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「神の正義による救い 毒麦のたとえ」

「神の正義による救い 毒麦のたとえ」
2011年3月13日
テキスト マタイによる福音書 第13章24-30節・36-43節 
【イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。
「天の国は次のようにたとえられる。
ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
イエスはお答えになった。
「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」】

先週まで、種まきのたとえを学んで礼拝を捧げました。今朝は、その次の毒麦のたとえを学んで神を仰ぎ、感謝をささげてまいりましょう。

 種まきのたとえは、私どもにある緊張感を与えました。なぜなら、道端に落ちた種、石地に落ちた種、茨の間に落ちた種であれば、良い実を結ぶことができない、つまり、救われないという可能性が示されているからです。この点においては、私どもは、神さまからの警告を受けとりました。

しかし、種まきのたとえの中で、むしろ、わたしどもが喜びと感謝をもって学んだことは、その100倍ほどの恵みの調べであったはずです。主イエスが、このたとえにおいて、お示しくださったのは、消極的、否定的なことよりはるかにまさって、積極的、肯定的なメッセージでした。それは、まさに100倍と表現されるまでの神の御言葉の威力でした。神の力がもたらす可能性、生産性、発展性が示されました。いのちの種である御言葉のその生命力でした。実に、この種、神の御言葉の種は、なんと、道端や石地、茨の地であっても、種の力によって、土壌すら改良されてしまうのです。

そして、キリスト者としていただいた私ども、主イエスによって、手ずから心の中にこの種を蒔いて頂いた者たちは、良い土地とされ続けているわけです。それを信じることが、キリスト者。そのように信じる心を、この種が作って下さるのです。神の言葉が、私どもの心を耕し、信仰の心を育てて下さるわけです。

さてしかし、今朝の毒麦のたとえは、違った響きをたてています。というのは、「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。」とあるからです。このたとえにおいては、敵の存在が指摘されています。「毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔」と語られています。

さて、このたとえをきちんと理解するためには、基本的なことを、あらためて整理しておく必要があります。たとえが示す真理とは、天国のこと、神の国の真理です。これは、教会の教え、教理においては、終末論や教会論という項目の中で取り扱われます。少し、知識的なことですが、ここで整理して語っておきたいと思います。

そもそも、この世界は、主イエス・キリストの再臨、再び地上に来られるそのとき、その出来事によって完成されます。そのとき、人となられた御子イエスさまは、裁き主として来られます。マリアより生まれた永遠の人であられる主は、そのお姿のまま、この世界を裁かれます。正義と真理と愛、憐れみによる審判です。ただし、この終末のとき、世の終わりのときは、ただ父なる神のみがご存じです。

そして、この終わりのとき、地上の教会は、ついにその務めを終えることが許されます。その時になれば、キリストの教会は、もはやこのような教会としては存在しません。何故なら、この世界そのものが、言わば、教会になっているからです。丁寧に言わなければなりません。教会は完成され、今すでにある天の教会、つまり天にある神の王国が、この地上に到来し、実現するからです。

聖書は、この教会を、二つの側面から指し示していると考えます。「目に見える教会」つまり、今、世界中にある諸教会、私どもの名古屋岩の上教会と「目に見えない教会」つまり天国の教会です。「地上の教会」と「天上の教会」です。「戦いの教会」と「勝利の教会」です。私どもは、今、地上の教会にあって、信仰の生活を歩んでいます。そして、この地上の教会には、欠けも多く、過ちも多く、時に、実に惨めと言わなければならないほどの弱さや失敗に満ちています。教会の内からも外からも戦いがあり、攻撃があります。ですから、戦闘の教会、戦いの教会と言います。それに対して、目に見えない教会があります。これこそ、天にある私どもの故郷です。天にある神の国、天上の教会です。それは、勝利の教会です。もはや戦いはありません。そして、地上の教会とは、天上の教会と聖霊によって繋がっています。二つの教会は教会の頭イエス・キリストにおいて一つにされています。先ず、これらのことをおさらいし、頭の中に入れておかないと、ここで言われている事柄を正しく理解することが難しくなります。

ここでイエスさまがたとえ話をなさっていらっしゃるのは、地上の教会のことです。地上の教会は天国のひな型と言われます。神の国の地上における中心的な現れとも表現されます。神は、主イエス・キリストにおいて、聖霊によって地上に教会を建て上げておられます。そのために、先ず、御子なる神が人となられました。そのようにして、神の御子が、この世界に来て、ご自身が直接種を蒔かれたのです。たとえでは、この世界が畑とされています。つまり、たとえのイメージを借りて表現するなら、この世界は、御子の種まきによって、教会になって行く、教会を生み出して行くのです。

ところが、ここではなんと、神の聖なる教会の中に、敵である悪魔がやってきて、そっと種を蒔いてしまうというのです。それは、会員が眠っている間に、敵がやってくるのだと予想されているのです。

主イエスは、「人々が眠っている間」と語られます。教会員、キリスト者が眠っている、これは、霊的に眠っている、信仰の戦いを休んでいるということです。このたとえで、警告されていることは先ず、この問題です。
わたしは、年報などにもしばしば記しておりますが、開拓伝道開始いらい、常に、緊張感をもって生きて参りました。正しく言えば、牧師になってからずっとそのように、生きて参りました。いささか独りよがりかもしれませんが、この一事に集中し、この一事に人生を掛けて来ました。つまり、教会形成、伝道と牧会です。とりわけ、名古屋岩の上教会の開拓は、毎年が「のるかそるか」という思いが、今なお、あります。一方で、常にそのような思いの中にいるということは、むしろ、不信仰ではないかとすら思うときもあるほどです。

先週、教会学校教案誌第41号を発行致しました。教会学校教案誌を立ち上げて、今年でついに10年になりました。第41号の前書きにも記したのですが、実は、この企ては、当時の中部中会教育委員会が委員会とて、企画発行したのではありませんでした。教会学校教案誌を発行するときの教育委員会の委員はわたしだけでした。

皆さまが毎日、親しみ、読んでおられる「リジョイス」は、大会教育委員会が見本になるものを発行しました。その後、大会はリジョイス発行のための機関誌委員会を組織して、発行しています。日本キリスト改革派教会の歴史の中で、おそらく委員会活動以外の有志の働きで、このような事業を立ち上げたのは、しかも、10年継続したものは、おそらく例外中の例外かと思います。しかも、リジョイスもまた、教会学校教案誌発行と無関係にあるわけではないのです。

さて、この教会学校教案誌も、経済的には、なお、綱渡りの側面があることは事実です。そして、このような状況の中で、つくづく思わされることがあります。私どもは、実は、この綱渡りのような状況の中で、信仰を鍛えていただけるのではないかということです。

私ども名古屋岩の上伝道所についても、同じことが言えるだろうと思います。今はここに小さくても建て物があります。いつここに来ても、教会堂があります。当たり前と思うかもしれません。しかし、かつては、ビルで教会活動をしていたのです。それは、まさに毎月家賃を支払って、契約を更新していたわけです。家賃収入が途絶えれば、それっきりとなるわけです。

確かに今は、そのような緊張感はありません。しかし、主に仕え、教会に仕えるということは、いつでも緊張感を伴うものでなければならないのです。何故でしょうか。眠っていると、悪魔が、敵が知らない間に攻撃するからです。

祈祷会の出席ということを、私どもはなぜ、これほどまでに、重んじるのでしょうか。その理由の一つ、大きな一つがこの問題です。祈ること、特に会員が集まって、心を一つに集めて祈ることがなければ、教会は眠ってしまうからです。牧師と役員だけが目覚めているだけでは足らないのです。皆で目覚める必要があるのです。わたしの代わりに起きておいてということが、実際にはあります。時に、それも仕方がありません。それこそが、教会の強みです。これからも、そのような福音的な交わりを継続しましょう。

これは、蛇足ですが、名古屋岩の上教会においては、決して「あの人はこれをしていない、あれをしていない。不公平、このような悲しい誤解、愚かな批判や裁きがであってはなりません。」そんな発言がなされる位であれば、牧師と伝道所委員だけが、奉仕を担っていた方がはるかに幸いであると考えます。

しかし、私どもは常にあるべき姿、御言葉の規準を求めます。全員が眠ってはならないのです。祈りのスクラムを組むことです。懐かしい表現です。スクラムを組んでいると、偽物、異なる麦が入り込む余地がなくなります。50人になっても100人になっても、それは、可能です。

全員が、目覚める。それは、悪魔は隙をみつけて、毒麦を蒔くことがありうることを意識することです。地上にあるかぎりは、この戦いから逃れうる教会、勝利した教会はないことを認識することです。その次に、それゆえに、祈りに打ち込むことです。

さて、次です。毒麦を蒔いた悪魔の企てに対し、僕たちはいささか興奮した口調で申します。『では、行って抜き集めておきましょうか』しかし、主人は、この提案を即座に却下致します。こう仰せになります。主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

ここに、私どもの常識が揺さぶられます。確かに、ここでの毒麦とはまったく悪魔の企てによるもので、良い麦を圧迫し、苦しめています。ところが、ここで示される主人、つまり神、天の父なる神さまにとっては、この毒麦を抜きとって行く作業のなかで、もしや、たった一本の麦の穂であっても、一緒に抜いてしまう可能性があるのなら、そのままにしておくことをお命じなられるのです。つまり、万が一にも、毒麦の犠牲になって、よい麦を抜きとるのなら、刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。決定的なことが明らかになるまでは、忍耐をもって、この矛盾、この灰色状態に耐えていなさいとお命じなられるのです。

このたとえで明らかにされるのは、天の父なる神さまが、まことの麦、良い種である真のキリスト者、そのたったひとりの存在をどれほど重んじておられるのかということです。徹底的に、神の価値基準が貫かれるのです。
これは、私どもの地上の論理にはなじみません。わたしは、最近、有名になりましたアメリカのハーバード大学のサンデル教授が日本の民放テレビ番組の招きを受けて、来日したときの放送を見ました。そこには、キリスト者を自称する一人の元防衛大臣も参加していました。

この方は、こう発言なさいました。「政治の世界では、多くの国民を守るためには、何人かの犠牲を強いることは当然である。政治家はそのためにいて、その責任を担うものであると言いました。」これは、きちんと批判すべき言葉だと思われますが、しかし、確かに、説得力があるように思います。かりにもし、自国の民、財産が侵略、攻撃されるのであれば、他国の民を犠牲にしても仕方がないという論理なのではないかと思います。自国民より他国民の犠牲の方が、より多かったとしてもそれを遂行するのでしょう。

この議論はこれ以上ここで深入りする暇も、必要もないと思います。私どもは、ここで神の国、教会においては、神御自身の正義、倫理が貫かれることを、そしてその神の倫理に、私どももまた服従しなければならないことを確認すればよいはずです。それは、悪い麦のために一本の麦すらも犠牲にしないということです。

しかし、もしかすると、このような議論が、畑の中から、つまり私どもの中から生じるかもしれません。「そんな迷惑な話はない。教会の大勢の者たちが、周りの人たちから悪く見られるのは、迷惑ではないか。自分たちも一緒にされたくはない。」これも、よく分かることです。しかし、主イエスは、ここではっきりとお命じなられました。「抜いてはならない」主イエスにとって、よい麦がどれほど大切であるか、それが、このたとえでまっすぐに語られ、示されたのです。私どもは、このように、神さまに大切に、たいせつに今、育てられている真っ最中なのです。

一体何故、主イエスは、毒麦の存在を容認されるのか。一つの理由を語りましたが、なお一つ、推測することが許されると思います。良い麦が毒麦に負けないからです。良い麦はあくまでも良い麦なのです。毒麦のせいで、途中から良い麦が悪い麦になることはありません。良い麦は、良い麦なのです。だからこそ、尊いわけです。
そして、この毒麦のせいで、良い麦は、いよいよ自分たちの特徴を知り、使命を知り、成長を続けるのです。確かにそれは、自分たちの畑を荒らされているわけですから、ないに越したことはないでしょう。眠っている間に蒔かれてしまったのですから、自分たちの責任でもあるのでしょう。しかし、眠ってしまった事で決定的な敗北にはならないことが分かります。

この主イエスの譬は、2000年前のものですが、あれから2000年の教会の歴史を振り返りますと、教会は、内部からの攻撃、異端との戦いを絶えず受け続けて参りました。今なお、その真っ只中におります。異端と言うと、すぐに、エホバの証人やモルモン教、はては統一協会とか、さまざまなカルト的キリスト教集団を思われるかもしれません。しかし、それだけではなく、既成の教団、教会であっても、すでに正統信仰、公同の信仰から逸脱して、自分勝手なキリスト教集団となっている、自称キリスト教会も少なくありません。むしろ、こちらこそ、現代のキリスト教会にとっての隠れた脅威ではないかと思います。

教会は常に純粋な教会となり続けるよう努力しなければなりません。それが、教会の責任です。主と人々の前に、厳かな重大な責任があります。そもそも、敗戦後、いち早く創立した日本キリスト改革派教会こそ、日本の教会史のなかで、聖書的な教会、聖書に堅固に立脚した使徒よりも聖なる公同教会をこの地上に樹立しようとしたのです。そして、私ども日本キリスト改革派教会 名古屋岩の上伝道所とは、同じ志に生きてここに開拓を開始し、日本キリスト改革派教会としての教会形成に励んでいます。その意味では、まことの教会として形成されることに対して、大変な緊張感を求められ続けているのです。

最近は、あまりないかもしれませんが、日本キリスト改革派教会は、自分たちは源清き改革派教会だ、いわゆるプロテスタント教会のまさに本流、主流、源流だと、自惚れることがあります。だから、自分たちは、善き教会だとうぬぼれるわけです。

「腐っても鯛」などと言う言葉もあります。しかし、まさに腐った鯛ほど手に負えないしろものはありません。自惚れだけが強い教会になれば、まさに腐った鯛になってしまいます。自分たちこそ、常に、善き教会としての模範を示す責任があるのです。

私どもは、教会が毒麦を植えられていることを知らなければなりません。私どもの中から、毒麦が生じるその可能性を、常に謙虚に認めることが重要です。しかしそれでもなお教会は、倒れないこと、崩れてしまわないことを信じることこそ、何よりも重要です。そして、そうならないためにも、目覚めていることが求められているわけです。

加えて私どもは、この矛盾の状態、この灰色の状態に対して、熱狂的になってはならないのです。どういうことかと申しますと、白黒を今ここでつけてしまおうと、人間の思い、自分の考えを優先してはならないということです。教会は、既に神の民となっています。神の国は、ここでこそこのように確実に始まっています。しかし、同時に、それは、なお未完成なのです。すでに始まっていますが、未だ完成していません。つまり、途上にあるのです。旅の途上です。この途上であることを、知ることが、信仰の戦いなのです。だから、目覚める必要があります。だから、戦うのです。蛇足ですが、このここで、いったい自分たちの中で誰が毒麦なのであろうかなどという詮索をする必要はありませんし、してはなりません。

最後に、この毒麦はどうなるのでしょうか。世の終わりまで放置されています。しかし、それは、この毒麦を憐れまれるからではありません。この毒麦は、終わりのときに、徹底して裁かれるのです。

私どもは、裁き主なる神さまより、先走って、判断してはなりません。しかし、必ず、毒麦は抜かれることを教えられてまま、信じるのです。耐えがたいと思われるような泥沼のような状況においてもなお、神の愛のお心を信じるのです。よい麦であれば、その一本をすら見捨てることのない天のお父さまの御心。人間の価値基準とは異なる神の愛にのみもとづく価値基準のおかげで私どもは、救われたのです。こんな自分ですら、父なる神の救いの恵みにあずかったという驚くべき恵みを感謝するのです。ここに私どもの慰めと希望があります。

最後の最後に、今、私どもの国は、金曜日に始まった大震災のただ中におります。東北日本の被災者の方々のために、世界中が関心を寄せ、祈りが寄せられています。私どもの教会もいくつかそこにございます。私どもも、心を込めて祈ります。父なる神が、被災者の方々おひとりおひとりに、主にある兄弟姉妹のお一人お一人に共にいて下さいますように。これが、この世界の終わりでは決してありません。しかし人間の罪、あのアダムとエバの神への背きの罪によって世界は、本来の祝福された姿を奪われています。主の赦しと憐れみなしには、人間は地上にあって生きることができない存在であることを、今一度、かみしめたいと思います。そして、今このときも、救援活動をしておられる方々に力が与えられますようにと祈りましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どもの世界、畑には、悪魔の働きがあることを、今朝、あらためて思います。しかし、彼らが勝利を収めることは決してないことを改めて教えられました。どうぞ、このような悪魔の働きを跋扈させないために、私どもが常に信仰において目覚め、祈りのスクラムを組んで抵抗できますように。今朝もまた、私どもに良い種を蒔き続け、芽生え始めたその実りを、いつくしみの中で、育て守り続けて下さいますように。
この未曽有の大震災の中で、教会としてなしうる援助を、どうぞなさしめて下さい。アーメン。