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「平和、神の栄光と真実の為に」

「平和、神の栄光と真実の為に」
2008年7月13日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第15章6-9節

「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。
わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人がその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。」

さまざまなことが起こった一週間の歩みを終えて、今朝、もう一度、皆様とこの礼拝堂に集まることが許されました。神が、私どもを呼び集めてくださったからです。そして今、私どもは、キリスト・イエスと一つに結ばれて、互いに同じ思いを抱き、心を合わせ声をそろえて私たちの主イエス・キリストの父なる御神を礼拝する特権を与えられています。これにまさる幸いはありません。なぜなら、神を礼拝することこそ、私どもの人生のゴールそのものだからであります。人間がなしうる究極のこと、人間がなすべき最善、最高のことだからです。私どもは今既に、この場所でそれを行うことができているのです。そのようにして今、私どもが、人生の究極の勝利者とされていることを、心から感謝いたします。ですから、たとい先週の一週間、どんなに悲しい経験をなさった方も、どんなにつらい思いで過ごされた方も、反対に、楽しく愉快に過ごすことができた方も、今朝、私どもは等しく人生の勝利である事実に変わりがありませんし、神の祝福に満たされていることに変わりがありません。

しかし今、そのことを心深く、「アーメン」つまり、「それは本当のことです。」「それは真実です。」と告白できない方もおられるかと思います。まだ、洗礼を受けておられない方の上に、また信仰の心がなえておられる方の上に、特別に、主イエス・キリストの恵みと神の愛と聖霊の親しき交わりが与えられますようにと祈ります。そして、この礼拝式から立ち上がり、この世へと改めて派遣されるとき、神の豊かな祝福に満たされ、恵みにあずかっている自分であることを心から認め、神に「アーメン」と言って、それぞれの場所に派遣されますように。そのために神が、皆さまを豊かに憐れんでくださり、心を神に向けさせてくださり、御言葉を素直に受け入れることができますようにと心から祈ります。

さて、本日、礼拝式のために与えられた神の御言葉は、ローマの信徒への手紙第15章6節から8節までであります。第14章からここまで、使徒パウロが一生懸命、ひたすらに、集中的にローマの信徒たちに呼びかけていることとは、何でしょうか。それを一言で言えば、何でしょうか。

さかのぼって、使徒パウロは第14章で、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」と言いました。その13節で、「もう、お互いに裁き合わないようにしよう」と言いました。そして先週と先々週も学びましたように、第15章の冒頭では、「強い者は、強くない者の弱さを担いなさい」と言いました。これらの命令、勧告がなされたということは、裏を返せば、現実のローマにあるキリストの教会では、対立があったということに他なりません。何を食べての良いと主張する、信仰の強い異邦人と、いや、やはり食べ物の中には、信仰者として食べるのを控えるものがあるのだと、考えるユダヤ人キリスト者との間に、意見の相違があったわけです。そればかりか、お互いに批判しあい、裁き合った事実があったということであります。

異邦人キリスト者たちは、もともと聖書を知りません。聖書の神さまとその信仰も知らず、まことの神さまとかけ離れて生きてきました。そのような彼らが、どうして、「信仰の強い人」になれたのかと申しますと、それは、彼らの資質や何かに理由があるからではまったくありません。彼らは、旧約聖書に記されていた食物に関する掟を知らないままに生きてきた、それだけだからです。
そもそも、ユダヤ人にとって、神を礼拝する場所に、異邦人が共にいるということすら到底考えられないことでありました。ユダヤ人と異邦人とが礼拝を共にし、食事を共にするなどということは、彼らによれば、神を冒涜する行為として考えられる事態であったのです。過激なまでに、両者の間には、埋めがたい溝が、敵対関係があったのです。

しかし、今や、父なる神は、動物を犠牲にして礼拝を成り立たせるのではなく、御自身の独り子であられる神を、人間イエスとして、ユダヤ人イエスさまとして、十字架に差し出してくださいました。イエスさまは、御自らを十字架の上で、ユダヤ人の罪だけではなく、全人類の罪を償う命の代価として、ご自分の命を犠牲として差し出してくださいました。そして、父なる御神は、この御子の十字架の御業を受け入れてくださり、それゆえに、御子イエス・キリストを死者の中からお甦らせになられました。

こうして神は、主イエス・キリストによって、旧約聖書に記された契約の中の、礼拝儀式に関するすべての掟をまったく不要なものとされました。もはや、豚を食べること、血が残ったままのお肉を食べること、さまざまな旧約聖書の規定は、廃棄されたのです。もはや、イエスさまによって神への礼拝は、完ぺきに成就され、エルサレム神殿での礼拝は、不要となったからです。このようにして、主イエスさまの御業によって、一気に、新しい時代が始まったのです。今や、ユダヤ人イエスさまの救いの御業によって、誰でも、主イエス・キリストの福音を信じることによって、ユダヤ人と異邦人お互いが一つの民となることができたのです。これは、驚くべき奇跡です。人類にとって、これこそ、画期的な事件なのです。

ガラテヤの信徒への手紙第3章で使徒パウロはこう言いました。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」

教会においては、もはや、人種同士の違いや差別、男性と女性の差別、奴隷と自由人との差別、貧しい人と裕福な人との差別が克服され、キリスト・イエスにおいて一つとされているのです。信仰によって、一つの洗礼を受けて、お一人の救い主イエスさまに結ばれて、何人集まっていようが、教会は、一つなのです。これこそ、聖書のメッセージです。全人類が、一つになるのです。そこに私どもの平和があります。

エフェソの信徒への手紙第2章にこう宣言されています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

わたしは、説教の冒頭に一つの問いを立てました。使徒パウロが集中的にローマの信徒たちに呼びかけていることとは、何か。それを一言で言えば、何か、であります。それこそは、「平和」であります。主イエス・キリストによって、ユダヤ人とギリシア人つまり異邦人の間に平和が実現されました。キリストが双方を、ご自分において一人の新しい人に造り上げるという出来事です。それこそが、キリストの体なる教会の姿に他なりません。教会こそ、ユダヤ人とギリシア人とが、キリストによって一人の人になる、その一人そのもの、新しい人類共同体そのもの、一つの存在なのです。神の民ということです。ですから、そのような教会のなかで互いに裁き合うことは、激しい自己矛盾でしかないのです。私共の教会の交わりもまた、常に、キリストの平和が支配することを祈り求め、励むべきであります。

さて使徒パウロは、7節で、「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださった」と言いました。ここでの「あなたがた」とは、誰のことを指しているのでしょうか。それは、直接的には、異邦人キリスト者たちのことです。異邦人キリスト者は、もともと神の救いの約束、契約の外におりました。そのような罪人だったのです。しかし、イエスさまによって、もはや、神の民の一員とされたのです。

使徒パウロは、そのように異邦人が救われたことを、キリストが神の栄光のためになさったことだと申しました。
ここで、「神の栄光のために」という言葉が出てきたことに、おそらく私ども名古屋岩の上教会の者たちなら、誰でも、反応を示されるはずであります。私どもの教会は、「ただ神の栄光のために」と言い交わしながら、生きてまいりましたし、これからもそうあるべきでしょう。これは、教会堂に刻んでしまった言葉なのですから。Soli Deo Gloria!ソリ・デオ・グロリア!という言葉は、名古屋岩の上教会の基本姿勢なのです。いへ、私どもだけのものではまったくありません。これこそ、キリスト者の生活スタイル、人生の方向性、目的であると聖書に教えられ、2000年間、世々の先輩たちから受け継いだ教えだからであります。人生の主な目的は、神の栄光を現すことなのです。

そして、まさにそのような栄光をあらわす究極の行為こそ、今、私どもがここでなしていることに他なりません。一人ひとりまったく別別の人格、人間、それぞれまったく異なる人生を歩んで来たおひとりおひとりが、子どもも大人も、男性も女性も、ここでキリスト・イエスと結ばれ、一つになって、神を礼拝すること、これこそ神の栄光を最高に、最大に現すことに他なりません。それが、私どもがなしうる神の栄光を現す行為です。

しかし使徒パウロはここで、このような「私どもの」神の栄光を現す行為を言うのではありません。実に、キリストご自身が、主イエス・キリストが神の栄光を現すために、私ども異邦人を受け入れてくださったことと言うのです。受け入れるとは、キリストご自身へと受け入れることです。そしてこのキリストは、ユダヤ人です。ユダヤ人としてお生まれになられた約束の救い主、神の独り子なのです。このイエスさまに受け入れられたなら、私どもはキリストの兄弟とされるのです。キリストの弟として受け入れられるのです。キリストの妹として受け入れられるのです。そのようにして、神の独り子の兄弟として、受け入れられるのです。つまり、異邦人である私ども、もともと罪人であり、神の刑罰と呪いを受けるべき人間が、神の恵みと憐れみを受ける人間として、御子イエス・キリストに受け入れられたのです。それは、イエスさまが、父なる神の栄光を現すための御業なのです。そのようにして、主イエスは、見事に神のご栄光を現してくださいました。

そうであれば、どれほど、神は、私どもを愛しておられるのか、よく分かるはずです。ヨハネによる福音書第3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された、それは、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」父なる神は、ご自身の栄光のために、御子を私どもに与えてくださったのです。御子イエス・キリストは、父なる神の栄光のために、率先して、喜んで、十字架で私どもの犠牲となってくださったのです。それほどまでのことをしてでも、私どもを神の子、神の民の一員にしたいと願われる神は、まさに、私どもを徹底して愛する神でなくてなんでしょう。私どもをとことんまで、命のかけて愛する、真の愛の神、愛そのものである神でなくてなんでしょう。この愛によって、罪を赦されたのです。それは、神の栄光にあずかることに他なりません。神の栄光にあずかるとは、神との交わり、神との交流、神の永遠の命を受けることです。天国の住民、神の国の民となることです。私どもは、自分の恐ろしい罪によって汚れた人間であるにもかかわらず、つまり、もはや神の栄光など受けるどころか、神の怒りだけを受けるべき人間にもかかわらず、神は、独り子だけに御自身の怒りを下し、私どもの罪の責任を取らせてくださったのです。そのようにして、私どもに神の栄光にあずかる幸せ、そしてやがて完成された神の栄光、つまり天国の希望にあふれさせてくださったのです。

そこで使徒パウロは命じます。「あなた方、異邦人キリスト者もまた、ユダヤ人キリスト者を受け入れなさい。」これは、単に異邦人キリスト者だけに呼びかけたというよりも、お互いにそうすべきであると言うことを含んでいます。しかし、アクセントは、強い者、つまり、異邦人キリスト者にかかっています。強い者にこそ、弱い者を受け入れることが求められているのです。

さて、次に、第8節の御言葉に、その最初の言葉に注目させられます。「わたしは言う。」ハッとさせられます。特に、私どものような説教者の耳を開き、眼を開かせる言葉です。なぜなら、もともと説教者とは、「神はこう仰る、神はこう言われる」と、聖書の御言葉を説き明かすのが、その務めです。神が聖書を通して宣言なさる福音の言葉を神の代理となって宣言するのが、説教であります。つまり、自分のことを語りだし、自分の考えを語りだすなら、それは、もはや説教とは言えません。しかし、ここでは使徒パウロは、鮮やかに、大胆に、「わたしは言う。」と申します。これは、踏み込んだ表現であります。パウロは、キリストに立てられた使徒という務め、教会の歴史のなかで、当時の彼らだけに負わされた務めが、使徒です。派遣された者という意味です。キリストの復活の証人として、キリストご自身が任命された教会の特別の仕え人です。そのようなパウロであるので、わたしは言うという表現が許されると言えば、それで済むのかもしれません。しかし、ここで、パウロは、特別に大切なことを言おうとしていることは、読者には、ピンと来たのではないかと思います。それなら、私どももまた、聞き耳を立てたいと思います。

わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。」
まさに、2000年前のクリスマスのとき、主イエス・キリストは、割礼ある者たち、つまりユダヤ人に仕える者として、地上にお生まれになられました。ユダヤ人に奉仕する者として、ユダヤ人の奴隷、僕となるために、父なる神のもとから送られて来てくださったのです。だからこそ、主イエスは、神のご契約、約束どおり、聖書に予告され、証しされたまさにその通り、寸分の狂いもなく、ユダヤ人として、信仰の父、神の選びの民の父、ユダヤ人の始祖アブラハムの子孫として、ユダヤ人の代表的王であるダビデ王の子孫として、この地上に誕生されました。これは、偶然ではまったくありません。そして、そこから、十字架と復活と昇天にいたるまで、完ぺきに、ことごとく旧約聖書における神の御言葉の約束は実現されました。聖書における契約は、成就されました。
実に、この約束が裏切られることはなかったのです。実に、そこにこそ、神の御言葉の真実、つまり、神の真実があります。この真実とは、アレーセイア、真理とも訳せる言葉が用いられています。旧約聖書が誤りのない神の言葉であり、神のお約束がうそ偽りがないことが、キリスト・イエスによって証明されたのです。それが、パウロが言いました、「それは、先祖たちに対する約束を確証される」ことに他なりません。神の約束は真実であり、そのようにして御言葉は真理なのです。それが、御子のこの地上にユダヤ人としてお生まれになられ、彼らの救いのために仕える、奉仕することによって完ぺき、完全に果たされたのです。実に、ユダヤ人を救うことこそ、神の歴史の完成にどうしても必要なことです。聖書に約束されているからです。そして、それは、主イエス・キリストにおいて実現しました。そのようにして、主イエスこそが、神の真理そのものとなられました。神の真実を保証し、現し、確証するお方として来られたのです。そしてその目標は、ユダヤ人の救いでは終わらず、まさにパウロが言った通り、「異邦人がその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。」私ども異邦人の礼拝のため、神をたたえる為なのです。

思い返せば、ローマの信徒への手紙の前半で集中的に語られたのは、イエス・キリストの真実によって、私ども罪人は救われるという福音の奥義についてでありました。私共、頭の天辺から足の先まで、神中心に生きるのではなく、自分中心、自分をかわいがり、相手を見下し、自分をこそ賢い者とうぬぼれ、他者の賢さや良さを認めず、認めても、自分にとって損にならない限り、認める程度でしかない、まことにわがままな罪人です。何よりも、神に従うことを嫌い、自分のやりたいように生きて行き、困ったときだけ、立ち止まって助けを求めるようなまことに自分勝手な罪人です。

しかし、そんな私共のために、主イエスは、神の御前で、完全な人間として、義なる人間、一点の罪も過ちもなく神の御前で信仰によって生きてくださったのです。この完全に罪のない、唯一の人間イエスさまだからこそ、あの十字架の死が、私共の贖いの代価となったのです。あのお方の死によってこそ、不真実極まりない、罪人の頭でしかない私どもが、救われることができるのです。何一つも善行を積んだり、難行苦行の修行をしてもいないのに、主イエスを信じる、ただそれだけで、私どもの死に至る罪が赦されました。

私共は、この手紙において、徹底的に、この信仰による救い、恵みによる救いを学びました。言葉を換えれば、主イエス・キリストの真実による救い、主イエス・キリストの信仰による私共の揺るぎなき救いの根拠があることを学びました。そうであれば今、パウロは、この手紙のもっとも大切な福音のメッセージを、「神の真実を現す」と表現することによって、おさらいしたということになるでしょう。
主イエスは、私ども異邦人を「神の栄光のために」、お救いくださいました。さらに、主イエスは、ユダヤ人を「神の真実を現すために」、お救いくださいました。こうして、それぞれをキリスト者として、神の民として一つの教会に生き、教会をつくる一人の民としてくださいました。キリストご自身が私どもの平和となって、私共を一つの民にしてくださったのであります。そうであれば、私どもの責任は明らかであります。私共は、この恵みにこたえて、このキリストの平和、神の平和をいよいよ映し出すために、教会の形成になお励むことであります。このような新しい共同体を与えられたのですから、これを心から重んじて、教会の平和をいよいよ堅固に実現してまいりたいのであります。

さて、しかし最後に、確認しておきましょう。教会の平和とは、ただどこかの宗教団体がお互いに仲良くするというような、レベルのこととは違います。そもそも、私どもはそのような一つの宗教団体として存在させられているのではありません。キリスト教会とは、キリスト教という一つの宗教の施設ではないのです。教会とは、神がご自身のご栄光のため、ご自身の真実のために、異邦人とユダヤ人とを、お互いに敵対していた人々を一つにして、平和を実現させてくださった共同体であります。そして、それは、教会だけに留まるものではありません。教会を通して世界にまことの平和を実現し、拡大するために、教会は、地上にうち建てられたのです。

そうであれば、教会が平和をこの地上に作り出すことが、その根本的な使命であることは明らかであります。神の平和は、教会を通し、キリストの王国、神の国の中心的な現われである地上の教会を通して、世界にもたらされるのです。そうであれば、私どもが、平和のために祈り、平和を作り出すために、平和を壊そうとする、ありとあらゆる悪魔の働きを見抜き、これに抵抗し、キリストの平和を実現するために、生き、働くことは、教会にとって本質的な神への奉仕となるのです。教会の政治的な働き、特に、平和を破壊し、戦争や憎しみへと転落することを阻止することは、キリスト者と教会の本質的な神奉仕となるのです。

平和の道具、それが、教会であります。平和の道具それが、キリスト者です。主キリストは、先ず、ここにいる私どものような罪人、神との平和を壊して生きてきた者たちを憐れんで、神との平和にあずからせてくださいました。そして、人と人との間の平和、共に心を合わせて一人の神に礼拝を捧げる、お互いを愛し、敬い、喜ぶ共同体、教会をお与えくださいました。しかし私共はただ、自分たちだけで、この教会における平和を喜び楽しみ、祝うだけでよいはずがありません。
第1世紀のローマの教会、信徒たちは、平和の砦なのです。21世紀も同じです。各地にある教会は、世界の平和の拠点、橋頭堡として神が建てられたものなのです。私どもの名古屋岩の上教会もまた、同じであります。日本にあっては、憲法のとりわけ第九条を守る戦いは、私共の共通の戦いであります。また、それぞれの職場、家庭、学校にあっては、キリストの平和、神の平和を作り出す愛の戦いに倦み疲れることのないように、聖霊の豊かな曽々木を受けましょう。もしも、私共が自分たちの祝福とそれだけに使命と課題とを見失えば、塩味を失った塩のように捨てられるだけであります。平和をつくる使命に生きるために、今朝、あらためて救われた恵みと使命、贖われた喜びと光栄とを、今朝、あらためて感謝し、確認いたしましょう。もう一度、平和の共同体としての私共の更なる形成と拡大とに励んでまいりましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、ご自身の御言葉の真実を現すために、御子イエスさまをユダヤ人の僕として、約束どおり、ダビデの子孫としてお送りくださいました。そして、旧約聖書の約束はことごとく成就し、あなたの救いを成し遂げてくださいました。そればかりではありません。私共は、異邦人であります。もともと、あなたの救いのお約束にはあずかっていません。それにもかかわらず、あなたは、御子イエス・キリストをお送りくださいました。イエスさまは、あなたの栄光のために、私共をお救いくださったのです。何という幸い、光栄でしょうか。ですから、私共は心の底から、神の栄光のために生きて行きたいのです。そして、ここに真実の教会を形成したいのです。平和の教会です。神の民が心を一つにする神の家、共同体です。そして、あなたは、私共にこの幸いな教会を与えてくださいました。しかし、それで終わらせてはならないことを深く悟らせてください。この世界の只中に、教会と通して平和を作らせ、実現させてください。教会の交わりが広げられますように。私共の伝道、宣教の働きを祝福し、拡大させてくださいますように。平和がこの街に、世界に実現されますように。アーメン。