過去の投稿2008年2月3日

2月3日

☆  先週は、会員総会を無事終えることができました。感謝申し上げます。お二人の新しい委員が立てられました。信仰の歩みはお二人とも短いとはもはや言えません。しかし、「伝道所委員」としては、一年生です。お二人には、すでに日本キリスト改革派教会の「教会規程」を差し上げました。第一部:政治規準、第ニ部:訓練規定:第三部、礼拝指針から成り立っています。伝道所委員会は、楽しい会議なので(?)つい時間が超過し過ぎるきらいがありました。結果、ずるずると最初の部分で行うべき「政治規準」の学びをカットして、議題に入ることが続いてしまいました。このとき心機一転、新しい思いで、政治規準の学びを始めます。

★  この学びは、会員全員にとっても必要な学びです。目に見えない教会をこの地上に具現し、形成するためには、教会制度、秩序が不可欠です。そのために、教会自らが御言葉とそこから与えられる知恵・判断力・理性に基づいて「政治」を整えます。キリストの支配を教会に確立し、それに服するためのお互いの約束が政治規準です。これを飛び越えて、自分の主張を始めたら、教会は、たといそれがどれほど「善意」からのものであっても、教会を損なうのです。その善意を教会形成へとつなげる筋道を教会自身が整えていないからでもあります。私どもは、歴史上のそのような痛みや教訓からも、「政治規準」を整え、「長老主義政治」によって力強いキリストの教会形成にまい進するのです。

☆  規則や制度は、あくまでも外的なものです。(しかし同時に、この「外側」が整わなければ、すべての生命は存在しえません。)教会は、聖書の教え、その中核である「福音」の真理に則って、自らを改革し、そのためにこの規則を運用します。しかもその運用を、会議がするのです。(もとより伝道所には、その意味での会議を持つことができません。法治権はただ宣教教師だけが執行するのです。それを真剣に考えれば、誰でも一日も早く小会の設立を!と祈らざるを得ないはずです。)改革教会は、長老たちの会議を重んじます。それは、会議における聖霊のお働きを重んじるということです。そのためには、議員の信仰的な成熟がまさに不可欠です。そこでの成熟とは、単に個人的な信仰の経験が深まることだけではありません。共同体的、教会的形成的な経験が深まることです。まさにローマの信徒への手紙の第12章で学んでいる倫理に他なりません。どうぞ、新しい委員と委員会のために祈ってください。同時に、ご自分がこの職務に就くときに、すぐに対応できるように、よい準備を・・。

★  先週、160名余りの小論文を、読みました。B5の用紙に4枚ですから、600枚以上になるでしょうか・・・。読みながら、改めて、伝道についてさまざまに深く問われることでした。牧師となってからは、基本的には、教会に「来る人」に伝道しています。しかし、ここではまったく何の興味も持っていない学生にも(必修ですから、その数は少なくありません)、「キリスト教」を通して主イエス・キリストの福音を証しするのです。これは、伝道者としてかけがえのないよい経験を与えられているということです。最後まで、心を頑なにしてくれた?方もわずかですがおられます。しかし、圧倒的に多いのは、プラスに受け止められ、良い経験となったということです。また今回は、後期だけを受け持ったクラスがありました。前期と後期とを教えた学生たちとは、同じレポートを書かせましたが、歴然と差がありました。一年通して教えた成果は明白なのです。さらにまた、出席した多くの学生が、主日礼拝式の体験を喜んでいます。たった一回の体験で、「もう一度行って見たい。わたしでも行ってよいのだ。また機会があれば、行ってみたい・・・。」このような応答が多かったのです。このことは、諸教会が「自信をもって」伝道すべきことを意味しているでしょう。

☆  「改革派中部」に旧約聖書の短い解説が連載されています。わずかの文字数で、一書を解説することは、至難の業です。旧約聖書は、私ども教会の正典(=信仰と生活との唯一の規準)です。ところが不思議なことに、エステル記には、「主なる神」の御名じたい出てまいりません。しかし教会は、この書を、神の御言葉として受け入れました。私どもの旧約聖書解釈は、「ユダヤ教の正典解釈」とは異なります。旧約聖書には、他にも「敵を絶滅する」事件が数多く記されています。どのように読むべきでしょうか。言い古されている言葉ですが、「新約の光」で解釈することです。又、キリスト以前の「未成年」(ガラテヤ第4章!)の神の民の物語であることを、ここでも覚えていれば、エステル記を通して神の御心を豊かに聞けるはずです。今や、敵を絶滅する方法など、取れるはずがありません!