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「恐れるな!」燭火礼拝式説教

「恐れるな!」
       2006年12月23日 燭火礼拝式
テキスト ルカによる福音書 第2章1節~21節

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 「恐れるな!」これが、ルカによる福音書の主イエス・キリストの降誕の物語を告げる最初の言葉であります。そして、この一言こそ、クリスマスが人間にもたらす恵みを端的に表すことのできる言葉なのです。

 「恐れるな!」主の天使は最初の降誕のときだけではなく、今晩も、主イエス・キリストのご降誕を祝うために集りました私どもにも告げています。

 しかし、戦後61年目の2006年の待降節を日本のキリスト者は、どのような思いで迎えているのでしょうか。私どもは、深い恐れを抱かざるを得ない事態を迎えました。しかも、この恐れは、日本の国だけの問題ではありません。今、世界が激しく動いています。恐怖へと動いています。

 もしも時間が許せば、日本の国、世界の国のいよいよ深刻な破滅、崩壊への歩みが始まっていることを縷縷述べることもできるでしょう。私どもは、先週の水曜日、祈祷会で学びました。何よりも、断食の日として過ごしたのです。

 燭火礼拝式の冒頭、このような日本や世界の現在の状況を語ることは、ふさわしくないのでしょうか。違います。むしろ、私どもがこの燭火礼拝式で、何かロマンチックな、この世がますますクリスマスを、空しいお祭り騒ぎにしていることに対して、教会自身がそのような方向へと擦り寄るなら、クリスマスほど空しいときはないでしょう。教会は、まことのクリスマス、降誕のお祭りを捧げるのです。そのときには、どうしても、この世界の現実を見据えることなしには、この喜びの深さを捉えることはできないのです。

 いったい、降誕の出来事は、どのようにして始まったのでしょうか。何よりも、ルカによる福音書が告げる降誕祭の物語りは、先ず一人の政治家、一人の圧倒的な権力者の勅令、一声によってもたらされるのです。
「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」「住民登録をせよ」と、ローマ皇帝が勅令を出したのです。何のために、住民登録をさせるのでしょうか。いつの世でも権力者が住民登録をさせる狙いは、基本的に二つのことです。一つは、徴税のため、税金を徹底して取り立てるためです。もう一つは、徴兵のため、男たちを兵隊にするためです。そして、いずれも、すべて権力者の権力を行使するために必要なものなのです。権力者は常に、自分の権威、権力を誇示するため、自ら確かめるために、勅令を出します。

私どものような民主主義の時代にある日本では、このような勅令などは、本来ありえないこと、あってはならないことであります。日本国憲法によって定められた民主主義国家、立憲主義国家は、国民が選んだ国会議員が、国民の代表として国民のために法律をつくることがその本務のはずです。ところが、今国会によって成立させられた改正教育基本法や、そしてその後にもくろまれる憲法改正は、まさに勅令のようなものになります。つまり、為政者、権力者の権力の横暴によって国民が二度と戦争の惨禍、二度と天皇や政府の専制の犠牲にならないように彼らを制御、縛るための最高法規である憲法の役目を、なんと国民を国家の支配化のおき、国家に都合の良い国民へとしばりをかけようとするものだからです。今回の改正教育基本法の内容もそうですが、改正の手続きそのものもまた、勅令のようでした。タウンミーティングで国民の声に耳を傾けたかのようなポーズをとり、国会でも形式的で、乱暴な手続きだけの審議をして、一応、議論を重ねたようなポーズを見せました。しかし、要するに議員の多数の力で、最初に結論があったのです。

 さて、いったい主イエスの母となるマリアといいなずけの夫であるヨセフは、この勅令をどのような思いで聞いたのでしょうか。なんと迷惑な命令であろうかと、思ったに違いありません。なぜなら、このときマリアは身ごもっていたからです。しかも、すでに産み月に入っていたのです。ローマ皇帝アウグストゥスは、自らの権威にかけて、徹底した住民登録を要求します。それに逆らえば、ローマ帝国における生存権を剥奪されるようになるでしょう。安全に、平和に、しかも豊かに暮らせるのは、ローマ帝国が強大な武力、経済力を持ち、繁栄を謳歌していたからだというのです。そのようなすばらしい帝国に住めるだけでも幸せなのだから、国民は、いよいよ皇帝を神、主とあがめ、その命令に絶対に服従することが当然であるとしていたのです。そのような権力者に、一人の身重の女性のことなど、どうでも良いことなのです。

彼らは、ガリラヤのナザレという田舎町から、ユダヤのベツレヘムというヨセフの故郷に戻るのです。ヨセフは、あの偉大なユダヤの王ダビデの血筋を引いていたからです。彼らだけではありません。大勢の人々が、旅を余儀なくされました。主要道路や宿は、ごった返していたのかもしれません。そのとき、予想外であったか、予想していたことであったのか、マリアが産気づきました。旅の途上での出産です。それだけでもどれほど不安なことでしょうか。どれほど、あわててしまうことでしょうか。ヨセフの気持ちになっても、マリアの気持ちになっても、それは、まことに同情せざるをえません。二人にとってのまさに生まれて初めての経験をしようとするのです。

しかし、宿屋には、人々があふれていました。皆、旅の疲れで動きたくなかったでしょう。あるいは、宿屋の主人一人が、気をきかせたのでしょうか。一見して、もしかすると今晩にでも生まれるような状況にあった身重の女性です。彼女を大部屋に通すと、すでに横になって寝ている人たちの迷惑になる。主人は、自分の立場を考えて、二人を馬小屋に連れて行ったのでしょうか。いずれにしろ、二人は暗い馬小屋の中に入って行きました。

神の御子の降誕、イエスさまの誕生が、他のどこでもなく、馬小屋であったのです。夫ヨセフがおそらく一人で乳飲み子を取り上げたのです。彼は、人となられた神の御子に初めて触れた人間です。この生まれたばかりの赤ちゃんは、馬のえさ箱である飼い葉おけに寝かされました。わらが布団でした。そして、人となられた御子の元気な泣き声がひとしきりおさまれば、そこには夜の静寂が支配していました。馬小屋にいるヨセフとマリアの二人の間には無事に生まれた安堵、そして言葉にあらわせない大いなる喜びがありました。
 
 さて、ルカによる福音書は、この皇帝アウグストゥスの勅令による降誕の出来事の物語の直後に、いわば、この出来事そのものがもたらすメッセージを高らかに歌い上げます。ここでの物語の主人公は、羊飼いです。羊飼いとは、ユダヤの社会においてはもっとも底辺に位置する職業であったのです。はっきり申しますと、差別されていました。理由は、動物にかかわる仕事だからです。血に関わる動物だからです。ユダヤの社会においては、そしてどこの社会においても、動物の皮に関わる職業は古くからそのような差別を受けてきたのです。しかも、ここに登場する羊飼いは、その差別を受けている人々の仲でもさらに、特別の人々です。なぜなら、野宿をしながら、夜通し羊の番をしているからです。掛け値なしに、その当時のユダヤの社会の中での最底辺に生きていた人です。昼日中は、寝ていて夜になって活動するわけです。彼らの過去には、何か犯罪のにおいすらするのではないでしょうか。

実に、皇帝アウグストゥスと夜通し羊の番をしている羊飼いたち。なんという鮮やかなコントラスト、なんという開きがあるのでしょうか。世界一の権力者と世界の最底辺の人間が、降誕の物語に同じように登場するのです。

しかもルカによる福音書は告げます。この降誕の喜びの知らせが誰に告げられたのか。そうです。夜通し羊の番をしている羊飼いたちです。狼から羊を守るために、夜通し体を張って見守っている彼らです。羊の安全な眠りのために一握りではありますが、働く労働がいるのです。そのような差別されている、最も軽んじられている人々にこそ、降誕の知らせを届けられたのは、他ならない神です。父なる神こそが、彼らをずっと顧みておられたのです。それが、神の御心であったのです。そして今こそ、その事実と御心とが啓示されます。神が御眼を注がれているのは、神が顧みられ、憐れんでくださるのは、弱い人。社会的、経済的にも弱い人。一人の人間としても弱い人。地上の人間的価値観では顧みられなかった人たちなのです。

「恐れるな!」これが、彼らに、告げられた最初の言葉です。誰でも、いきなり真夜中に天からの光が射し込んで来て、天使を見てしまったら、びっくりするでしょう。恐れるでしょう。しかし、この「恐れるな」との呼びかけは、ただ単に、天使の突然の訪問に恐れ惑ったから、こう言ったわけではないのです。地上に生きる人間に、神が何よりもお告げになる言葉が、「恐れるな」ということなのです。

私どもの教会は今年、初めて年間標語になる御言葉を掲げました。テモテの手紙Ⅱです。「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスの恵みによって強くなりなさい。」強くなりなさいとは、強くされなさいということであると学びました。このような神の励ましを受けて一年を始めたのです。この命令、この奨励の言葉一つをとっても、この天使の呼びかけの言葉、「恐れてはならない」という響きが込められていると思います。

地上に生きている我々には、おそれが付きまとうのです。キリスト者もまた例外ではありません。むしろ、キリスト者である私どもこそ、恐れやすいとすら言えるのです。この地上にあって、この現実を真実に生きようとすればするほど、真剣に生きようとすればするほど、おそらくのんきに、楽観的に生きることはできなくなるはずです。恐れを知らないのは勇敢であるのではなく、単に、現実を知らないだけ、あえて見ないからなのではないでしょうか。いわば、現実逃避をしているのです。しかし、教会に生きる者は、現実を逃避しません。逃避しないからこそまた恐れの念に捉えられやすいのです。

恐れると、体が硬直します。縮こまります。自由に、自分の力が発揮できません。本当の自分の力すら、自分に与えられている実力すら発揮できません。しかし、安心すると、自由に、自分らしく振舞えます。力が発揮できるのです。神は、今晩、私どもに天使を通して、羽は生えていませんし、見栄えもしませんが、天使を通して、宣言したもうのです。「恐れるな!」

この夕べの礼拝式の招きのことばで、詩篇第2編を読みました。詩人はこのように歌い上げます。「なにゆえ、国々は騒ぎたち 人々は空しく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者たちは結束して 主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか 『われらはかせをはずし、縄を切って投げ捨てよう』と。 天を王座とする方は笑い 主は彼らを嘲り 憤って、 恐怖に落とし 怒って、彼らに宣言される。 「聖なる山シオンで わたしは自ら 王を即位させた。」

地上の王、支配者達は今こそ総力を集め、結束して、御子なる神のご降誕に対して圧力をかけます。ユダヤの総督ヘロデにいたっては、この幼子を殺すために、ベツレヘムに生まれた男の子の赤ちゃんを皆殺しにする勅令さへ出したのです。よってたかって、主なる神であって油を注がれたお方、キリスト・イエスに逆らったのです。それが、最初のクリスマスの夜の出来事でありました。また、そればかりか、今晩の日本、そして世界の現実でもあるのです。

しかしそのような企てを神は笑われます。神のご目的を、神の御心を損なうことはできないのです。むしろ、彼らが騒ぎたてばたつほど、神の光は暗黒を照らし出します。アウグストゥスがあの勅令を出したからこそ、御子は、この羊飼いを救うことのできる人間となるために、馬小屋に生まれ、飼い葉おけに眠ることになったのです。人間のどん底を味わう人々を救うために、御子なる神は徹底して低きに降られる必要があったのです。羊飼い、しかも夜通し働く羊飼いたちは、王宮に入ってゆけるはずがありません。しかし、馬小屋なら彼らであっても堂々と入ってゆけるのです。愉快なことです。神の笑い。ユーモアでもあります。これは、決して単なる偶然ではありません。まことの主権者なる創造者なる神が皇帝の権力欲、権力を行使する醍醐味をも逆手にして、ご自身の永遠の御心を徹底して実現したもうのです。

だから天使はこう告げるのです。「恐れるな!」恐れる必要はありません。神さまより強いものは地上にないからです。心配して、縮こまる必要はありません。むしろ、今からこそ、私どもはキリスト・イエスの恵みに強められるのです。いよいよ、強くされてゆけるのです。

彼らは、天使のお告げに戸惑いながらもしかし、信じてベツレヘムへと上って行きます。このまことに不思議な人々を、主の天使と信じているからです。このメッセージを聞き逃さなかったのです。そこに羊飼いたちの信仰があります。そうであれば、今晩、ここにいるすべてのひとりひとりも同じであります。私どももこの天使の知らせを無視してはならないのです。むしろ、羊飼いたちとともに確かめるべきです。本当に、神の御子がお生まれになられたのか、どうか。

そして私どもはそれを知っています。ここで祝っているのです。そればかりか、この御子がその後どのような生涯を全うされたのかをも知っております。馬小屋の王さまは、時至り、神の国の福音をご自身が宣教されました。神の国が近づいた、悔い改めて福音を信じなさい。この福音を語っているわたしを信じなさい。わたしこそが福音そのものであり、神の国そのものなのだと語ってくださいました。語られるばかりか、その行いによっても、ご自身が神ご自身であられること、つまり、病める者を癒し、死んだものを生き返らせ、孤独な者の友となり、飢えているものを飽き足らせて下さったのです。神の国とはいかなるものであるのかを、その行いをもってはっきりと見せてくださいました。

そして何よりも、神の国の実現のためには、人間の罪を贖い、神の子どもとするために十字架について身代わりに死んでくださったのです。そして、罪人が赦されるということがどのようなものであるのかを見せるために、死人の中からお甦りくださいました。そのことを私どもは知っているのです。この御子の十字架と復活の御業があるからこそ、ここにキリストの教会があるのです。そして、私どもが今晩、ここに集められたのです。

羊飼いこそ、誰よりも恐れを知っています。今ここで生きることの不安を知っています。老後の不安を誰よりも知っています。しかしだからこそ、また、「恐れるな」ということばが持つ力を体験できるのです。

私どももまた、確かに不安材料を抱えています。しかし、もはやそれに固執しません。確かにあのこと、このことが心によぎります。個人の不安のみならず、この国の明日に対する不安が伴います。しかし、キリスト者は、その不安やその困難な現実のそのままに、人生に立ち向かえるのです。なぜなら天使が今晩も私どもに宣言しているからです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」そうです。私どもも見ています。今はっきりと見ています。大きな喜びが地上に来たのです。私どもの救い主は、すでにこの地上に来られたのです。布に包まってお生まれ下さった方、イエスさまが救い主です。その救い主は神の民である教会に与えられました。私どもは今晩、全員で、その救い主のもとに来ているのです。

ですから、私どもは恐れません。私どもは、この御子の御降誕によって、神の御心を鮮やかに見ているからです。私どもはもはやイエスさまを知らないときのように、恐れません。降誕されたこの御子、十字架についてお甦りになられ、天に戻られた御子イエスさまは、再びこの地上に来られるからです。この御子が、再び来られるとき、これまでの教会の戦い、これまでのこの世の権力者たち、権力者たちの側に立つ者たちがこぞって、主に反抗してきたすべての企てが、再臨のイエスさまによって、打ち倒されます。かえって、彼らのこれまでのおそるべき反抗が、主イエス・キリストの勝利が際立つために役立たせられてしまうのです。

「恐れるな!」これが、クリスマスのメッセージです。私どもも今晩、心新たに、あの羊飼いのように、出発しましょう。あのヨセフたちのように出発しましょう。私ども神の民の旅路は、神と共なる歩みです。そして勝利の歩みなのです。そして、この一年の私どもの歩みによって、三人の選びの民が起され、神の子が起され、天国への旅の仲間、家族に加わります。彼らとともに、なお、天国を目指して恐れずに、勇気をもって旅を続けてまいりましょう。

祈祷
最初の御子のご降誕を祝った夕べのように、今、あなたはここに呼び集めてくださいました者たちに、「恐れるな」と宣言してくださいました。あなたこそが、歴史の主、あなたの民を救う神です。私どものような罪人を、あなたの民の一枝としてくださいましたことを心から感謝申し上げます。今、暗闇の世界は、あくことなくあなたに反抗し、自らが闇でしかないことをいよいよ示しております。どうぞ、この降誕の出来事を、私どもがいよいよ深く、確実に信じ、そしてこの喜びの訪れを告げる者としてください。アーメン。