信仰者です。しかし、わたしどもはあなたのものとされました。そしてあなたはこの小さな信仰者、教会を通して御自身が歴史の主、支配者であられることを証されます。そうであれば、私どももまた、あなたが、唯一の主であられることを、あなたこそが福音そのものであることを時が良くても悪くても証する者として用いて下さい。愛に生きる信仰の戦いに倦み疲れることなく、勤しむ者としてください。いついかなるときでも、主とともに生き、又、もしも直接、主のために死ぬべきときには、ただあなたの力、聖霊に満たし、ステファノのようにしてくださいませ。アーメン