過去の投稿2008年6月9日

6月8日

★   本日は、私は、浜松伝道所での特別伝道礼拝式のため、出張いたしております。今月は、22日には、講壇交換で、金起泰先生が来てくださいます。私は、高蔵寺教会に参ります。二回の主の日の奉仕を空けてしまいますので、とても寂しい思いです。主の日を目指して歩む、お一人おひとの信仰の旅路の上に、聖霊の励ましとお導きが豊かにありますように!  本日は、委員の奨励(牧師<説教免許取得者>以外の方の説教のことを、私どもは慣例上、奨励と呼びます。中身は、神の言葉の解き明かしですから説教です。)によって、神を礼拝いたします。奨励奉仕の準備は、日曜学校の教師方であれば、その困難さを想像できるかと思いますが、やはりその比ではない・・・と思います。今回の奨励奉仕の際、委員と特に聖書朗読について、学び、実際に、テキストを朗読していただきました。

☆  先週は、大会教育委員会で、同志社大学琵琶湖リトリートセンターにまいりました。今年の日曜学校の夏のキャンプは、昨年は台風で、できませんでした。今年こそ、「雀のお宿」と思いましたが、すでに先客がありました。そこで、キャンプ担当者の委員を中心に、施設を探し回りました。結局、近くでは見つからず、日本ホーリネス教団の琵琶湖バイブルキャンプ場に落ち着きました。しかし、今回、同志社大学の施設を見て、そのすばらしさに目をみはりました。すぐに、ここで皆さんと「一泊修養会」ができたら、どんなに良いだろうかと考えました。宿泊施設もお料理も、高級ホテルのようでした(利用したことはありませんが!)。同じように7月20-21日の日曜学校のキャンプについても、考えました。すでに6月に入り、大学生は7月には夏休みになります。しかし、ダメでもともとと利用の可否をお尋ねしました。すると、空きがあり利用可能とのこと。翌日、施設内の森の道を歩きました。なんと鹿に出会いました。はじめての経験です。帰路、足を伸ばして、予定していたバイブルキャンプ場をも見に行きました。もとより、子どもたちと大きな家族のように、肌を寄せ合うようなキャンプをすること、自炊で、皆で生活するような醍醐味を味わうには、こちらに軍配があがります。しかし、利用可能であるなら・・・。問題は、子どもたちにこのような施設を味わわせれば、次回の「お宿」をどう思うかです・・・?!。

★  昨年から続く、転勤、結婚による転出ラッシュは、これで終わりのはず。先週の委員会では、いよいよ気を引き締め、新しい名古屋岩の上伝道所の歴史を形成するための話を始めています。「開拓15周年誌」の発行のために、委員、委員が中心になって、記念誌委員会が立ち上げられると思います。全員に執筆していただきますが、ぜひ、委員会の奉仕にも多くの方が加わってください。教会の歴史を編むことは、どの教会にもできることではありません。もとより、どの教会でも、節目に記念誌を発行します。教会の歴史を記し、残すことは、およそ責任ある教会の形成を目指す教会であれば、必須のことです。ただし、その歴史は、ただ、このとき、このような集会を行いました。このとき、洗礼者が何人でした。会計がこうでしたというような、ただの記録で終わるのであれば、教会の形成、歴史の形成とはならないと思います。少なくとも不十分であると思います。教会の「歴史書」を編集するためには、その「歴史観」が求められます。わたしどもはすでに、決して小さくはない、「開拓伝道5周年記録誌」を発行しています。5年の歩みでは、「記念」誌にならないと考えました。しかし、15年は、違います。私どもが「目指した教会形成の姿」あの記録誌に記した私どもの方向性は、はたして、実ったのか、実っていないのか。御言葉に根ざし神学的に確かな歩みであったのかそうでないのか。それらは、私どもの「教会形成のあるべき姿」(聖書的教会形成・使徒的公同的教会形成⇔具体的には、「開拓の祈り」・「創立および20周年宣言」)に沿って、判定されます。その作業を、この一年をかけて、共に行うことは、今年の私どもの修養会の主題である、「岩の上の原点」を再確認し、これを揺るぎなく継承し、発展させることと一つのこととなるでしょう。名古屋地区修養会でのわたしの講演録は、祈祷会でも読みたいと思います。

☆  先日、家内と子どもが「ワトト」(ウガンダの言葉で、子どもの意)のコンサートに参りました。集会企画者の予想を超えた大盛況で、金城学院大学のホールも満席のようになったとのこと。朝日新聞のコラム「天声人語」でも触れられました。親に捨てられ、エイズで死別したりした子どもたちを宣教師が、ワトト村を建てて、生活を支援し、福音を告げました。少年少女たちは、喜びと希望に満ち溢れ、賛美を歌います。私どもの生活苦、人生苦と彼らのそれを「比べる」ことは、意味がないかもしれません。しかし、あの命の喜び、恵みへの感謝を生み出す福音の力は、私どもにも今、豊かに注がれていることを忘れないようにと思います。