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「キリストに結ばれて語る」

「キリストに結ばれて語る」
2007年4月1日
テキスト ローマの信徒への手紙 第9章1節~5節②/Ⅲ

「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」 

今週から、今年の受難週が始まります。世々の教会は、この受難週を、特別に覚えてまいりました。主イエス・キリストが十字架につけられ、お甦りになられる一週間を、覚えて、その歩まれた道を心に刻み付けるように過ごす一週間なのです。私どもの教会も昨年に引き続き、木、金と早天祈祷会を開いて、主イエス・キリストの苦難のご生涯を覚えて過ごしてまいります。

先週から、ローマの信徒への手紙第9章に入りました。本日も先週と同じ箇所から学びます。そこから、三回学びたいと考えております。
さて、使徒パウロは、しばらくの休憩の後、いよいよ、新しい主題、新しいテーマについて、福音を証しようと語り始めます。しかし、その語りだしは、これまでとはずいぶん、趣が違っています。「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。」「わたしは本当のことだけを語ります。わたしは嘘を言いません。」そもそも、このようにして、手紙を書き始めたり、語り始めるということに、何か、ただならない気配を感じさせられます。わたしがすぐに思い出すのは、国会での証人喚問のシーンです。そこでは、証言に先立って、宣誓を求められます。「もしも、真実を語らず、偽りを言えば、法律に基いて罰せられます」と議長に警告されます。その後で、宣誓し、さらには署名、捺印までさせられるのです。ときに、証人が署名するその手が大きく震えてしまうということもありました。いずれにしろ、明らかなことは、この言い始めの言葉だけをとりあげても何か異常な、緊張感があるということです。ここから語られることは、どうしても明らかにしなければならない内容、重大なメッセージが語られようとしているということが分かると思います。

それにしても何故、伝道者、使徒パウロは、このように語り始めるのでしょうか。それは、ユダヤ人キリスト者からの激しい中傷、厳しい迫害、信仰の真理についての激論を常に戦わせる立場にいたからです。彼らは、使徒パウロを痛烈に批判するのです。悪口を言うのです。「パウロは、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人を批判するとは何事だ。ユダヤ人であることそれがどれほど光栄なことであるのかを知らない。パウロは、ユダヤ人を愛していない。ユダヤ人への愛がない。そのような人間に、ユダヤ人についてあれこれ言う資格などあるわけない。ユダヤ人を愛さないような輩が、イエスさまを伝道するなど、おかしい。」このような批判です。パウロの1節の、言い方の背後には、実にこのような、厳しい背景があるのです。その背景を知らなければ、この2節のパウロの、驚くべき祈り、告白の重さと意味をつかむことができないのです。

「わたしの良心も聖霊によって証していることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」このような書き出し、証言の仕方のなかに、どれほどまでに使徒パウロの悲しみや怒り、痛みが込められているでしょうか。パウロこそ、同胞の救いのために祈り、自分が神に呪われ、見捨てられてもかまわない、ある人は、本望であると訳しました。それくらいに激しい愛に裏打ちされて、パウロは、福音を語るのです。ただキリストのみ。恵みのみ、信仰のみ。そのことを、なんとしても神の選びの民に告げたいのです。決して、ユダヤ人を憎んでいるわけでも、軽んじているわけでもないのです。むしろ、彼らを徹底的に愛し、彼らを愛しておられる神ご自身を愛するゆえに、割礼による救い、律法を守るという行いによる救いの道を、排除しようと戦うのです。

言うまでもないことですが、パウロは、ユダヤ人です。このことは、パウロにとって、極めて重要なことです。聖書の中で、フィリピの信徒の手紙のなかで、自己紹介があります。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」この自己紹介においてすでに明らかになるのは、彼の強烈なこだわりです。一つには、自分がヘブライ人の中のヘブライ人、つまり、血統から言っても極めて純粋なユダヤ人であることです。もう一つは、信仰の面から言っても、ファリサイ派の一員であって、極めて熱心なユダヤ人、信仰者であったということです。

しかしながら、キリスト者となって、キリストの使徒、伝道者となったパウロは、このユダヤ人としてのあり方とは、まったく相容れない働きをするようになりました。それは、ローマの信徒への手紙の第一章の最初の部分における自己紹介に明らかです。「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」パウロは、異邦人を信仰による従順へと導く使徒とされた。伝道者とされたというのです。

しかしそもそも、ひとりのユダヤ人が、異邦人と積極的にかかわりを持つということそれ自体が、彼らの存在にとって、極めて異質なあり方なのでした。ユダヤ人が、異邦人と関わりを持つ、それがたとえ信仰について議論する、それを伝えるということであっても、通常はありえないことでした。なぜなら、彼らは自分たちだけが、真の神を知り、真の神を礼拝し、真の神の救いのなかに選ばれている民であると信じているからです。それは、同時に、そうではない他の民族は、偶像を礼拝し、神に敵対し、神の怒りを受けるべき輩であると信じていることを意味します。
ですから、まさに典型的なユダヤ人に他ならないパウロが、同胞のユダヤ人に福音を語るのではなく、むしろ、異邦人に神の福音を広めて、「信仰による従順」神への従順へと招くということは、それだけで、実に大きな精神の転換を意味することなのです。

ユダヤ人である使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の第2章から3章、そして4章に、ユダヤ人の始祖であるアブラハムについて集中的に記します。しかも、そこでユダヤ人について何と言っているかと申しますと、一言で申しますと、3章9節にこうあります。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」もし、ユダヤ人が直接、聞いてしまったら、おそらく目もくらむような批判です。よりによって、同じ民族、同じユダヤ人から、自分たちを異邦人と同列に置き、ユダヤ人のユダヤ人たる特権と誇りを木っ端微塵に吹き飛ばすようなことを言われているのです。さらに、第2章23節では、こうまで批判するのです。「あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。『あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている。』と書いてあるとおりです。」ユダヤ人にすれば、到底我慢ならない批判でしょう。もんどりうって悔しがるのではないかと思います。しかも、くどいですが、異邦人が言っているのではないのです。同じ民族、ユダヤ人からの批判なのです。それは、すでに、赦しがたい裏切り行為ともなるはずです。ですから、ユダヤ人が、どれほどパウロを憎み、嫌ったことか、彼らの徹底した迫害ぶり、攻撃ぶりは、よく分かることではないでしょうか。

さてしかし、この問題は、実は、ただ単に、ユダヤ人からの批判、反発、迫害に留まりませんでした。むしろ、パウロにとっての最も困難な闘いは、ユダヤ人からキリスト者になった伝道者たちから受けた攻撃、批判、迫害であったのです。パウロは、このようなユダヤ人キリスト者と壮絶な戦いを強いられたのです。

それなら、このユダヤ人キリスト者とは、どういうことを主張したのでしょうか。それは、一言で申しますと、律法主義です。それなら、律法主義とは何でしょうか。第3章28節前半の言葉に明らかに示されています。「人が義とされるのは律法の行いによる」「人が神の御前に正しいものとされ、救われるのは、神の律法を守り行うことによってかかっている」と考えること。考えたとおり、それを実行することです。そしてそれこそ、当時のファリサイ派のユダヤ人、律法を守り行うことに熱心な人々が、一心にめざしていたことに他ならないのです。つまり、ユダヤ人からキリスト者になって、さらには、伝道者になった人々と純粋なファリサイ派の人々との間には、イエスさまを主と告白するという決定的な違いはありますが、しかし、どのようにして神の御前に義とされるのかという点については、不思議な共通点、強調点があったわけです。

しかし、使徒パウロは、彼らと彼らの主張に向かって、28節後半で、このように言います。「私たちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考える」ただ信仰によってのみ、義とされる。ただ、主イエス・キリストを信じる信仰、主イエス・キリストの真実によってのみ義とされ、罪赦され、救われる、これが、福音なのです。これこそが、ローマの信徒への手紙の8章までの、福音なのです。

しかし、やっかいなことがありました。ユダヤ人から改宗してキリスト者となった伝道者たちは、律法の行いによって義とされるというようなことを真正面から主張したのではないのです。なぜなら、それをそのまま主張すれば、それは、明らかにキリスト教ではなく、ただのユダヤ教、単なるファリサイ派になってしまうからです。彼らとキリスト教との違いは、はっきりしているはずなのです。それなら、彼らは、どのような主張をしたのでしょうか。

それは、たとえば、パウロが記したガラテヤの信徒への手紙のなかに出てまいります。そこで、ユダヤ人キリスト者はこのように、教会員に教えたのです。「イエスさまを信じることはすばらしい。もちろんそれが、救いです。福音です。しかし、あなたがたガラテヤの教会員は、ほとんどが異邦人でしょう。それでは、困ります。考えてもみてください。そもそもイエスさまは、ユダヤ人です。そのイエスさまも、救いはユダヤ人から来るとヨハネによる福音書において仰いました。つまり、あなたがたも、神の民になるためには、男性であれば先ず、割礼を受けることです。簡単なことです。割礼を受けて、ユダヤ人になればよいのです。そして、その後で、洗礼を受ければ、良いのです。」

しかし、使徒パウロは、このような主張と伝道者に烈火のごとく憤り、挑戦します。そして、徹底して福音の真理を明らかにします。「救われるために、割礼を受ける必要はもはや一切ない。」「むしろ、もはや割礼を受けてはならない。」断固、ゆずらないのです。ユダヤ人2000年の歴史、アブラハムに命じられた割礼の歴史から2000年間、ユダヤ人であれば、誰でもが行い、あるいは、一緒に暮らす外国人であっても、行われてきた割礼を、使徒パウロは今、ばっさり切り捨てたのです。ここにこそ、パウロのパウロらしさ、パウロが使徒であり、福音の使徒であることの鮮やかなしるしを見て取ることができると思います。ユダヤ人の誇りそのものであるアブラハムに連なる者、具体的に言えば、割礼を受けているという事実を捨て去ったことのなかに、現れています。

しかし想像してみてください。もしも、彼が、そこまで福音の真理を徹底的に曲げようとしないで、むしろ、ユダヤ人にも理解しやすいようにと福音を曲げ、妥協していたら、あのような厳しい伝道の生涯を生きる必要もなかったはずです。もしかすると多くのユダヤ人からの支援を受けて、伝道の成果が上がったかもしれません。

私どもは日本人キリスト者であります。そのような私どもとして、この箇所を、今日的な課題としてまさに読むことができます。日本人キリスト者は、今さら取り立てて言うまでも泣く、少数者です。しかし、少数者であることを、私どもはきちんと覚悟して生きているのでしょうか。もしかすると、たとえば、今は、選挙の季節ですが、どこかの宗教団体のように政党を組織して、まさに多数派となって、日本の国のその中枢を左右して、その宗教団体の信者になることが、日本では、生きやすくなる、生きるが楽になるのでしょう。もしも、キリスト者も、その伝道の目的が、キリスト者が増えれば、自分たちの信仰的戦いが楽になるためとするなら、それはもはや伝道の名に値しないでしょう。ガラテヤの信徒への手紙第6章でパウロはこう言いました。私どもも心に刻み付けなければならないと思います。「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。」パウロは、これこそ、ユダヤ主義キリスト者の本性だとばっさりと切り捨てたのです。彼らは、同胞からの迫害を受けたくないばかりに、異邦人に無理やり割礼を受けさせようとする。

私どもの教会は、中部中会は、教育基本法改悪に抗議と悔い改めのため、断食の日を設けることを呼びかけました。私どもの教会もそれに、参与しました。私どもの子どもたち、また学校教師たちは、日の丸、君が代の強制をちらつかせられています。そこで、わたしどもは、決して、「君が代を歌わない」と腹に決めているのです。「天皇の支配が永遠に続くように」などと、どうしてキリスト者として歌えるかと思います。ニカヤ信条で、「その御国、神の国は終わることなし」と、唱えておきながら、一方で、天皇の支配が千代に八千代に続くようにと歌えません。

ただし、このような理屈は、そこで言われるかもしれません。「君が代は、国歌、国の歌として法律で定められているではないか。キリスト者は法律を遵守すべきである。何も、文言を生真面目にとらえなくともよい、キリスト者だって、流行歌を歌うではないか。その歌詞を厳密に信仰的かどうか判断しているのか。そうではない。なによりも、そんなことを言っているから、伝道は進展しないのだ。そんな了見が狭くては、日本の伝道はできない。そんな狭いことを言うのは、かえって教会の迷惑。」
私は、教会の中から、そのような主張が声高に叫ばれることが起こることを、実は、きちんと予想しておいた方がよいと思うのです。なぜなら、かつてこの国で、実際に起こったからです。しかも教会の指導者たちがそう叫び、圧倒的多数の諸教会、キリスト者が、あのパウロの闘いに連ならず、信仰の節操を曲げ、戦いを放棄したのです。信仰の良心のゆえに、戦っていたわずかのキリスト者を、教会がへし折ろうと画策したのです。それは、本質的には、こういうことではないでしょうか。ユダヤ人キリスト者が、ユダヤ人から迫害を受けたくないばかりに、異邦人に割礼を強制したことです。

これは、明らかに十字架の道からの、逸脱です。キリストの歩まれた苦難の道から、自分勝手に、自分の思うとおりの道をつくって、脱線することです。受難週が始まります。キリストの十字架への最後の週、復活前の一週間を覚えて過ごす季節です。現代のキリスト者、日本人キリスト者で、割礼を受けなさいと命じる伝道者は、ほとんどひとりもいません。しかし、日の丸に敬礼し君が代を大きな声で歌って見せること、あるいは、仏式の葬儀において焼香することは、相手の宗教に合わせる、礼節の行為、むしろキリスト者の愛の行為であるなどと、主張する教会や指導者であれば、今後、増えてゆくのではないかと予想するのです。そのようにして、会員たちを、十字架の道ではなく、自分たちの作り出す、楽な道へと導くのなら、それは、この使徒パウロのあり方、生き方、その福音とかけ離れるのです。

ただし、いついかなる時代でも、どの国や社会においても、一人の人間が、骨の髄までキリスト者になるということは、決して、容易なことではないのです。しかし、使徒パウロは、言います。キリスト者として語る。キリストと結ばれているのです。容易なことではないけれど、可能なのです。神が、キリストによってしてくださるのです。私どもはこの使徒のモデルをモデルとするのです。わたしは、日本人キリスト者ですが、しかし徹底してキリスト者になる、なれると信じます。どうしてそれが、可能となるのでしょうか。その確信はどこから来るのでしょうか。それは、つまりキリストに結ばれるということの可能性にかかっています。そして、その可能性とは、神の御子なるキリストが人間イエスさまになられたからです。

人間となられたイエスさまは、他でもないユダヤ人となられました。そのようにして、旧約聖書を神が成就されました。このようにして、私どもはキリストと結ばれることが可能となったのです。そうであれば、キリスト者なら誰でも、キリストに結ばれた者として真実を語ることができるのです。

使徒パウロはここで、自分の語った言葉に、思わず、「アーメン」と言います。私どもは、お祈りの後にアーメンと言います。自分の祈りにも、仲間のキリスト者の祈りにもアーメンと言います。この祈りは真実ですと、言う意味がそこには込められています。しかし、何よりも、この祈りが真実であるかどうか、などよりも、決定的に重要なのは、自分が真実な祈りをしているかどうかなどの確かさより、はるかに、この祈りが聴かれていることを、イエスさまのお陰で、イエスさまの御名のおかげで、信じるゆえに、アーメンと言うのです。

子どもカテキズムの問い85、最後の部分にこうあります。「『アーメン』とは、ただイエスさまの真実に支えられて、わたしも真実にお祈りすることができるということです。」と記しました。
ここでパウロは、祈っているわけではありません。読者である教会員に真実を語っていると言っているのです。いわば、説教しているのです。彼は、自分の言葉の真実に、そのすばらしさに思わず、アーメンと叫びたくなって、叫んだのです。キリストは人間イエスさまになられた。しかも、そのイエス・キリストは、万物の上におられる、永遠に褒め称えられる神なのです。

イエスさまが真の人であり、真の神であることを教会の言葉で、「二性一人格」と申します。ニカヤ信条で毎週唱えているのです。真の神よりの真の神、造られずして生まれ、御父と本質を一つにし、万物は彼によりて造られたり。 主は、聖霊によりて処女マリアより肉体を受けて人となり。」
私どもは、このマリアから生まれたイエスさまによって、神と一つになること、この奇跡にあずかるのです。私どもはすでに三位一体という教会の教えの真髄を学びました。父と御子と聖霊の愛の交わりの真ん中にキリスト者は包み込まれている、それが神に愛されるということだと学びました。そして、それを具体的に可能にしてくださったのが、実に、御子イエスさまに他ならないのです。イエスさまと一つに結ばれることによって、私どもは、父と御子と聖霊の交わりにあずかるのです。

そのような神の奥義、すばらしさを知ったなら、アーメンと言わずにおれないのです。そして、自分の言葉を真実にするのも、イエスさまのお陰です。自分の誠実さをもって相手を説得したり、自分の真実さを確信して語らなくともよいのです。結局、使徒パウロは、自分の強いこだわり、それを弁明すること、自分の同胞への愛の真実、自分の真実、自分の誠実を読者に理解して欲しいとか、そこにこだわろうとしないのです。もう、自分にこだわらなくても良いのです。「わたしは真実を言う、偽りは言わない。」もちろん、大切なことです。しかし、それを支えるのは、パウロ自身ではない。主キリスト御自身であり、聖霊なる神ご自身なのです。しかも、それは、ただ神をたたえるために言うのです。彼のこだわりは、ただ神の栄光を賛美し、神に栄光を帰すことだけなのです。そのために、どれほど、批判され、中傷され、あることないこと揚げ足をとられても、パウロは福音を証する務めに集中するのです。キリストに結ばれて、真実を語るのです。私どもも、この使徒の歩んだ歩みを進みます。それは、キリストの歩まれた道に他ならないからです。

祈祷
私どもを救う為に、肉体を受けて人となりたもうた永遠の神であられる御子、主イエス・キリストの父なる御神。人となられた主イエスのおかげで、私どもは今、主イエスと結び合わされ、あなたとの愛の交わりのなかに包み込まれています。この恵みのなかで、私どももまた、パウロと同じように、苦難の道をも歩くべく、導かれています。どうぞ、私どもの教会が、パウロを迫害し、律法主義に逆戻りし、キリストの十字架の道から離れることのないように、福音の真理に堅く立たせて下さい。キリストと結ばれ、真実を語る教会としてください。アーメン。