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「私たちの心の在処」

「私たちの心の在処」
2010年2月21日
テキスト マタイによる福音書 第6章19-24節 ?
 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 今朝は、三つの教えをまとめて朗読しました。実は、最初に説教準備を始めたときには、これを一回で語る計画を立てました。しかし、直前になってやはり、二回にわけて語ることと致しました。本日は、最初と最後の説教、つまり「富は、天に積みなさい。」と「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」を学んでまいりたいと思います。

 さて最初に、「あなたがたは地上に富を積んではならない。」との御言葉に注目しましょう。もしもこの御言葉を文字通りに読むなら、キリスト者は皆、貯金や貯蓄してはならないと言っていると捉えられてしまうかもしれません。しかし、そのように教える教会はあり得ません。私どもの教会は、残念ながら十分にできていないわけですが、地上に存在するために必要な教会の維持運営のための資金、たとえば会堂の補修、将来のために貯蓄をすべきです。

先週の祈祷会でちょうど学んだところでしたが、改革派の信仰は、経済活動を世俗の行為として軽んじて来た16世紀までの教会の考えを打破しました。それ以前は、いわゆる聖職者たちは、神に仕える聖なる職務であるが、一般の信徒は、世俗を生きる者たちであって、彼らは、聖なる神の教会の中でこの聖職者たちとの交わりによって、具体的には、この聖職者が司るミサに与ることによって、自分たちの中に、神の恵み、聖さを受けることができるとされてまいりました。しかし、私どもの先達は、教会をそのように二つに分ける考えを聖書によってきちんと克服し、教会には身分の相違はないこと、あるのは、職務の違いだけであることを鮮やかに取り戻しました。

 そこから、信徒たちは、自分たちの労働、商売を神の栄光のために直接奉仕できることを悟り、そこから、新しい労働観、積極的な経済活動が始まったと言われています。わたしもこの説は、正しいだろうと納得しています。

 つまり、「あなたがたは地上に富を積んではならない。」との御言葉は、商売の禁止、貯蓄の禁止ではありえないということです。むしろ、責任をもって生きている人なら、貯蓄を勧めるのではないでしょうか。キリスト教は、決して、富を軽蔑したり、お金を汚いものだとは考えていません。

それなら、何故に主イエスは、「あなたがたは地上に富を積んではならない。」と仰っるのでしょうか。最初に答えを明らか示しておきましょう。地上にある、ありとあらゆるものを自分の「富」つまり「宝」にするとき、信仰は破綻してしまうからです。いへ、ここでは、信仰と言わない方が良いのです。信仰者であろうがなかろうが、すべての人にとって、例外なくその人生が破たんしてしまうからです。この地上にあるものを自分の宝にしてしまえば、本当の自分の人生を始めることができないからです。その意味では、先週の説教とまったく重なります。地上に富を積む生き方をしている限り、その人は、一生涯、自分じしんを生きることができなくなってしまうからなのです。

「星の王子さま」のお話しの中に、このようなお話しがあります。王子さまが、旅を続けるなかで、4番目に訪ねた星には、ひとりのビジネスマンが住んでいました。このビジネスマンは、せっかく、王子さまが訪問してきても、わき目も振らず、ひたすら足し算をしていました。タバコの火が消えていても、その火をつけ直す時間も惜しんで、働いているというのです。王子さまは、何の計算をしているのかを問い続けます。あまりにしつこく問い続けるので、彼は、根負けして、このように答えます。

「何が5億かって、ときどき空に見える、例の小さなやつがだよ。」
「蚊のこと?」
「違う、きらきら光る小さなやつさ」
「ミツバチ?」
「ちがうね。ぐうたらな連中を夢見心地にさせる、金色のやつだよ。でもまじめだからな、わたしは!夢など見てるひまはない。」
「そうか星のことだね。」

ビジネスマンは、空に輝く5億162万2731個もの星を所有しているのだと言うのです。
王子さまは、主人公である飛行士とこのような対話をしたことがあるのです。王子さまは、この飛行士に、薔薇に棘があるのは、何故なのかと質問しました。彼にとっては、大事なことは、自分の飛行機を修理することでしたから、好い加減な返事をしました。「薔薇が意地悪だからさ」この言葉に対して王子さまは、烈火のごとく怒り始め、このように手厳しく批判したことがあります。

「ぼく、赤ら顔さんとうおじさんが住んでいる星を知っているんだ。花の匂いなんか一度も嗅いだ事がない。いつもやっていることは足し算ばっかり。そのおじさんが一日中、君みたいに繰り返し言っているんだ。『大事な用がある、大事な用がある。』そう言って、ずいぶん偉そうにしているのさ。でもそんなの人間じゃない。キノコだよ。」

あのキノコ呼ばわりした原型の人が、このビジネスマンでした。
このビジネスマンは、星は美しく輝き、心に喜びやときには悲しみすら与えるこの星を5億も所有しているのに、それを、眺めたことはないのです。彼はただ星の数を帳面に書いて、銀行に預けるだけなのです。確かに彼の心はいつも星にあります。丁寧に言わなければなりません。彼には、星そのものには関心がない、興味がありません。彼の心は、ただ「銀行」にだけあるのです。帳面に記してある「数」だけが関心事なのです。

「富は、天に積みなさい。」この御言葉は、キリスト者であれば、慣れ親しんでいる表現であるかと思います。わたし自身、キリスト者からこのような言葉を何度か、直接に伺いました。とりわけ、この会堂建築の折にそうでした。自分の教会の建築のために献金することは、ごく当たり前のことです。どれほど献金しても、その人が脚光を浴びるということは、ありません。ただし、他教会の会員が献金して下さった場合は、その名を記帳し、残します。この教会の献堂においても、そのような外部献金が驚くほど捧げられました。そのとき、ある長老は、「天に富を積む」と言いました。また、私は最近、夏の休みに軽井沢に参ります。それは、ほとんどただのように、貸して頂ける場所があるからです。そうでなければ、わたしには不可能です。そこでも、「天に富を積むのですからおかまいなく」と言われています。このように、キリスト者は、天に富を積むと言う言い方を使うのです。改めて、それはどういうことを意味するのか丁寧に考えて見ましょう。

「富は天に積みなさい。」いったい、何をどうしたら富を天に積めるのでしょうか。言わば、天国銀行とでも呼べるようなものが地上にあるのでしょうか。教会に多額の献金をすれば、自動的に、天国銀行に富が増すというのでしょうか。そして天国に行った時、そこで貯蓄した分に応じて豊かな暮らしができると言うのでしょうか。わたしは、そのような天国銀行は、地上にはないと思います。いへ、天にもないと信じています。

それなら何故、主イエスは「富は天に積みなさい。」と仰るのでしょうか。そこで考えなければならないことは、人間にとって、富とは何かです。まことの富とは何なのかです。当時は、穀物が人々の富、宝でした。ですから、倉庫に小麦、大麦が沢山あれば、安心でした。しかし、食べ物は虫が食うこともあります。あるいは鉄や銅は貴重品でした。しかし、さびがついたり腐食することがあります。それなら金や銀ならそんな心配も要らない、まさに貴金属だし、大丈夫だと言っても、盗人に盗まれてしまうこともあります。「そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。」と言われた通りです。

いったい、富とは、何を意味しているのでしょうか。主イエスは仰せになられました。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」富があるところに、心がある、つまり、その人の全存在が、関心がそこに伴っている、そこにその人が一緒にいるということです。つまり、私どもの心の在処、その心が何に関心を注いでいるか、それがその人じしんの富、宝物に他ならないのです。お金や仕事、名誉、地位、それに関心のある人は、それがその人の富、財産です。しかし、まさにそのところで、主イエスは、宣言されます。人間にとってそれらは、地上にあるものは、本当の富にはならないのだ、そのような偽りの富は腐り、錆つき、盗まれ、崩れ去ってしまうのだ。天国まで持っていけないものなのだ。いへ、単にモノだけではありません。大切な友人だって、愛する妻だって、子どもだって、親だって、どんな愛する人でも一緒に天国に行ってもらうというわけにはまいりません。つまり富とは、単にモノだけではなく、その人が宝にしているもの、一番、大切に考えているもののことです。

天に宝を積むというのは、まさに比喩です。教会にする献金の額によって天国の富が決定するということではありません。富ということで言い表そうとされている事柄は、その人にとってこれ以上に大切なものはない、このために生きるという、人生の目標のことです。その人が何を目指して生きているのかということに他なりません。

ここで、主イエスは、このように仰っているのではありません。「どちらかと言えば、こちらの方が良いですよ。少なくともあなた方は、こちらを選択した方がより良い人生を、生活を送れるようになりますよ。」違います。ここでは、まさに二者択一の世界が示されているのです。あれかこれかです。どちらかを選び取るしかないし、そうしているのです。

だからこそ、主イエスは、ここでこうも仰せになられるのです。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」ここで「主人」という言葉が出て参ります。そもそも、主人という呼び名は、たった一人しかいないから主人と言うのです。二人の主人というのは、言葉のまやかしです。間違った言葉の使用法です。神と富とをバランスよく大切にすること、それは不可能です。つまり、ここでは、あなたがたは、富を主人にしてはならない、地上の富をあなたの宝、目標にしては決してならないという厳かな命令なのです。

それなら、キリスト者は、もはや、この地上で経済的な成功を収めることは禁じられているのでしょうか。言うまでもなくそれもまた、誤解です。キリスト者にとって、経済的に豊かになることが、低く見積もられているわけではありません。反対に、貧しく生きることそのものが、高く評価されるわけでもありません。どちらも価値としては中立です。ただし、もしその経済的価値を追求することが、自分の人生の目標になるのであれば、そのときは、まさに富を主人にしたことになるのです。そのとき、その人は、結局、富を利用するのではなく、富に縛られてしまう、富に利用されてしまうのです。そのようにして、人生の本当の目的も意味も知らないまま終わってしまう、終わらせられてしまうのです。その人のかけがえのない人生は、富によって消費させられてしまうのです。しかし、そもそも富とは、消費するものです。神の栄光のために、隣人のために使うべきものです。

私どもが主人にしてよいし、すべきなのは、ただお一人だけです。それは、真実の意味で、私どもの主人になれる唯一のお方です。私どもにいのちを与え、これを保って、このいのちを喜び、慈しみ、愛していてくださる主なる神、ただお一人です。私どもの真実の、本物の富、宝とは、このお方にこそある、このお方だけなのだということがここで宣言されているのです。ですから、主イエスは、
「富は天に積みなさい。」とお命じになられるのです。その理由は、最後にはっきりと語られています。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」何故ならそもそも人間の心とは、自分にとって一番価値があるものに向くのです。

私どもの心は、まさに「本音」「本心」によって動かされるのです。「本心」とは、心の本、根本と記します。心の根っこの部分、それが本心です。しかし、実は、その本心が、お金や財産、あるいは名声、つまり、この世の価値観に流され、引きずりこまれてしまっているのです。本当は、それらはその人のじしんの上っ面、上辺のことなのに、それが、まるで自分の本心であるかのように、言わば、洗脳されているだけなのです。この世間の評価、人と比べて、自分をはかるそのはかり方に徹底的に教育され、影響されてしまって、本当の本心ではなく、上っ面の本心しかみようとしないのです。

先週学んだことがここにもそのまま響いています。私どもは、隠れたところを見ておられる神、その神の前に生きることがなければ、表面的な人生で終わるのです。地上の富は、死んだ後は、その人に何にもなりません。何故なら、お金も名声も、神がそれによってその人じしんを評価してくださる価値ではないからです。私どもは、神の前に立つところから、最後の審判から、人生をスタートさせなければならないのです。それが定まらない限り、私どもの人生は、道を間違い、彷徨い、一生涯、自分探しの旅をし続け、ついには、自分と出会えずに、自分を深めることもできず、自分を知らないまま終わるのです。だからこそ、神は、聖書を通して、人生の目的をはっきりと教えて下さいます。この人生の目的がずれていたら、たとい、どんなに富を地上に蓄えても、それは、その人じしんを本当には生かすものとならないのです。

つまり、主イエスがこのようにたたみかけて語られたのは、要するに、地上の宝をあなたは永遠に所有することなどできませんよ。あなたの命は、限られていますよ、この地上でどれだけ、富を蓄えても、死の現実を越えることはできませんよ。ということです。この死という決定的な現実を無視して、そのところから今この瞬間を見直すことです。この死の現実にも耐えうるような堅固な生き方、価値ある生き方、有意義な生き方をしてはじめて、人生の勝利者となりうるのです。それが、今この瞬間に出来ていなければ、その人は、大金持ちであってもなくても、既に、人生の敗北者となってしまっているのです。

 「天に宝を積みなさい」、それは、私どもの本心が、心がどこに置かれるべきなのか、心のありようを問う、問いかけなのです。「あなたの心は、地上にありますか。天にありますか。あなたの心は地上にだけ向いていますか。天に向いていますか。」地上に関心があるのであれば、それは、空しいのです。

 私のそしてあなたの宝とは何ですか。キリスト者なら、こう言えるし、言うべきでしょう。それが本心だからです。つまり、主イエス・キリストです。主イエスこそが、わたしどもの宝なのです。

先週の朝の祈祷会で、草野牧師がヨハネによる福音書第4章の御言葉を読んで、お奨め下さいました。夜の祈祷会でも、わたしは同じテキストから語りました。ここでは、詳しくお話しする余裕がありませんが、主イエスは、こう仰いました。「父なる神の御心を行うことがご自分の食べ物なのだ」とても不思議な言葉です。具体的に言えば、そこで、ひとりのサマリアの女性が主イエスに出会い、神に出会って、救われました。そのことこそが、主イエスのご飯になったということなのです。

わたしは、そこで、こう申しました。「私どもキリスト者の存在が、主イエスにとってのおいしい食物となるのです。」これは、たとえです。お伝えしたかったことは、主イエスにとっては、私どもキリスト者の存在とは、宝そのものだということです。この宝は、既に主イエスと共にあるのです。つまり、天国にあるということです。使徒パウロはこう言いました。「私たちの国籍は天にある」主イエスが私どもと共にいらっしゃれば、まさに主イエスがいらっしゃる天に、わたしもいるということが、リアルなものとなります。 

「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」主イエスにの御言葉によれば、私どもの富のあるところに心もある。私どもが何を宝としているのか、その宝の在処が、心の在処なのです。主イエスは、人間に、私どもに、あなたの心の在処をわたしにだけ起きなさいと招かれます。何故か。そこから私どもの人生が始まるからです。上っ面だけの生き方をやめよ。自分の心の上辺だけではない。本当にあなたが望んでいる生き方は、幸いな生き方とは、死ぬときに、ああ、本当に自分は仕合せだった、そして、今まさにその幸せの究極の場所へと行くのだと思って死ぬことではないですか。それこそ、最高の人生です。人生のチャンピョンとは、このような人生観をもって生き、そして死ねることです。

 私どもの主は、イエスさまです。そしてこのイエスさまが今、いらっしゃる場所が天です。主イエスを信じ、そして従って生きることこそ、天に宝を積む行為そのものなのです。そしてその宝は、永遠です。先週の祈祷会でも学びました。私どもの地上の労働は、空しくない。それは、神と結ばれ、神と共に働くのであれば、地上の労苦は、天のエルサレム、天国の神殿に栄光と誉れをたずさえて、行けるとヨハネの黙示録第21章は明らかにしている通りです。

その意味では、献金の問題がここで問われているわけではまったくありません。もっと、広いのです。主イエスにあって生きること、御言葉に聴き従って生きることそれこそ、天に宝を積む、人間の本当にすばらしい生き方、しかもそれ以外にない、人間を人間らしくする生き方なのです。

 私どもの宝は主イエスです。このお方に喜ばれる生き方、生活を今週も祈り求めます。それが主イエス・キリストとお呼びするキリスト者の自然な生き方です。私どもは、今や、主に贖われ、救われて、神の宝物とされています。反対に私どもにとってもまた、この主イエスだけが、本当の宝、宝の中の宝です。この宝は今、天にいらっしゃる、ですから、私どもの関心もそこにあるのです。そのようにして、主イエスは、私どもが地上で揺るぎない、そして幸福な、充実した人生を生かして下さる、なんという愛のご配慮でしょうか。主イエスは、私どもから何かを奪おうとするお方ではなく、私どもを豊かにするために、この教えを与え、天に富を積めとお命じ下さったのです。主イエスは、唯一の主です。しかも、このお方だけが、私どもにそのいのちまでも捧げて、仕えて下さった、僕の中の僕なのです。この僕なる主イエスこそ、私どもの誇り、私どもの宝です。

祈祷 
 地のちりにも等しい私どもを拾い上げ、これを何にもまさる宝物として尊び、大切にしてくださる主イエス・キリストの父なる御神。私どもの宝は、あなたご自身です。主イエス・キリストこそが、私の宝です。天にまします御父よ、あなたへと私どもの心を引き上げて下さい。地上に目を留めて、地上のものに宝を見出すとき、虫がつかないように、錆つかないように、盗まれないようにと不安に落ち込みます。わたしどもはかえって、自分を生かすことができなくなります。自分を見失います。しかし、あなたはあるがままの私どもを宝としてくださるのです。この幸いにしっかりと立ち止まり、この土台をいよいよ深く掘り下げて、生きることができますように。アーメン