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「新しい時代にふさわしく生きよ」

「新しい時代にふさわしく生きよ」
2007年12月9日
テキスト ローマの信徒への手紙 第12章2節② (新約聖書p291)
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
  

クリスマス・降誕祭は、我々人類の歴史にとってまさに転換点となった出来事であります。世界の歴史は二分されたからです。西暦は、その理解に基づいてあらわされた暦に他なりません。つまり、紀元前と紀元後という分け方です。何をもって、前後を分けたのでしょうか。それこそが、クリスマスの出来事でした。神の御子が、マリアのお腹に宿られ、時満ちて赤ちゃんを出産する、御子がイエスと名付けられる人間となってこの地上に来られた出来事です。その降誕の出来事によって、BCとADという名称がつけられました。ビフォー・クライスト(キリスト以前と言う意味)とアンノ・ドミネ(主の年、主なるイエスさまが、王として支配する年という意味)です。主イエスがお生まれになったことこそは、まさに言葉の正しい意味で、歴史を画する、区切ることでした。人類の歴史においてまさに画期的、決定的な区切りの瞬間、点が上から、私どもに記されたのです。天の上から大きな、まさに巨大な点、ポイントが打ち込まれたのです。

使徒パウロは、これまでの第1章から第11章までのすべての議論を重ねてきた結論に基づいて、新しく語りだそうとしています。これまで語られたこととは、何でしょうか。それは、神さまがどのように私どもをお救い下さったのか、お救い下さっているのかということです。それを一言で凝縮させた言葉が、「憐れみ」であります。この神の憐れみを受けた者、つまりキリスト者として、それに応えて生きる人生、これに応えて生きる生活とは、どうあるべきなのかを、「こういうわけで」と言って、ここで高らかに宣言しているのです。

それは、二つのことと申してよいと思います。第一には、第1節、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」つまり、神を礼拝することです。自分の全存在、生活のすべてをもって神を礼拝して行くこと、ただ神の栄光のために生きることです。第二のことは、第二節で、こう言うのです。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」礼拝する人、礼拝的に生きる人は、この世に倣ってはならないのだと言うのです。

 さて、本日は、予定を変更して先週に引き続いて、2節だけを学びます。語り終えることができなかったからです。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」先週、この倣うというのは、妥協する、調子を合わせると訳されてきた言葉であると学びした。もともとの言葉のニュアンスには、型にはまる、型にあわせるということがあるのです。倣ってはならない「この世」、はまってはならないこの世とは、なんでしょうか。この世の支配のこと、考え、価値観、流行です。大勢の人たちの考え方のことです。「赤信号みんなでわたれば怖くない」ということを先週申しました。この世とは、みんなが進む道のことです。

「この世」の反対は、神の世、神の世界、神の国のことです。新しく始まった神のご支配、神の世界のことです。そこで先週は、キリスト者とされた私どもは、この世の型にではなく、洋服を例に挙げましたが、主イエス・キリストという新しい型、洗礼を受けてキリストを着る者とさせていただいたと学びました。この主イエスという洋服は、不思議な洋服であって、唯一の救い主イエスさまのサイズしかないのですが、このサイズは、まさに万人にフィットする、フリーサイズでもあるものなのです。そして、キリスト者とは、このキリストという洋服、キリストの型、主イエス・キリストというご存在と一つにされて、新しくさせられた者なのです。
 
しかし実は、ここで、「この世」と訳されている言葉は、「時間」とも訳すことのできる言葉です。「この時代」「この世代」と訳せるわけです。この世の反対は、神の世界、神の国と申しましたが、それなら、この時代、この世代の反対は何でしょうか。それは、神の時代、言い換えれば新しい時代のことです。そして、その意味で、この世とは古い時代、古い世代ということです。

そして、この新旧の時代の転換点、区切りをつけられたその中心点こそは、主イエス・キリストのご存在に他なりません。主イエス・キリストが来て下さったこと、お生まれ下さったことにより、これまでの時代は、古くなってしまったのです。新しい時代が天からもたらされ、始まったということです。

しかしこの時代の到来、時代の始まりは、言わば、この世の新しい時代の始まりとは、ここでもまったく違っています。日本では、それがよく分かります。わたしは、元号の変換の時代を牧師として過ごしました。そのときのニュースをテレビで観ました。内閣官房長官が、なにやら巻物のような紙に、「平成」と書かれたものを見せてこれは、「へいせい」と読むのだと説明したのです。このように新しい元号が変わることは、日本に住んでいる者であれば、法律によって、いやおうなしに知ることとなったのです。

横道にそれますが、私どもは、基本的に、元号を使用しません。元号とは、天皇がこの国を支配すること、天皇の時代であることを表明するための伝統だからです。それは、基本的に、私どもの信仰の理解とぶつかりますし、そもそも、憲法の精神と食い違うとわたしは考えております。

さてそれなら、主イエス・キリストによって区切られた新しい時代の始まりは、どうであったのでしょうか。それは、あまりにひっそりとしたものでした。それは、メディアに乗って、大々的に宣伝されるようなものとはまったく反対のものでした。最初に、その始まりを知らされたのは、世間から、この世から忘れられていた人々でした。つまり、夜通し羊の世話をしていた羊飼い、雇われ羊飼いたちです。彼らにこそ、主イエス・キリストの誕生の知らせが届けられたのです。

もう一つここで、違いを数えたいのです。むしろそれこそ本質的な違いです。この新しい時代の始まりは、全ての人に言わば、外側から押し付けられるようなものではまったくありませんでした。ですから、この新しい時代の始まりは、それを認めない人、それを知らない人が現実には、まだまだたくさんおられるわけです。その意味で、キリスト者とは、この新しい時代の始まりを知って、認めた人のことです。つまり、信じた人なのです。そして、この新しい時代の到来、始まりは、この人々によってしっかりと確かめられるものなのです。はっきりと確かめられてきたものなのです。

つまり、主イエス・キリストを信じるとき、そのとき、その人自身が、新しくされてしまうからです。新しい人間へと作りかえられるからです。そしてこの新しくされる人間、言葉をかえると新しく生まれる人間、神によって新しく生まれる人間によって、この新しい世界の到来、新しい世代の始まりは、鮮やかに示されているのです。そして、その人々は、この新しさ、新しい時代、神の国の始まりの証人となるのです。それが、教会の伝道に他なりません。教会が、福音を証するという行為が、神の憐れみに対応する行為なのです。応答なのです。そして、その伝道は、伝道する人間自身の存在によって、裏打ちされるのです。それは、どのようなあり方、存在の仕方なのでしょうか。パウロは、宣言します。命じます。それが、「この世に倣わない」ということです。この時代に押し流されない人間の出現が、新しい時代の始まりの証となるのです。することによるのだと申します。

いったい、この世に生きていながら、しかし、この世に倣わない、この世の型にはまらない、この世の流儀に染まらない人間、新しい人間は、どのようにして出現するのでしょうか。そのような新しい人間は、いったいどのように誕生できるのでしょうか。それこそが、「心を新たにして自分を変えていただき」なのです。心とは、理性と訳せます。これは、哲学の言葉なのですが、悟性と訳すこともできます。それは、人間の存在の全体を統御する部分のことを意味するのです。今日の医学の言葉で言ってしまえば、脳ということになるのかもしれません。人間の全存在を統御する機能であり、部分なのですから。パウロは、人間のすべてがそのような意味で、一新される、新しくされるというのです。確かに、われわれは、しばしば、世間においても、心を新しくするというような言葉を聞くことがあると思います。例えば、「心機一転する」という言葉があります。心を変えて、心を新しくして、今までの仕事に取り掛かる。あるいは、心を変えて、今までの仕事を換えてしまった新しい仕事に就くということもあります。いずれにしろ、心機一転することの必要性、重要性をこの世もまた、大切にするのです。そのような知恵があります。

それなら、ここで使徒パウロが、心を新たにするということは、自分の力で、自分の力で心の持ちよう、理性、頭脳を統御する、コントロールすることはできるのでしょうか。それは、端的に申しまして、不可能です。もしも、誰かが「自分の存在を新しくして御覧なさい。自分で、自分のモノの考え方、見方をリセットして、まった新しくなりなさい。自分の全存在を自分の頭脳ですべてコントロールして、刷新させなさい」などと言う人がいるなら、それはほとんどこのように言うことと同じです。水の中でおぼれそうな人に、向かって、「おぼれないように、しずまないように、自分の頭を自分自身の手で引き上げなさい」そんなことはありえないこと、できるわけのないことです。

それなら、「心を新たにして」とは、いかなることなのでしょうか。それは、その次の言葉、「自分を変えていただき」とワンセットです。二つは、切り離すことはできないのです。
それなら、自分を変えていただくとはどのようなことなのでしょうか。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙Ⅱ第5章17節でこう言います。極めて重要な御言葉です。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」自分を変えていただくとは、このことなのです。つまり、主イエス・キリストと一つに結び合わされ、主イエスと結合させていただくことによって、まったく新しい存在とされること、つまり新しく創造されることなのです。一人の人間が、そのような新しい存在となる。それは、可能なのでしょうか。それは、ただ神の可能性なのです。神だけがそれをなしたもうのです。

そこですぐに思い起こすことができるのは、主イエスと高齢の聖書学者ニコデモとの対話です。主イエスが、ニコデモに、人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできないと宣言されました。彼は、こんなに高齢になって、もう一度、母のお腹に入ることなどできないと、トンチンカンなことを答えました。主イエスは、新しく生まれるとは、神によって、上から生まれることであると申しました。そして、人間が神によって再び生まれる、霊的に生まれるために、どうしてもしなければならないこととして、ご自身が十字架について死ななければならないのだと予告されたのです。

主イエスが十字架にはり付けられることは、ニコデモが背負っている罪の支払う代価である命を支払うことなのです。主イエスは、ニコデモの身代わりになって罪の刑罰を受けて、死んでくださったのです。この主イエスを信じるだけで、人は、まったく新しく神によって、霊的に創造されるのです。それが新しく生まれることなのです。わたしという一人の人間がこのように新しくされる、心が新たにされるためには、常識的に考えれば、自分が一度死なければなりません。しかしまた常識的に考えれば、そうしてしまえば、もはや生き返ることはできません。ですから、一人の人間が、新しく生まれる、生まれなおすなどということは、不可能なことが分かると思います。

しかし、これは、神の可能性なのです。神が、主イエス・キリストにおいて実現してくださる救いなのです。そしてそれは、すでに起こったのです。クリスマスに御子なる神は、人間となるために、この地上に来られました。なぜ、人間となる、肉体を持つ必要があったのかと申しますと、それは、ただ一つ、肉体を持ち、その肉体において罪を犯す私どもの罪を、十字架の上で死なれることによって、罪を処分するためです。私どもの赦し、贖いのために、身代金を支払うためです。そのために、どうしても私どもと同じ肉体を持たなければならなかったのです。そして、肉体を持って、そして十字架の上で死なれました。しかもそれで終わらずに、三日目に墓を打ち破って、お甦りになられたのです。このキリストを信じるだけで、あの十字架の死と復活の命とが、信じる者に当てはめられるのです。わたし自身は死んでいない、わたし自身は復活してもいないのに、しかし、キリストの死と復活の命とが、信じる者に直ちに当てはめられるのです。それが、救いです。それが、新しくされることなのです。

パウロは、テトス書第3章5節で、同じことをこのように言い換えています。「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」キリストの2000年目に成し遂げてくださった御業、お働きは、今ここに働かれる聖霊なる神さまによって、当てはめられるのです。それは、ただ主イエスを信じるだけでなされるのです。「新たに造りかえる洗いを通して実現した」とも言います。これは、洗礼の洗い、洗礼の礼典を意味していることだと思います。信じて、洗礼を受けることによって、新しく造りかえられるのです。新しい存在となる、新しく生まれるのです。

そのような驚くべき御業が起こる時代が、始まったのです。それは、クリスマス、降誕によって始められたのです。新しい時代が始まり、その新しい時代に生きる者とされたのが、キリスト者に他なりません。キリスト者にとっては、この世、古い時代は、過ぎ去ってしまったのです。パウロは、「見よ、すべてが新しくなった」と宣言しています。

ですから、使徒パウロは、命じます。「この世に倣うな。」古い時代の当たり前とされた生き方、大勢の人々が生きてきたその生き方にあわせ、その調子に合わせ、その大流行にのっかるなと戒めているのです。新しい時代の流儀に即して生きることこそが、私どもキリスト者の責任なのです。そして、それ以外には、キリスト者として生きることができないのです。ですからパウロは、新しくされたキリスト者、教会員に向かって、どうすれば、そのような時代錯誤、時代を間違った生き方へと戻らない方法を、はっきりとここで告げるのです。伝授するのです。こうしなければ、キリスト者としては、生きれないからです。

さて、そこでこそ、私どもが良く知っている、そして、今も戦っている問題が背後にあります。それを、隠すことなどできません。それは、この古い持代、この世の流れに倣ってしまう誘惑、罪の誘惑に絶えずさらされている自分がいるということです。そして、しばしばそれに打ち負かされている自分を知っているからです。私どもは、今この瞬間でも、この誘惑から無縁ではないのです。どれほど、私どもはこの時代の、この国の時代精神、流行に翻弄され、流されてしまうことでしょうか。私どもの喜びや悲しみの基準が、この世と同じ場合であることが、いかに多いのでしょうか。そこに私どもの罪がある。私どもこそ犯す罪があるのです。

だからこそ、パウロは、命じます。「何が、神の御心であるのかをわきまえるようになりなさい。」これが、分からなければ、私どもは具体的、現実的に、キリストに倣うこと、新しい時代、キリストの支配に服することができないからです。

 さて、「わきまえる」という言葉の意味ですが、たとえば、「試金石」という言葉があります。金の品質を試すための鉱石のことです。ここでのわきまえるとは、そのように試す、あるいは取り分ける、区別するという意味があります。試金石で、たたく、あるいはこするのです。これは、激しい言葉だと思います。そこに既に、死の臭いがあると思います。これは、キリストと共に十字架に死んで、キリストと共に復活する、そのようにして、キリストに結ばれる以外には、なしえないことなのです。ここでも、決して自分の力、自分の賢さなど、まったく出る幕はないのです。神によって、上から、聖霊によって導かれる以外には、わたしども罪人は、決して、神の御心とこの世のやり方、この世の考えとを、正しく区別する、峻別することはできません。それだけに、キリスト者にとって、そして第3節で以下で集中的に取り扱う教会の生活にとって、神の御心をわきまえることが、決定的に大切なこととなるのです。

 使徒パウロは、ここでわきまえるべきことを列挙します。何が神の御心であるか、何が善いことであるか、何が神に喜ばれることであるか、そして何が完全なことであるかを知ることです。これは、単に並べているのではなく、むしろ、最初に掲げた神の御心を知るということを丁寧に展開したのです。

 善いこと。これこそ、神に連なるものです。キリスト者にとって善いことと、未信者の方々にとって善いこととがいつも同じであることにはなりません。むしろ、キリスト者にとって善いことが、未信者にとってはほとんど何の意味もないと映る場合がしばしばです。その最大のものがまた、主日礼拝式でありましょう。別に、未信者の方々とって、それがよいことであるはずがありません。あるいは、私どもの祈祷会もそうでしょう。社会に対して、なんら貢献していないと、批判されることもあるかもしれません。しかし、私どもは、最大の善いことをしている最中です。そしてこの礼拝によってこそ、神の御心を改めて悟り、御心を行って生きて行こうと毎回毎回、新しく志すのです。私どもは、この礼拝式によってこそ、この世と調子を合わせず、倣わず、むしろキリストへと型どらせられて、新しくされ続けて行くように導いていただけるのです。

次に、神の御前に善い事とは、即、神に喜ばれることに他なりません。これは、すでに第1節においても語られています。私どものウエストミンスター大教理問答の問い一にこうあります。「人間の主な、最高の目的は何であるか。」「人間の主な、最高の目的は、神の栄光をあらわし永遠に神をまったく喜ぶことである。」神を喜ぶことが私どもキリスト者、新しくされた人間の目標なのです。そうであればまた、反対から見れば、神に喜ばれる自分となることを意味しているでしょう。神を悲しませ、ひいては怒らせて、神を喜びとすることはできません。しかし、神を喜ぶことも神に喜ばれることも、根本は一つです。同じです。それは、神との正しい関係を持つことです。つまり、自分の罪を認め、嘆き、悔い改めて主イエス・キリストを信じることです。十字架のキリストを、わたしの主、王さま、救い主と信じ、従うことです。そのような信仰の行為が礼拝なのです。私どもが今あるがままで、神を真実に礼拝すること、自分の体をそのまま神にお捧げして、しかもそれが主イエス・キリストのおかげで赦され、受け入れられることを信じることなのです。私どもが神に愛され、神に喜ばれていることを認めることです。まさに大胆なことです。この罪深いわたしが、この神の敵であったわたしが、主イエス・キリストの十字架のおかげで、神に受け入れられ、喜ばれるいけにえとされていることを信じ、認めることです。それが神に喜ばれることなのです。一言で言えば、信仰です。神に喜ばれるとは信仰に生きる人間なのです。信じる人間なのです。私どもは今まさに、この礼拝式を捧げることによって、神に最も喜ばれる存在となり、喜ばれる行いをしているのです。

 次に、私どもの完全とは、何でしょうか。万一、誤解すれば、信仰の旅路は破綻しかねません。私どもキリスト者もまた、地上に生きる限りは、悩みと苦しみを避けて通ることができません。自分の愚かさや未熟の故に失敗することいったい幾たびであったかと思います。思い返せば、恥ずかしく本当に苦しくなります。そればかりか、神と隣人に罪を犯すこともあります。ですから主の日の度に、礼拝式で牧師の悔い改めの祈りに心を合わせるのです。必ず、罪を告白するのです。しかし、それでは間に合わないような罪もあるでしょう。私どもは、それほどまでに愚かで、弱く、未成熟であり、未完成なのです。そうであれば、キリスト者に完全になりなさいと、ならなければ救われないのだと誤解させたり、誤解するのであれば、まさに信仰が破船します。沈没します。それなら、ここでの完全とは、何なのでしょうか。それは、まさに信じることです。神の憐れみを信じることです。神の憐れみによってパウロは命じたのです。ですから、私どもが立つ場所、立ち上がる場所はただひとつです。それは、神の憐れみなのです。この神のあふれる慈愛、慈しみ、愛、激しい愛、はらわたをぎゅっとつかまえられるような激しい痛みを伴うような神の愛です。十字架においてあらわされた極みまでの愛です。この愛を信じることです。あなたは、神に愛されている。だから、あなたもまたそのままで、神を礼拝することができるし、招かれ、許され、求められていると信じることです。認めることです。

先週は、聖餐の礼典を祝いました。これが、神の憐れみのしるしなのです。洗礼を受けた者たちは、すでに洗礼の礼典によって、この神の憐れみを注がれ、それを受けていることのしるしを帯びています。そして、何より今朝ここで、この礼拝式でこそ、神の憐れみを兄弟姉妹方と共に受けているのです。この礼拝式にあずかること以上に、善いこと、神に喜ばれること、完全なことはないのです。そして、この礼拝式においてこそ、新しい時代の始まりを告げ、新しい神のご支配を受け、証するときはありません。このようにして、私どもは、この世に抗い、日ごとに新しくされて、天国への旅路を進み続けてゆくのであります。

祈祷
 あなたの憐れみなしには、私どもは一歩も前に進めません。しかし、主イエス・キリストの父なる御神、あなたの憐れみは、今ここで、私どもに豊かに注がれています。主イエス・キリストが私どものために、十字架についてくださったことによって、明らかにされているこの憐れみが、今私どもを生かしていてくださいます。どうぞ、そこに示されたあなたの御心をはっきりとわきまえさせてください。そして、あなた語られ、命じられた御言葉に従うことに私どもの全力を注がせてください。新しくされた者であることを信じ、そしてそれだけに、常に、新しくされ続けるために、この教会の礼拝式、祈祷会、さまざまな集会を祝福し、盛んにしてください。いよいよ、上からの力が注がれて、一人びとりの人生を礼拝する人生、神をたたえる人生へと導いてください。アーメン。