過去の投稿2014年6月15日

6月16日

★★★  本日は、ようこそお越しくださいました。心から歓迎いたします!★★★
初めての教会、緊張と共にとまどわれることばかりかと拝察いたします。今朝のひととき、  あるがままの私たちを愛しておられる神の前に、肩の荷をおろして憩われますように・・・。
教会の集会の中で、もっとも大切なのは、今朝、捧げる礼拝式です。教会のありとあらゆる集いの目標です。教会の心臓であり、教会そのものです。この週報の左端に、式次第が記されています。いくつかのプログラムがあります。立ったり座ったりがあります。しかし、足のご不自由な方は、どうぞ、そのままお座りになって参加してください。また、座布団などが必要な方は、ぜひ、受付や近くの者にお声をかけて下さい。どうぞ、ゆったりとお座りください。

  本日は、当教会牧師は、関キリスト教会に伺っています。お悩みやご相談など、牧師は心を込めてお伺い致します。どうぞ、近くの会員にお声をかけて下さい。本日は、長老がお受け致します。また、必要であれば、今週、喜んでお話を伺う時間をとります。そして、どうぞ、来週もお越しください。礼拝式は、まことの神が、わたしたちを御自分のもとに招いて下さり、「神さまのいのち」を私たちに注いで、わたしたちに生きる力、元気に生きて行く喜びを与えて下さる、時と場所です。讃美歌を歌ったり、祈りをします。その中で、今は、ことばの意味がまったくわからないことと拝察いたします。けれども、通っていただく間に、必ず、分かるようになります。

  日曜日のことを、教会は「主日:しゅじつ」と呼びます。主でいらっしゃるイエス・キリストが墓からお甦りになられた日だからです。この主日は、キリスト教の歴史のなかで、休日となりました。その意味で、「日曜日は教会に行く日」なのです。教会は、特別な人が特別な人になるために行く場所ではありません。普通の人が(本当の意味で)普通のひととなるために来るべき場所、わたしたちの故郷なのです。

  神さまは、今朝、あなたの名前を呼んで、「わたしのもとに帰って来なさい。わたしの子どもよ!」と招いて下さいました。その神さまからの「語り」を、今朝、ごいっしょに聴きましょう。したがって、礼拝式のプログラムの中心は「説教」です。「せっきょう」と言うと、「しかられる」ようなニュアンスがあると思います。しかし、キリスト教会の説教とは、神さまの御言葉である聖書を「説き明かす」ものです。確かに聖書を書いたのは、3000年から2000年前のまさに大昔の人間の文章です。しかし、聖書によれば、それらは神の語りかけであり、神のお考え、御心をいろいろな方法で告げる文書です。今生きておられる神さまが、この聖書を通して、今ここにいるわたしたちに語って下さいます。その神さまの道具が説教です。説教が「分からない。難しい。」のは、わたしたち人間にとって、まったく当たり前のことです。けれども、教会に通い、聖書を少しずつ読んでくだされば必ず、分かるようになります。信仰によって生きて行く世界、新しい人生がどれほどすばらしいものとなるか、どうぞ、神さまと信仰を求めて下さい。

★  先週は、感謝の内に、○○兄の加入歓迎愛餐会を行うことが出来ました。兄弟の笑顔の中に、ついに教会員として加えられ、ほっとした思いがにじみ出ていたように思います。年齢を重ね、また足の不自由な兄弟です。よき交わりの内に、教会生活が祝福されますように。

☆  先週の大会役員修養会は、「伝道会議」と言う主題の下に行われました。あと2回この主題でなされます。わたし自身に直接かかわることは、牧田先生の「子どもと親のカテキズム」の講演です。ついに、出版に向け、最終コーナーの出口に差し掛かっています。私は、朝の礼拝の説教を初めて担いました。

★   神学校新校長の「魂の医者を育てる 神学校教育の理念として」の発題に頷きつつもしかし、危険性も覚えさせられました。つまり、牧師は、「魂の医者(医療)」となる前段階、つまり、「救い」に導くための説教と伝道、悔い改めと信仰を促すべきことこそ、その大前提となるからです。ここは、福音の急所です。一方、開会礼拝では、使徒言行録から語られ、「説教する恐れ」について語られました。極めて重要な指摘だったと思っています。つまり、教会の内側だけで説教するなら、「恐怖」を感じることはほとんどありませんし、魂の医療であれば、迫害されることもありません。教会の働きをディアコニアの視点で捉えなおす主張が、違和感なく受け入れられつつあるとの印象を持ちました。喜びの反面、十字架と悔い改めの説教が希薄になるのではという危険性についても覚えさせられています。