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「その日、その時は誰も知らない」

「その日、その時は誰も知らない」
                2012年9月23日
             マタイによる福音書 第24章32~44節
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
 

先般、民主党と自民党のそれぞれの代表によって国会の解散を「近いうちに」必ず、行うという約束がかわされたということが話題になりました。そして、その「近いうち」とは、どれくらい近いのか、いつなのかということが、議論されていました。たとえば、私どももまた、将来計画、年間計画などをたてる時、何年何月頃に、こうするああすると、できるかぎり、日付を打つようにします。先週もまた東京での委員会を終えましたが、必ず、次回の日程を定めます。基本的には、決めるまで閉会できません。こうして、次回までになすべき仕事を確定するわけです。
さて、私どもの信仰生活にとって、言わば、最大の出来事、最大等と言う言葉はなお、たりません、究極の出来事とはなんでしょうか。それこそ、主イエスの再臨に他なりません。人類の歴史、将来にとって、これ以上に大きな出来事は、他にあり得ません。それ故に、それがいつ起こるのかということに関心が注がれることは、当然すぎるほど当然のことと思います。

さて、今朝、32節~44節までひとくくりにして読むからこそ見えて来ることがあります。これは、とても不思議なことです。矛盾ではないかと思うほどです。主イエスは、冒頭で、こう仰います。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」つまり、主イエスが再び来られるのは、決して、突然のことではないということです。古今和歌集に「秋来ぬと目には彩かに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」という歌があります。秋の気配は風の音からさへ、感じ取れるわけです。主イエスはここで、まさに自然界と同じように、ご自身が再びこの地上に来られる時が近づいていることは、世界史、世界の情勢を見れば、おのずと分かるのだから、しっかりと悟りなさいとお命じになられたのです。

ところが、その一方で、今朝の説教の結びにおいて、主イエスはこうも仰ったのです。「人の子は思いがけない時に来るからである。」思いがけない時とは、予想を裏切る時と言う意味でしょう。つまり一方で、予想はできるとおっしゃり、他方で、予想はできないともおっしゃるわけです。

そして、その両者をつなぎ合わせる意味でも、何よりも終末の教え、再臨の教えにおいて、決定的に大切な御言葉がここで語られています。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」私は、再臨の教えの中で、他の何を忘れてしまってもとは、言い過ぎですが、これだけは、忘れてはならない御言葉がこれだと思います。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」何故なら、キリスト教の最近の異端は、ほぼすべてこの決定的な主イエスの御言葉を裏切るものだからです。統一原理も、エホバの証人も、すでに何度も、キリストの再臨の預言をしています。詳しくは忘れてしまったのですが、最初は、1914年ということを言っていたかと思います。そして、実は、そのような大きな異端の宗教団体だけでありません。これまでキリスト教会の内部からも、主イエスの再臨を何年何月だと特定した牧師やグループがありました。すべての予告は当然、外れてしまったわけです。ところがなお、活動を続けています。弁解にもならない弁解をしてみせるのです。何年何月に、キリストは確かに再臨したのだ、ただしそれは、地上ではなく、天のある段階のところまで来ているのだというのです。言うまでもありませんが、まさに、偽りに偽りを重ねているだけです。

実に、天使たちですら、再臨の日を知らされていないと主イエスは仰います。その日その時、天使たちこそは、神の民たちを、キリスト者、教会共同体を主イエスのもとに連れて来る、その伝令として奉仕することが予告されています。それほど重要な務めを担うべき、彼らにも再臨の日時は、知らされていません。

さらに何よりも、驚くべきことに、なんと、主イエスご自身すらその日、その時が、いつなのか、知らないと仰るのです。これは、解釈が分かれると思います。本当に、イエスさまがご存知ないと文字通りとる人もいるでしょう。しかし、わたしはそうは、思えません。天使を、キリスト者たちを呼び集めるために遣わすのは、イエスさまご自身なのです。ご自身が知らないはずはないです。しかし、このように仰せになられることによって、私どもは、御父を崇める、御子の謙遜をここに見るべきだと思います。父なる神が主権者、王の王、神でいらっしゃるのです。その神の領域に、再臨の日時を予告する、預言する人間たちの愚かさと傲慢を思わずにいられません。
整理しますが、主イエスのご再臨の日時については、その近いことははっきりと分かり、同時に、突然来られるということです。そして、いずれにしろ、日時は、決して人間には知らされていないということです。

さて、今朝、そもそものことをここで学び、確認しておくことも大切だと思います。単なる歴史的知識です。しかし、とても大切な知識だと思います。そもそも、この福音書が生まれたのは、第1世紀の後半でした。主イエスが天に戻られてから少なくとも30年以上が過ぎています。30年と言えば、世代の交代が起こり始めるある一定の期間を意味するであろうと思います。教会は、第一世代からその子どもたちの世代へと移り始める期間であったわけです。

第一世代の人々、それは、まさにイエスさまの弟子たちの世代。使徒たちの世代です。彼らは、どのような信仰の思いを抱いて生きていたのでしょうか。たとえば、使徒パウロの手紙の中に、このような御言葉があります。Ⅰテサロニケの信徒への手紙第4章13節以下の御言葉を聴きましょう。「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。」つまり、パウロは、自分が生きている間に、主イエスが再びこの地上に来られること、再臨されることを信じていたことが明らかにされています。

第一世代のキリスト者たちは、パウロのように、イエスさまがもう一度、自分たちのところに戻って来て下さる、再臨して下さるのだという期待と緊張感に溢れていました。ところがその後、10年、20年そして30年が過ぎて行くと、教会の中にある問題が起こってきました。「イエスさまの再臨が遅れている。どうして遅れているのだろうか。もしかすると、再臨の教え、約束は、真実のものではなかったのではないか」そのような疑いが生じはじめたのです。そして、まさに、そのような状況の中で、また、まさに、そのような問いに答えるという一つの明確な理由もあって福音書は記されたわけです。さらに言えば、新約聖書全体の成立ということが生じたわけです。

教会は、主イエスの再臨が切迫していることを確信しながら、しかし同時に、慌てることなく、落ち着いた生活を整えて再臨を待ち望む姿勢を、言わば、新約聖書によって整え直したわけです。そのことは、今日の私どももまた、同じことです。先週のおさらいでもありますが、祈祷会でもまたおさらいをしたわけですが、本当に大切なことがあります。「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。」この時代は過ぎ去らないのです。なお、続くのです。つまり、この世界、この時代は、神の主権の下に置かれています。統治されています。夜の祈祷会では、この世界は、決してテロリストの手の中にあるのでもアメリカ国防総省ペンタゴンの手の中にあるのでもないのです。どのようなことがあってもなお、根本のところで動じることなく、慌てることなく、私どもは教会の使命を担い続けて行くのです。

いへ、その当時との違いもまたあります。それは、使徒パウロを代表とした主イエスの再臨への生き生きとした期待感が薄れているということです。そしてむしろ、私どものこの問題の方がはるかに問題であるはずです。

次に、ここで主イエスは、ノアの時代の箱舟物語について言及されます。したがって、創世記第6章以下の物語を思い起こしたいと思います。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。」神は、人間の悪の増大をこれ以上、黙認することができず、地上に大洪水を起こされました。しかし、ノアとその家族そればかりか動物や鳥たちをも憐れんで、彼らに箱舟を造らせたのです。ノアは、神の御言葉にしたがって、陸地において船を建造します。そして、御言葉どおり、時いたりついに、大地は洪水によって拭い去られてしまいました。

主イエスは、この物語を通して、警告しておられます。あの時も、人々は、「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」いつもと変わらない生活を続けていたのです。

しかし私どもは今、たとい世の終わりがまさに起こっていると思われるような状況にあっても、なお、あわてふためくことなく、落ち着いた生活をしてよいし、すべきだと学んだばかりです。矛盾する主張のように聞こえるかもしれません。ここでは、むしろ、ノアとその家族の方が、まさに非日常的なことをしているのです。陸地で、巨大な箱舟を建造しているのです。人々の目には、愚かと映ったと思います。反対に、ノアの時代の人々は、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり、つまり、普段の生活を続けていたのです。そして、いつまでも自分たちの暮らしが続いて行くものと考えていました。何も、神を中心とした生活など営まなくても、それなりに楽しく暮らして行ける、いや、もっと自分らしい生活ができる、そう考えていたのでしょう。

わたしは、このように想像します。「ノアさん、あなたの宗教は自由だから、好きなようにしてください。しかし、自分たちは、創造者なる神など信じないで、従わないでもやって行けますから。」そして、おそらく興味本位でしょうが、彼らは、ノアの大工仕事を見ながら、尋ねたと思うのです。「ノアさん、何故、君たちは今、しかもこんな場所で箱舟をつくるのか」と。そして、おそらく、ノアは、神が告げられた洪水の予告を語ったのだろうと思うのです。
主は、こう仰せになられます。「そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。」主イエスが問われることは、このようなことです。滅んでしまった彼らは、洪水が来る前に、気づこうとすれば、十分に気づけたはずです。ノアとその家族の生活ぶりを見れば、気づけたはずです。彼らは、ノアたちを馬鹿にするのではなく、むしろ、自分たちの暮らしを問い返し、自分たちの人生を反省すべきだったのです。

さて、問題はノアの時代のことではなく、現代の、今この時のことです。人々は、主イエスの「いちじくの木の譬え」から、夏が近づいたと分かるはずではないでしょうか。気づくことができるはずではないでしょうか。先週、わたしは、この「いちじくの木」について、たとえとして用いるのは、ぶどうの木でもなんでもよかっただろうと申しました。今もそれは、変わりがありません。しかし、実は、このように解釈する人もおられます。このいちじくの木とは、イスラエル民族のことだというのです。私は、ある説得力があるとは思うのです。確かに、このイスラエル民族を見ていれば、世の終わりの時代がまさに終わるその時が切迫していることが分かると思います。20世紀、ユダヤ人はイスラエル国家を再建しました。そして、中東問題は、まさに全人類の問題となっているわけです。聖書の預言が成就したと言っても、過言ではないと思います。

私どもは、ここで改めて学びたいと思います。この世の人々は、おかしな言い方ですが、一生懸命に、「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」しているのです。そして、そうすることによって、キリストが再び、この世界に到来するなどということは、空想でしかないと、自分たちで思いこもうとしている、わたしは、そのように思えてなりません。

そして、問題は、私どもキリスト者のことです。人々は、「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」していて、その方が、むしろ、落ち着いた生活ではないか。いへ、自分たちもまた、教会生活を中心にし、主とその業に全力を注ぐよりは、自分たちの暮らしを守ることを中心にした方が賢いではないか、などと、騙されてしまうことが起こっているとしたら、それこそ、危機です。あるいは、最初から、教会生活は、自分とその家族、自分の暮らしに役立つから有益なのであって、そうでなくなれば、やめておくという次元で、教会員を自認するということも起こっているのかもしれません。

おそらく、私どももまた、うっかりすると、神の言葉、福音の知らせよりも、新聞やテレビの報道をたやすく信じてしまうように、誘惑を受けています。マスメディアに、取り上げられていないことは、大切ではないなどと、思いこまされているかもしれません。たとえば、日本のメディアでは、キリスト教と教会のことを、決して正面から取り上げようとはしません。そこに、強い意図があるのではないかとすら思うほど、徹しています。メディアで、再臨の徴のことが、取り上げられたことがありません。「いよいよ、あのイエス再来の徴があちこちに見える。イエスは、まもなく来られる模様。」そのような報道は、これまでありませんでした。しかし、報道されなければ、キリストの再臨はないのでしょうか。決してそうではありません。私どものこの時代は、キリストの来られる徴に溢れているのです。

主は、厳かに語られます。「洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気づかなかった」。この表現は、どこか不思議です。洪水が襲って来るまで何も気づかないというのです。しかし、よくよく考えてみますと、この洪水は、今回の大津波とは違います。東日本に大地震が起こって、わずかの時間で津波が襲ったのです。しかし、ノアの洪水は違います。実に、40日40夜、雨が降りしきったのです。空前絶後の天変地異でしょう。どうして、少なくとも1週間後に、気づかなかったのでしょうか。どうして、少なくとも一月後であれば、もう、何がどうあっても、気づくはずです。絶対、気づけるとすら思います。

つまりそこで何が示されるのでしょうか。気づこうとしない人は、どれほど、主の御言葉が真実に語られても、あえて気づこうとしないということです。それは、過失ではありません。意思的に気づかないのです。めとることも嫁ぐことも決して悪いことではありません。食べたり飲んだりすることが罪であるはずがありません。しかし、そこに立てこもり、ふつうの生活を楽しむことに没頭して、神の裁きの警告を無視するのです。赤信号を皆で渡れば、怖くないとばかりに、皆が普通にしていることに安心するのです。

しかし、そこで主は、厳かに警告されます。「人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。」一緒に働いていた親しい人が、ひとりは、主のもとに連れて行かれ、もうひとりは、滅びる天地に取り残されるというのです。ここに決定的な差が生じます。区別されます。人間には、どうすることもできないのです。もとより、一緒の生活を営んでいる者なのですから、何とか、ひとりだけ、主のもとに連れて行かれることを願っているわけでは決してないはずです。一緒に主のもとに連れて行かれることを願っていたと思います。しかし、それは、信仰者であっても、まったく手出しができないのです。まさに神さまの領域であり、御業です。

しかし今朝、私どもは、未信者の方のことを云々する前に、まず、自分自身がこの警告を聴いて、取り残される危険性、可能性を畏れるべきではないでしょうか。何故なら、主イエスは、私どもにこそ、こうお命じなられたからです。「だから、目を覚ましていなさい。」
いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」主が来られるその日その時は、誰も知りません。しかし、私どもは、主が再び、来られることだけははっきりと知っています。さらに、その日が目前に迫っている状況、時代にあることも気づかされています。だから、用意が必要なのです。用意とは、準備のことです。主のもとに連れて行かれる準備です。

さて、最後に当たり前すぎることですが、確認しておきましょう。キリスト者と教会の用意、準備とは何でしょうか。一つだけ、素朴な答えを確認しましょう。それは、主イエス・キリストを信じることです。主の御言葉を信じ、従っている生活、歩みのことです。神の子とされているということこそ、究極の準備です。私どもは、この準備を、主イエスの恵みによって、整えさせていただいたのです。ですから、今朝の礼拝式の招きの御言葉をもう一度、私どもの信仰の応答としても聴きましょう。新約の結びの言葉、ヨハネの黙示録第22章20節です。「以上、すべてを証する方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来て下さい。」

このように主イエスを歓迎する人、待望する人が、用意を整えている人なのです。そして、その人の上に、まさに「主イエスの恵みが、共にあ」るのです。主イエスの恵み、主イエスご自身が、主を信じる私どもと共にいて下さるのです。アーメン。

祈祷
主イエス・キリストを再びこの地上に御遣わし下さり、この天地を滅ぼし、そして新しい天と地を創造してくださる父なる御神。その日、その時は、あなたしかご存じではありません。しかし、私どもは、あなたにお任せすることができます。知らされていないからと言って、信仰の旅路が困難になるわけでもありません。むしろ、私どもが、絶えず、真剣にあなたを仰ぎ見て、あなたに向かって歩むことへと促されます。どうぞ、世の終わりの終わろうとするこの時代の中で、なお、落ち着いた信仰生活を続けさせて下さい。同時に、主を知らず、その再臨を無視する人々と歩調を合わせることなく、心を新たにして、あなたに造り変えられ続けて、あなたの御心に従うことを第一に求め、あなたに喜ばれる決断へと絶えず導き返して下さい。アーメン。