過去の投稿2010年5月8日

「手を触れる主イエス」

「手を触れる主イエス」
2010年5月2日
テキスト マタイによる福音書 第8章1-4節 
「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。
すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。
イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

主イエスの山の上での説教を学び終えて、今朝から第8章に入りました。マタイによる福音書は、第5章から7章までにおいて、説教するイエスさま、御言葉の説教者としての主イエス・キリストのお姿に焦点を当ててきたということができるだろうと思います。そして、今朝から始まる第8章そして第9章においては、活動するイエスさま、救い主として活動なさる主イエス・キリストのお姿に焦点を当てて記してまいります。今朝のテキストに耳を傾けながら、先週の説教がなお新しく響いてまいります。
わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。」主イエスの説教を、完全に実行なさったのは、まさに主イエス・キリストご自身であられて、今、まさに、あらためて説教者イエスさまは、その説教を現実化する、行うわけです。その姿を最初に描き出すテキスト、それが、本日の物語であります。

さて、大勢の群衆は、主イエスについて来ます。「従う」と訳されていますが、「ついて来る」と訳した方が、ふさわしいかもしれません。興味しんしんだったのです。つまり、本当に、イエスさまは語る言葉と行いとが一致しているのだろうか、それを確かめて見たいという思いが混ざって、ついて来たのだと思います。そのような思いで山を降りる群衆ですから、主イエスの御心と深く共鳴しているわけではありません。興味本位がまさっているのです。

しかし、マタイによる福音書がここで、読者に訴え、伝えようとすることは、こういうことであろうと思います。主イエスは山から降りられた。それは何故か。何のためなのか。それは、人間の生活の現場に赴いて、そこで思い悩み、生きるか死ぬかという困窮のただ中にある人々と共に生きることであった、したがって、主イエスの弟子たちは、その後について、主イエスのように行動すべきことだということであります。

さて、山を降って最初に出会ったのは、誰であったのでしょうか。それは、一人の病人です。彼は、重い皮膚病を病んでいます。この当時、この病は、極めて厳しい、過酷な運命を患者に強いていました。重い皮膚病は、伝染するもの、触るどころか近づくだけで、病原菌が伝染する恐ろしい病気であったようです。少なくともそう考えられていたのです。旧約聖書のレビ記第13章には、皮膚病にかかった人はどうすべきかが記されています。45節にこうあります。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」

患者は、まさに隔離されます。たった独りで、宿営の外に出て行かなければなりません。人の前に姿を現してはならないわけです。万一にも、人影を見るのであれば、自分の方から、「わたしは汚れています。近づかないでください。あなたが同じように汚れてしまわないように!」そう叫ぶべきことが掟として定められているのです。

彼は、病を得ただけでも、過酷な状況に陥りますが、しかしこの病は特別な苦しみを強います。それは、愛する人、家族、友人、自分が生きていた人間のぬくもり、やさしさ、それらすべてを奪われてしまうからです。まさに、最も恐れられていた病が、悲惨な現実に陥れる病がこの重い皮膚病だったのです。
山の上から降りられたイエスさまは、あえて、村や町に入って行くルートではなく、人影まばらな場所だったことが分かります。それは、まさにこの病気で苦しんでいる人たちが潜む宿営の外にこそ、主イエスは降りて行かれたのです。

するとどうでしょう。この人は、「ひれ伏して」こう言ったのです。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」群衆は、おののいたことと思います。ザァーと、身を引いたと思います。弟子たちもまた、身を引きたいところだったはずです。ところが、主イエスは、近寄るこの患者に向かって、自ら歩み寄ります。そうであれば、弟子たちもまたついて、息を止めるような思いで、主イエスの後ろから恐る恐るついて行き、この人を見つめたと思います。

この病人は、まるで山の上での主イエスの説教を聴いていたかのような信仰を表明しています。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」

しかし、ここで注目したいのは、彼は、ここで既にレビ記の掟を破っていることについてです。当然、彼も熟知していたはずです。彼は、絶対に人に近づいてはならないのです。ところが、今、彼は近づいて来たのです。それは、一方で、こういうことを意味します。彼は、イエスさまから、どんな目に遭わされても、つまりは、殺されても仕方がないような恐ろしい掟破りをしたということです。つまり、彼にしてみれば、それこそ命がけのような行動なのです。

確かに、ひれ伏したということは、主イエスを礼拝する思い、重んじる思いがあったと認めることができるでしょう。しかし、一方で、恐かったからでもあるのではないかと思います。自分がしていることは、断じて許されない行動なのです。清くして欲しいはずですが、反対に、杖で叩かれ、石を投げつけられて、半殺しのようにされる可能性だって、ないわけではないのです。まさに一か八かという思いがあってのではないかと思います。
しかし、もしもこのお方に斥けられたら、もう人生に、この世に未練もないと思いこんでいるのかもしれません。「どうぞ、助けてください。自分のこの恐ろしい、悲惨な人生からまぬかれさせてください。一目、愛する者の笑顔を見たい、もとの生活に戻りたいのです。家族のもとに帰りたい。友人たちのところに戻りたいのです。あなたさまが、わずかでも治るようにと、意志を持たれたら、わたしは治ります。そのような権威をあなたはお持ちです。」彼は、こう信じたのです。

するとどうでしょう。主イエスは、その人に手を差し伸べて、その人の体に触れたのです。そしてただちに、「わたしの意志だ、わたしの心だ、わたしの願いだ、清くなれ」とお命じになられました。

まさに驚くべきことが起こりました。重い皮膚病患者が癒されたということも、もとより驚くべきことです。しかしその前に、まさに目を疑うことが起こったのです。それは、主イエスご自身が、彼に手を差し伸べて、彼の体に触ったということです。これは、律法違反です。掟破りです。「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と重い皮膚病患者に叫ばせるのは、うつさせないためです。患者自身の責任として触らせてはならないのですし、また、逆に、第三者が近づいて触ることもまた、掟の想定を超えたことかもしれませんが、明らかにこの掟の精神を、ま正面から破ってしまう行為です。

それを弟子たちが目撃しました。群衆も遠巻きにしつつ目撃しました。本当に驚かされたに違いありません。誰よりも本人は、まさか、まさかこのお方が、自分に触れて下さる、などとは、そこまでしてくださるなどとは、夢にも思わなかったはずです。ただ結果が欲しかっただけでしょう。ただ、あなたが神に祈って欲しい、あなたがわたしが治るように願って欲しい。考えてほしい。清くする意志だけ持って下さればよいのですとだけ思ったはずです。

しかし、主イエスは、お願いもされていない行為をなさいました。触れられたのです。ここにこそ、まさに神の御心が明らかにされたのであります。

体を触ること、それは、今も、病に苦しむ人たちに最も必要なことの一つだと言われます。私どもは、病人の「手当」をする、と言います。手当、手を当てる行為、そこにすでに、自分は大切にされている。自分のために、自分の病気を治そう、痛みを和らげよう、苦しみを取り除こうとしてくれる人がいる。それがすでに、病の苦しみの多くを取り除くことにつながるでしょう。

しかし主イエスがここでなさったことは、そのような次元を越えています。命をかけるのです。律法を犯すこと一つでもユダヤ社会から、追放されてしまうこと、社会的な死に通じます。つまり、掟に命じられた通り、「宿営の外」に「独り」で住まわなければならなくなるのです。

さらには、実際にこの病に伝染して主イエスご自身が苦しまれる可能性に満ちているのです。
この物語を読んでただちに、ヘブライ人の手紙第13章を思い起こします。「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。」

主イエスが門の外で苦難に遭われました。エルサレムの城壁の外です。犯罪者が処刑される場所、ゴルゴタの丘の上であります。そこで十字架について下さったのです。ユダヤ社会から追放されたのです。地上から追放された、つまり、殺されたのです。それは、罪の中に生まれ、自ら罪に汚れてしまった私どもの罪を身代わりになって、受けるためでした。神の掟である罪の刑罰、罪ののろいを身代わりになって十字架でお受け下さったのです。

つまり、ここで、イエスさまが手を差し伸べ、患部に触れたということは、この人の全存在を、この人の悲しみ、苦しみのすべてを、いへ、何よりもこの人の最大の問題である罪の刑罰を、主イエスがまるで吸い取るようにして、引き受けてくださることを意味するのです。そして、罪とその刑罰の死がイエスさまに譲渡されたその代わりに、今度は、主イエスのいのち、主イエスの健やかさ、主イエスの正しさ、清さ、神の義が、神の救いが分け与えられたのです。つまり、ここでこの二人の間に、交換が起こったのです。起こってしまったのです。

そして言うまでもないことですが、この物語は、2000年前のエピソードの一つではありません。私ども自身に起こったことに他なりません。私どもの罪、神から受けるべき刑罰、呪い、この物語に即して言えば、私どもの汚れ、よごれ、病は、主イエスがすべて引き受けてくださったのです。吸い取られたのです。そして、その代わりに、主イエスがもっておられる神との関係における完全さ、つまり義、つまり正しさ、この物語に即して言えば、主イエスご自身の清さは、そっくりそのまま、私どもにプレゼントされたのです。そのようにして、私どもは今、主イエスに触れられ、神の子とされているのです。だから、ここで大胆にも神に近づき、礼拝を捧げることができているのです。

そしてまさにこれこそが、神の御心に他なりません。それこそが、主イエスが人となられたご目的だからです。そのためにこそ、主イエスが十字架に赴かれるのです。

山の上から降りた主イエスは、ただちに、この救いの御業を、この最も悲惨な人の上に施されたのです。
ちなみに、マタイによる福音書の最初の読者はユダヤ人です。この物語を聴いたとき、おそらく誰しもが思い起したのは、モーセのことであっただろうと思います。モーセが、シナイの山の上で、神からの契約、律法、御言葉を与えられたことです。神は、二枚の石の板に直接、掟を記されました。モーセは、喜んで、民が待つふもとに降りて行きます。しかし、彼らが、金の子牛をつくって、拝んでいるのをみて、激しく怒りました。当然のことです。そして、この石の板を粉砕してしまったのです。「あなたはわたしの他に何ものをも神としてはならない。刻んだ像を拝んではならない。」この掟が破られている現実を見て、モーセは、希望を失います。

ところがここで、主イエスは、現実の悲惨さの中にいる民のところに出向かれて、モーセの律法を、廃棄するのではなく、成就なさるのです。こうして、マタイによる福音書は、このイエスさまこそ、モーセにはるかにまさる救い主であることもまた鮮やかに読者に印象付けようとしたのです。

さて、癒されたこの人に向かって、主イエスは、私どもには不思議に思える言葉を重ねて語られます。先ず一つ目は、「誰にも話さないように気をつけなさい。」です。主イエスはこの癒しの御業を言わば公然と行われたのです。しかし、主イエスは、この癒しの奇跡を、どこかの新興宗教、教祖のように、宗教の宣伝材料にすることを、徹底して避けようとなさいます。
このことは、私どもの教会のあり方そのものにとっても、決定的な示唆を与えています。私どもは、ややもすれば、キリスト教の神さまがどれほど、すばらしく、すごい力を持っているか、それを、このような奇跡一つでも行って見せれば、立ちどころに、信者が増えるのではないか。教会に人々が押し寄せるのではないかと思います。そして、そのようなことがあれば、大々的に宣伝したくなるかと思います。

ところが、主イエスご自身はそのような方法を回避なさるのです。そこに神の御心がはっきりと示されています。主イエスは、この人の悲しみ、苦しみ、人々からつまはじきにされて生涯を終える孤独と神にまで見放されたかと思う仕打ちの前にうなだれる人を、いのちがけで愛されます。それが癒しの奇跡になります。しかし、主イエスが起こされる奇跡は、それを目当てにやって来る人々の存在を、前もって理解しておられるのです。そのような興味本位は、信仰とはかけ離れているからです。

第二のことは、主イエスは、明らかにここでレビ記の掟を自ら破られたと見ることができます。しかし、この人じしんについては、むしろ、祭司のところに行って見せなさいと、お命じになられます。それは、レビ記第13章に書いてあることを守らせたということです。この人自身には、掟を守らせるわけです。

律法をこの憐れな人を救うために破られた主イエスは、同時に、律法をお守になられるお方でもあられるのです。つまり、ここでも山上の説教におけるあの極めて重要な宣言がこだましていることに気づくことができるかと思います。第5章17節です。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

主イエスはここで見事にモーセ律法を完成されたということが分かります。主は、この人を、ただ病を癒やして終わるのではなく、きちんと社会復帰させようとするのです。そのために彼は、レビ記で命じられた通り祭司に癒されたことを見せ、認めてもらい、証明してもらう必要があるからです。主イエスの配慮は、徹底しています。中途半端なものではないのです。こうして彼は病が癒され、社会生活へと完全復帰を遂げることができたのです。

主イエスの御心とその力、権威は、まさにここに明らかにされました。そもそも、主イエスは「清くなれ」と言葉を発するだけで、命じるだけで、この人を完全に清めることがおできになられます。しかし、触られるのです。それは、本当に、この人を愛し、その愛を告げたいから、そのような神の御心を悟ってもらいたいからです。触れられるというここにこそが、御心が示されたのです。癒すのはその結果なのです。

それなら今朝、ここで、この物語によって礼拝を捧げる私どもが悟るべきこととは、何でしょうか。繰り返しますが、主イエスが、この私どもをも触れていてくださるのだという現実に気づくこと、悟ることです。主イエスとわたしの間に、あの聖なる交換が起こっていることを認めることです。それが分かれば、たとい私どもの病が癒されなくとも、病気に苦しみ、病気と戦っている真っ最中であっても、主イエスの御心、愛のお心を悟ることは、十分できます。

主イエスは今も、触られています。私どもは、触れられています。存在の根本をです。罪の暗部をです。汚れの部分をです。患部をです。自分でも触れたくないその汚い、恐ろしい部分に、主イエスが手を触れてくださり、癒してくださるのです。

そのとき、主イエスの側で何も起こらないというのでは、決してありません。出来事が起こるのです。それが、交換です。しかし、主イエスだけが、損をなさるのです。ところが、主イエスの御心は、そのような損、命を失うというまでの大損をされるにもかかわらず、それを損と思われないのです。何故か、それは、愛があるからです。私どもが、癒され、健やかに立ち上がるのなら、主イエスは、ご自分のお命を与えることを、損とは思われないのです。

今、ただちに、私どもは聖餐の礼典を祝います。そこで、パンに触れます。私どもが手を差し伸べて、パンに触れるわけです。しかし、ローマ教会のミサでは、座っている席から立ち上がり、一人ひとりが司祭のもとに近づきます。そして、最後には、自分の手で触るのではなく、司祭に口の中に入れて頂くわけです。何が言いたいかと言いますと、聖餐のパンを食する時、それは、私どもがパンに触れる、つまり、主イエスに触れるということを意味する以上に、実は、主イエスご自身が、私どもに触れて下さるときなのだと、悟りたいのです。つまり、最後にまた繰り返しますが、今朝の物語は、私どもにも起こったことですし、今まさに、それがなされる、深められる、更新して頂くのです。

祈祷
山の上から、私どもの悲しみと叫びの現実に降りて下さり、誰からも顧みられず、一人死を待つだけの憐れな病人に手を触れて下さった主イエスよ、そのようにしてただお一人、この苦しみを顧みられた主イエス・キリストの父なる御神。あなたの愛の御心を、心から感謝致します。今朝、私どもの罪の悲惨さ、汚れに触れて下さいました。あなたが汚れた者となり、十字架で死なれ、私どもは清くされて、御前に立つことが出来る者とされました。心から感謝致します。どうぞ、あなたの御心を見失い、自分は顧みられていないとうなだれるとき、この事実を悟らせて下さい。どうぞ、私どもも主の御心を知ったかぎり、癒された者として、山を降りて、社会の現実の中で働くことのできる者として強めて下さい。   アーメン