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「神に由来する権威」

「神に由来する権威」
2008年3月2日
テキスト ローマの信徒への手紙 第13章1節 
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。
神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」

本日から、第13章に入ります。私どもはローマの信徒への手紙第12章を読みながら三ヶ月に渡って礼拝式を捧げて参りました。第12章には、キリスト者として生きることは教会に生きることであることが語られてまいりました。キリスト者の生活とは教会生活であって、それは、一人ひとりがキリストの体の一部分として、一つの体である教会全体のために生きること、教会を形成するために生きることであることが語られていました。

さて、本日の第13章では、何が語られようとしているのでしょうか。それは、一言で申しますと、キリスト者として、それぞれ置かれた国や時代のなかでどのようにして生きるべきかについてです。キリスト者として国家、国家権力、言葉を換えますと政治、政治権力とどのように関わって生きることが神の御心であるのかが指し示されているのです。

その意味で、これまでのローマの信徒への手紙の中で、初めて取り扱われる分野であると言えます。言わば狭い意味での霊的な事柄を取り扱いません。私どもの目に見えない部分、信仰の心が直接語られているるわけではありません。そうなると、礼拝の説教よりも、むしろ読書会のような集会で学ぶことの方がふさわしいかもしれません。ところが使徒パウロは、ローマの教会員に、教会に生き、信仰に生きる者として、どうしても知らなくてはならないこと、欠かせない事柄として、ここで語るのです。そうであれば、私どももまた、この御言葉を、主の日の礼拝説教として学ぶことが求められているはずです。本日は、私どもの地上における歩みにおいて、教会の外での生活について、極めて重要な課題についての学びをするわけです。そして、同時に改めて確認しておきたいのです。私どもの信仰の学びとは、国家についてであろうがなかろうが、どのようなものであっても、必ず、神を賛美し、神をたたえ、礼拝を捧げることのできる知識に関わるものなのです。そうでなければ、信仰の知識、聖書の教えではないはずです。

さて、最初に、この箇所を学ぶ前置きとして、触れておくと便利な知識があります。教会の歴史を振り返りますと、教会と国家の関係について、ほとんどどの時代にも当てはまる二つの間違いがあることに気づきます。二つの極端な考え方が登場するのです。
一つは、この時代もまさにそうでしたが、当時の国家権力、それは、ローマ帝国でありローマ皇帝のことを指しますが、自分たちの存在を脅かすものでしかないその帝国の支配に対して、信仰上の理由で、武装蜂起してでも自分たちの信仰の自由を勝ち取ることが必要であるという考えです。これは、当時のユダヤ教の中にも根強くあった考え方です。

そもそも主イエスが地上に現れる150年ほど前のことです。ギリシャの王エピファネスがエルサレム神殿に、偶像を持ち込みました。律法の訓練を受けていたユダヤ人にとってそれはまさに屈辱であり、神への反抗以外の何物でもありませんでした。そこで遂に、ユダ・マカベアが立ち上がりました。彼の指導によって武装蜂起したユダヤ人たちは、65000人ものギリシャの大軍を打ち破って、エルサレム神殿を奪還したのです。この出来事はユダヤ人にとって強烈な印象と経験になりました。彼らにとってマカベアこそは、まさに英雄となったのです。しかし、その解放の時期は、短く終わってしまいます。そのようなユダヤ人にとっては、その後、政治的解放者、指導者が再び現れることへの期待はますます強まりました。イエスさまがお生まれになった当時のユダヤ人たちの社会的空気、雰囲気とは、まさにそのようなものであったのです。

例えば、福音書に登場します、イエスさまの弟子の中に熱心党のシモンがおります。熱心党とは、神に熱心であるというところからの名称ですが、単に宗教的な熱心に留まりません。神を第一とする生活を送らなければならない、純粋に礼拝生活を守らなければならないという宗教的確信に立つとき、それを果たせない政治的状況、圧迫に対して、武力をもって対抗することを選択すべきと考えていたのが熱心党というグループです。彼らは、当時のユダヤ社会の指導者である祭司たちが、結局、ローマの体制と癒着しながら、自分たちの言わば既得権益を守っていることに対しても厳しい批判をしていたのです。そのような者が、イエスさまの弟子の中に、シモンの他にもいた可能性があります。ヤコブとヨハネです。彼らは、バルヨナと言うのは、暴力主義者という意味です。雷の子と言うあだ名は、いかにも熱血漢という姿が髣髴とさせられます。 弟子たちは基本的には、皆、イエスさまをローマ帝国から解放するユダヤ人の王となられるお方と理解していました。

そして群がる群衆たちも又、イエスさまを政治的な解放者、救済者と考えていたわけです。イエスさまがローマ総督に捕らえられているのを見たとき、彼らは自分たちの期待が裏切られてしまったと考えました。それゆえに手のひらを返すようにして、イエスさまを十字架につけよと叫ぶことになります。彼らは、小さく力のない自分たちの国がしかし、神に選ばれている民であり国であることを確信していました。そのような国が、現状のままでよいわけがない、何とか、自分たちの力で、政治的な独立を果たしたい、これが、ユダヤの人々の基本的な考えでした。
やがて、紀元70年頃、ローマに対して武装蜂起して反乱します。第一次ユダヤ戦争です。しかし遂に、主イエスの預言通り、鎮圧されるばかりか、エルサレムの町は徹底的に破壊され、神殿も破壊されます。こうしてユダヤ人は、その後世界中に散らされ、領土なく生きて行くことになりました。

少し長い説明になってしまいましたが、つまり、神に逆らう国家権力に対して、剣、武力をもって対抗して、自分たちの目指す社会、国家を建ててゆこうとするあり方が一つの立場です。
さて、もう一つの立場は、これとは逆です。自分たちは永遠の命、永遠の神の国を与えられているのだから、もはや地上の国家、政治とは関係なく生きて行こう、我々は、再臨のイエスさまがすぐに来てくださるのだから、この世のことには深く関わらず、もっぱら、天国のこと、永遠のことに集中して、イエスさまの来られる日を待ち望んでいればよい、このような考えです。つまり、ある意味では、世捨て人のような生き方を求めるのです。負け犬のように世捨て人になるわけではなく、積極的な世捨て人というイメージです。

先週も学びましたが、彼らに「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」と呼びかけました。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」と命じました。一つの想像ですが、皇帝の王座のお膝元でキリスト者となった彼らの中に、このように考えたキリスト者も少なくなかったのではないかと思います。つまり、主イエス・キリストこそが唯一の主であって、主の主であるのだから、われわれの皇帝が自らを神と自称し、そればかりか、民にも神であると礼拝するように強制するカイザル、皇帝に対して、黙っていてはならないと考える者たちです。何よりも、自分の愛する仲間、肉親が迫害され、目の前で殺されてしまった。官憲の手にかかって、なぶりものにされたのです。ですから、ここでパウロが「復讐」という言葉を用いた理由も、よく分かると思います。彼らにとって、「復讐」と言うことは、頭の中でのこと、理念のことではないのです。実際の強大な誘惑だったのです。何とか報復したい、そうでなければ、神の正義が立たない。権力を誇る者たちにしたい放題にさせるなら、神がおられないということを認めさせることになると考えた者もいたのだと思います。だからこそ、使徒パウロは、ここで「復讐」について、語らざるを得なかったのでしょう。

その意味で私は、この御言葉に衝撃を覚えさせられます。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」権力の座にある者からすれば、なんと好都合な、聖書の言葉であるかと、ここだけは、心から喜んで受け入れたい言葉なのではないでしょうか。「そうだそうだ、お前たちの指導者パウロの言うとおり、我は、神の権威によって皇帝であるぞ、我に従え!」一歩間違えれば、権力者によって、自分の都合のよいように利用されかねません。

何よりも、パウロ自身、彼らの手で殺されます。いへ、使徒たちはのほとんど全員は、他ならないこの「上に立つ権威」つまりローマの国家権力の前に、その法律によって、その裁判によって殺されるのです。殉教するのです。それは、決して正しいことではありません。許されないことです。しかしそれを国家権力の名の下に犯したのです。要するに、国家による人殺しです。

いへ、キリスト者や使徒たちだけのことではありません。何よりも、主イエス・キリストを十字架で殺すことを許したのは、ローマ総督ピラトでした。イエスさまこそは、他ならないこの上に立つ権威、ローマ帝国の権力によって、正義の名の下にしかし、不義の行いで殺されたのです。

ですから、衝撃を覚えさせられるのです。目も覚めるような言葉であると思います。これは悪い冗談なのではないかとすら思えるほどです。しかし、パウロは、はっきり言っています。信仰の心を込めて、どうしても譲れないという強い思いで、教会と国家、キリスト者と国家との関係について、神の御心を示すのです。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」

実に、使徒パウロは、主イエス御自身を殺し、自分をもやがて殺すことになるこの権力、国家、国家秩序を、悪魔とかサタンであるとは考えていません。むしろその反対なのです。この国家もまた、神のご支配のもとに置かれていると確信しているのです。神によって立てられた権威である、神によって権力が与えられていると信じているのです。それは、決して国家権力に迎合したり、なびいたり、擦り寄って生きのびようとする思いからの発言ではありません。

横道にそれますが、確かに、このローマの信徒への手紙第13章の解釈、釈義の間違いによって、教会がどれほど恐ろしい罪を犯したかは、消し去ることのできない、生々しい傷跡を世界と教会は知っています。かのドイツ第三帝国、ヒトラーを総統にした国家権力は、ユダヤ人を大量虐殺し、世界を恐怖のどん底に陥れました。ドイツの教会は、このヒトラーに抵抗せず、ドイツキリスト者という新しい教会を組織して、私どもからすれば、異端へと転落してしまったのです。そのドイツの教会は、自分たちのあり方を支える聖書の言葉として、他でもないこの「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」を利用したのです。
日本の教会もまた、彼らと同じように、天皇を神と同列に並べて自分たちの礼拝や教会を組織したのです。日本の教会の場合は、この13章を支えにもせず、聖書の御言葉もなにもなく、まさに国家に迎合したわけです。ドイツの教会が、ドイツ告白教会を新しく組織して、この国家権力に抵抗し、ドイツキリスト者と対決したとき、悲しいかな私ども日本の教会のなかで、そのように戦った教会はほとんど皆無でした。まさに、国家が悪魔の虜になってしまったとき、そこに生きる教会もまた悪魔の虜、手先になりました。その意味から申しますと、日本の国家よりはるかに日本の教会の罪の方が深刻なものと言わざるを得ません。
横道にそれたついでなお横道になりますが、聖書の御言葉の解釈を間違える時、とてつもなく大きな罪と過ちを犯します。私どもは、世界の歴史を何度も塗り替えてきたのが、ローマの信徒への手紙であると学びました。信仰によって神に義とされる、罪赦される、神の恵みによって救われるという福音の教えがそこに記され、それを再発見するなら世界は動くのです。16世紀の教会の改革はまさにその典型的な実例です。すばらしい力を神の御言葉は持つのです。しかし、その逆もまた起こりうるのです。

歴史を見れば、国家が悪魔化したことは、数え切れない事実があります。権力がどれほど、サタンの誘惑にあるのかです。それなら、やはり、あの熱心党のように、実力で国家を教会の支配化に置くべきなのでしょうか。中世ローマ・カトリック教会のように、政治権力をもその掌中に収めることが教会の勝利、教会の希望、教会の目標なのでしょうか。違います。使徒パウロは、国家を悪魔とみなしません。

そもそも、国家とは、何でしょうか。何のために存在しているのでしょうか。それは、世界の平和、秩序、安定、福祉のために紙によって存在を許されているものなのです。だからこそ、パウロは、神の権威を帯び、神の権威と支配にあるとはっきりと告げているのです。国家とは、そのなかに存在する教会が、教会本来の務めを担うことができるための平和の道具なのです。人々の公共の福祉、平和のためなのです。

さて、そこでどうしても本日、皆様と読んでおきたいのは、旧約聖書、サムエル記第8章です。438ページです。
「サムエルは年老い、イスラエルのために裁きを行う者として息子たちを任命した。長男の名はヨエル、次男の名はアビヤといい、この二人はベエル・シェバで裁きを行った。しかし、この息子たちは父の道を歩まず、不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた。イスラエルの長老は全員集まり、ラマのサムエルのもとに来て、彼に申し入れた。「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」
裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。
主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」  
サムエルは王を要求する民に、主の言葉をことごとく伝えた。彼はこう告げた。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。」

長く読みました。読めばほとんど解説はいらないと思います。イスラエルにはもともと王はいませんでした。主なる神のみが彼らの王だからです。イスラエルは、他の普通の国のように、王を求めます。それは、彼らが繰り返し、偶像礼拝へと転落した罪深い心と同じ理由によるのです。
それなら、神はこの要求をどうなさったのでしょうか。実に、主なる神は、その願いを受け入れられます。もし神さまにとってそれが決定的な罪、悪であれば、神がお許しになられるはずはありません。サムエルは、この後、イスラエルの初代王になるサウルを王として任職するとき、こう言いました。「主があなたに油を注ぎ、ご自分のし業の民の指導者とされたのです。」(第10章1節)つまり、サウル王は、主ご自身がお立てになられたということです。主なる神の権威を帯びているということです。

ただし、ここで私どもの心に刻んでおきたい事があります。それは、この王の存在は、どこまでも不信仰に根ざしたということです。不信仰から出発しているということです。その意味で、この王に与えられた権威は、どこまでも限定的なものだということが分かります。これを何か積極的に広げて行くべきものではないということです。

私どもの課題は、この権力が、どこまでも神に由来することを信じることです。しかも私どもは日本においてキリストの教会を形成する使命が与えられています。日本の国は、教会やキリスト教を徹底して排除しようと企てています。国のあり方そのものに対して、教会が教会らしい発言をすることを、心底、恐れています。怖がっているのです。権力者は教会が怖いからこそ、弾圧したり、懐柔したり、操作した歴史なのです。それは、なお今日もなお続いていると思います。キリスト教的伝統のある国家であれば、キリスト者の数も多いですし、為政者自身もキリスト者であると自称することが基本であると思います。例えばアメリカの大統領選で、自分が無神論者であって、キリスト者ではないと言う候補者は、これまで現れたことはないのではないでしょうか。しかし、日本は違います。自称キリスト者であっても、やはりこの聖句を知って、また認めていると思います。しかし、非キリスト者であれば、この御言葉を認めていないでしょう。神を否定することすらあるでしょう。それなら、日本にあるキリスト者は、その為政者や政府を、神に由来しない権威と見なすのでしょうか。断じてそうではありません。

教会の頭なる主イエス・キリストは、コロサイの信徒への手紙第1章16節にこうあります。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」
今朝も、ニカヤ信条で、「すべての見えるものと見えざるものとの創造者、すべての主権を持ちたもう父なる神。」と告白しました。また、「万物は、イエス・キリストによって造られたり。」と告白しました。つまり、私どもは、イエス・キリストこそ、教会のみならず国家の主であることを確信しているのです。父なる神と御子イエス・キリストのご支配の及ばない領域は宇宙の、この地球上のいかなるところにもありません。

だからこそ、教会にとっての政治の問題は、単に、政治の問題として距離を置く姿勢ではなく、むしろ、キリストのご支配と正義が、政治によってあらわされることを祈り求めるのです。それが、私どもの祈祷会で必ず祈る祈りです。金曜日の祈り、金曜日のとりなしの祈りです。ちなみに祈祷会では、肉体の癒しのためにも祈ります。先週、嬉しい知らせを聞いて、胸をなでおろしたという思いを致したばかりです。私どもは、病を患ったときには、病院にまいります。適切な医療が受けられるようにです。しかし同時に、病院に赴く前にすることがあります。祈りです。何故、祈るのでしょうか。それは、私どもの主イエス・キリストとその父なる御神は、この肉体の主でもいらっしゃることを信じているからです。だから病のただ中でも、最も深いところでは主の平和、主なる神が与えてくださる平安に支配されることができます。時に、周りの者が驚くばかりに、主の平和に満ち満ちて、落ち着いていられるのです。

パウロが、呼びかけ命じる国家権力に従う教会、キリスト者とは、そこで、国家に負けてしまって、国家の言いなりに、なびいてしまうのでは決してありません。むしろ、私どもこそが、国家に対して、神の権威に服するようにと励まし、導くのです。彼らの権威が、神に由来することを彼らのために告げ、私どもの振る舞いによって証しするのです。そのようにしてまさにここでも、悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさいという御言葉に生きるのです。この御言葉がこのように国家に対して働くのです。

ですから、もしも国家が自らを神の立場にのし上がろうとして、教会の信仰の告白を犯すときには、教会の信仰の自由を妨げるときには、教会は、断じて国家の権威に従いません。抵抗するのです。その時には、「人に従うより、神に従うべきです。」と使徒言行録で、使徒たちが告白したとおり、神にのみ従うのです。それは、国家に反逆する行為なのではなく、むしろ、国家権力者に、神の権威に服するようにと呼びかける教会の愛の行為、呼びかけ、告白なのです。

私どもが、権威に従うことは、ただ信仰の論理によるものなのです。ですから決して盲目的な、長いものに巻かれろとか、権力に合わせた方が得になり、楽であるからだとかの理由ではありません。信仰の良心によって従うのです。ですからある時には、信仰の良心に従って、抵抗するのです。しなければならない時もあるのです。

パウロは、テモテへの手紙Ⅰ第2章1節で、このようにも言いました。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。」
私どもが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るために、王たちや高官、つまり、権威にある者たちのために祈ることを求めます。祈る人は、従う人でもあるのです。
今私どもの日本の教会は、恐ろしい状況にあります。日本国憲法の国民主権という大前提を取り払ってしまうことを企てる憲法の改悪が目指されている政治状況の中にあるからです。しかしだからこそ今、この信仰の確信に立ち続けたいのです。この国の為政者たちもまた、神に由来しなければ何の権威もありません。そしてこの国もまた、私どもの神の支配の下に置かれているのです。たとい国会に一人のキリスト者代議員がいなかったとしても、それでも、この国もまた、私どもの主なる神、イエス・キリストの支配のもとに置かれていることを信じるのです。

最後に主イエスの御言葉を聴きましょう。マタイによる福音書第10章「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」魂も体も地獄で滅ぼすことの出来るお方だけを恐れるのです。為政者たちが、深く、自分たちが神に立てられていることを悟ることができるように、私どもは彼らに従い、祈りましょう。

祈祷
迫害を受けている最中のパウロの言葉を学びました。何と言う深い、そして確かな、なによりもしたたかな信仰であろうかと思います。教会の頭にして国家の主なるイエス・キリストよ、この日本に生きる私どももこそ、この信仰にならって、国家権力に恐れ、おもねることなく、主の権威の故に、良心的に従い、彼らが立てられて神の御心を実現できるように祈らせてください。小さな私どもの教会の頭でも、いらっしゃる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。