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「柔和な人の幸い」

「柔和な人の幸い」
                       2009年4月5日
             マタイによる福音書 第5章1~5節
 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」

 
今朝は、私どもの教会が開拓伝道を開始して、15回目の主の日を祝っています。1994年4月3日、その主日はちょうど復活祭でしたが、あれから15年が経ったことを深い感慨をもって思い起こします。これまでの歩みをお導き下さった教会の頭なる主イエス・キリストとその父なる御神、常に傍らにいて慰め継ぐけて下さった聖霊なる神の御名を心から崇め、讃美いたします。そして、15年の歩みを重ねた教会としての責任をも思います。道半ばであることを胸に刻んで、牧会通信にも記したのですが、神に対する「最初のころの愛と行い」を保持して行きたいと思います。

今朝、私どもに与えられたみ言葉は、「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」との主イエスの祝福と約束の宣言です。ここでは、「地を受け継ぐ」と言う祝福が告げられます。私どもはすでに「幸福の教え」を三回、学んで参りました。そこで何度も強調し、学んだことは、「幸福とは何か」でした。最初の主イエスの説教からは、幸福とは天国を与えられること、天国を保証されるということを学びました。主イエスが説かれたのは、徹底して天国の教え、神の国でした。神さまがともにいてくださる天国の祝福、その幸福を、今この地上における生き方として始めなさい、それが主イエスの呼びかけ、招きでした。ところが、今朝、与えられています第三番目の祝福は、「柔和な人々は、幸いである、(なぜなら)その人たちは地を受け継ぐ」地を受け継ぐというのです。つまり、天国ではありません。この八福の教えは、第一番目と第八番目に「天の国はその人たちのものです」と宣言され、言わば、天国の幸いに挟み込まれているのです。ここでは地、つまり、私どもが今暮らしているこの現実のことを言っているのです。この世、この世界を受け継ぐ、世界を与えられるということが言われているのです。

私どもの教会の短い歩みの中でも、いくつかのエポックな出来事がありますが、その一つは、やはりこの滝の水の地に土地を購入し、同時にこの礼拝堂を神に捧げることができたことです。これは、実に大きな信仰の冒険でした。私どもはそのためにどれほど、祈りを集めた事かと思います。とりわけ、土地を求めること。これは、きわめて困難なことでした。もちろん教会堂を建てることも、個人が自分の家を建てることとは、比べられないほど困難な作業ではありますが、建物であればお金を出せば建つという面があります。しかし、土地は、ただお金があっても造り出せませんから、土地探しは、困難です。教会として将来にわたって伝道しやすい場所、つまり、目立つ場所であり、入りやすい場所でなければなりません。本当に悩みぬきました。そしてもう、ほとんどそこに定めようとした場所に、いざ交渉を始めようとしたところ、なんと、売主が、突然、売らないことになったと不動産屋さんから言われました。途方にくれてしまいました。1年以上、探しに探して結局は、そこがもっとも良いであろうと考えていた場所でしたから、もはや当分は、教会堂を建てることはできないと落胆しました。ところが、一週間経つか経たないうちに、ひとりの姉妹からこの土地のことを聴いたのです。滝の水は、開拓伝道を開始したとき、ここに教会堂が建てられたらと願った場所でした。しかし、高値の花でした。その意味で、この土地が神のものとなったことは、大きな喜びを覚えました。移転して既に6年経って、この場所が伝道に有利な場所であるとは思えません。それでも、最初に購入を考えた場所と比べれば、はるかに良い場所です。

今朝与えられた主イエスのみ言葉は、「その人たちは地を受け継ぐ」とあります。まさにこの約束が真実であることを、神は、私どもの教会に、土地と教会堂を与えて下さったことによって、示して下さった、証してくださったのです。御言葉の一つの実例を現わしてくださったのです。それだけに、私どもは、献堂式の日の感謝と喜び、そしてそこで神と人の前に誓った言葉を忘れてはならないと思います。

さて、「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」との主イエスのみ言葉は、言わば、オリジナルなイエスさまがお考えになった初めての言葉ではありません。旧約聖書の詩篇第37編にダビデが詠んだ歌があります。それを朗読したいと思います。

「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。
彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。
主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい
あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを
真昼の光のように輝かせてくださる。
沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や
悪だくみをする者のことでいら立つな。
怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうといら立ってはならない。
悪事を謀る者は断たれ/主に望みをおく人は、地を継ぐ。」

特に、詩人は、9節において、「主に望みを置く人は、地を継ぐ。」と語りました。この詩のなかに、「地を継ぐ」という言葉はあと3回も出てまいります。たたみかけるように、呼びかけているのです。11節「貧しい人は地を継ぎ」、22節「神の祝福を受けた人は地を継ぐ。」、29節「主に従う人は地を継ぎ、いつまでも、そこに住み続ける。」です。

詩人は、繰り返し、「主に信頼しなさい。主にゆだねなさい。主にまかせなさい。主を待ち焦がれよ、主に望みをおきなさい。主に従いなさい。主を避け所としなさい。」と呼びかけます。なぜなら、その人は、地を受け継ぐのだからと約束を示して、励まし、そして不信仰を戒めているのです。つまり、ここで明らかにされていること、それは、「地を受け継ぐ」人とは、ただ主なる神にのみ信頼し、神にのみより頼み、神をのみ待ち望む人のことなのです。

そうなりますと、主イエスが、「柔和な人」と語られた言葉の意味、その「柔和」とは、詩篇第37編から言いなおしますと、それは、「信仰に徹底して生きる人」のことに他なりません。これに対して、一般的に、「あの人は柔和な人だ」と言うとき、おそらくそれは、その人の性格、性質を言っているのだと思います。心優しい人のことです。けんかっ早くない人です。紛争のあるところ、言い争いのあるところで、自分を非難し、悪口を言って攻撃してくる相手に対しても、落ち着いて穏やかにしていられる人のことでしょう。しかし、聖書がここで言っている柔和とは、そのような性格、性質、人格の高さのことを第一に言っているのではないのです。

もともと信仰生活とは、人格を磨くための修養努力の道ではありません。ハイデルベルク信仰問答の問い21に「真の信仰とは、何ですか。」とあります。答えはこうです。「それは、神が御言葉によって、われわれに、現してくださったことを、みなまこととする堅固な認識だけではなく、聖霊が、福音によって、私の内に起こしてくれる、心からなる信頼のことであります。」「心からなる信頼」これが、信仰です。そして主イエスは、聖書は、信仰に生きることこれこそが柔和であり、柔和に生きる道なのだと言うのです。

ところが、信仰のない人々は、善意の気持ちからでもありましょうが、こう私どもにアドバイスしてくださることがあります。あるいは、からかい半分でこう言います。「信仰、信仰と言っても、信仰だけでは生きてゆけませんよ。現実のことをきちんとしないと。神さま神さまって、神さまに頼ってばかりではだめです。ほどほどにしなさい。信仰は心の問題、でも、食べて行くには、幸福になるためには、きちんとこの世の通りを弁えて、それにそってやりなさい。」

いいえ、残念ながら、これは、ただ真の神を知らない人だけが言うのではありません。神の民のなかからも、このような意見が語られることもあるのです。「信仰に立とう、信仰を貫こうと言っても、現実の裏付け、保証がなければ何事も始まらないではないか。時代の空気をきちんと読んで、それに適合しないと時代遅れになる。また、生活の保証があってこそ、教会生活も営めるのだから、いつでもどこでも教会第一ということでは、やって行けない。」

勿論、信仰を現実問題からの逃避の手段や理由にするような事は、決して許されません。しかし、神に「のみ」頼るのではなく、神を信じながら、同時にこの世の力、自分の力にも頼ること、これをこそ聖書は、偶像に頼ること、偶像礼拝だと指摘しているのです。ダビデも、誰よりも主イエスが仰っいます。偶像を頼りとする者は一見はなやかで繁栄するように見えても、神はその企みを「笑われる」というのです。だから、神の約束された地を受け継ぐことは出来ないのです。

そこに私ども自身への深い問いかけがあります。神からいつでも、問いかけられているのです。私どもは、神にのみ寄り頼んで生きているのかどうかということです。私どもは「はい、主なる神さま、父なる神さま、いついかなるときでも、わたしはこの世とあなたを二股にかけて生きていません。あなただけを信頼し、あなただけを主として生きています。」こう信仰を言い表すことができるでしょうか。まさにそこに私どもの信仰生活の急所があること、それは、信仰の歩みを数年でも重ねれば、誰も認めざるを得ないと思います。

さて、そこでこそ、私共が弁えていたいこと、弁えていなければならないことがあります。それは、柔和な人とは誰であるのか、誰のことであるのかということです。それは、言うまでもなく、キリスト者である私どものことです。私ども主イエスの弟子に約束された御言葉だからです。しかし、それだけで終わってはなりません。私どもがすでに繰り返し学んでいることが、ここでも、明らかにしなければなりません。つまり、キリスト者の代表は誰かという事であります。つまり、「柔和な人」とはどなたのことか、柔和のチャンピョンはどなたかということです。それは主キリスト・イエスであります。「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」この言葉を語られたのは、誰でしょうか。それは、他ならない主イエス・キリストであられます。その意味で、主イエスこそ、柔和な人のなかの柔和な人、言わば柔和のチャンピオンであられました。モーセにはるかにまさって柔和な人であられたのであります。いついかなるときも、主なる神を第一にして、従われた信仰の人です。あの荒れ野の誘惑で、三回、悪魔に試みられ、総攻撃を受けても、打倒されず、徹底して父なる神に従って、圧倒的に勝利されたのは、他ならないイエスさまでした。だから、私どもの救い主におなりになられたのです。主イエスは、人として歩まれたとき、ご自身が神の御子であるにもかかわらず、ご自身の神の力をお使いにならずに、常に、父なる神に祈り求め、徹底して聖霊の助けと力とにより頼んでおられました。

今朝の礼拝への招きの言葉を読みました。主イエスの招きの言葉です。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」主ははっきりとこのように自己紹介してくださいました。「私は柔和な者」である。徹底して信仰に生きたお方なのです。謙遜に、神を神とし、主を主として従われたお方です。

もう一か所、マタイによる福音書は、主イエスが「柔和」なお方であられることを紹介しています。それは、主イエスがエルサレムに入場される記事においてです。そのとき、主イエスは小さな子ロバに乗って、エルサレムに入られました。普通の王さまであれば、軍馬に跨がって、威風堂々と入場します。まことに勇ましく、王の王として、解放を告げる政治的な救い主としてはふさわしい演出であったかと思います。しかし、主は、その意味で滑稽とも思える、子ロバの背中に跨がって進まれたのであります。これは、主御自身預言者の言葉の成就なのであると仰っいました。「見よ、お前の王がお前の所においでになる。柔和な方で、ロバに乗り」ここでも、柔和な王と、主は自らを紹介なさったと言って良いでしょう。そして、私共は知っているのであります。このような柔和なあり方人々に自らを明らかにされた主は、ローマの百人隊にひとたまりもなく捕らえられ、笞を打たれて、十字架用の木を負わされ、最後には十字架の上にはりつけられたことをであります。柔和な者の最後がどのような者であったのか。それを我々は知っています。

ですからある人は「それ見たことか」と言うかもしれません。「この世の権力に丸腰で対抗するなど、子どもじみている。この世の権力を持っていないのであれば、しぶしぶでも仕方ないからその権力の下で生きるしかない。あるいは、自分の方で権力を獲得して、その上に出るか、どちらかなのだ。」おそらくは、世の常識的考えは、こちらの方でしょう。

しかし、私共はよく知っているはずです。私どもの救い主イエス・キリストは、十字架で殺されて終わってしまったのではありません。確かにもしも、十字架が主イエスの最後であれば、柔和に生きる者などと言っても、この世、この地においては、惨めな者、愚かな者に過ぎないでしょう。今で言えば、負け組、負け犬のようでしかないでしょう。しかし、父なる神を心から信頼し、ご自身の一切をその生命までも父なる神に委ねきって地上の歩みを全うなさった主イエスさまは、ご復活されたのであります。復活して、父なる神の右の座に着座されたのであります。そのようにして、この地上を支配し、治める真の王、王の王となられたのであります。ここにこそ真の勝利があります。ここに、柔和な者が本当に幸いであるということが見事に実証されたのです。そして、肝心要になるのは、この主イエスの勝利は、そのまま主を信じ、主と結ばれた私共の勝利、つまりキリスト者、キリストの教会の勝利とされていることを知り、信じることです。この歴史的事実とその意味を信仰によって堅固に認識し、そして心から信頼することです。

何故、この主はいついかなる時でも柔和でいらっしゃったのでしょうか。極みまで、柔和に生き抜くことがおできになられたのでしょうか。それは、このお方が強いお方だからであります。圧倒的な、真の強さをお持ちだったからです。かつて「強く、優しく」という説教を致しました。そこで、イエスさまこそが、本当に強かったので、それは優しさになり、人々に仕え、救うことがおできになったと申しました。強く、優しくあるとは、柔和であるということです。

主は、この世の権力者のするように、荒々しくエルサレムに入場なさって自分の力を誇示するためデモンストレーションする必要などまったくないのであります。真の王であり、真の実力をお持ちの主であればこそ、ひ弱な子ロバに乗ることがお出来になるのであります。何よりも死の力を滅ぼすことのお出来になる、復活の力をお持ちの本物の王であればこそ、本物の死を死なれることがおできになられたのであります。しかも、そのご自身がお持ちのはずの復活の力を一切父なる神におまかせなさって、父なる神の力に信頼なさって、ご自身を父なる神の御業に委ねきられたのであります。まさにイエス・キリストこそ、真の勝利者なのであります。

さて、主イエスは、ここにいる私どもに「あなたがた柔和な者は幸いです。」と宣言してくださいました。いったい誰のことを指して主イエスは仰ったのかとすら思います。現実の私どもは、なんと、弱く、それゆえに優しさを失って、攻撃的になっているかと恥じる者です。どうして、そうなってしまうのでしょうか。仰の歩みが中途半端なものになるのはなぜなのでしょうか。それは、自分に頼るからであります。怒りっぽくなって、自分の手で復讐、反撃、仕返しをしないではおれないといきり立つのは、主の支配を忘れているからであります。キリストに従って地上の歩みを造ることが、この世では負けてしまう、勝ち残り、生き残れない、上にあがれないと焦ってしまうことがある。それは、そこで勝利者イエス・キリストから視線をそらしているからです。

しかし、そのような私共にもかかわらずに、主イエス・キリストは、このあるがままの私共を、「柔和な人々」と呼んでくださったのです。これは、皮肉であるわけがありません。主イエスの御目には、はっきりと私共が柔和な者と映っているからです。なぜなら、ご自身の勝利、ご自身の柔和の勝利を私共にあずからせ、ご自身の勝利の内に私どもを巻き込み、ご自身の柔和を私共にかぶせてくださったからです。この王の中の王の支配の下に置いて下さって、私共をご自身の仲間にしてくださって、私共もまた小さな勝利者として下さったのです。そうであれば、まさに、私共は、小さなキリスト、小さな柔和な人でもありましょう。

主が、この地上に教会を、ご自身の教会を贖いとって下さり、教会は、この地上に誕生し、2000年の歩みを今日も継承しながら、主イエスのイメージ通りに、目にも入らないような小さな、ごく小さなからし種が、やがて空の鳥が来て枝に巣を作るほどの大きな木になったのであります。柔和が勝利をおさめはじめている、それが、真の教会がこの地上に存在していることの意味であります。

今年私共は、開拓伝道開始第15周年を祝う年としています。教会形成の戦いをなお進めます。伝道の進展に対して忍耐と希望とを持ち続ける試練の歩みと言えるかもしれません。私共の内側にその忍耐力や将来への希望があるのではありません。忍耐と希望の神が共にいてくださるからできるのです。そこに私どもの勝利は、定まっています。教会は、勝利者イエス・キリストのものだからです。主イエス御自身が、「私はこの岩の上に私の教会を建てる」と仰った故に、私共の望みは成り立ちます。私共の忍耐は無駄になりません。私共の労苦は神に覚えられているのです。つまり、柔和な人々は必ず天国と同時に地をも受け継ぐことができるのです。

何よりも、お互いに目を注ぎ続けたいことは、主イエス・キリストは、既に私共が生活しているこの地をご自身のもの、ご自身の支配する地として受け継がれているという事実です。私共が信仰の生活を営むこの地、この世界とはキリストが復活し、勝利をおさめられたこの地に他ならないのであります。この世界のすべては、キリストが支配しておられるのです。

山上の説教は、天国が近づいたことを告げる言葉です。主イエス・キリストのご支配が始まっている、天国が始まっているのです。だから、私どもは、この地上にあってその生き方を始めなければならないし、それができるのです。主が私どもをお招きになったのです。すでに天国は、教会によって、この名古屋岩の上教会においても、この地上に始まっているのです。

そこからはっきりと示されることがあります。信仰に生きるということは、この地上にあって責任を担うということです。世捨て人のようになる必要もありませんし、いへ、なってはならないのです。地を受け継ぐ者だからです。そこに教会の政治的な責任があり、ディアコニア、奉仕の課題が与えられているのです。私どもは、神からこの名古屋の地に派遣されています。この町に、皆様の遣わされている職場、学び舎、家庭に派遣され、そこで柔和に生きることへと召し出されています。その場所がどんなに困難であっても、既に主イエス・キリストが歩まれた場所です。イスラエルの地に限定しなくても良いのです。すべて人間の歩む地、しかも最も困難で、厳しい場所であっても、主が共に歩まれた場所、歩んで下さる場所だからです。ですから、私どもには望みはあります。そうであれば私共もまた、必ず勝利するのであります。そうであれば、私共は徹底的に柔和に生きて良いのであります。つまり神信頼に生き抜き、主イエス・キリストの為に生き抜いてしまって良いのです。

祈祷
教会の頭にして、柔和の主なるイエス・キリストの父なる御神、柔和に生きることが敗北ではないこと、神に信頼し、神の恵みに頼って生き抜いて裏切られることのないことを、主イエス・キリストはその御生涯、何よりも復活、昇天によって目に見せて下さいました。保証してくださいました。心から感謝申し上げます。しかし、私共の生活を省みますと、自分の一切を信仰に、神信頼にかけることの乏しい者、真に中途半端なものである姿を見ます。悲しく思います。どうぞ、あなたに信頼して、生き抜けば教会が勝利し、私共の人生が約束どおり地を受け継ぐ幸いを得ることができるとの、主イエス・キリストの御言葉を信じさせてください。信じるとおりに、歩ませてください。また、その歩みに立ち止まり、破れるときにも私共の救いの巌、救い主でありつづけて下さいますように。そして、何度も柔和な人々は幸いであるとの約束の言葉、祝福の言葉をこのような私共に語りつづけて下さいますように。