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「善き隣人となられたのは誰か」10月29日

「善き隣人となられたのは誰か」
2006年10月29日 浜松伝道所主日礼拝式

テキスト ルカによる福音書第10章25-37節
「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 一ヶ月ぶりに、また皆様と礼拝式を捧げることができましたことを感謝いたします。本日は、有名なよきサマリア人のたとえ話を学んで礼拝を捧げます。 

 先ず、このたとえ話を学ぶ前に、ルカによる福音書のなかで、このたとえ話がルカによる福音書のなかでその置かれている位置について確認しておきたいと思います。第10章には、七十二人の弟子たちが、主イエスが行かれるつもりの町や村に二人一組になって派遣された物語が記されています。またそれに先立って、一二人の使徒たちも主イエスから特別の権威、つまりあらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力を与えられ、神の国を宣べ伝え、病人を癒すために派遣されました。つまり、伝道と憐れみの業、奉仕へと派遣されたのです。
そして、72人が、喜んで主イエスの御許に帰ってきます。彼らは喜びに満ち溢れて報告しました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さへもわたしたちに屈服します。」彼らは、主イエスから与えられて奉仕の力、神に仕え、そのために、隣人を縛り付けている悩み苦しみから解放する力、権威を大胆に行使することができたのです。まさに雲にも上るような喜びと高揚感をもったのではないかと思います。

 しかしそこで主イエスは、ただちにこう仰せになられました。「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」「あなたの名が天に記されている」「私どもの名前が天国の台帳に記されている。」つまり、私どもには永遠の命が保証され、永遠の命にあずかっているということです。そしてこれこそ、何にも比べれられない喜びの理由なのだと仰せになられたのです。

 さらにルカによる福音書は告げます。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになられました。』」なんというすばらしいお姿でしょうか。主イエス御自身も弟子たちが天国に名前を記されていることを思い、喜びにあふれておられるのです。なんというすばらしいことでしょうか。主イエスは、私どもの救いをどれほど深く御自らの喜びとしていてくださるのか。どれほど深く感動してくださるのか。そうであれば、今、主イエス・キリストを信じて、救われ、神の子とされ、永遠の命を与えられた私どもをご覧くださる、イエスさまはここにいる私どもを、そのひとりひとりをどれほど喜んでくださっているか、どれほど感動してごらん下さっているのか。心が躍ります。

 さて、そのような主イエスの説教そしてお祈りを聞いていた人の中に、気分を害された人がいました。彼は、律法の専門家です。言わば、主イエスが仰せになられた幼子の反対。大人なのです。聖書のことを、誰よりもよく理解している教師なのです。主イエスは今、そのような大人、教師に対して永遠の命を受け継いでいるとは言わないで、何の専門的な訓練も、研究もしていない七十二人の弟子たちをちやほや持ち上げて、語られたことに、いらいらしたのではないでしょか。

 そこで彼はこう言います。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」この問いは、実は、この後の18章18節にも、ある議員、金持ちの議員の主イエスへの質問として出てまいります。この質問の中に、実は、重大な過ちがあるということが、主イエスの、そして聖書の大胆な主張、メッセージなのです。結論から申しますと、「何をしたら」という問い、言い方がすでに大きな問題なのです。自分が何をどうすれば、永遠の命を受け継げるのか。この言い方の中には、まるで自分の努力や行い次第で、永遠の命をやりとりすることができるかのようなニュアンスが含まれています。しかし、永遠の命は、徹底的に神の賜物なのです。使徒パウロがローマの信徒への手紙で言うとおり、「罪が支払う報酬は死です。しかし神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」この御言葉こそ決定的に大切な神の御言葉、福音です。

 そこで主イエスは、律法学者に問い返されます。「律法には、聖書には何と書いてあって、それをあなたはどのように読んでいるのか、解釈しているのか」ということです。律法学者は、ただちに答えます。「神を徹底的に愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」この答えに対し、主イエスは、「正しい答えだ」と仰せになられました。律法学者の返答は、さすがです。まさに正解です。主イエスもお認めになれます。子どもカテキズムの問い4に、「神さまが私どもに望んでおられることは何ですか」として、この律法学者の答えが、まさに答えとして掲げてあります。律法学者が言うとおりです。神が私どもに望んでおられるのは、神と隣人への愛、二つで一つの愛に生きることに他なりません。

 さて、しかし、主イエスは、ここでこう仰せになられます。「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」ここで、問題はとても複雑になります。まるで、この二つの愛を徹底的に実行するなら、永遠の命が得られると仰せになられているかのように理解できてしまいます。おかしな、不遜な言い方になりますが、いったい、この主イエスの御言葉は正しいのでしょうか。もしそうであれば、使徒パウロの言葉は訂正しなければならないでしょう。永遠の命は、賜物ではなく、一生懸命奮闘努力して、神を愛し、隣人を愛した暁に獲得できるものなのだというのですから。しかし、この主の御言葉もまた、ただ文字面だけから、読んで、理解してはなりません。主イエスがこの御言葉を語られたのは、ひとへに、この律法学者、この目の前にいる律法学者を悔い改めと救いに導きたいからなのです。その主の御心をわきまえないで、文字面だけで読むことは正しくないのです。

 さて、わたしは、このとき律法学者は、あわててしまったのだと思います。「それを実行しなさい。」との主イエスの御言葉にたじろいだのです。自分は、分かっているし、そればかりか教えてさへいる、けれども、ごく素朴なことですが、実際に自分が守り、行っているのかと問うならば、胸を張れない思いがあったからです。

 そこで彼は、自分を正当化しようとして言います。ルカによる福音書は、はっきりとこの発言は、「自己正当化」のための言葉であると断罪しているのです。「実行するのは、かまわないけれど、それならわたしの隣人とは誰ですか。」この返答は、まったくでたらめではないでしょうか。そのようなことは、誰かに尋ねるべきものではないはずです。わたしの隣人。わたしの隣人とは誰なのか。そのようなことは、自分で判断すべきことでしょう。自分で、わきまえるべきことでしょう。それを、主イエスにたずねることは、まさに自己弁護でしかないはずです。

 もし我々であれば、おそらくここで会話は絶えてしまうかもしれません。「こんな屁理屈を言う人間であれば、話し合いにならない。時間の無駄だ。」そのように思ってしまうこともあるのではないでしょうか。真理についての議論、正しいことについての議論は、もしも、相手が正しいのであれば、自分の意見を訂正する可能性を残すからこそ、真実になすことができると思います。相手が、自己正当化を図って、議論をこねくり回すだけであることが分かれば、我々は、そうそう時間をもてあましているわけではありませんから、議論を打ち切ってしまうかもしれません。あるいは、自分が傷つくのを恐れて、対話をあきらめることもあるかもしれません。ところが主イエスは、この律法学者のために、時間をお割きになられるのです。この律法学者のために、真実に接し、真剣に向き合ってくださるのです。そこでなされたのが、有名な、善きサマリア人のたとえです。

 ある人が追いはぎに襲われました。追いはぎは、その人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去りました。このままでは、イスラエルの気候からすれば、夜になれば、気温もぐっと下がって、ほとんど死ぬ以外にはないのです。

 そこに最初に通りがかったのは、祭司でした。祭司とは、エルサレムの神殿に仕える、いわば聖職者です。たまたま通りがかったのであると主は仰せになられました。何か、急ぎの仕事があるわけでもないようなニュアンスです。祭司は、はっきりとこの半殺しにされて倒れている人を見ました。確かに見ました。しかし、わざわざ道の向こう側に回って見なかったことにしました。通り過ぎました。

 次に、レビ人が通りかかりました。レビ人は、祭司の仲間です。祭司になるのはユダヤ人の中でもこのレビ人からだけしか選ばれない、なれない特別の人々なのです。いわば、聖職者の予備軍です。ところが、彼らがとった行動は、祭司とまったく同じでした。
どうしてかかわりを持たなかったのか。多くの注解者が、いろいろと教えてくれます。律法の規定によれば、出血している人に触ることは汚れることを意味している。とりわけ神に仕えるレビ人も祭司も、その汚れを清めるための儀式は、大変、面倒になる。だから彼らは、自分の時間を奪われることは大変迷惑であると考えたのだと言うのです。いずれにしろ、この二人は、この追いはぎに襲われ、もやは死なんとしている人を見るには見るのですが、心を動かすことはなかったのです。見て見ぬふりをしたのです。

 ところが、ここに一人の人が登場します。サマリア人です。この人々は、ユダヤ人から見ると罪人でした。決して接触を持たなかったのです。それこそ、彼らと行き交うだけでも、汚れてしまうというほど、嫌悪していたのです。彼らとどうしても仕方なくすれ違わなければならないのであれば、おそらく息を止めていたのではないかと思います。ユダヤ人にとって、サマリア人は人間以下、動物です。どうして、それほどまで軽蔑し、差別し、忌み嫌っていたのか、それは、深い原因がありました。もともとユダヤ人にとってサマリア人は、血統から言えば、親戚のような民族です。ところが、彼らは、異邦人と結婚してしまいました。それは、神を裏切り、律法を否定したことになると理解していたからなのです。ユダヤ人が人間としてもっとも軽蔑し、嫌悪していた人々が、サマリア人だったのです。
さて、ところがそのサマリア人が今、この半殺しにされて倒れているユダヤ人を見るのです。このサマリア人は、どのように反応するのでしょうか。祭司とレビ人とまったく違いました。「憐れに思い」とあります。

 この言葉のもともとの意味を直訳すれば、「はらわたが痛む」となります。実際、憐れむ、かわいそうに思う、不憫に思うという感情が、深いものであれば、内臓が痛みます。いへ、肉体ばかりか、心にも大きなストレスが襲います。病んでしまうほどの激しい感情なのだと思います。それがギリシャ語の「憐れに思う」という言葉の持つ意味なのです。

 ちなみに、この表現が使われているのは、ルカによる福音書では、この他に、二つありま す。一つは、第7章です。それは、ナインという町での物語です。そこで、主イエスは、一人の若者の葬儀の列と出会います。やもめの母親の生きる望みであった、一人息子が死んでしまったのでした。この母親をご覧になった主イエスは、「憐れに思い」「もう泣かなくともよい」という驚くべき言葉が発せられます。主イエスは、その全存在をこの母親の悲しみを憐れまれ、震えておられるのです。

 もう一箇所。それは、おそらく聖書の中で、もっとも有名なたとえ話、第15章の放蕩息子のたとえ話です。父親が、どぶねずみのようなよれよれの姿で帰ってきた放蕩息子を見て、憐れに思って駆け寄ったというあの物語です。

 さて、このサマリア人は、今、この倒れている人を、その全存在を震わせるようにしてかわいそうに思ったのです。そして彼は、倒れている人に近寄ります。そして、傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をします。オリーブ油とぶどう酒、彼はそれを持っていました。それらは、食用のものですが、同時に、今日の薬をも意味します。自分の旅のために言わば救急箱のようなものを持っていたようです。しかも包帯もあるのです。まるで医者、看護師のような手際よさです。そして自分のろばに乗せます。このサマリア人は、力も強いはずです。そして宿屋に連れて行き、介抱します。一緒に泊まるのです。しかし、このサマリア人は、次の日は、自分の旅を続けます。大切な仕事、用事があるのは明らかです。彼は、宿屋の主人に、お金を渡します。デナリオン銀貨二枚。今日で言えば、およそ二万円でしょう。それによってこの瀕死の重傷を負った彼は、少なくとももう一泊は、宿を得ることができます。しかも、介抱つきです。

 さて、主イエスは、最後に、質問者に尋ねるのです。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」誰が隣人になったのか。これは実に鋭い問いです。律法の専門家の問いを問いかえすものです。「私の隣人とは誰か。」という問いは、言わば立ち止まった問いです。自分はでーんと座り込んでいるのです。しかし、主イエスは、仰せになられました。「自分の隣人は誰か」ではなく、「隣人になる」ことへと、この学者を実践へと導かれるのです。専門家は、言いました。「その人を助けた人です。」まったくその通りです。そして主は、厳かに仰せになられます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」この人のその後は記されていません。やりとりは続いたのか。これで終わったのか。終わったのであれば、彼は目覚めて、喜んで帰っていったのか。それとも、反発して帰っていったのか。分かりません。

 しかし少なくとも読者である私どもにははっきり分かったことがあるのではないでしょうか。それは、このたとえを仰せになられた主イエスは、既にここでこの律法学者のよい隣人になられたという事実であり、そのお姿であります。主イエスは、この人に永遠の命の祝福を与えたいと願っておられるのです。だから、このたとえ話をなさったのです。

 そして何よりも分かったことは、実にこのたとえの中に登場したサマリア人とは、他ならない主イエス御自身のことではないかということであります。私どもは、自分の罪のために死んでいる人間でした。そのまま放置されていれば、永遠に滅びるしかなかった人間たちでした。ところが、主は、私どもの人生に関わってくださったのです。私どもの旅路に、近寄ってくださったのです。そして、憐れんでくださいました。それは、痛みを伴った激しいものであったのです。

 そうであれば、私どもはすぐに思います。この憐れみ、この痛みとは十字架の痛みであった、十字架の御苦しみと痛みをたとえているということです。まさに、主イエス・キリストは、私どもの善い隣人となって、私どもの身代わりに十字架の上で死んでくださったのです。そのようにして、私どもに永遠の命を分かち与えてくださったのです。今や、私どもは、この主の憐れみ、神の憐れみによって、救っていただいたのです。神の憐れみとは、精神論や感情だけの次元ではなく、行いを伴うものなのです。

 この物語、このたとえ話は、教会の奉仕、キリスト者がどのような生き方を指し示すことも大切なメッセージですが、何よりも主イエス・キリストのご存在と目的を明らかに指し示す物語なのです。そこで何よりも大切なことは、ここにいる私どもが、「善きサマリア人」である主イエス・キリストのお世話を受けていること、豊かにあずかっていることに気づくことです。すべてはそこから始まるのです。

 私どもの奉仕とは、何もそれをしなければ永遠の命を受け継げないから、しなければならないようなものでは、まったくありません。しかしそのような私どもだからこそ、主イエスの言葉を新しく聴き直せるのです。 「行って、あなたも同じようにしなさい。」これは、私ども救われた者の歩みを導く道しるべの命令なのです。

 最後に、わたしは皆様とともにこのことについて、特別の注意を払ってこの説教を終わりたいと願っております。それは、あらためて主イエスが、御自身を「サマリア人」になぞらえてくださったことの過激さです。その驚きです。これは、腰が抜けるといったら大げさに聞こえるかもしれませんが、しかし、もしかすると本当に、そのようなありえないお話なのです。

 先ほど、ユダヤ人にとって、サマリア人とはどのような人間とみなされていたのかを申しました。人間以下です。徹底的に差別すべき、嫌悪すべき存在です。ところが、主イエスは、他でもないサマリア人に御自身をなぞらえておられます。もしも、あの半殺しにあったユダヤ人が、意識があって助けてくれている人がサマリア人であれば、もしかすると、「お前などから助けてもらうくらいなら死んだほうがましだ」と言われる可能性もないわけではないのです。サマリア人に助けられるということは、そういうことを意味するのです。
主イエスは、ご自身をサマリア人になぞらえられる。それは、主イエスがやがてユダヤ人から人間以下、虫けらのように十字架で殺されることの予告のようです。まさに、ユダヤ人は主イエス・キリストをそのように殺したのです。しかし、主は、殺す人間を救うために、十字架に赴かれたのです。

 教会とは、いつもそのようなサマリア人の立場に立っているかどうかをいつも自ら問う必要があります。自分たちが、弱い立場、差別される立場、とても小さい者、少数者の側に立とうとしているのか、反対に、主流派、権力側、強い側に立とうとしているのか、そこが問われるのです。このたとえは教会がどこを向き、どのようになろうとするのかを深く、鋭く問いただしているのです。私どもの教会は、ユダヤ人から、人々から嫌われ、差別され、のけ者にされたサマリア人たる主イエス・キリストからのもてなしによって生かされた群れ以外の何者でもありません。

 最後の最後に、主イエスは、このたとえを話している律法学者に心の底から求めておられます。あなたは、自己正当化、自己弁護をやめなさい。あなたは、自分の中に憐れみの心がまったくない人間であることを認めなさい。しかしわたしが、主イエスが隣人となってくださっていることに気づきなさい。そしてただ幼子のようになって、主なる神の憐れみにすがりなさい、と求めておられるのであります。私どもは、今、どれほど主イエスが、私どもを憐れんでいてくださるのかを知っています。今ここで、その憐れみにあずかっているのです。

 ですから、私どもは、この主の物語を語り続けます。主イエスの御業、特に十字架の御業を語り続けるのです。そうしたくてたまりませんし、そうしなければならないのです。
しかもそのようなキリストの教会は、そこで主イエスにならいます。どうしてもまた、人々の隣人となるために、奉仕に励みたくなるし、励まざるを得ないのです。それが、良い隣人となって、救っていただき、立ち上がった教会の進む道なのです。

祈祷
私どもの隣人となってくださった主イエス・キリストよ、私どもを憐れんでくださって、その命をもって永遠の滅びから救い出してくださいました主イエス・キリストの父なる御神。あなたの豊かな憐れみを受けた私どもが、今なお、自己正当化の殻の中に閉じこもって、隣人になろうとしないのなら、私どもこそ、律法学者です。どうぞ、私どもを、自由にしてください。あなたを愛する愛に満たされ、そして隣人を自分のように愛する自由へとますます解き放ってください。愛において貧しく、助ける業においてまことに拙い者ですが、私どもを、あなたの憐れみの業の証人として整え、用いてください。午後の研修会を、豊かな学びと懇談、祈りのときとしてくださいますように。   アーメン。