過去の投稿2011年4月11日

「自分の人生の主人公となるー天国の学者とは-」

「自分の人生の主人公となるー天国の学者とは-」
2011年4月10日
テキスト マタイによる福音書 第13章51-52節 
【「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」】

第13章は、天国の譬が集中的に語られました。そして、今朝は、まさにその結びの言葉です。ここでも、一つの譬が語られているのだと思います。「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。

主イエスはここで、弟子たちに本当に知ってもらいたいこと、分かってもらいたいことを心の底から語られたのだと、あらためて思います。もとより、これまでのすべての説教に当てはまることです。

ただし、この御言葉、実は、マタイによる福音書だけが記していまから、それだけに大変、印象深いのです。まるで、イエスさまが弟子たちに、口頭試問をなさっているようにも感じます。「分かった?分かりましたか?」主イエスは、お尋ねになられました。弟子たちは、少し緊張しながら、けれども、主イエスに喜んで頂きたいという思いも含んでいただろうと想像しますが、はっきりこう答えます。「はい、分かりました。」

ただし、正確に申しますと、弟子たちが本当に天国の真理がこのとき、分かったのかどうか、それは、後でわかってしまいます。つまり、このときには、まだ分かっていなかったのです。それが、イエスさまが十字架につけられるときに、分かってしまいます。彼らは、主イエスを裏切り、主イエスを見捨てたのです。

しかし、さらに正確に申しあげるべきです。弟子たち全員は、確かにこの時には分かりませんでした。けれども、その彼らが天国の真理を理解し、信じ、それだけに、先週の御言葉で表現するなら、「持ち物をすっかり売り払って」主イエスに従うもの180度変えられて行ったのです。しかもその弟子のひとりの徴税人マタイは、実に、このようなすばらしい、見事な福音書の著者とまでなったのです。何故、そのような180度の変化が起こったのでしょうか。それは、天国の真理が分かったからです。分かって、その本物の喜びに生きることができるようになったからです。

主イエスのここでの問い、「分かったか」という質問は、決定的に重要なのです。分からなければ、始まらないからです。分かって、始まるのです。天国の生き方は始まるのです。天国に入る者に変えられているのです。分かるか分からないか、それは、頭で、頭の中でのやりとりではありません。それは、存在、あるいは生き方の変化、変容に至るものです。それこそが、これまでの天国の譬における言わば、急所です。もっとも大切なポイントです。頭で理解するだけではなく、それが生き方に結びつくのです。そのような意味で、分かったかという問いが提出されていることを、私どもは先ず、確認しておきましょう。

さて、ここで、主イエスは、弟子たちのことを、なんと学者であると表現なさいます。言うまでもなく、12弟子の中に、いわゆる学者は誰一人もおりません。漁師が中心です。聖書をきちんと学んだ人はいないはずです。
ところが、主イエスは、彼らこそ、学者なのだと仰います。これは、驚くべき発言です。主イエスは、ここでも、律法学者たちと戦っておられます。それだけに、実に挑戦的な発言となります。主イエスは、あるいはマタイによる福音書と言ってもよいでしょう、ここで、本物の学者、真実の学者、まことの学者とは何かということを真正面から問うわけです。

「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」
新しいものなのか、古いものなのか、それは、主人だから分かる。それは、何を意味しているのでしょうか。解釈は、簡単ではない。文脈から判断することは、ほとんど不可能だと思います。したがって、福音書全体の文脈から考えるべきです。そこで見えてくるのは、このようなことです。

 何が、新しく、何が古いのか、つまり、ここで取り扱われるのは、時間の問題であることは分かります。天国の真理を知った私ども、天国の祝福に生かされている学者とされた私どもにとって、まず、時間の問題が明確になりました。まさに、学者とされました。

 それは、この世界には、永遠があるという絶対的真理です。聖書の真理です。神がいらっしゃる。永遠の神、初めもなく終わりもない永遠に存在するお方、父と子と聖霊の交わりを持つ唯一の神がいらっしゃるのです。この永遠の神がご支配なさる場所が、天国です。つまり、天国は永遠の世界なのです。

 その反対に、この地上は、始まりがありましたし、そして聖書は告げます。終わりも定まっているのです。この地球、この宇宙、それは、永遠に存在するものではありません。時間の中で存在します。つまり、終わる時がくるのです。それは、いつなのでしょうか。

 聖書は言います。主イエス・キリストが再び、この地上に立たれるときです。再びイエスさまがいらっしゃるときです。そのとき、この地上での営みは、決算されます。総決算されるときが来るのです。審判されるときが、定められています。

 いうまでもなく、教会生活も終わりの時がきます。名古屋岩の上教会は、永遠にここに存在するものではありません。この教会が、天国へと結びあわされて、もはや教会が必要なくなるときがくるのです。

 私ども自身もまた、同じです。いうまでもなく、私どもの人生には終わりの時が来ます。死のときが訪れます。
けれども、私どもは教えられ、知っています。私どもの肉体の死、生命が終わるとき、それで私どもじしんの存在は、終わらないのです。むしろ、その日こそ、すばらしい祝福の日、永遠の世界、天の故郷、天にある御国に移される日だからです。

このことを知ると、どんな利益が私どもに与えられるのでしょうか。まさに、新しいものと古いものとを取り出せるようになるのです。識別するということです。どういうことでしょうか。
自分がしている事は、永遠の価値を持つものか、永遠と結ばれているのかということが分かってくるのです。そのとき、自分が今していることに、まさに力が入ると思います。

コリントの信徒への手紙Ⅰ第15章にこうあります。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

「私どもの労苦は決して無駄にならない。」それを知っているのです。キリスト者として、キリストにあってなすすべての奉仕、仕事、ありとあらゆることは、無駄ではない、教会の形成に貢献し、そのようにして天国と結ばれるからです。

それは、同時に、永遠とは関わらないもの、永遠以前のことは、何かを見抜くことです。
この地上の宝をそっくりそのまま、1億でも100億でも、そのような資産を天国まで持ち運ぶことはできません。ですからそのような宝をどのように永遠の相の下で、用いるのか、それが問われます。自分の人生を、かけがえのない人生を、この世の間だけで通用するものを目標にするのか、天国でも、永遠でも、神さまの御顔の前でも通用するものを目標に生きるのか、それが、天国の学者たちにとって、はっきりと分からせていただいた、恵みの真理です。
 
 この地上の、この世の、この目に見えている人間の生活、人生だけが存在しているわけではありません。聖書を開けば、この真理があちらこちらに出て参ります。

Ⅱコリントの信徒への手紙第4章16節以下をお読みします。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
ローマの信徒への手紙第8章24節以下にこうあります。 「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」

これらの御言葉を丁寧に解説するのは、今週の祈祷会でしたいと思います。最後に、ヘブライの信徒への手紙第11章3節でこう言います。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」

この世界は、無限に続くのではありません。目に見える世界は、目に見えているものからできたのではなく、永遠の存在、神さまによって創造されました。したがって、もし、私どもがこの世界だけがすべてだ、目に見えるものだけが人間のすべてだと言う惑わしにそそのかされないのです。それは、偽りだ。そうではない、この人生、死んだ後こそ、絶対的に大切だと主張するのです。そしてだからこそ、今を真剣に、今を熱く、今この時を全力を注いで生きることができるのです。しかも、その全力の注ぎ方、注ぐ方向性を、間違わないようにさせられているのです。この地上だけでしか通用しない古いものを二の次にし、新しいものつまり、永遠に価値のあるものを第一にすることです。そのように永遠の価値とこの世の富や誇りや価値を識別、区別、判別するのです。

今朝の説教題を、「自分の人生の主人公となる」副題として、「天国の学者とは」と致しました。天国の学者とされたキリスト者は、そのような者だけが、真実の意味で、自分の人生の主人公になれるという意味です。

反対に言えば、天国を知らないままであれば、あるいは天国の主でいらっしゃる神、イエスさまを知らない時には、私たちは、自分の人生の本当の意味での主人公に成りきれない、成りきれていないということを含んでいるのです。

主イエスは、この譬の中で、「一家の主人」という譬をなされます。主人に対応するのは、奴隷です。一家の奴隷です。奴隷には私有財産がありません。確かに高級な奴隷は、主人の経済生活のすべてを管理することができたと言われています。けれども、いかに優れた技能を持っていても、結局、奴隷の立場であることには変わりがありません。自由になれません。囚われの身です。そこには、決定的な断絶、決して越えられない境界があります。

奴隷であっても、生きているわけですから、自分自身の人生を生きてはいると言えるでしょう。けれども、その人生はすべて自分を買い取った人、つまり主人の目的にそって生きなければならないのです。自分がしたい、したくないという選択の自由が与えられていません。彼が生きるのは、主人の命令を実行する限りにおいてなのです。その意味では、奴隷は惨めだと言わざるを得ないと思います。

聖書によれば、私たちは誰でも、一人の例外もなく、自分の人生を、自分のものとして生きる権利が、神から与えられているのです。このような考え方を、基本的人権と呼びます。

ところが、私どもは、この人権を、本当の意味で大切にしているのだろうか。これは、何も社会批判、政治批判をしようとしているわけではありません。それよりはるかに大切、根本的なことを問うのです。問いたいのです。それは、他ならない私ども自身が、本当に自分に与えられているその人権、自分の人生の主人公になって生きているのかどうかです。

ただし、この問いは、もしかすると不思議な問い、おかしな問いのように感じられるかもしれません。誰だって健康で生きている限り、基本的に自分のことは自分でしているのだろうと思います。生きる上で、食べ、飲み、トイレに行き、歩き、動き、身の回りのことをするわけです。

もしそれができないとき、まさにそれは病気になった状態でしょう。少なくとも今朝、ここに来ることができた私どもは、一定程度の健康状態にあります。自由です。ベッドの上にいません。しかし、病気で伏せっていなければ、誰もが、自分の人生の主人公でいられるのかどうか、それは、おおいに考えなければなりません。

ここでわたしの言う、自分の人生の主人公になるということは、自分をコントロールしているということです。自分の考え通りに、思いどおりに自分を制御し、行動するのです。

それもくどいですが、右の手を自由に、思いどおりに動かすことはできるかもしれません。体が麻痺して、思いどおりに動かせない人は、まさに大変なストレスがかかるものでしょう。けれども、問題は、肉体のコントロールではありません。むしろ、心のコントロールです。いへ、もっと言えば、人生全体のコントロールです。
たとえば、私たちのまわりには、たくさんの生命保険があると思います。年金制度もあります。

保険会社や簡易保険などのパンフレットを読んだことがあります。自分の5年後、10年後、20年後、いろいろ書いています。子どもが幼稚園を卒業し、小学校を卒業し、そして中学校となるにつれて、どれくらいのお金が必要になるのか、だから、どれくらい準備すべきか、パンフレットで書いてくれているのです。

けれども、その保険屋さん御自身も、ご自分の人生設計を一般の方とは比較できないように丁寧に描きながら、しかし、実際にその通りに生きることができるとはかぎりません。人生のグランドデザインなどという横文字が使われることも目にします。人生の全体、長期的なそれこそ死ぬまでの歩みを、総合的に見わたした構想のことでしょう。誰でも、そのような人生の総合的な構想を持ちたいと思うのではないでしょうか。けれども、保険屋さんが示し、教えて下さるようないつ、どのようなときどれくらいのお金がかかるのかということではありません。

人生の意味、人生の目的、それを知ることが必要なのです。それなしには、グランドデザインを描きようがないはずです。できるのは、お金の準備くらいでしょう。

占い師の方が、人の明日を占って見せることは簡単のようですが、自分じしんの明日のことを占うことはできないと言われます。まったくその通りだと思います。

わたしどもは、本当に、自分のいのち、自分の人生を大切にしなければなりません。どれほど、大切にしてもし過ぎることはありません。けれども、私たちは、本当には、自分のいのちや人生を大切にできない、できていないのではないでしょうか。何故なら、私どもは、自分の人生の主人公になりきっていないからです。なりきれないからです。

身近な事で言えば、たとえば、ファッション一つとってもそうでしょう。これは、わたしが今一番気にいっている洋服だ、個性的な、自分がコーディネイトしたものだと考えても、結局、現代の流行の影響をまったく受けていないということはあり得ないと思います。青少年たちこそ、まさに大人の、現代社会の価値観の嵐の中で、吹き飛ばされる、からめとられる、台風の渦巻きか、竜巻のようにぐるぐると中心に巻き込まれ、吹き上げられる。津波の引き潮のように、この世の価値観へと持って行かれる。つまり、自分の人生なのですけれど、結局は、周りの影響で流されて行くだけ、右往左往しながら、時代の嵐に流されてしまうのです。

私どもは、このような流れの中でしかし、心の底から叫びたいし、叫ぶべきです。「そんなのは、嫌だ」そのようにして、流れにさからって、立ち止まりたいのです。

もし、人がそこで立ち止まるためには、先ず、気づくことが必要です。自分は、自分の人生の主人公に成りきれていないのではないか。そう、自分に問うのです。古いものに振り回され、蹂躙され、屈服させられるのであれば、それは、この世の流行、価値、他人の目、世間の評価だけを基準に生きてしまいます。その人の人生の主人公は、言わば、世間なのです。

私どもは、自分の人生の主人公に立ち戻るべきです。何故なら、私どもは既に天国の学者とされているからです。天国の宝、その価値を知っているからです。

ただ、最後に当たり前のことですが、敢えて触れます。認識して終わらせただけでは、意味がありません。天国の学者は、新しいものを知って、この新しい価値を実行する、実践する学者なのです。それが、あの律法学者たちと、天国の学者たちとの明確な境界線です。はっきりと違ってくるはずです。こうして、その人は、自分自身の人生の主人公になって行きます。

今こそ、私どもキリスト者は、永遠のいのちを与えられたもの、天国の民とされたことを心から感謝したいのです。そしてその感謝をもって、天国を目指して旅を続けるべきです。そして、この天国への喜びの旅、希望の旅へと、一人でも多くの希望を失くし、勇気をくじかれ、こころが折れてしまった方々の隣人となるべきです。こうして、この日本に、この地上に、すでに教会において始められている天国の幸い、救いの恵みを、今こそ、証しすべきです。

この地上の人生を、真実に生きる、真実の喜びに溢れて生きる、生きることの喜びを知る日がすでに来ているのです。今こそ、すべての人々が、この天国の情報、天国の知識を得るべきです。そして、永遠の命の祝福と輝きの中で、地上の困難に立ち向かうべきです。

主イエスが、私どもにその幸いを今朝も与えて下さいました。主イエスは、私どもに分かったかとお尋ねくださいます。使徒たちだけではありません。ここに座る私どもにひとり一人に、「あなたはこの天国の真理が分かりましたか」とやさしくたずねて下さいます。私どもは、どう答えるのでしょうか。

「はい、分かりました。心から感謝致します。わたしたちは、永遠のいのちを与えられています。生きる喜びと力、あなたの愛を受け、しぼむことのないまことの希望が約束されています。主よ、どうぞ、この知識通りに、この信仰どおりに、地上を歩ませて下さい。神の国、天国と、神の義、正義を第一にして、狂いのない視線をもって、目標目指して、歩ませて下さい。」

祈祷
私どもに天国の扉を開いて下さいました主イエス・キリストの父なる御神、御子の十字架の贖いの故に今、私どもは天国の民とされています。天国の学者とされています。つまり、自分の人生を真実に生きる、本当の人生の目標、目的を知って、永遠の実りを結ぶことができる人間として取り戻されました。心から感謝、御礼申し上げます。主イエスを知らず、天国を知らないとき、私どもは目に見えるものがすべてだと、地上で成功することだけを目標としていました。そのようにして、隣人と真実に出会い、共に生きることができませんでした。けれども今、あなたは、私どもに永遠の救い、永遠のいのちを与えて下さったのです。これこそ、私どもの宝そのものです。この宝を第一にする生き方を徹底させて下さい。しばしば、眼つぶしを食らわせられて、この世の価値観に引き寄せられるからです。憐れんでください。古いもの、過ぎ去ったものから解放してください。新しいもの、福音の真理を選び取り、この真理の中で、自分に与えられた人生をいよいよ、確かなもの、神さまの栄光につながるものとして捧げさせて下さい。アーメン。