過去の投稿2007年11月4日

11月4日

★   先週の読書会は、全体研修会の第二ラウンドのような集会でした。多くの兄弟姉妹が出席されたことは、大きな喜びでした。小塩長老の原稿を手に、あらためて語られたことごとを確認しながら、私自身の思いと述べつつ、全員で意見を交換しました。二年がかりで、学び続けた「教会のディアコニア」です。ディアコニアとは、神の御言葉が正しく語られ、真実に聴き取られるところに、必然的に生み出される教会の行為であることを、いよいよ悟ることができたかと思います。その意味で、ディアコニアは何も肩肘をはるようにして担うものではないということでしょう。

☆  新来者の仲間も加わっての読書会でした。ある種の緊張感を持ちます。真剣に御言葉を求める方であれば、基本的に教会の集会には、すべての方が出席しても大丈夫です。そしてそこでキリスト者も、信仰の基本を確認させられます。ディアコニアは、神の人へのディアコニアに基づくものであるということです。会の最初に朗読し、解説したのは、いわゆるキリスト教黄金律と呼ばれている「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」(マタイによる福音書第7章12節の主イエスの山上の説教)でした。「求めよ。」と主イエスが命じてくださいました。これは、神は、喜んで求めに答え、報いてくださるとのお約束なのです。喜んで豊かに与えてくださる神であればこそ、「だから」と命じられます。だから、あなたがたも神に倣って、同じようにしなさいということです。そうであれば、未信者もキリスト者もまず、神に求め、神に豊かに与えていただく経験を深めることです。そうであれば、教会のディアコニアは、深い霊性、深く御言葉の恵みを受けること、祈りの交わりが求められているのです。主イエスの「おもてなし」、命がけのおもてなしを受けること、受けていることを深く悟ることです。本日の聖餐の礼典で、まさに、主イエスのもてなしにあずかり、主の恵みは、豊かにふるまわれます。同じ「もの」が配餐されますが、それをどのように受けるのか、それは、受領者の信仰によって異なるのです。今朝の聖餐の祝いがいよいよ豊かになりますように。

☆   教会のディアコニアを考えるとき、その原点は、使徒言行録の「やもめ」の食事の世話の問題です。食卓に仕える奉仕です。主の食卓にあずかるキリスト者が、自分たちの食卓を重んじ、そこで公平が樹立されることが、最初の教会の重大な関心事でした。そしてそれは、単に食事の問題ではなく、神の民の間に「公平」「正義」が確立されるかいなか、この世と違った、神の論理が貫徹されるのか、もしくは、教会においてもこの世の力関係が持ち込まれ、それによって教会が真理の道をそれるかの瀬戸際だったのです。そのような「感覚」-小塩長老の言葉で言えば「コンシャンス」・「コモンセンス」に通じると思います。-をいよいよ研ぎ澄ますことが、私どもの課題です。

★   多くの方が、愛知県にある私どもの教会に期待するとのことに反応されました。「考えたこともなかった・・・。」そのような率直な意見を述べられた方もおられます。わたしは、日本の教会を分ける一つの言葉に言及しました。「社会派」と「教会派」です。前者は、教会を社会問題、社会改良、改革の拠点と考える教会観に立ちます。後者は、このようなあり方を福音からの逸脱と考え、どこまでも教会形成を中心に据えるあり方です。しかし、実際には多くの教会は、社会派でもなく、教会派に徹することもできずに中途半端なのではないかと思います。私どもは、もしも、どちらの立場であるのかと申しますと、徹底した教会派でありたいと願います。しかし、東京告白教会は、外側からは「教会派」と見られるでしょう。しかし、そのような色分けでくくることができないことは今回の講演でも明らかとなったと思います。徹底して神の言葉に純粋に服従する教会です。それが、教会のディアコニアの志を生んでいるのです。私どもは、いわゆる「新自由主義」(格差社会の元凶となる思想)の国際的発信基地と指摘された名古屋に置かれています。私どもの教会が、この思想や社会構造に楔を打ち込んで、切り崩すような働きを、大上段になしてゆくことはできないでしょう。しかし、私どもが御言葉に生きているなら、そこで必然的に、「トヨティズム」に抗うことになるはずです。それが、小さくても「楔を打ち込む」業になること・・・。主なる神に祈ります。

★  先週のこの欄にしるした福音主義神学会の講演依頼の件ですが、お引き受けすることに致しました。「ただ神の栄光のために」自分が説いた説教をやはり裏切ることになると考えた次第です・・・。