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神の民の祈りの家を築くため

 

「神の民の祈りの家を築くため」

                         

 2012年2月26日

             

マタイによる福音書 第21章12節~17節

  

「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。

『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」

境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。」

先週、中部中会の教師会が伊勢志摩のユースホステルで行われました。帰路、有志の教師たちは、伊勢神宮を見学に行かれました。多くの牧師たちが、向かいました。残念ながら、わたしは、時間の余裕もありませんでしたので、帰るチームの運転手となって、戻ってまいりました。何よりも、伊勢神宮には、既に見学したことがあったからです。内宮に入る前の道に、おかげ横丁というのでしょうか、お土産屋さんも並んでいます。おいしいおまんじゅう屋さんもそこにあるようです。まさに、お伊勢さんは、観光地です。

さて、今朝の物語を読み解くためには、ある基本的な知識がどうしても必要かと思います。当時の神殿の構造、境内のようすについてです。神殿は、いくつかの囲いがありました。何と言っても祭司しか入ることのできない至聖所と呼ばれる部屋です。神ご自身がそこに着座される最も神聖な場所という意味です。その至聖所に向き合うのが、いわゆる神殿内部です。しかし、そこもまた囲いで隔たれていました。至聖所に向き合うのが、イスラエルの民しかも男性しか入ることができない場所がありました。そして、その外側には、イスラエルの民の女性が入る場所がありました。そして、その外には、異邦人の庭と呼ばれる場所、異邦人の男性も入れる場所がありました。

そして今朝の物語、事件は、まさにその異邦人の庭で起こったのです。この異邦人の庭もまた、神殿の一部です。しかし、神殿の建物までの距離は、300メートルから400メートルもあったと言われます。そして、その左右には、私どもがお祭りなどで目にするような、屋台ではありませんが、しかし、両替人がいたり、鳩売りがいました。今朝の物語の時期は、ちょうど過ぎ越しの祭りでしたから、相当の賑わいだったようです。

それなら、何故、神殿の庭に商人がいるのでしょうか。実は、ここに登場する両替人も鳩を売る者も、神殿と無関係ではありません。礼拝と無関係のことではまったくありません。むしろ、お祭りの屋台とか、土産物屋さんとは違います。

ユダヤ人は、神殿に献金するとき、異邦人のローマ貨幣をささげることを避けます。異邦人の王、ローマ皇帝が刻まれた硬貨を、まことの王なる神に、ささげることはできません。信仰の良心が痛むわけです。そこで、イスラエルの貨幣に両替する必要が生じるわけです。鳩売りとは何でしょうか。それは、エルサレムから遠く離れて暮らすユダヤ人参拝者にとって、過ぎ越しの祭りのように大勢の人々がやってくるその時期、動物を連れて来ることは、至難と思います。したがって、神殿の境内で、生きている鳩を売ってくれる人がいてくれたら、それは大変、ありがたかったと思います。言わば、神殿の境内、異邦人の庭には、コンビニがあったわけです。つまり、当時の人々にとっては、まったく違和感がなかったはずです。

ところが、その見慣れた風景に強烈に違和感を持たれたお方がいらっしゃいます。それが、主イエスです。売る人だけではなく買う人までも、分け隔てなく、神殿から追い出されます。マタイによる福音書を読んでまいりまして、これまでの主イエスのイメージと、あまりにもかけ離れた行動に、新共同訳は「不思議な業」と訳しましたが、驚くべき業を行われました。私どももまた、驚かざるを得ないと思います。とりわけ、先週、私どもが学んだのは、主イエスが柔和な王、平和の王として、子どものロバの背中に乗って、フラフラと入城なさるお姿です。その柔和なイエスさまと、神殿でのおそらくは顔を赤くして、厳しく叱責され、追放される力強いイエスさまのお姿とのギャップに、いったいこれが同じ人物なのかとすら思うほどです。まさにコントラストが強烈です。しかし、どちらの主イエスもまことのイエスさまのお心を映し出すものに他なりません。

最初に、少しおさらいをしたいと思います。マタイによる福音書第12章で、主イエスは安息日についての説教をしておられます。安息日に、麦畑を横切ったとき、弟子たちが空腹のあまり、穂を摘んで食べたことが、ファリサイ派の人たちからのきびしい、批判、攻撃を受けてのことでした。そこで、主イエスは、このように宣言されました。「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。」「神殿よりも偉大なもの」それこそが、主イエス・キリストご自身のことです。その説教での、結びの言葉は、こうです。「人の子は安息日の主なのである。」人の子とは、主イエス・キリストご自身のことです。つまり、主イエスさまは、生ける神ご自身でいらっしゃいますから、いかにエルサレムの壮麗な神殿であっても、主イエスと比べることはできません。神ごじしんと神を礼拝する場所とどちらが偉大なのか、言うまでもありません。ところが、ファリサイ派の人々、聖書の学者、祭司たちは、それを受け止め損なったのです。主イエスが真の人間であって同時に真の神でいらっしゃることを否定してしまったのです。

神殿で仕事をするのは、祭司たちです。主イエスは、ここで、エルサレム神殿の祭司、祭司長とご自身とを比較されるのです。主イエスは仰せになられます。「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。」マタイによる福音書の著者は、こう言いたいのです。イエスさまこそが、真の祭司、究極の大祭司なのだ。主イエスこそ、祭司の務めを完全に、完璧に実行されるお方でいらっしゃるというメッセージです。エルサレムで奉仕する祭司たちは、神の民、イスラエルの罪を告白し、彼らの罪を償う方法として旧約の掟に従って、動物を屠って、祭儀、儀式を執り行います。しかし、究極の最高の完全なる祭司でいらっしゃるイエスさまは、動物をいけにえにするのではなく、私どもの罪を償うため、罪をあがなうために、ご自身のお命を十字架という祭壇において、お捧げになられるのです。だからこそ、主イエスは、「神殿よりも偉大なもの」でいらっしゃり、いかなる祭司たちよりも偉大なお方なのです。

さて、主イエスは、いったいエルサレム神殿において、何をしておられるのでしょうか。主イエスは、ここで祭司としてのやむにやまれない戦いをしておられるのです。もとより、私どもが信仰の戦いと言う時、それは、すべて例外がありません。それは、「愛の戦い」です。「神を神とするための戦い」です。それ以外に、信仰の戦いなるものはありえません。そしてそもそも、この戦いに生きることがなければ、信仰の生活そのものが成り立ちません。信仰生活、教会生活をしていないと言っても言い過ぎではありません。

祭司は、神殿のすべての責任を担う人です。まことの祭司、大祭司でいらっしゃる主イエスは、その終わりが近づいておられることをわきまえて、ここで愛の戦いを徹底的にしておられるのです。この物語は、そのようにしか読めないはずです。読んではならないはずです。気でもおかしくなったかと思われるような乱暴なふるまいは、主イエスの愛の戦いであり、まことの神のみをまことの神とする、神の主権を貫く、神の尊厳を徹底する、そのため戦いをしておられるのです。

そもそも神殿とは、祈りの場所です。礼拝の場所です。それは、おそらく誰にも分かっているはずです。もちろん、そこで両替をする人も、鳩を売る人もわきまえているはずです。礼拝をするためにこそ、彼らは、礼拝者、参拝者のための便利を思い、商売をしているのです。しかし、そこで明らかな事があります。もっとも厳粛でしかももっとも単純な事実があるはずです。それは、礼拝の良しあしとは、礼拝のまことの価値とは、その礼拝、その祈りが、肝心の神さまの御心にかなっているのかどうかという一点です。私どもの礼拝を裁くことがおできになるのは、それを判定なさることがおできなられるのは、結局は、人間ではありません。祭司たちでもありません。礼拝する本人でもありません。究極においては、ただ、神のみがなさるのです。父と子と聖霊の唯一の神に受け入れられない祈りや礼拝であれば、それがどれほど、人間に喜ばれ、受け入れられ、感謝されたとしても、本人たちが充実した、恵まれたと言ったとしても、まったく意味がありません。この余あまりにも基本的なことを、実は、私どもは、あまりにも真剣に考えないのではないでしょうか。

さて、私どもはいつでも聖書の御言葉は、基本的にキリスト者、教会を裁く、正す福音の言葉として読みます。しかし、ここで明らかにされていることは、さらに広く、すべての人間の宗教的行動について考えることもできるだろうと思います。

伊勢神宮は、最も有名な神社の一つだろうと思います。天皇家の氏神を祭っている神社です。おかしな表現で申し訳ありませんが、言わば、神社の総本山です。しかし、それ以外のたくさんある神社、町や村にある神社が何を祭っているのか、もしかすると、それほど単純ではないと思います。そこに、初もうでする方々は、その神社が何をお祭りしているのか、きちんと分かってしていいる人は、どれだけいるのでしょうか。つまり、そこで見えて来ることがあるだろうと思います。神社に詣でるとき、肝心要のはずの、祭られている神さまについては、ほとんど関心がないのではないでしょうか。むしろ、関心があるのは、ただ自分の今年の歩み、今年の課題、目標など、つまり、自分の願いごとではないでしょうか。自分の利益なのではないかと思います。

しかし、今朝、そのことについてこれ以上掘り下げる必要はないのです。むしろ、教会のこと、キリスト者自身の事を考えるべきです。「まあ、キリスト教以外の宗教は、偶像礼拝で、よろしくない。」事は、それほど単純ではありません。確かにエルサレム神殿は、真の神、唯一の神を拝む場所です。この神殿は、人間が自分勝手に造ったのではありません。聖書に、レビ記に記されているとおり、神の御言葉に基づいて、造られたものなのです。ところが今、この神殿の言わば本体そのものでいらっしゃる神さま、イエスさまから、「これは、わたしの家、父なる神の家、神殿のはずなのに、強盗の巣にされてしまった。この家は、神を礼拝する場所、祈りをする場所なのに、君らは、強盗の巣にしてしまった。」これは、実に、厳しい言葉です。これが、まだ商売人の家と言われたのなら、分かります。受け入れやすいかもしれません。しかし、強盗の巣と断定なさったのです。強盗というのは、空き巣とは違います。コソ泥とは違います。準備を整えて、盗みに入ります。いざとなれば、相手を傷つけ、殺してでも奪います。それを、強盗と呼ぶのだと思います。主イエスが、ここで用いられた言葉は、強盗なのです。

いったい何故、そこまでおっしゃるのでしょうか。それは、キリスト者じしん、キリストの教会ですら、そのように呼ばれる危険性、可能性があるからです。2000年前のこのときの問題だけでは決してありません。

そこで改めて信仰の基本について考えましょう。私どもは、今朝、ここに何をしに来たのかと言う事です。いったい、初詣する人々と私どもとは、どこがどう違っているのでしょうか。ただちに、私たちは、「聖書の神を礼拝しているのであって、偶像礼拝とはまったく無縁だ」そう言うかもしれません。しかし、ことは、単純ではありません。むしろ、私どもこそ、誰よりも厳しく問われているのです。真の神を知らされ、主イエス・キリストの恵み、救いにあずかっているからです。つまり、私どもは、神を神とするためにここに来ているのか、それとも、自分を喜ばせるため、自分の何かを満たされることを何にも優先して来ているのかということです。

このことは、今日だけ、問うべきことではありません。毎主日、自ら問うべきこと、問われていることです。それは、いったいキリスト教信仰とは、何かを問うことに通じます。私どもは、神を第一とする。主イエスを主と告白するために、ここに集うのです。私どもは、自分のことを脇におけるようになったのです。何故でしょうか。それは、完全なる救い、まことの救いを受けているからです。自分の決定的な課題、罪の問題は、完全に解決が与えられ、まったき救い、恵みのうちに捕えられているからです。自分という牢獄、縄目から自由にされたからです。だから、もう、自分にこだわらなくともよくなったのです。自分のことを、すべてのすべてにすること、自分を中心にしなければ、自分が失われ、自分が自分でなくなるなどという圧迫感から解放されているはずだからです。私どもは、「自分が自分が」という、強迫観念から自由にされたのです。

しかし、そのような私どもにもかかわらず、まだ、自分をすべての中心にすえ、何よりも、神を礼拝する場所と時間においてもなお、自分の心が満たされたか、自分の願いが、悩みがどう具体的に解決されたのか、それにこだわっているとしたら、いかがでしょうか。

主イエスは、ここでは、激しく、厳しく叱責され、戦われたのです。それは、神殿の中で、神をないがしろにして、結局、自分にこだわる不信仰、偶像礼拝に対してです。いったい、偶像礼拝とは、何でしょうか。それは、神社や仏閣に詣でることばかりではありません。むしろ、教会で、信仰の生活のなかで、私どもが犯すことなのです。自分を神とすること、自分を自分の人生の主にしてしまうことです。救われた者、主イエス・キリストに命をもって、御血をもって贖われた者であることを裏切り、なおも、自分勝手な礼拝や祈りをすることです。

主イエスは、エルサレムに入城する直前に、何をなさったのでしょうか。先々週の説教を思いだして下さい。目の見えない二人を、道端に座って、「憐れんで下さい」と、道行く人にすがって生きている二人を、深く顧みられました。それは、おそらくいつもの光景のはずです。その道は、エルサレムにも通じる道のはずです。そうであれば、神殿に詣でる人たちは、彼らを必ず見ていたはずです。しかし、見過ごしているのです。しかし、主イエスは、立ち止まられます。そして深く憐れまれたのです。断腸の思い、はらわたを痛めるような激しい愛の感情を爆発させて、この二人の目を開かれたのです。

確かに、私どもは毎日毎日、自分自身のことで、忙しくしています。自分の生活、自分の仕事、自分の家庭のことで、朝から晩まで、本当に忙しいと思います。ですから、「たまの日曜日くらい、ゆっくりと休みたい。自分のことをさせほしい。それの何が悪いのだ。」そのような思いが生じることは、よく分かります。主イエス・キリストの恵みの外で生きておられる方のつぶやきであれば、まさにもっともなことです。よく分かります。しかし、それが、キリスト者のつぶやきとなるのであれば、いかがでしょうか。

私どもの教会は、水曜日の朝夕の祈祷会を重んじています。毎週、20名以上の兄弟姉妹たちが、集います。礼拝出席者、現住陪餐会員の半数以上が出席しておられます。そしてこれからも、もっともっと盛んにしたいと願います。何故、祈祷会なのでしょうか。教会が祈りの家だからです。ここでの祈りとは、主日礼拝式のことを第一に考えてまいりました。それでよいはずです。しかし同時に、私どもの教会、福音主義教会で申しますと、平日の祈祷会のこととして理解することもできるはずです。いわゆるプロテスタント教会は、平日にも教会に集まって祈りをするのです。そして、その時の祈りとは、何かと申しますと、教会の祭司としての奉仕に他なりません。つまり、自分以外の人のために祈ることです。それを、執り成しの祈りと呼びます。私どもの祈祷会は、自分の霊性を深め、自分の霊的な喜び、祝福に満たされるために、祈祷会を持っているわけではありません。少なくともそれが第一のことではありません。それは、どうでもよいことだからでは決してありません。むしろ、私どもは、毎日の生活のなかで、毎日聖書を開いて、お祈りする習慣の中で、それを大切にするのです。ただし、水曜日の教会の祈祷会での祈りは、常に、隣人のための祈りが中心のはずです。私どもの教会が今日まで歩むことができたのも、主日礼拝式を中心にすることは、当然ですが、まさに、この主日礼拝式を真実に捧げるためにこそ、祈祷会を重んじて来たのです。

私どもは、そこで自分を忘れて、隣人の救いと幸せのために祈ることができるのです。考えてみますと、驚くべきことです。しかし、そのような者にしていただいたのです。救われたからです。罪を赦されたからです。永遠のいのちの祝福が保証されたからです。だから、余裕のある人生へと導かれたのです。

さて、マタイによる福音書は、主イエスは、ただ商売人たちを追い散らされて終わったわけではないと告げます。決して見過ごしてはならないことがあります。「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。」とあります。主イエスは、言わば、いつものように、癒しの御業をなさっておられます。しかし、注目すべきは、彼らが今、神殿にいるということです。実は、神殿には、いわゆる障がい者は入ることが許されていませんでした。その場所に、彼らが入ってきたのです。おそらくは、商人たちが追い出されて行くその光景を、神殿の外で見ていたのだろうと想像します。そして、彼らは、混乱に乗じて中に入って、イエスさまに近づいたのだろうと思います。そして、主イエスは、彼らを癒されたのです。

そして、これは、マタイによる福音書第11章で学びましたように、世の終わりのとき、キリストがこられるとき、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされ」るのだと、主イエスは仰せになられました。それはまさに、主イエスはメシア、キリストだということの証拠であり、預言の成就に他なりません。

今や、エルサレムの神殿は、このキリストの来臨によって、その役目を終えたのです。もう、人間が神と出会い、祈り、礼拝するためには、エルサレム神殿は必要なくなったのです。動物のいけにえもまた必要なくなったのです。何故なら、主イエス・キリストご自身が神殿そのものだからです。

次に、「祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「『ダビデの子にホサナ』」と言うのを聞いて腹を立て」と激しく反発しています。子どもたちまでも、イエスさまを賛美していることに激しい違和感を持ちました。そして、主イエスを厳しくいさめるのです。「あなたは、子どもからも、ダビデの子、王さま、救い主などと言われている。そんなとんでもない賛美を、やめさせなさい。やめさせないと言うことは、自分がキリストだと認めるつもりなのか。」

主イエスは、断固、応えられます。「あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」これは、詩編第8編2節の御言葉の引用です。「主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます幼子、乳飲み子の口によって。」主イエスは、徹底的に、幼子を大切にしておられます。マタイによる福音書は、神は、徹底的に、小さな者、最も小さな人間に、御眼を留められ、重んじられることを、繰り返して主張しています。そして、ここでの幼子、乳飲み子、子どもたちとは、まさに、ここにいる私どもに他なりません。私どもの拙い賛美、信仰告白、そして「主よ、憐れんで下さい」「ホサナ、救って下さい」との祈りを、主イエス・キリストが受け入れて下さるのです。こんなに幸いなことはありません。

今朝もまた、私はいつものように祈りました。この礼拝式をこれまでの最善、最高の礼拝として捧げさせて下さいと。小さな礼拝堂です。何の装飾もありません。しかし、今、ここに、主イエス・キリストは聖霊によってご臨在くださっています。私どもは、このキリストのご臨在にあずかっています。

今朝、私どもは、主イエス・キリストによって罪赦されたことを信じ、聖なる者たちとされたことを信じ、自分じしんを主に明け渡し、主にお捧げします。そのような私どもの、礼拝式を、この教会を、神の民である私どもの祈りの家を、主イエスが喜んでくださいます。わたしは、ここに、この岩の上に、わたしの教会を建てると宣言してくださいます。

祈祷

私どもの小さな礼拝堂に、私どもの真ん中に、聖霊によって臨在を明らかにしてくださる主イエス・キリストよ。私どもが、常に、自分を喜ばせる礼拝ではなく、あなたを喜び、あなたの喜びを喜び、隣人のために執り成す、そのような神の民にふさわしい礼拝式をささげることへと、常に信仰の姿勢を整え、その志に生き、主のために、隣人のために生きることができますように。この礼拝式から私どもを派遣してください。アーメン。