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「迫害される者の幸い-天国・永遠の命への招き-」

「迫害される者の幸い-天国・永遠の命への招き-」  
                 2009年6月14日
テキスト マタイによる福音書 第5章1~10節
 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」 
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」
「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」
「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」
「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」

主イエスが山の上に登られ、弟子たちに語られた説教を「山上の説教」と申します。山上の説教とは、一言で申しますと、主イエス・キリストが、この地上に始められた神の国において、主イエスに救われてキリスト者となった者たち、つまり、神の国における人間の生き方が描きだされたわけです。人間本来の生き方とその姿、信仰生活の筋道、つまり倫理が語られています。この山上の説教の最初の箇所を「八福の教え」と申します。キリスト者の姿を、八つの側面から描き出しています。主イエスは、ここで「幸いである。幸いな人たちよ」と八回呼び掛けられました。今朝は、その最後の箇所です。私どもは、八福の教えの教えを学び続けるなかで、今ここにいらっしゃる主イエス・キリストご自身から、あの時の弟子たちのように、「あなたがたは幸せな人である」との宣言を繰り返し聴き続けたのです。

わたしは、最近はしていないのですが、説教の冒頭で、「おめでとう」という言葉をもって、皆様に祝福を告げ、ご挨拶することがあります。この八福の教えを学んでいる今は、しませんでした。なぜなら、御言葉そのものが、直接に、「おめでとう!」と宣言しているからです。主イエス御自身が、この礼拝式に招いていただいた私どもを見つめて、「おめでとう、あなたは、幸いである。あなたは、幸いな人だね。幸福な人ですよ。」と宣言してくださるからです。その意味で、私どもは、礼拝式に出席するたびに、何度も、自分がどれほど幸せな人間であるのかを、新しく悟ることができますし、気付き直さなければならないのです。

それなら、わたしどものどんなところが、何がそんなに幸せだと仰せになるのでしょうか。主イエスは、キリストの弟子である私どものことを、「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」と見て、宣言して下さいます。

そして、その一つ一つに、どのような報いが与えられるのかも、はっきりと約束し、見せて下さいました。「心の貧しい人々」天国はあなたのものです。「悲しむ人々」あなたは慰められます。「柔和な人々」あなたは、この地を受け継ぐ、神の遺産、祝福と宝とを相続できます。「義に飢え渇く人々」神の義、救いの恵みに満たされます。「憐れみ深い人々」神の憐みをあふれるほど注がれます。「心の清い人々」神を見るという人間の究極の幸いを得ていますよ。「平和を実現する人々」天のお父さまから神の子と呼ばれています。

そのように、私どもの幸いの姿を描き出し、切々と、私どもの幸いを自覚し、認め、深め、感謝するようにと説得してくださいました。そして、私どもは、なるほど、これまで描き出されたキリスト者の姿は、言わば、この世の常識から見ても、幸いである、すばらしいことであると理解されうると思います。説得力があり、違和感は少ないのではないかと思います。

しかし、今朝の箇所は、いかがでしょうか。今朝も、教会の看板に説教題を掲げています。そこには、はっきりと「迫害」という言葉を用いました。主イエスさまの宣言された「迫害される者の幸い」としました。しかし、このような言葉を掲げるなら、伝道に生きる私どもの教会として確かに、一般の方々の耳や目に、違和感を生じさせることとなるかと思います。耳ざわりな言葉だと思います。しかし、主イエスは、八福の教えの最後で、義のために、神の正しさのために、迫害されることとなるのだと仰ったのです。そして、「天の国は、その人たちのものである。」と仰いました。報いとして天国が与えられる、これは、最初の幸いの説教における神からの報い、祝福の約束でもありました。「天の国は、その人たちのものである。」この祝福こそ、この八福の教えに共通の祝福です。言わば、最初と最後に天国の幸福が約束されているわけです。その間に示された六つの幸福の姿は、言わば、天国の幸いの具体例です。つまり、究極の幸いとは、天国、神の国に入ること、そのものにあるわけです。神の国に生きることです。そしてそれは、今のことであり、また将来のことでもあります。今ここで生きている間に、イエスさまを信じて救われることです。その人は、将来、再び主イエスさまがこの地上に戻られるときに完成される神の国に必ず、入ることができます。体が復活して魂と一つに合わせられ、完全な人、完成された人間として、この神の国の中で、神と共に、神の民と共に、永遠に生きることができるのです。これこそ、人間の究極の幸福です。そして、これこそ、本来の人間が味わうべき幸福なのです。

主イエスは、今朝、私どもを見つめ、義のために迫害されている人々は、幸いであると宣言されます。何よりも、このところでは、これまでとは、違い、ダイレクトに「あなたがたは」と、第二人称で「あなたがたは幸いである。」と仰るのです。また、このような言い方のなかで明らかにされることは、主イエスさまは、ご自身の弟子が、迫害を受けることを、当然のことと考えておられるということです。

この説教が語られたはるか後のことになりますが、使徒パウロは、若きテモテに書き送った第二の手紙の第三章一二節にこう記しました。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」キリスト者として生きようとすれば、皆、迫害を受けると言うわけです。

何よりも、山上の説教を直に聴いた、使徒ペトロは、その手紙一の第四章でこう言いました。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」火のような試練を受けることは、予想外のことではないと言うのです。パウロの語った言葉とまったく同じです。むしろ、ペトロのこの言葉の方が、主イエスの説教が、直に響いているように思います。「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」ここには、主イエスが語られた「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」との御言葉が響き渡っています。

そもそも、このマタイによる福音書が記され、編まれたのは、ペトロやパウロたちが活躍し、迫害を受け殉教したその時代に他なりません。この主イエスのみ言葉を最初に聴いた弟子たちよりも、この福音書を読んでいる教会員の方が、はるかにリアルに、びんびんと心に響き、聴きとれたはずです。彼らは、今将に、自分たちが迫害を経験しているからです。

しかしわたしは、こうも思います。この厳しい状況は、第一世紀にかぎったことではないということです。これは、時代を超えた普遍的な真理なのです。確かに、欧米の状況と日本の状況とでは、その差は著しいものがあります。あるいは、日本においても、戦前と戦後とでは、その差は著しいものがあります。しかし、いつでもどこでも、キリスト・イエスに結ばれて、ひとたびその信仰を正しく、熱心に生きようとすれば、そこでは、激しい戦い、軋轢、迫害を避けることは、神の国が完成していない限り、避けて通ることはできないのです。私どもが、生活の中で、徹底して神を第一にしようとするとき、また伝道し、福音を証ししようと励むとき、いつでも誰にでも理解され、喜ばれるということは決してありえません。むしろ、無視されたり、小馬鹿にされたり、蔭口を言われることもあるのです。

ただし、誤解してはならないと思いますが、主イエスが、ここで仰ったことは、「皆、どんどん迫害を受けなさい」と、迫害を受けることを勧めているわけではありません。迫害されることは、避けられえないことであることを、前もって仰っただけです。その意味で、今日の私どもで言えば、そのような迫害状況を作り出さないための戦いに全力を注ぐこと、これこそ、私どもの信仰の戦いの大きな側面なのです。キリスト者と教会を迫害する社会は、単に私どもを苦しめるだけではなく、すべての人々にとって、良い社会となりえないからです。しかし、何よりも、主イエスが、私どもに示されたのは、強調されるのは、むしろ報いのことです。私どもは、天の国の民とされているという究極の祝福について、この事実こそ、主イエスが私どもにその命をかけて与えて下さった祝福、救いだからです。

先週の朝の祈祷会で、一人の方が、最近会った出来事を報告されました。一人のご婦人が、今はやりの、スピリチュアルカウンセラーとなったというのです。その方は、こう仰ったそうです。自分は、クライエント、相談者にアドバイスをするけれど、自分が言っていることを自分自身は信じていないというのです。先祖のこと、前世のことなどの、聖書が言う霊、スピリットとは全く違う、世界のことです。けれども、そのことで、相談者が幸せな気分になり、心が軽くなり、楽しくなれれば、それで良いということです。

私どもは、聖書の真理を確信します。福音なくして救いはないと信じています。そして聖書が言うように、信じるなら、語るのです。ですから、信じる私どもは、福音を証し、語ります。そのとき、当然、語っている本人が信じていないと偽りです。これは、私どもの言わば最低線、最低限の倫理ではないかと思います。ところが、その方は、自分は、信じていない。

私は、それを伺いながら、決して、その人だけの、特別の問題ではないと思いました。そこに、特に日本人の問題が現れ出ていると思います。日本人は、真理を重んじません。先週も、聖徳太子の17条の憲法のことを申しました。その第一条は、「和をもって貴しとなす。」重んじられるのは、真理ではないのです。そこで言われている「和」とは、人間関係です。神の平和ではありません。人間関係だけが重んじられるということは、何を意味するのでしょうか。それは、この世だけ、生きている間だけのことが絶対とされるということです。つまり、永遠がありません。この世だけが良ければそれでよいというのは、実は、現代の刹那主義、快楽至上主義と基本的には変わりません。若い人が、自分の人生をどのように生きるべきか考え、何のために生まれ、生きて行くべきかを考えないで、その瞬間、今のこの時を楽しくやれればそれでよいとかんがえる。それは、ほめられた人間の生き方ではないと、多くの人が考えると思います。そして、それよりより優れた生き方として、多くの人が支持するのは、こういう考え方ではないでしょうか。今を、あるいは、将来を明るく楽しく過ごすために、今このときを、目標をもって、夢をもって一生懸命生きるというあり方です。

しかし、聖書の立場から見れば、どちらも同じ問題、過ちを抱えています。もとより、今この瞬間の楽しさを追求するより、将来を目指して、一生懸命頑張っている人の方が、はるかにすばらしいことで、感動的でもあります。しかし、それでもなお、同じ問題、同じ過ちを犯しているのです。それは、何でしょうか。真理をないがしろにしていることです。永遠を失っているということです。今朝の主イエスのみ言葉で申しますと、天の国を失っているということなのです。神の国で永遠に生きることこそ、人間の本来の命です。本来の祝福です。しかし、罪を犯してから、この真理を私たちは、見失いました。何よりも、罪人は、天の国は、取り上げられたのです。エデンの園から追放されたということです。それが、私たちの罪がもたらした悲惨です。天国を見失ったままなのは、天国が閉ざされてしまったからでもあるのです。

天国を失った人間は、この地上の限りある命がすべてであると考えてしまいます。この世しかありません。この世とは、せいぜい、長くても100年余りです。その生きている間にどれだけ、自己実現を果たし、自分のやりたいことをやり遂げられるか、それがすべてになるのです。

そうなれば、迫害に耐えながら生きて行くとか、さらには、主イエスの真理と信仰のために殉教するなどということは、ありえないことになります。何よりも、宗教であっても何であっても、結局、どれだけ現世利益があるのかということが求められるようになります。そして、そのような底の浅い宗教がもてはやされます。オカルトや占いやカルト宗教が、日本にはびこるのです。そして、信者が増えれば、教祖は政治の力、つまり、この世の権力の行使へと傾くことも、日本の一つの風潮なのかもしれません。

いったい日本では、真理がいつでもないがしろにされているのではないでしょうか。真理探究、追求する場として考えられているはずの大学のことを思っても、日本の大学はその最初から、和魂洋才でした。精神的なことは、キリスト教の影響を受けさせず、日本古来のもの、彼らは、それを国家神道という新しい国家がつくった宗教としました。その和の魂、日本古来の精神に立って、文明の大先輩である西欧の科学技術や諸制度を取り入れるために、帝国大学を造りました。洋才とは、西洋の技術や制度のことです。そして、それは、結局、戦前も戦後もまた変わらないと思います。大学もまた、次のステージ、就職やその他の安定したステージに立つための道具となりました。大学自身も、それを知っていて、真理探究ではなく、実学、実利の道を進みます。「産学一体」と言う言葉があります。学問は、産業に役立つ限り有効とされるのです。産業のための大学というのは、本来の大学という理念を失ってしまう危険性があるかと思います。要するに、今この時に役立つのか、幸福とは、今ここで生きている間のこと。それ以外にないのです。そうであれば、ここで主イエスが仰せられた幸いな人は、そのような人々には、結局、いったいそれらのどこが幸いなのか。もっと幸いは違うものでしょう。ということになります。

主イエスは、ここで真剣に、まさに命をかけてこの幸いを説いておられます。人間の真の幸せは、天国にあるのだ、神と共に生きることにあるのだ、神の愛と、神の祝福、神との命の交わり、それこそが、人間の幸いだと告げるのです。ところが、この幸いは、残念ながら、経験していない人には、確かに分かりません。実感がわかないのです。だから、これを求めないのです。
教会では、求道者という言葉があります。救いの道、信仰の道を求める人です。聖書を学び始める。そして主イエスにお会いする。やがて洗礼を志願して、神の民の一員になる。すばらしいことです。しかし、圧倒的に多くの人々は、求道しません。救いを求めません。聖書が言う救い、神の平和、主イエス・キリストの救い、罪の赦しを求めません。彼らが、求めているのはそのような救いではないのです。それは、この世の悩み、自分の課題、問題、苦しみからの解放です。ですから、先ほどのスピリチュアルカウンセラーが登場するのです。現代人は、心の病にかかりやすいです。誰でもかかります。キリスト者も例外ではありません。そのときに、確かな心理カウンセラー、心理セラピストの存在は、極めて有効です。もとより、薬の力も大きいです。しかし、心理カウンセラーによって、悩みや苦しみが軽減しても、あるいは、嘘のように心が軽くなり、晴れやかになっても、それでは、真の救いにはならないのです。

主イエスは、ここで迫害の幸いを言います。繰り返しますが、迫害されることそれ自体が幸いなのでは、決してありません。誰だって、嫌にきまっています。避けられるなら、どうして避けないでいるでしょうか。しかし、主イエスは、ご自分の真理、神の真理、福音の真理を証するとき、どうしても避けえないことを見抜いておられます。そのようなとき、いったいどちらに永遠があるのか、どちらに本当の幸福があるのかです。主イエスは、永遠の神、永遠の命をもっておられます。ですから、説得なさるのです。永遠を選びなさい。真理を選びなさい。わたしを選びなさいと、お語りくださるのです。

キリスト者とは、この永遠を知った人のことです。厳密に言えば、知り始めた人です。天国に入った人です。天国の味わいを知った人です。天国の幸福の味わいを知ったのです。しかし厳密に言えば、なお知り始めたに過ぎません。天国はなお完成していないからです。私どもは、今、天の国の地上における中心的な現れである教会にいるからです。天国そのものになっていませんが、その現れです。その煌めき、輝きがそこにあります。それを最も味わう時と場所が、この主日礼拝式です。ここで天国が開かれ、主イエスの御顔、父なる神の御顔を仰ぎ見ることができるからです。ここで聖霊が豊かに注がれ、私どもは、この地上にいながら、すでに主イエス・キリストと一つに結ばれ、神と共に、イエスさまと共に過ごすことができることを味わい始めているからです。それが、私どもの幸福です。その幸福に生きる者の姿がここで現わされたのです。「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「迫害される人々」私どもは、ここで挙げられたどれ一つとっても、中途半端でしかないはずです。しかし、そのすべての姿が始まっていることも事実です。もっと確かな事実です。イエスさまを信じ、出会っているからです。

まさにおめでとう!です。このおめでとう、この幸いを、いかなるものによっても奪い去らせてはなりません。売り飛ばせません。たとい、何億、何十億積まれても、信仰の生活、主イエス・キリストの救いを、天国を手放せないのです。

「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」そして「迫害される人々」ここでも、いつものように一つのことが明らかになります。これらの幸福のすべては、これらの姿を完全に備えていらっしゃるのは、主イエス・キリストであるということです。誰よりもおそろしく迫害を、十字架で受けられました。それは、私どもを天国に入れるためです。永遠の命を与えるためです。それほどまでに主イエスが与えようとしておられる祝福なのです。私どもは、なおあまりにも愚かで、鈍感です。命がけで、この世の宝、価値をすべてと思って、永遠の命を失い、滅びる私どもに立ちふさがってくださいます。しかし、その主イエスをするりとかわすようにして、ほっておいてくれ、わたしは今のこのとき、自分の納得して、楽しい生き方を行くと、言うのです。しかし、主イエスは、それが本当に楽しい生き方にならないことを、わたし以上にご存じなのです。永遠を知っておられので、神の愛と交わりの幸いを知っておられるのです。だから、私どもに近づいて下さり、教会に導いて下さり、今このようにお救い下さったのです。

本日、月報が配布されました。表紙に、ラテン語が記されています。Coram Deo!コーラム デオ、デオは神。コーラムは、面前、前という意味です。「神のみ前で。」神の御顔の前で生きるということです。この幸いに生きること、それが永遠の命に生きることです。それは、信仰なき人が、こわいな、不自由だな、リラックスできないではないか、息苦しいではないかと思うでしょう。しかし、私どもは、この礼拝式で、神の前にいるのです。そして、あなたは幸いであると祝福されているのです。おめでとうと言われるのです。そして、礼拝式の最後に祝福を告げられて、この世界へ、社会へと派遣されます。「願わくは、主が御顔をもってあなたがたを照らし、あなたがたを恵まれるように。」御顔の光は、私どもを癒し、慰め、生かすのです。恵みなのです。

永遠を失った人々のただ中で、私どもは生きています。その真ん中に、神から遣わされています。永遠や真理を求めようとしない人々には、理解されません。かえって、疎まれることがあります。そこに迫害の原因の一つがあります。しかし、私どもは、この迫害を避けることによって、隣人に永遠の命と神の愛、主イエス・キリストの交わり、天国を否定させるようなことがないようにと、心から願います。むしろ、私どもの存在、教会の存在によって、神の国の鮮やかな現れをいよいよ鮮明にして、神を求める人、永遠の命、罪の赦し、天国に生きる幸いに憧れて頂きたいのです。この世の幸いとの違いを、際だたせたいのです。そのためには、Coram Deo!を、喜びながら、噛みしめて生きることです。それが証となります。天国の、永遠の証です。そのとき、神が、選びの民を、引き寄せ、求めさせ、選ばせて下さるのです。天の国、神の国は、今将に私どものものとなっています。次の主日まで、この幸い、この喜びを抱き、また、この時と場所を目指して、祈りの隊列を組んで行進してまいりましょう。

祈祷
天の国の幸いをその命をかけて私どもに、お与えくださいました主イエス・キリストよ、天国の門を開くために、御子をお与えくださいました父なる御神、この世に生きて、私どもは、この世の和、この世の宝を失いたくないと、どっちつかずの状態の中に陥ることがあります。しかし、天の父よ、私どもの眼を開いて下さい。天国の幸福を、その喜びで圧倒して下さい。そして、あなたを選びとり、あなたを第一にさせて下さい。私ども自身のためですが、しかし、隣人のためでもあります。どうぞ、この世のことしか考えられず、絶望したり、おごり高ぶる人を、救い出してください。その責任が私どもの生き方と伝道にあることを、悟らせて下さい。今、天国の幸福に満たして下さい。アーメン。