過去の投稿2011年11月16日

11月13日

  ―牧 会 通 信―

★   「はーとふるコンサート」が近づいてまいりました。住所、名前を記し、チラシを入れ込んだ封筒が、140部以上、準備されています。過去のコンサートに来られた方々の名簿から、準備されたものです。○○姉が、お近くにお住まいの方に手渡されるかもしれません。午後、もしくは今週中、近くにお住まいの方々に直接投函していただければ、幸いです。切手代を浮かすためにも・・・。2500部のチラシも準備しています。 伝道のための種まきにいそしみましょう。教会の、地域への文化的ディアコニアとしても・・・。

☆  先週、山元町の仮設住宅にお住まいの、ひとりのご婦人から、このようなお便りをいただきました。
「3月11日の震災で心が折れて希望をなくしていたときに、多くの方々の支援、応援に前を見て生きる元気をいただき、心より感謝申し上げます。先日、○○様が私のリクエストの品物を持ってきて下さいました。冬の準備ができて、使っています。いち個人のリクエストに準備して届けてくださったことにほんとうに感謝申し上げます。助かった命 大切に もう一度生きてみようと思えるようになったのも 皆様方の おかげです。 いつも感謝の気持 忘れずに 前向いて生きていこうと思っています。皆様方ほんとうにありがとうございました。寒くなってきましたので 皆様方 お体を大切になさって下さい。」 
朝夕の祈祷会出席者には、ご報告し、改めて執り成しの祈りを捧げさせて頂きました。私どもの拙い、小さなディアコニアであっても、このような一人の方の何らかの支えとなりうるのであれば、これまでの7か月間の奉仕のすべてが報われるとすら思いました。このお便りは、神の摂理であり、私どもへのさらなる励ましであると受け止めています。

★  返信のお便りを差し上げました。これは、わたし自身の課題かもしれませんが、容易なことではありません。一週間におひとり・・・、これが限界のように思います。一週に複数頂けた時には、どなたか、ご返信のご奉仕をと願います。

☆  先日の全体研修会の記録ができました。熟読をお願い致します。わたしの発題は、冒頭に短く記されています。「今回の学びで、あらためて教会員とは、【現住陪餐会員】であるという意味を深く理解していただければ嬉しい。開拓の祈りの柱として、「ここに聖餐の食卓を囲み、キリストを主と告白する慰めの共同体を形成させて下さい」があった。教会共同体とは、聖餐の礼典を中心にする集まり、聖餐共同体に他ならない。真実に聖餐の礼典を執行し続ける共同体の一員である自覚を持たせるために、現住陪餐会員という会員の正式な名称があることを、自覚したい。この聖餐の食卓をそれにふさわしく整えることが教会形成である。教会設立、長老職、執事職を立てるのも、まさに、聖餐共同体としてのふさわしい内実を獲得するために他らない。伝道所は、政治規準によれば、「小会を組織するに至らない自治組織未完備の各個教会を言う。」伝道所では、宣教教師ひとりに「法治権」(教会統治)がゆだねられている。長老主義とは、長老たちの会議によって統治する教会政治制度。つまり、伝道所とは例外的な教会のあり方なのである。

★  「聖餐共同体」としての教会を形成すること。地上にあっては、このためにこそ、私どもは洗礼を受け、「現住陪餐会員」とされたわけです。思いがけず、聖餐論について語る場面がありました。私が、制定語として、コリントの信徒への手紙Ⅰ第11章30節を読まない理由も、語られています。
【 「主の体をわきまえる」とは、キリストの体なる教会を正しく理解するということ。そしてその教会に正しく生きるということ。教会に生きるとは、教会の仲間たちが今、何をしているのか、何を喜び、悲しみ、何を感謝し、嘆いているのかを知ることが必須。教会員のために祈らないなら、主の体をわきまえていないこと。だから、聖餐の前に、悔い改めの祈りが必要となるはず。  「病人がたくさんいる・・・」文字通りに読んでよい。しかし、深く掘り下げるなら、何故、病人がたくさん出て、しかも死者まで出るのか。それは、配慮されていないからである。教会がもし、弱い者への配慮を欠くなら、教会は疲弊するということを、パウロは厳しくコリント教会に問いかけている。この時の、厳しい問いは、もとより愛に基づく。 そもそも、聖書には、神の威嚇の御言葉がたくさんあるのではないか。たとえば、ウェストミンスター信仰告白~」】

☆   聖餐の礼典を【祝う】という表現をもう10年以上は続けています。天国は、祝宴の世界です。キリストとの交わりの喜び、救いの喜びが満ち満ちた世界です。主の日の礼拝式こそ、この祝宴の地上における現れです。それを目に見えるカタチで、現出させていただける聖霊の御業の頂点が、聖餐の礼典を執行するそのときです。ですから、教会を、【聖餐共同体】と言うわけです。今朝、聖餐を祝う礼拝式ではありません。しかし、神の言葉の説教が語られ、そして聴きとられ(従う)るとき、そこに天国の祝宴が実現しています。