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赦された喜びに生きる群れ

「赦された喜びに生きる群れ」
2011年11月20日
テキスト マタイによる福音書 第18章21-35節①

「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 

今朝の礼拝式もまた、主の招きの御言葉を聴いて始めました。詩編第124編です。「わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある。」そして、今朝は、特別にこの主イエスの御言葉を、合わせて宣言しました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」私どもは今、約束通りに、主イエス・キリストのご臨在のうちに礼拝を捧げています。今ここで、救いの光、赦しの光を浴びています。私どもは罪を赦され、神の子とされているのです。まさに、私どもこそ、幸いな者です。そのことをお互いに心から感謝し、力を込めて主イエスの聖なる御名を賛美しましょう。

さて、キリスト者の生活、それは、「喜びに生きる」生活です。「神の喜びに生きる」と言い換えた方が、より正確です。それなら、神の喜びとはどのようなものなのでしょうか。これまで学んでまいりました第18章の説教こそ、それを巡って語られたものと理解できるのです。14節の御言葉は、まさに、それを、はっきりと示しています。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」99匹を野原に残してでも、たった一匹の羊を救おうとする神の愛、この神の愛の御心が満たされることです。つまり、この礼拝式において、小さな者のたった一人が滅びることを望んでいらっしゃらない神の愛のお心が、満たされることを、私どもは繰り返し学び続けているわけです。

しかし、そこで同時に教えられたことがあります。それは、本来、愛される資格を失っている自分じしんの姿に他なりません。

先週、大学で創世記第3章を講読しました。そこで、質問も提出されました。その中でほとんど必ず提出される問い、むしろ反発があります。このようなものです。「創造者なる神なら、何故、アダムやエバが罪を犯さないようにしなかったのか、そもそもそれが問題ではないか。」それをここでの説教で言えば、一匹を迷い出させた羊飼いの責任があるだろうということになるでしょう。しかし、この迷い出た一匹の譬えとは、自分の過ちのせいで、自分の罪のせいで、群れから離れてしまった私ども自身の姿に他なりません。自分の罪を棚に上げて、神に、羊飼いに責任転嫁をすることが、まさに、罪なのです。

しかし、主イエス・キリストの父なる神は、そのような傲慢な、自己中心の塊の、小さな罪人でしかない、たった一人のわたしを失うことに、耐えられないお方なのです。我慢が出来ないお方なのです。はらわたを震わせ、内臓を痛めるような激しい感情の爆発をともなって、捜しに出て行かれるのです。そして、探し出されます。

そのとき、まさにそのとき、神さまが喜ばれるのです。こんな、わたしのために、こんな自己中心の、自分勝手な、わがままで、自分ばかりを優先する私どもが救われることを、ご自身のもとに取り戻して下さることを、神が喜んでくださるのです。それが、神の喜びなのです。

ところが、実に、今朝の御言葉は、主イエスの弟子たちですら、この父なる神の尊い御心を悟ることができなかったという厳しい事実が明らかにされます。

そもそも、この第18章の一連の説教は、弟子たちの議論、言い争いを端に発してなされたものです。それは、1節です。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか。」弟子たちは、仲間の中でも頭一つでも上を目指そうとしたわけです。つまり、弟子どうしの競争であり、比較です。そのことが示している恥ずかしい事実は、弟子たちは、第18章以前のイエスさまの説教や、奇跡の御業を、正しく理解できていなかったということです。弟子たちは、イエスさまの説教が、本当に、分かっていなかったのです。
 

だからこそ、主イエスは、たたみかけるかのようにしてここで、説教を重ねられたのです。ところがです。このイエスさまの愛の説教を、あらためて台無しにするかのようなペトロの発言があるのです。それがこれです。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

しかし、彼自身は、イエスさまの説教を台無しにするようなつもりは、微塵もなかったのだろうと思うのです。むしろ、ペトロは、反対に自分こそは、誰よりもイエスさまのよき理解者であると、イエスさまの説教をちゃんと理解して、それに応答しているのだと、考えていたはずです。しかしこれは、悲劇です。あるいは喜劇でもありましょう。

先週、あることで、ある未信者の方と電話でお話しました。その方から、謝られたのです。そして、「神の顔も三度まで、ですよね。よろしくお願いしたい」と言われて、驚きました。それを言うなら、「仏の顔も三度」だと思います。「仏の顔も三度」ということわざの意味は、釈迦の顔も、見ず知らずの人に撫でられるならば、その非礼を二度までは赦すが、三度目には、厳しく反撃するということのようです。つまり、たとい失礼なふるまいをしてもすぐに怒るのは、人間として宜しくない。少し我慢しなさい。しかし、どんなに温厚な人でも、三度同じことをされたら、堪忍袋の緒が切れるのは、やむを得ない。人として当然のことという意味でしょう。だから、失礼なこと、非礼な言葉は、慎みなさいという格言なのでしょう。

さて、それに比べて、ペトロはどうでしょうか。彼は、ここで、三度ではありません。七度と言うのです。そうなれば、「さすがイエスさまの一番弟子」かのような評価を受けることができるかもしれません。実は、七度ということは、聖書の数字の理解から言えば、特別の意味を持ちます。もし、完全数という意味を込めるなら、ちょうど七度目になったら、堪忍袋の緒を切ってもよいというのではなく、さらに、もう少し、こらえがたいところをなんとか踏ん張って、我慢します。した方が良いのですよねという含みがあるのかもしれません。

しかし、いずれにせよ、この言葉は、主イエスのこれまでの説教をまったく理解していないということを、鮮やかに示しているのです。ところが、彼本人は、質問しながら、自ら答えて、立派な答えをしてみせたつもりなのです。

さてそれなら、いったい、彼の何が、どこが間違っているというのでしょうか。主イエスは、ペトロに、何とお答えになられたのでしょうか。「イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」

この主イエスの御言葉の意味を、今度こそ、ここでこそ、聴きそこなってはならないはずです。聴き間違えてはならないはずです。

確かに私どもにとって、聖書は難解です。何故、難しいのでしょうか。理由の一つは単純な事実にあります。聖書が神の御言葉だからです。聖書が、神の真理、神の御心が示されている書物だからです。誰か優れた人間の考えや、価値観に基づいて書かれている書物なら、これほどまでに難しいわけはないのです。しかし、聖書は、イエスさまの御言葉は、神の御言葉なのです。ということは、この聖書の御言葉を理解するためには、この世の考え、人間の常識では、的外れな理解に留まるということです。神さまごじしんに、ぴたりと焦点を当てて読まないと分かるはずがありません。さらに言えば、神に向かって生きないと、神さまを心から信じ、愛し、従う志をもって読み、聴こうとしないと分かりません。この世の知恵の結晶が記されているのではなく、神の知恵がここに示されているからです。

実にここで、ペトロじしんが、見事なまでに聖書の御言葉の読みの失敗、理解の失敗のモデルになってしまっています。

ペトロは、イエスさまによく思われたいと思ったのでしょう。一番弟子として認めて頂きたかったのでしょう。おそらく、かなり背伸びをして、7度までですかと言います。ところが、主イエスは、7の70倍と答えられます。490回です。490回までも赦しなさいということです。気の遠くなるような忍耐力です。

さて、今、わたしじしん、間違えたことを言っています。主イエスは、ここで490回まで、赦してあげなさいとお命じになられたわけではありません。ここでは、赦す回数の多さが問題になっているわけでは、決してないのです。キリスト者の忍耐力、寛容さ、心の広さが問題になっているわけではありません。主イエスは、ここで言わば、我慢比べをしておられるわけではありません。赦すことは、決して、自分を犠牲にすることではないのです。宗教的な修行をさせることでもなければ、仏教とは比較にならないほどのキリスト教の高い道徳を示されたわけでもありません。

ペトロは「何回まで」と言います。ここが問題なのです。何故、回数にこだわっているのでしょうか。ペトロは、主イエスの説教を誤解しています。確かに15節から17節の説教では、教会における罪の処置の方法の言わばルールが示されています。その個所をうわべだけの理解で要約するとすれば、こうなります。最初は、本人どうしでやりとりすること。二度目は、第三者を呼んで、やりとりすること。三度目には、教会においてやりとりすること。そして、それでも罪を犯したその人が悔い改めなければ、遂に、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」ということになるでしょう。そして、もし、そのように解釈するのであれば、どうでしょうか。まさに「仏の顔も三度」と同じことではないでしょうか。二度なのか三度なのかの違いは、そう大きなものではないはずです。

このとき、ペトロが得意満面の顔で、言ったのです。「イエスさま、わたしは3回、4回と言わず、7回までなら、赦します。」そう言うのです。ペトロは、まさに、三度を大幅に越えることができますと、自分の忍耐力、度量の深さ、広さを主イエスに告げたのです。

しかし繰り返します。そのような理解は根本から間違っています。分かるまでは、何でもおさらいしなければなりません。主イエスは、ここで、兄弟の罪を放置してはいけないと仰いました。何故、兄弟の罪を放置してはいけないのでしょうか。何故、兄弟の罪に無関心でいてはならないのでしょうか。それは、その人を愛していないことを意味するからです。主イエスは、ここで、罪を犯した兄弟姉妹を、神の愛の中に取り戻すために、全力を挙げるようにと、弟子たちに呼びかけていらっしゃるのです。

主イエスは、赦しに生きることの幸いへと、弟子たちを招いておられるのです。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」これは、赦される幸い、赦す幸いへの招きなのです。主イエスご自身も言わば数値をあげられていらっしゃるかのようですが、誤解してはなりません。490回という意味ではありません。491回に到達したなら、これまで我慢に我慢を重ねていた憤りを大爆発させてもかまわない、そう言うことではありません。

赦しとは、我慢ではないのです。昔、わたしは「キリスト者は、何をされても、ニコニコしている。温和な人たちだ。しかし、ただそれだけではないか。」そのような批判を聞いたことがあります。

これは、考えさせられます。しかし、主イエスが教えられた「柔和」とはそのようなものではないはずです。キリスト者にとって、この世には、憤らなければならないことがたくさんあるはずです。この社会に対する憤り、そこに働く罪、悪魔の策略に対して、憤りをなくしてしまったなら、もはや、キリスト者は死んだような存在になるはずです。福音書において、主イエスは、どれほど真剣にファリサイ派、律法学者、神殿祭司たちに憤られたことでしょうか。

何よりもこの第18章において、地上にある教会にとって最後の最後、まさに究極の最後において、教会員をその交わりから追放することを、その権能を与えられていることを学んだのです。教会は、天国の門を開くだけではなく、時には、閉ざさなければならないことを、主イエスから教えられたのです。実に厳しいことです。しかし、主イエスは、まさにこの第18章において、教会のその決定を、お認め下さること、保証して下さるとことを教会に約束してくださり、励まして下さったのです。だからこそ、教会は、まさに恐れ多くも、ある人に洗礼を施すことができるのですし、しなければならないのです。また反対に、ある人には、聖餐の交わりから遠ざけることができるのですし、しなければならないのです。

それなら、ここで改めて主イエスが、徹底して赦しのために取り組むこと、まさに無制限に赦しのために取り組むことをペトロに、教会に強く求めていらっしゃるのはどう言う意味なのでしょうか。

それは、兄弟の一人が滅びることを決してのぞまない神の御心を何度でも、教会に示すためです。言いかえれば、今ここでこのペトロが、教会じしんが、その神の御心を悟り、これに従うことに失敗してしまっているからに他なりません。

2000年後のわたしどもは、ここで、使徒ペトロが決定的に間違えたことを真剣に、深刻に考えなければならないはずです。決して他人事、例外的なことではないからです。
もし、主イエスが語られたことを、すばらしい「道徳」として理解すれば、まったく間違えてしまいます。もしも、主イエスの御教えを、単に、人格を陶冶するためとか、人格の完成を目指す道にするとか、人間の修養を目指す最高の教えとして理解すれば、まさに、ペトロがしたように、もっともよくて「キリスト者の顔も7度まで」となるでしょう。主イエスは、単に、寛容な、包容力のあるキリスト者になりなさい、人に悪く言われてもすぐにかっとこないで、ぐっと我慢して、笑顔の一つも出せるような心のタフさ、余裕に溢れた人になりなさいと、そのようなことをここで求めていらっしゃるわけではないのです。

主イエスがもとめておられることは、こういうことです。教会の柱になるべきペトロ、教会の礎になるべきペトロに、心から愛をもってこのように願い、求めていらっしゃいます。

そこで、主イエスは、譬え話をもって説得されます。今朝は、この仲間を赦さない譬えそのものを説き明かす時間がありません。来週の説教で、集中的に扱います。しかし、簡単に申しますと、こういうことなのです。主イエスは、この譬えをもって、ペトロに、こう問いかけ、こう説得なさったのです。

「ペトロよ、あなたじしんが、罪を赦された者の筆頭のはずではないか。あなたこそが、罪人たちの頭、罪人の中の罪人のような者だったはずでしょう。しかし、そのあなたのために、わたしは、わたしの血を十字架で捧げるのだよ。だから、あなたも、この赦しの恵みの奇跡の中に生きてほしい。生き続けてほしい。この罪の赦しを知れば知るほど、あなたも、あなたの兄弟たちも、お互いに、罪を認めあい、弱さを受け入れあえるはずですね。いつまでも、わたしの赦しの中に留まりなさい。そのとき、罪の赦しの恵みによって、あなたがたは、まったく新しくされた人間とされます。そして新しい共同体とされます。それが、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てると約束した、教会の意味なのですよ。」

先週は、教会では毎晩、集会がありました。いつものようにマンツーマンの聖書の学び会を軸にしたものですが、しかし、牧会通信にも記しました通り、男性の祈祷会も開催したのです。

このような集会こそ、まさに教会らしい、教会だからこその集いだと思いました。求道中の仲間たちと膝を突き合わせるようにすることは、これまで、ずっと継続していました。しかし、男性の祈祷会は、委員が中心でした。これが、すばらしいことだと思ったのです。その集会は、先週の説教で学んだ罪の処置を巡る集いではありません。しかし、最後に、みんなで、心を合わせて執り成し祈りました。それぞれの信仰生活、教会生活、聖書を読み、祈り、御言葉に聴き従う人生が祝福されるようにと、神と共に、神のために生きる歩みが健やかなものとなりますようにと祈り求めました。それは、必然的に、自分たちの罪を悔い改める祈りでもあったはずです。そのとき、まさに、二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのであるとの主イエスのお約束が成就していることを信じました。

皆さんの祈りが終わったところで、いつものように「主の祈り」が捧げられました。この祈りこそは、主イエス・キリストのご臨在をもっとも鮮やかに示していただける祈りです。そして、その祈りの中のまさに、真ん中、中心の祈願があります。6つの祈願のまさに中心です。それは第5祈願です。「われらに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまへ」これです。そして、主イエスは、先週の説教を通して、高らかに宣言されました。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの父はそれをかなえて下さる。」その祈願とは、まさに、罪の赦しを求めるものに他ならないのだと、私どもは学びました。

その意味で、教会とは、「主の祈り」を祈る集いだと言っても言い過ぎではありません。教会とは、主イエスのこの罪の赦しを求める祈りを祈ること、祈り続けるところにこそ、その堅固な土台が据えられ、慰めの教会として形成されて行くということが、ここではっきりと示されます。

この後、ペトロは、自分の身を守るために主イエスを裏切りました。主イエスを見捨てて逃げ去ってしまったのです。そのとき、初めてのように、ペトロは知ります。自分がどんなに、恐ろしい罪を他ならないイエスさまに対して犯してしまったのか、罪人であるかを、です。ところが、復活された主イエスは、誰よりも先に、この罪を犯したペトロを探し出します。そして、彼をみもとに招かれます。主イエスは、まさにペトロを抱きしめるようにして、彼の罪を赦されます。そればかりか、このとてつもない罪、赦されざる罪を犯した彼を、教会の指導者、牧会者に任命して、こうお命じになられたのです。「わたしの羊を養いなさい。わたしがあなたひとりを探し出して、追いかけたように、あなたもまた、そのように、わたしの羊のために労苦しなさい。」

確かに、それは、労苦です。羊は、自分勝手な道を歩むこと、しばしばです。先週、男性委員は、火曜日、水曜日、木曜日と、三日連続で祈りの集いに出席されたことになるでしょう。しかし、この労苦は、決して無駄に終わらないのです。いへ、この労苦においてこそ、私どもは、実は、神の喜びにダイレクトに、あずかる幸いを体験するのです。

ペトロもそして私どももまた、主イエスの赦しにあずかるとき、生き返ります。新しい自分にされます。これまでの自分を取り戻すというのではなく、これまで以上の強さをまとい、優しさをまとい、もう一度、もう一度と何度でも困難の壁に向かって立ち向かう勇気と愛が与えられるのです。

何よりもそこで、神の喜びそのものをわけていただくのです。たったひとりの小さな者の滅びることを望まれない神が、教会に生きる仲間を取り戻したとき、あるいは、洗礼を受けてついに教会の交わりに生きる仲間を加えることができたとき、そのとき、天国、天上において父なる神さまの喜びは、爆発されるのです。溢れます。満たされます。教会とは、この神の喜びに生きる場所なのです。それを自分たちに引き寄せて表現するならこうです。教会は、罪を赦された喜びに生きる共同体なのです。今、主イエス・キリストは私どもと共に、私どもの真ん中におられます。私どもの赦されざる罪は、赦されているのです。

祈祷

私どもの不信仰の罪、不従順の罪を贖うために、十字架で御血を流して下さいました主イエス・キリストの父なる御神、私どものすべての罪を、赦して下さいましたことを心から感謝いたします。何よりも、先ず、自分自身が、御前に、罪を重ねることなく、罪を示されたときには、速やかに悔い改め、あなたへと立ち戻ることができますように。そして、どうそ、この赦しの恵みを深く感謝する者らしく、私どもに罪を犯す者を赦す歩みを、そのようにして兄弟を神の救いのもとに取り戻すための牧会の務め、また新しくあなたのもとにお招きする伝道の務めを担う者とならせて下さい。アーメン。