過去の投稿2010年8月16日

8月15日

☆  先週は、柏木哲夫先生をお迎えして、大変幸いな伝道講演を伺いました。私も少しばかりは、金城学院で汗を流しましたから、御多用の状況は存じ上げていますが、奉仕をお願い致しました。「義理と人情と信仰の三位一体で生きています・・・」と仰る先生ですが、今回は、どちらにウエートがかかっているのでしょうか。

★  中日・朝日新聞に集会案内が掲載されず、どうなるか・・・と案じました。しかし、ほぼ満席。出席してくださった家内の友人が新聞記者。次回は、必ず、彼女を通して、集会案内の掲載をお願いしようと思います。こちらも、人脈、義理人情を駆使して・・・。ただし、会員の出席が少なかったことは、とても残念です。私どもキリスト者は誰でも、「いのち」についてのまさに「専門家」です。聖書から学び、教理を学んでいるからです。しかし、伝道講演会は、日頃、祈っている方を福音と教会にお誘いできる絶好の機会です。もっと大切に用いて頂ければと思います。柏木先生の伝道的なお話を聴くことによって、自分の伝道の言葉、特に「いのち」について、隣人に語る「内容」を整えることができると思います。また、福音を語る「語り口」について学ぶことも十分にできる実に優れた講演でした。まことにもったいなく思います。どうぞ、CD録音をお聴き下さい。先生は、まるで伝道者のように、語って下さいました。本当に、よき講演に感謝致します。

☆   「肉体・心・魂」の三つの領域のいのちについて、深く豊かに思いを巡らすことが出来た事と思います。昨年の今頃の祈祷会で、「ビオス・プシュケー・ゾーエー」というギリシャ語を学んだことを思い起こします。

先生のお知り合いの神学者の方から、「いのちの息」(創世記第2章)について、「それは、魂のことです」と教えられ、納得できるようになられたと伺いました。出席して下さったひとりの方から、「魂は人間だけにあって、動物にはないのだということを初めて学んだ」と伺いました。

今、私たちの国には、「魂」についての正しい学びをなす場所も、静かに思いを巡らす雰囲気もありません。そもそも、この魂についての配慮こそは、肉体の配慮にもまさって、人間にとって最も大切なケアー(配慮)でした。戦前、国家は、義務教育としての国民学校を言わば宗教教育施設として全国民に、天皇中心の世界観・人生観を教育し、強制しました。戦後は、この厳しい反省に立って、義務教育においてすべての特定の宗教教育は禁じられることとなります。もとより、国家神道の教育は、断じて復興させてはなりません。しかし、宗教について学ぶ機会がなくなってしまったことは、反対の危険性も生じます。それが、あのオウム真理教、はたまた幸福の科学等の新興宗教において顕著になっていると思います。青年の、しかも知的には優れているはずの理系・大学生たちが、精神世界やスピリチュアルに「コロリ」と騙され、はまったりしました。証明可能な真理しか知らなかったからです。戦後日本は、いよいよ伝統的宗教は枯渇し、唯物的、物質的な繁栄を楽しむことへと心を奪われ、心の世界、内心についての配慮は、欠落したままに「発展」を目指しました。人間を、目に見える、質料の角度からしか考えないことが、どれほど、いびつな人間性、人格を育てることになるか、そのひずみは、21世紀の我々の社会で実証されていると思います。

    現代日本の伝道の困難さを、私ども自身の課題を棚上げして議論することは、まったく許されません。 しかし、目に見えない魂の次元の真理について、語り、学ぶ空気、センスが失われている日本の伝道は、本当に困難です。魂、霊魂について、正面から語ることができない日本。「和魂洋才」などという言葉も、既に力を持ちません。そもそも「和魂」などというおかしな考えがなくなることは、大歓迎です。しかし、魂に関する配慮そのものが軽んじられる時、人間の「生きる力」ではなく、「生きていく力」の枯渇は、加速します。わたしどもは、主イエスを信じ、聖霊の息吹を注がれたとき、魂が生き返ります。そこに、神のいのちが注がれるからです。そのいのちの受け皿が魂、私どもの霊(魂)なのです。

★   本日は、敗戦記念日です。読書会では、日本の戦争責任について学びます。今晩、開かれる日本キリスト教団の集会における講演を、皆さまには、特別に、公開し、それを読みます。名古屋岩の上教会の開拓の志は、「ここ(日本)に神の教会を」でした。日本は、そして日本にある教会は、神と隣人におそるべき罪を犯しました。この戦争責任を懺悔し、悔い改める以外に、伝道することは赦されるはずはないと、私どもは、確信しています。「生命を、天皇のために捧げよ」と指導した教会が、戦後、手のひらを返して、いのちより重いものはない、などと、懺悔なしに語るとしたら、それほど、良心を欺く行為はないでしょう。私どもの日本における教会形成の再出発の原点。これを、いつも、私どもは見つめ続けましょう。8月だけではなく。