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「神の憐れみによる礼拝」

「神の憐れみによる礼拝」
2007年11月4日
テキスト ローマの信徒への手紙 第12章1節-2節① (新約聖書p291)

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

 私どもは、2004年の9月から志を立てて、主日礼拝式の説教のテキストとして、このローマの信徒への手紙を学んでまいりました。そのようにしてかけがえのない教会の形成の日々、その戦いを皆様と歩んでまいりました。そして、本日は、いよいよ、第12章に入りました。

 この手紙は大きく分けると先ずなんと言っても第1章から第8章までを一区切りにできます。そこでは、主イエス・キリストが何をしてくださったのか。神が私どもの救いのために何をなしてくださったのか、私どもの救いの道が明らかにされました。そして第9章から第11章までは、イスラエルの救いについて、神の救いのご計画について学びました。しかし、大きく分ければ、先週学び終えました第11章までを、神が私どものためにしてくださったことが記されているのです。そのことを「教理」と呼ぶことができます。教会の教え、救いの教えです。それなら、この第12章以下には、何が書いてあるのでしょうか。それは、救われた人間の生きる道、生活の道についてです。神さまに救っていただいた人間は、どのように生きるのか、ということです。生活であり、その実践を問うわけです。
 
 使徒パウロは今、新しく書き始める前に、一息入れなおしたと思います。あるいは、一日、ゆっくり休んで朝日を浴びながら書き始めたのかもしれません。パウロは、このように始めます。「こういうわけで」

私どもは、すでにこの御言葉に慣れ親しんでまいりました。それは、献金を集めて、いよいよ献金の祈りを捧げようとするとき、この御言葉が読み上げられるからです。時間の関係では、第2節まで読むこともあります。もしかするとそらんじられる方もおられるかもしれません。なぜ、献金の前にこれを読み上げるのでしょうか。献金をお捧げするということは、ここで言われている自分の体を捧げることの典型的な行為だからです。そしてそれは、私どもの教会の伝統から申しますと、礼拝式においてなす行為なのです。つまり、献金とは、礼拝の行為以外の何ものでもないのです。遠方に住んでおられる会員は、確かに月定献金をm郵便振替用紙を通して捧げられます。しかし、それは、ここに来れないから致し方のないことですが、しかし本来、礼拝で捧げるべきものです。そして、その仲間にとっては、郵便局に行くことも、礼拝の一つの行為なのです。「こういうわけで」と言って、勧めるのは、つまり礼拝のことでした。

しかし先ず何より、「こういうわけで」とは、どういうわけで、なのかを問いましょう。ある人は、これは、直前の内容を受けていると申します。なぜなら、ここでは、「神の憐れみによって、勧めます」とあるからです。直前まで、神の憐れみが主題となっていました。神の憐れみがイスラエルに及び、そればかりか異邦人にまで及び、すべての人にまで及ぶというのでした。そして、パウロは、心の底からこの神の憐れみを賛美し、感謝したのです。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」神の憐れみをあなた方があふれるように受けているので、思わず、「ああ」と驚きの声を挙げて、神を賛美したのです。神を賛美せざるを得ないほど、神の隠された憐れみのご計画とその富、知恵、知識を受けている人間にとって、「こういうわけで」と続いて、神を礼拝すること、それは理の当然であると続くのだという理解です。神の栄光を賛美した人間が、神を礼拝しないで終われるわけがないのです。

確かにその通りと思います。しかし、ここでの「こういうわけで」とは、むしろ、私どもが2004年の9月からのおよそ3年余り学び続けたすべての内容を受けてということではないでしょうか。第8章の結論の言葉を思い起こします。37節から39節です。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

私どもに注がれている神の愛から、いかなるものも引き離すことはできないと、パウロは喜びの雄叫びをあげました。神の憐れみと言い、神の愛と言い、要するに、私どものために神がその御子によってどれほどすばらしいことをなしてくださったのかということです。十字架の愛です。独り子を十字架の上で犠牲にしてまで、私どもを救い、罪を赦して、永遠の命を与えて、神の子としてくださったのが、私どもの神、つまり、主イエス・キリストの父なる神です。神は、わたしどもの主イエス・キリストの父であるということが、それゆえに、そういうわけで、私どもは私どもの天の父、天のお父さまと呼ぶことができるのです。このような神の愛をあふれるほど注がれている、そういうわけで、だから、こうあなたがたに勧める以外にない、あなた方もこのように勧められて、それを意外なこととは決して思わないはずでしょうとパウロはそうここで語り始めるのです。

さてパウロは、「兄弟たち。」と呼びかけます。ここで改めて読者を「兄弟」と捉えます。わたしが生まれて始めて教会に行ったとき、兄弟とか姉妹とか呼び合っているのを見て、びっくりした経験があります。教会とは、お互いを兄弟のように、姉妹のようにみなす、親しい交わりがある場所なのだと思いました。しかし、その理解では、まだ表面上のことだけです。ここでパウロが兄弟と言うとき、これは、キリストの兄弟、キリストにある兄弟姉妹ということを指しているのです。キリストの弟であり妹としていただいた者たちの集いがキリストの教会です。それは、神の憐れみ、神の愛をちゃんと受け入れ、信じて、与っているということが言わば絶対条件なのです。逆に、私どもの教会に初めて来られた方であっても、このキリストにつながっておられる方なら、兄弟、姉妹です。

今朝は、聖餐の礼典を祝います。私どもの教会は、聖餐において、開かれた教会と言ってよいのです。つまりどの教会で洗礼を授けられても、私どもと同じ信仰を告白しているのなら、この聖餐に招くからです。一緒に、与っていただきたいのです。しかしその反面、この聖餐の礼典を祝うとき、キリストの兄弟とされていないものは決してこれにあずかることはできません。まさにキリストの兄弟姉妹たちだけに限定されるのです。そうでなければ、この礼典の意味は通用しないからです。

第12章から語り始められるのは、単なる倫理、人間の生活の道が示されているのではありません。神に救われた者としての当然の生活の道が示されているのです。「こういうわけで」という神の恵み、神の救いの御業を受けた人に、パウロは兄弟たちと呼びかけて、語りかけるのです。

 パウロの語りかけは、「勧めます」となっています。これは、勧告ということです。勧告などというと人事院勧告などという言葉を思い起こされる方もおられるかもしれません。権威ある立場から当然すべきという勧めであって一定の拘束力があります。パウロは、使徒としてキリスト者の兄弟たちにまさに勧告する務めと資格を与えられている人です。それなら、権威をもって礼拝をなすことを勧告するのでしょうか。わたしもまた、一人の牧師として神の権威を帯びています。わたしは牧師とは、基本的には、すべての教会員に皆、牧師のようになって欲しいと願っているものです。牧師のようになるとは、皆が説教者になるということではなくて、牧師のように、神さまの側に立って物事を考える人になって欲しいということです。また、信仰生活を自分のことだけで、済ませてしまうのではなく、むしろ、共に生きる教会の仲間たちのことを配慮できるような大人の信仰者になって欲しいということです。少なくとも、長老、執事、あるいは伝道所委員は、牧師のように同じ志をもって生きていただかなければ、教会は健やかに前進することは難しいと思います。いつもブレーキがかかった状態であってはならないのです。例えば、キリスト者の生活の中心は、まさに主日礼拝式を捧げることにあります。かつての日本の教会は、主の日を守ることを「聖日厳守」と言いました。「厳守」とは、まさに、どんなことがあっても守るという含みがあります。最近は、聞かなくなりました。しかし、これは、いかなる時代であっても、教会が絶えず、十戒の第四戒「安息日を守って聖とせよ」を勧告し続けるべきことです。

 さて、勧告について回り道をしましたが、この言葉には、実に豊かな内容が込められています。この言葉のもともとの意味は、その人を傍らに呼び寄せて語るということです。そこから、慰めるという言葉が生じました。あるいは、私どもの神、聖霊なる神についての呼び名ともなったのです。聖霊は、私どもの弁護者です。助け主です。聖霊は、私どもを傍らに呼び寄せ、ねんごろに方って聞かせてくださる。慰めてくださるお方です。つまり、ここでの勧告とは、慰めの言葉なのです。礼拝を捧げなさいという勧めは、神の憐れみに基づく慰めの勧告なのです。さらにここからこの勧告を、説教すると訳すことも可能です。こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによって説教する。ということです。説教と言う言葉も、教会の独特の言葉です。一般の理解では、お説教、とかまさに人事院勧告ではないですが、強く叱られて、従わざるを得ない力を伴う行為でしょう。しかし、教会の説教は、違います。神の憐れみによってする慰めの行為です。神の行為です。神がなされるのです。ですから、キリストの兄弟とされた人間は、この説教を聴かないと生きていけないのです。これは、本当のことです。説教を聴かないで、キリスト者と生きれる人はいないのです。神の憐れみの言葉、慰めの言葉によって、神の傍らに招き寄せられて、命の言葉を聴くことなしに、信仰は生き生きと働き出せないのです。説教を聴かないで、礼拝や奉仕に励んだりすることはありえません。もし、それをしているのであれば、それは、神に喜ばれる礼拝でも奉仕でも何でもありません。人間の力、形式だけのことです。神に御前には通用しません。キリストの兄弟たちは、勧めを聴くことによって、自分が神の憐れみによってだけ真実に生きることができる人間であることを、繰り返し悟らされるのです。そして、まさにその神の憐れみを聞く、慰めを受けることによって真実に生きることができるのです。

 さて、この勧告そのものを見ましょう。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」ここでは、何が言われているのでしょうか。先ほどは、礼拝と申しました。その通りです。しかし言葉を換えれば、体をいけにえとしてささげること、つまり献身ということです。我々が使う言葉では、「献身的な看病」とか「献身的なお世話」とか、誰かに自分の全存在を捧げてしまうような振る舞いのことでしょう。しかし、これは教会の言葉です。実に、この献身ということは、キリスト者の基本中の基本のあり方なのです。献身についてわきまえることが、キリスト者となることと言っても言い過ぎではありません。先ほど、牧師のようになって欲しいと申しまして、それは、全員が説教できるようになるということではないと申しました。牧師のことを、しばしば献身者と呼びます。これも最近は、わたしの周りでは聞かれなくなった言葉です。かつて豊明教会との合同研修会で、献身という主題でお話しました。献身とは、キリスト者のすべてが求められていること。神の憐れみを受けた人間は、全員、献身者ということです。

 それは、キリストの献身。キリストがご自分を十字架にお捧げくださって、私どもを贖った。だから、私どもももはや、誰一人として自分のものと言い張れる人間はいないのです。もし、そう言い張るのなら、その人は、キリストと関係のない人となります。招詞で読みました、コリントの信徒への手紙一第6章にこうあります。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」あなたがたは代価を払って買い取られた。その代価こそ、主イエス・キリストのお命に他なりません。買い取られた以上、もはや、あなたがたの体は、神のもの、贖われた人間の内側には、聖霊なる神、助けぬし、慰め主なる神が宿ってさへいて下さるわけです。ですから、キリスト者とは、その体を意識的に、意思的に、志をもっておささげするのです。神の栄光を現す以外に、そのような生き方、そのような志に生きる以外にないのです。栄光が神にありますようにと賛美する人間は、ただ神の栄光のために生きるという生き方へと進む以外にないのです。これは、必然です。当然のあり方となるのです。

 ここで注意したいことがあります。私の尊敬する一人の評論家、哲学者に高橋哲哉さんがいます。かつて読書会で、靖国問題についての文書を皆様と読みました。未信者の方です。この方は、いかなる「犠牲」をも容認できないということは仰います。たとえキリスト教、聖書であっても、人間に犠牲を強いるようなことは、暴力的ではないか。危険ではないかというご指摘です。わたしは、この方に主張に教えられますがしかし、この点は、どうしてもゆずることはできません。確かに、神のために犠牲を、人の命を求めるような教えの危険性は、現代の最大級の問題です。自爆テロです。しかし、聖書は、きちんと言います。今日、御子の十字架の犠牲以外に、もはやいかなる犠牲はありえない。キリスト者が犠牲を払う、犠牲的に生きること、これは、実に尊いことです。繰り返しますが、献身する以外にキリスト者ではないわけです。しかし、そこでこそ、わきまえたい。私どもの神に捧げるものは、ただ一つのことなのです。これ以外にないのです。それは何でしょうか。感謝することです。

私どもが捧げることができるのは、キリストの十字架の犠牲、十字架における献げ物を感謝して受け入れるだけです。そしてそのとき、当然のこととして、自分自身の全存在を、自分の体を、自分のすべてを感謝の献げ物としてお捧げする以外にないのです。

「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして捧げなさい」神に喜ばれるいけにえとは、どのようなものなのでしょうか。それは、献げ物に、感謝があるかどうか。感謝が込められているかどうかです。
本日、祝う、聖餐の礼典のことを感謝の祭儀と呼びます。私どもの神への感謝を現す行為であるという意味です。聖餐の礼典とは、主イエス・キリストが、ご自身の御体を、十字架の上で神にささげた記念の業です。実は、ローマカトリック教会は、今でも、基本的な理解として、司祭が聖餐を祝うたびに、キリストの御体を神に捧げるとの理解を捨てていません。私どもは、聖餐において、牧師があらためてキリストの犠牲を捧げるなどという考えを断固、拒否します。私どもは、聖餐の礼典において、キリストがただ一度そのお命をお捧げくださり、その贖いの犠牲の実りに私どもがあずかる、受けとることであると信じています。神は、聖餐において、神の憐れみそのものでいらっしゃるキリストの御血と肉、キリストご自身をパンとぶどうジュースとによって、ふるまってくださるのです。

私どもキリスト者、教会員は、それらを食べ、飲むこと、つまり受領することによって、そこで一体、何をしているのでしょうか。私どもは、感謝をもって、自分を自分のものではなく、キリストのものですと表明しているのです。そのようにして、自分自身を捧げているのです。つまり、献身しているのです。ですから、聖餐には、礼拝する心、自分を捧げる心、自分がもはや自分のものではないと信仰を言い表している人以外にこれにあずからせるわけにはいかないのです。

ここでキリストの兄弟である人は誰かが、鮮明になる。誰でも、受けてよいわけではない。兄弟だけです。キリストの兄弟としていただいた人です。ただ単に中のよい関係、兄弟のような親しみを互いに感じているから聖餐に与れるわけではない。自分を捧げて受け入れられているかどうかを知らない人、わきまえていない人は、聖餐にふさわしくないのです。わたしの全存在は、キリストの贖い、犠牲、献げ物によってきよめられている。キリストのものとされている、ですから、大胆に恵みの御座、この食卓にあずかるのです。皆さんは、立ち上がって出向きませんが、多くの教会では、わたしのところまで皆さんが出向く、聖餐卓の前に出るのです。ひざまずくこともあります。献身することをそこで表明するのです。私どもも、少なくともそこで手を伸ばします。そのようして、自ら、神へと身を乗り出すのです。

 神に喜ばれるかどうか、その鍵になるのは、感謝しているかどうかです。そして、そこでもきちんとわきまえていなければなりません。私どもの存在そのものが、既に、キリストの故に、あるがままで神に喜ばれるものとされているという事実についてです。

「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」すぐる週の自分のわずかの歩みを振り返るだけで、自分を神にささげる「聖なるいけにえ」と考えることができるでしょうか。旧約の時代、神に捧げられる動物は、傷のないもの、病気をしていないものに限られました。最高のもの、最善のものだけが選ばれたのです。私どもは、自分を捧げると言っても、いったいどうやって神に喜ばれるような、聖なるいけにえになれるというのでしょうか。

 私どもはただ唯一のいけにえ、完全なる一回限りのいけにえとなられたキリストがおられるのです。キリストが十字架で、いけにえとなってくださったことにより、私どもは聖なるものとされ、神に喜ばれるものとされたのです。私どもが、自ら聖なるものや喜ばれるものになった、そのような生き方をして見せたからでは一切ありません。

 ここで、「生ける」とあります。生きた供え物のことです。捧げられべき動物は、病気の動物も傷のある動物もだめでした。ましてや死んだ動物など捧げることは決して許されません。私どももまた、生けるいけにえとなる。それは、何を言わんとするのでしょうか。ここでは、礼拝が問われています。つまり、生き生きとした礼拝のことです。自分が積極的に参与することです。眠たくなるような礼拝、眠ってしまうような礼拝では、神に喜ばれる礼拝になっていないのです。ここで今、神の命にあずかって、神の命に触れて、電流が流れ込むどころではない、永遠の命に接続されて奮い立つような礼拝式、それこそが、私どもが目指している礼拝、礼拝式の姿なのです。

献金のたびに、これを読むようになって久しい。私どもが自分を捧げるという局面をもっとも意識するのは、この献金においてです。子どもたちの祈りの言葉には、必ず、僕たち私たちとこの献金をお用い下さいと祈ります。献金は、献身なのです。ここでも、献金を私どもは、キリスト者、会員の務めとして理解します。ですから初めて来られた方には、わざわざ、献金のかごを回して下さいと断ります。聖餐の礼典や献金にも与れないのは、どうなのかと言う気持ちもあるでしょう。しかし、献身の思いがなければ、献金にならない。会費です。受講料でしょうか。募金になるのでしょうか。献金においても、自分の経済は、神のものとの理解をここで、繰り返し刻まれるのです。献金したから、財布に残ったお金、銀行のお金は、自分の思うように使ってよいわけはないのです。

 最後に、「なすべき礼拝」について学びましょう。新改訳聖書では、「霊的な礼拝」と訳しました。口語訳では、「あなたがたのなすべき霊的な礼拝」としました。二つをあわせて読んだのです。しかしもともとの言葉は一つです。それを直訳するとこうなります。「論理的な」です。英語では、リーズナブルと訳すものがあります。必然とか当然という意味です。論理的というところから、理性的と訳すことも可能でしょう。私どもがそのような礼拝をなすことは至極当然のことなのです。「こういうわけで」と「なすべき」とは深く共鳴しあっています。神の愛と憐れみを受けた人間であれば、神を礼拝することは当然のこと、当たり前のことなのです。自分自身を捧げること、献身することが礼拝であるのですが、私どもはそれをこの礼拝式で表現する課題を与えられています。私どものこの主日礼拝式が霊的であるかどうか、それは、ますます荘厳な式次第を整えることやオルガンとその演奏の充実、あるいは聖歌隊を整えることとは直結しません。霊的とは、「こういうわけで」という神のなしてくださった恵みの筋道がきちんと説かれ、それを正しく了解し、そしてそれに共鳴するかどうかなのです。本当に、神を礼拝することは、自分の全存在の喜び、自分の生きる目的そのもの、当然のこと、当たり前のこととすることが、霊的な礼拝となるのです。

 神を礼拝することは人間にとって、リーズナブルです。論理上の結論です。当然のことなのです。キリスト者がますます信仰に熱心になることは、至極当然のことなのです。理にかなっているのです。論理的ということです。理性的なのです。この理性的な礼拝が霊的な礼拝であって、私どもの今捧げている礼拝がそれなのです。

祈祷
 憐れみに満ち満ちておられる主イエス・キリストの父なる御神、今朝も、あなたは私どもを憐れみの御心において見ていてくださいます。ですから、御言葉を語ってくださいました。慰めを語ってくださいました。心から感謝いたします。私どもは御子のいけにえなくして罪の中に滅びる以外にありませんでした。私どもはただあなたの憐れみにすがって生きる以外に道がないのです。どうぞ、いよいよそれを認め、悟り、それだけにいよいよあなたに献身し、地上にあって礼拝の生活を深めることができますように。主の日のたびごとの私どもの礼拝式を、いよいよあなたにふさわしい礼拝式として整えてください。
アーメン。