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「生命よりも尊いものを発見してー比べられない宝-」

「生命よりも尊いものを発見してー比べられない宝-」
2011年4月3日
テキスト マタイによる福音書 第13章44-50節 
【 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」 】

今朝は、いつものように引き続いてマタイによる福音書第13章から学びます。第13章は、集中的に主イエスのたとえを学びました。主イエスがなさった譬とは、すべて天国、神の国についてであります。先ず、神の国とはいかなるものか。次に、そこでいかに生きるのか、これが明らかにされているわけです。今朝は、主イエスが語られた譬の最後の部分を扱います。今朝、与えられている個所には、三つの譬が語られています。一つひとつ学んでまいりましょう。

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」

 ここで主イエスが、畑の中に宝が隠されているという状況を説明なさいます。おそらく私たちにとっては、あまりピンとこないかもしれません。しかし、当時の人たちには、分かりやすいのです。当時の人々は、財産を保有していても、今日の銀行のようなものがそばにあるわけではありません。したがって、家の中に隠し持つには、危険が伴います。そこで、ある人々は、地面を掘ってそこに財産を隠すということが、行われていたのだそうです。ただしそこにも危険が伴います。何故なら、その本人が、突然、病気や事故で亡くなってしまう場合もありうるからです。隠しておいた宝を自分のもとに戻しておく前に、本人が亡くなってしまうことは、十分にあり得ます。隠し場所の地図すら書いていない場合は、遺族の方々も分からないままになるということもありえるわけです。

もしかすると、所有者が死亡してしまった畑は、荒れるままに放置されてしまうのかもしれません。しかし、そのような畑を見て、ピッとひらめく人もいるのかもしれません。「もしかすると、地中に、何か宝物が隠されているかもしれない。」こうして、掘り起こしてみる人もいたのだと思います。

その意味では、この譬は、貪欲な人、極めてお金に執着している人のニュアンスを持ちます。加えて、見つけた宝を隠すというのも、この事実をさらに強めていると思います。わたしどもは、このようなこと、このような人の行為を天国の譬に用いるのは、よろしくないのではないか、むしろ、ふさわしくないのではないかとすら思います。ところが主イエスは、このような出来事をもって、天国の価値の絶大さをあらわされます。

結びの言葉はこれです。「喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」彼は、スキップしながら、小走りしながら、大喜びで家に帰ったのだと思います。そして、全財産を売り払って、その畑を買うのです。
この「宝が隠された畑」とは、地上にある天国をたとえています。今この地上に与えられている永遠のいのちのたとえでもあるでしょう。今、我々に与えられているまことの救い、つまり罪の赦しをも意味していると思います。さらに、こう言ってもまったく構いません。この隠された宝とは、主イエス・キリスト御自身のことです。何故なら、主イエス・キリストの内にこそ永遠の命も、罪の赦しの救いも、すべての霊的な祝福、天国の祝福があるからです。しかもそれは、今、我々が生きているこの世界の中で、発見できるものなのです。隠されてはいますが、発見しうるものなのです。

そして、この主イエスを発見した人、つまりイエスさまを主、キリストとして信じた人は、「喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」買ってしまうのです。買わざるを得なくされてしまうのです。

つまりこう言う事です。この人は、これまで知らなかったすばらしい情報、すばらしい知識、すばらしい真理を、遂に、知ってしまったのです。これまで、理解できなかったことを、理解してしまったのです。これまで、信じられなかった真理を、今や信じることができたのです。だから、喜んで飛び跳ねるように帰ったのです。そして、自分の持ち物をぜんぶかき集めてそれを現金に換えて、この畑を自分のものとするのです。彼にとっては、この真理、この現実は、もはや、隠されてはいないのです。明らかにされたのです。

さて、この譬は、もしかすると、既に洗礼を受けたキリスト者である私どもにとっては、過去のことのように思える、思ってしまう方もいるかもしれません。そのことを、少し心配致します。確かに、わたしどもは既に、この地上に生きている間、教会と出会い、あるいは聖書と出会い、あるいは牧師と出会って、遂に時が至り、洗礼を受けました。あるいは、信仰告白の時を持ちました。そうすると、私どもは既に、この宝を発見しているということですから、この譬は、未信者の方々に当てはまるだろうと思ってしまう危険性があります。

しかし、この譬は、ただ単に、まだ信仰を告白しておられない方々のことだけを、取り扱っているわけではまったくありません。この譬は、私ども自身のことを、今一度、いへ、常に考えさせて頂ける御言葉なのです。

くり返しますが、確かに、私どもも既に、この隠されていた宝を発見致しました。丁寧に、正しく申しますと、発見することが許されました。そして、信じることが許されたのです。だからこそ、今朝も、ここに、イエスさまを主と告白し、神の栄光をほめたたえ、神の栄光をあらわすために集まっているはずであります。

しかし実は、そこから新しい問題が生じて参るだろうと思います。つまり、この宝を発見した喜び、驚きを、いつも新鮮に、感動を抱き続けることができているかどうかということであります。主イエスを信じ、教会への入会を志願し、洗礼を受けたときの思い、それが継続する、いへ、いよいよ成長して行っているのだろうかということが問われるのです。

主イエスは、この譬におきまして、宝を発見した人は、自分の持ち物を売り払ってしまうのは当たり前のこととされています。

ところがしかし、もしも、それほどまでに絶大な価値のある宝であるという信仰の理解が鈍くなってしまえば、悪魔に眼つぶしをくらわせられてしまえば、売り払うところまで行かなくなる危険性が生じます。つまり、主イエスが仰せられた「持ち物」になお、しがみつくということが起こりえるのです。

ここで指摘された持ちものとは、何でしょうか。それは、自分の財産、自分の持っているもの、獲得したものでしょう。お金であったり、地位であったり、家庭のさまざまな幸福であったり、まさにさまざまなもの、事々です。それと福音の宝、主イエス、永遠のいのちとを見比べてしまうということです。しかも遂に、それを手放したくない、もったいと思って、結局、「すっかり売り払う」のではなく、「そこそこ」ということになるのです。そしてそれは実にしばしば、私どもに起こっている現実ではないでしょうか。

今朝、私どもはついに、開拓伝道開始第17周年の祝いのときを迎えています。午後、特別の集会を開催致します。私どもは、この17年の歩みを振り返ります。しかし、それで終わりません。近い将来の私どもの課題、祈りの課題の中心であります教会設立についても、発題者の方々が語られるかと思います。つまり、ここで立ち止まってしまうことは許されません。もし、「ああ、よくやって来ました、ここまで来れたら、ひと安心、少し休憩しましょう。」そうなればそのときは、おそらく、私どもの教会は前進することはできなくなるはずです。それどころか、今まで進んで来た地点に留まることもできなくなるはずです。むしろ、後退してしまいます。

その意味で、信仰とは、立ち止まる事ではあり得ないことが示されると思います。つまり、隠されている真理を知って、そこで留まってはならないのです。もし、信仰がその成長が、止まってしまうとするなら、そのときは、むしろ後退しているのです。

私どもの信仰とは、まさに生きたもの、主なる神との毎日の交わりであり、毎日、御言葉に聞き従う歩みです。したがって、私どもはこの隠された宝の価値、救いの恵み、罪の赦し、主イエス・キリスト御自身との生きた交わりの祝福、天国のいのちに対して、常に新鮮に驚き続けたいのです。日々、新鮮に感謝したいのです。

隠された宝を発見できたのは、まさに神の恵みのみです。この恵みとは、私どもに常に、驚きを与えるものに他なりません。何故なら、神の恵みを受けた人は必ず、自分が恵みを受けたことを当然とは決して思えないからです。思わないからです。むしろ、何故、これほどまでの祝福、幸いに、こんな罪人の自分が、こんなにまで愚かで、鈍感な、不甲斐ない罪人のわたしに永遠の命が、罪の赦しが、神の子とされる特権が与えられるのか、ただただ驚かされる以外にないからです。そして、そのような恵みへの驚き、感謝、感動によって、隠されていた宝、宝の上に覆われていたベールが取り去られるのです。ここでは土ですから、その土が、掘り起こされて行く、そのようにして発見できるのです。そして、発見し続けることができるのです。そして、発見すれば、その人は、持ち物を売り払って、この畑を購入せざるをえなくなってしまう、それが当たり前のこととなるのです。

さてここで、一つの、しかし大きな疑問が残るのではないでしょうか。確かに、主イエスがこの譬で描き出されましたように、天国のいのち、永遠のいのちを与えられるためであれば、たとい、持ち物全部を売り払ってでも、この畑を買おうとすることは、当然過ぎることです。恵みを受けたことを理解できたら、当たり前のことです。

けれども、そこで、丁寧に、深く考えるべきです。くり返しますが、発見したその人は持ち物全部を売り払って、この畑を買うのは当然です。けれども、落ち着いて考えて見ますと、はたして、その金額で買いとることは、できるのでしょうか。もし、この人が、大変な財産、少なくともある財産を持っているのであれば、良いのですが、しかし、現実には、誰しもが、そのような資産を持っていたり、かき集められるわけではないと思うのです。

それなら、主イエスはここでいったい何を、どのような真理を示そうとなされるのでしょうか。それは、単純な福音の真理です。つまり、どれほど莫大な財産を持っていようが、その全財産を投入したとしても、実は、この畑と交換できるものではないということであります。

ここで譬えられているのは、この畑を購入すること、受けるのは、重ねて申しますが、天国に入ること、罪赦されて永遠のいのちを受けることは、どこまでもただ恵みであるということです。自分で買い取ったり、取得したり、まったく不可能なのです。つまり、ただ神から受ける以外にないのです。神から一方的な恵みとして受ける以外にないのです。

さて、次のたとえに入りましょう。「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」これもまた、先ほどの譬と、ほとんど同じメッセージだと言ってもよいと思います。最初の真理を強調させていると言ってよいと思います。
ここでも、とてつもなく高価な真珠を発見した商人は、自分の持ち物のすべてを売り払ってしまうと言われます。たった一つの真珠にそれほどの価値を発見したということは、この商人の知識を総動員して、これは、どこにでもある美しい真珠とは、わけが違う。桁が違う。特別、珍しい、特別に貴重なものであると、分かったのです。そのとき、彼もまた、持ち物を売り払って、それを買うのです。主イエスは、それが当然のことと、仰るのです。
この変化、それは、生き方が変わるということでしょう。あるいは、変えざるを得ないということでしょう。それは、何を意味するのでしょうか。聖書の中で、まさに、ピタリと当てはまる御言葉があります。「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」フィリピの信徒への手紙第3章8節以下の使徒パウロの言葉です。

使徒パウロの場合は、自分から捨てたというわけではありません。失ったのです。しかし、確かに、ここでは、失ったという受け身の形で表現されています。しかし実は、それを自分から進んで、積極的に不要のものとしてしまったのです。その中には、彼の学者、宗教人としての知識や誇り、地位や名誉が含まれていました。それらを、塵やあくた、つまり汚れ、不要物とみなしたのです。キリストを得るためです。自分がキリストの内にいる者、つまり天国の民、神の国の住人として認められるためです。

つまり、天国の宝、価値とは、この地上のすべてのものよりも、大切であるということです。地上にあるどんな宝、どんな優れたもの、すばらしいもの、大切で、有意義で、美しく、楽しく、価値あるものであっても、この天国の宝に比べることはできないということです。

たといこの天国の祝福のためなら、すべてを失ってしまったとしても、それらを取り戻すことはできなかったとしても、しかし、天国の宝を選び取ることができるものなのです。

かつてもご紹介したことがあるかもしれません。星野富広さんというキリスト者がいらっしゃいます。首から下が麻痺してしまって、しかし、口に絵筆をくわえて、絵を描き、詩を記される芸術家です。この方に、このような一つの詩があります。

「いのちが 一番大切だと思っていたころ  生きるのが 苦しかった
いのちよりも大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」

 体育の教師として、人一倍、肉体の力を誇りにされていた若い教師が、事故によってその肉体の自由を奪われました。

「いのちが 一番大切だと思っていたころ」とございます。ここでの「いのち」とは、肉体のいのち、肉体の可能性のことだと思います。漢字で書けば、「生命」となるでしょうか。この生命こそが、大切。しかも若々しく、健康で、はつらつとした力にみなぎるいのち。これが、一番大切だと思っていた頃、実は、生きるのが苦しかったというのです。わたしは、この言葉は、肉体の自由を奪われた頃と限定しなくてもよいと解釈いたします。体育の教師になって、まさに、自己実現を果たしていたとき、しかし、実は、そこで人との競争があり、自分の価値を、その生命の重さ、価値、値打ちではかっていたのだと思います。他人の評価とその評価に縛られている自分の評価のなかで、苦しんだのでしょう。しかし、この事故の後、ある人との出会いを通して、聖書を読み、そしてキリストとの出会いへと導かれて行かれます。そして、ついに主イエス・キリストの中に、人間のまことのいのちを発見するのです。イエスさまの中に、本物のいのち、救い、罪の赦し、神の子とされていきることのできる永遠のいのちを知って、生きていること、生かされてあることそれが、嬉しくなったというのです。

自分のいのちをかけても惜しくないとすら思えるほどのもの、それを星野さんは発見したのです。それこそ、天国の宝、主イエス・キリスト、父なる御神です。自分のいのち、生命よりもこのお方が大切、この生命をかけても惜しくないと思えた、隠されていた、覆われていた真理が開示されたのです。発見したのです。そのとき、軽くなったのです。自分の若々しい生命つまり肉体的能力をはじめとするすべての人間的能力を誇りとし、頼りにしていたときには、実は、不自由であったのです。縛られていたのです。この世的なすべての価値にしがみついていたとき、実は、苦しかったのです。囚われていたのです。しかし、主イエスを知った時から、そのしばりから解放されたのです。これが星野さんに起こった救いの恵みです。そして、私どもにも与えられている救いの恵みです。

私どももまた、いよいよ、この与えられている宝の価値に、信仰の眼を開いて頂き続けたいのです。私どもには、驚くべき恵み、アメイジンググレイスが与えられているのです。

東北では、一瞬の内にまさに全財産を失ってしまった、奪われてしまった多くの被災者がいらっしゃいます。言葉もないような、悲惨な災害です。その災害によって、生命を失った方、奪われてしまった方々には、かけて差し上げる言葉を失う程です。

しかし、今朝、私どもは、このような状況の中で、聖餐の食卓に招かれています。これは、永遠のいのちの保証です。天国の宴の前味です。そのような、おどろくべき恵みに、私どもは、値なくして、まさに一方的に与らせて頂くのです。正しく申します。はっきりと申します。わたしどもは、未だ、すべての持ち物をすっかり売り払っていません。しかしその前から、このいのちの食卓、天国の食べ物、飲みものを、主イエスは、私どもに豊かにふるまってくださるのです。主イエスのこの恵みの素晴らしさ、その驚きこそ、言葉を失うほどのものであります。この恵みだけ、この福音だけが、被災者の方々を真実に救うことのできる神の救い、恵みであることを確信致します。

最後の三番目の譬を学びます。しかし、時間の関係で、もはや多くを語ることはできません。ここでの譬は、先に学びました毒麦の譬の説明とほとんど同じことだと言ってもよいと思います。結論の言葉は、まったく同じであることにすぐにお気づきになれるかと思います。

「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」 

ここで主イエスは、御自身が再びこの地上に来られるその日が来ることを約束されています。そのときには、主イエスが最後の審判をなさることが約束されています。

したがって反対から申しますと、そのときまでは、その日までは、この世界には、善と悪が混在したままに残されているということです。さらに言えば、悲しく苦しいことですが、教会の中にさへ、良い麦と毒麦とが混在したまま残されているということでもあります。けれども、はっきりしていることがあります。それは、永遠に続くわけではないという真理、約束です。やがて、ちゃんと決着がつきます。主イエスが決着をつけてくださいます。父なる御神が、救いを完成してくださるのです。

それは、被災地の復興とは、比較にならないものです。何故なら、やがて主イエスは、神の国、天国を、必ず、この地に完成してくださるからです。その日を信じることができるからこそ、希望を持って、忍耐することができるのです。

私どもは肉体の命、生命よりも大切な宝、永遠のいのち、まことのいのち、天国のいのちを、恵みによって与えられました。この恵み、この救いに、毎日、驚き続けましょう。そのようにして、常に新鮮に、教会生活を踏み進めてまいりましょう。

祈祷
私どもにいのちよりも大切なもの、主イエス・キリスト御自身をお与えくださいました父なる御神。主イエスによって獲得された天国の祝福に、今朝この時も与らせていただきました私どもの幸いを心から感謝致します。どれほどの宝を、恵みによって頂いていることでしょうか。この恵みにいつも新しく驚き、感謝し、この感謝をもって信仰生活、教会に生きる生活を支えて下さい。そして、この宝は、私どもの努力やこの世的な宝で獲得したものでは決してありません。私どもだけのものでは決してありません。どうぞ、私どもから、この宝を、ひとりでも多くの方々と共に味あわせて下さい。そのために、私どもを絶えず伝道へと導いてください。アーメン。