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「救いの岩の上で」

「救いの岩の上で」
2007年6月10日
テキスト ローマの信徒への手紙 第9章30節~33節

「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。
しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。
なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。」
 

先週、キリスト教学の授業の中で、学生たちの質問だけに答えるということを、計画外のことでしたが、試みました。いくつもの質問を前もって書いて、提出していただきました。その問いのなかで、このような問いがありました。 
「聖書を読むことは、信仰を深めて、人間的にも素敵になることだとわたしは理解しているのですが・・・」

皆さんなら、この問い、この考えにどのように答えてあげるでしょうか。あるいは、皆様は、今まさに聖書を読む、そのもっとも基本的なあり方である説教を聴いておられます。皆さんは、何のために、説教を聴き、礼拝を捧げられるのでしょうか。一体私どもキリスト者とは、この一人の学生の考えているように、信仰を深めて、人間的にも素敵になること、私どもの言葉で言えば、いわば人格者となるということでしょか。今時のことばで言えば、魅力ある人間になることを目指しているのでしょうか。皆様なら、なんと答えるのでしょうか。聖書を読むこと、あるいは教会に行くこと、あるいはキリスト教を信じる、信者になるということは、素敵な人間、人間として立派な人になるためのものなのでしょうか。はっきりと申しますと、違います。

しかし実は、このような先入観、思い込み、間違った前提は、日本のキリスト者、教会にも深く植えつけられている弱点、誤解なのです。うっかりするとまさに致命傷、命に関わるほどの傷と言えるものです。私どもの教会は、たとえば「修養会」という集会をいたします。一泊あるいは二泊して泊り込んで集中的に聖書や教理について学ぶのです。そのような集会をしばしば修養会と呼びます。私どもの教会はそうではないのです。そもそも残念ながら、一泊して、一日の生活を共にして集中して学ぶことができておりません。しかしまさに、今週の火曜日から、浜松におきまして日本キリスト改革派教会大会役員修養会が開催されます。全国から牧師や長老たち、執事たちが集います。まさに修養会という名称をつけた集いなのです。何故、私どもの先輩のキリスト者は、そのように皆で集って聖書を学ぶ集会のことを修養会と呼ぶようになったのかは、調べたことはありませんが、おそらく、明治時代以来のことかと思います。そこで、キリスト者がその人格を磨く場所、時としたのだと思います。つまり、先輩たちは、聖書を読むことと人格を磨くということを、一つに結び合わせて 考えたのだと思われます。重ねて申しますが、聖書を読み、信仰を深めるということは、人格の修養のためなのではありません。それは、結果としてそうなるはずです。しかしそれは、信仰の実りであって、信仰は、そのことを第一に目指しているわけではありません。
  
さて、何故そのようなことを最初に申し上げるのでしょうか。それは、人格を磨き、素敵な人間になることを求める傾向が強い日本の教会の姿は、実は、使徒パウロがここで主題にしたイスラエルの問題とぴったりと重なるからです。

神が人間を救うために特別にお選びになられたのはイスラエルでした。ユダヤ人は、神が生きておられることを証させるために、特別に憐れみをもって立てられた人々でした。それなら彼らは、神の御心を理解し、その御心に従って、神の栄光を見事にあらわすことができたのかと申しますと、まったく違いました。彼らは、主とその指導者たちに繰り返し反抗し、背き、むしろ偶像礼拝をするような者へと転落を続けたのです。ついには、国は二つに分裂し、北の国のイスラエルは滅亡し、南の国ユダ、エルサレムもバビロニアの国の奴隷として連れ去られて行き、極めて惨めな状況におかれたのです。それにも関わらず、神は、彼らを憐れみ、彼らを最後的に救いに導こうと、その愛する御子イエス・キリストを彼らのところに生まれさせ、彼らを救おうとなさいました。ところが、彼らは、その御子イエス・キリストを十字架で殺したのです。神の愛と恵みを、自分たちの手で握りつぶしてしまったのです。徹底して神に背いたのです。

今朝、与えられた御言葉は、先ず、「ではどういうことになるのか。」といいます。これは、第9章14節を受けている御言葉です。そこでこう言われています。「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。」イスラエルが救われない、イスラエルが自分に与えられ、約束された救いを受け入れようとしないことは、神さまに責任があるわけではない。神さまが悪いわけではないと使徒パウロはここで主張したのです。パウロは30節で、イスラエルが救われなかった、しかしその代わりに、異邦人が救われることになったというのです。「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。」

異邦人とは、ユダヤ人以外のすべての人間のことです。それは、当然、私どものことでもあります。私どもは、義を求めなかったのです。義とは、真の神に救われることです。私どもは、神の正しさ、神の正義、神の救いになど興味ももたず、まさか自分が神に救っていただけるものとも思ってもいないのです。それが義を求めないということです。イスラエルの人々から見れば、まさにそこに異邦人の異邦人性を見るでしょう。そしてこう軽蔑するのです。「異邦人など、最低、最悪だ。生きておられる真の神を信じない、崇めない、従わない、神の掟を守ろうともしない、好き勝手、気ままに生きている、まるで人間以下の獣のようではないか。」そして、自分たちを誇って言うのです。「我々ユダヤ人は、神の義を求め、神の掟を守ろうと熱心に励んでいる。まさに神に選ばれた者たちだ。」

 著者の使徒パウロは、自分自身が正真正銘のユダヤ人でした。その彼がこのように語っている、そこに、このことばの現実味があります。リアリティがあります。ここに語られているユダヤ人の姿は、まさに生々しい姿なのです。使徒パウロもまた、誰よりも熱心に義を求めていたユダヤ人でした。神の律法を守ろうと激しく「追求」したのです。神の掟、十戒を守ることを徹底して追及したのです。

 十戒は神を愛し、隣人を愛することに収斂、集約、要約されます。そして何よりも、わたしの他に何者をも神としてはならないという第一戒は、絶対的な掟です。彼らの生きること、その主要な目標は、神に義とされることでした。それは、端的に申しまして、すばらしいことです。まさに、人間の鑑のようなあり方です。
 それに比べれば、異邦人は、なんとでたらめなのでしょうか。ところが、パウロは言うのです。このようなでたらめな異邦人、神の御前に不熱心、怠惰な人間が神の義を受けた。救われた。こう言うのです。こんなにおかしいことがあるかと思うくらいです。ユダヤ人にしてみれば、ありえないことのはずです。

わたしはこういうイメージを持ちました。まるで最初から中に入ろうと列にならんで、何十時間も並んでなお開かない。ところが、たまたまその時に来た者たちが、別のゲートが大きく開いて、そこからダーッと大勢の者たちが入りこんでしまったようなものではないでしょうか。門を間違えたのです。それは悲劇であり、喜劇です。主イエス・キリストにあってイスラエルに起こったこと、異邦人に起こったこととはまさにそのようなことなのだとパウロは言うのです。

 イスラエルが待っていた、追求していた義の門は開かない。異邦人が待ってもいず、おいもとめてもいなかった救いの門が開く。そこでもなお、神のせいにしようとするのでしょうか。いったい、どうしてそのような悲劇が起こるのでしょうか。
 パウロは、答えます。32節。「なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。」

ここで決して誤解してはならないことがあります。神の義を熱心に追求することは、間違いでしょうか。決してそうではありません。神の義は、人間が第一に求めるべきことです。主イエス・キリストが、その全存在を傾けて説教してくださったことは、この御言葉に尽きるのです。「神の国とその義とを第一にしなさい。神の国と神の義を徹底して追及しなさい。」何よりも、そこで語られたイエス御自身が、まさに、神の国と神の義を第一にして生き抜かれたお方でした。ですから、義を追求することは間違いであるはずがありません。

 丁寧に読みましょう。パウロは言います。「イスラエルは義の律法を追い求めていた。」これこそが、罠です。これこそが、失敗であり、問題なのです。 

それなら、「義の律法」とはなんでしょうか。そこでも、学校のたとえをもって語ることができると思います。いつの時代でも、社会は競争主義という面があります。我々が生きている社会は、まさに競争主義社会です。学校では、必ず試験があります。中学生も高校生も、さらには大学生もこの定期試験を何度も繰り返して受けて、上へと進んで行くわけです。これを避けて通ることはできません。試験は、点数です。点数を取らなければなりません。そして、点数を人よりたくさんとれば、評価も高くなるわけです。ですから、点数を追求する学生が現れます。100点満点を取れば、安心なのです。

 イスラエルがしたこと。それができると思ったこととは、平たく言えば、このことです。テストで満点をとるようなことです。つまり、神の救いにあずかり、神の義に到達することは、神がその御言葉によって明らかにしたもうた掟、律法を守ればよいと考えたことです。それは、神の御業をまるで人間の努力、人間の側の追及で到達できる、達成することができると考えたことを意味します。そのような企てを一言で言うとどうなるのでしょうか。「信仰の否定」であります。信仰なしに、神に喜ばれ、神の救いを受け、神との交わりを喜ぶことが、楽しむことができると考えることです。それは、まさに、神ご自身を、神の位置から引き釣り下ろすような企てなのです。イスラエルは、まるで、神が自分たちの熱心次第、努力次第で、自分の思うがままに動かせるような存在に考えているのです。

 しかし、丁寧に言わなければなりません。彼らは、堂々と、神を自分の意のままに動かせるなどと考えていたのではないと思います。そのような思いこそが傲慢、傲岸なことであると、ユダヤ人であれば、わきまえていたはずです。しかし問題は、自分がしていることがまさにそういうことなのだということが気づかないのです。

 もしも、私どもが、ひとりのユダヤ人に向かって、あなたがたは不信仰ですね。神さまを正しく信じ
なさいなどと言えるでしょうか。私どもとユダヤ人と、どちらの生活が神を敬い、中心にしているのか、他の方が見たら、どちらに軍配を上げるでしょうか。自信をもって、わたしですと言える人はどのくらいおられるでしょうか。

 しかし、問題の本質、急所は、彼らがどれほど律法を守り、行って神の義を獲得し、神の義にまで到達しうると考え、信じることが一つです。そして、何よりも、それがまさに神をないがしろにすることにつながることをわきまえていないということです。信仰によってではなく、行いによって達せられると考えたところに、不信仰があるのです。神が神であること、神が人間とはまったくかけ離れた絶対他者、自分の思うように少しも動かせないという事実に我慢ならなくなるのです。それが転倒です。神の御前に、転んでしまっている、ひっくり返っているのです。しかも自分がひっくり返っていることに気づかないところに恐ろしさ、悲劇があるのです。
 
 さて、それならこの御言葉を今日の私どもが読む意義はどこにあるのでしょうか。2000年前のユダヤ人の問題を見て、ああ、彼らは行いによって救われるという間違った教理、教えの虜になっている。しかし、わたしたちは、それこそ正しい改革派信仰を受けて、信仰によってのみ義とされるという教えを受けている、だから、自分たちこそ、救われる、信仰による義を受けている。もしそれ終わってしまうなら、私どもこそ、悲劇になってしまいます。確かに、私どもは幸いです。恵まれています。しかし、私どもはそれを誇れません。なぜでしょうか。私どもは、もともと怠惰でした。彼らのように義を求めなかったのです。しかし、神が信仰によってのみ義を与えてくださるその恵みを、自分たちが怠惰であったからこそ、受けることができたのです。もしもそのような者にもかかわらず、万一にも、自分の信仰を自慢し始めるなら、自分の救いを自慢するなら、そのときには、かつてのユダヤ人とまったく同じ間違いを犯していることになるのです。そのときには、私どもこそ、躓いている、ひっくり返っているのです。救いの門は開かれることもないのです。私どもは、決して、自分を誇ることができません。誇るならただ、この恵みをのみ誇る以外にありません。主だけが、褒められるのみです。栄光はただ主にのみあるのです。
 
 ここでもう一度、先週の説教を思い起こしていただければと思います。説教題は、「不思議な場所」でした。不思議な場所とは、主イエス・キリストがおられる場所。主イエス・キリストが十字架についてくださった場所、贖いの場所です。そこで罪人が、犯した罪のすべてを赦される場所。神の怒りだけが注がれる器であるものが、神の憐れみだけが注がれる器に転換する場所です。神に捨てられて当然の人間が、神の子とされる場所です。それは、イエス・キリストというお方のことであり、具体的には、イエス・キリストが臨在される教会のことでした。

本日の説教で、わたしは、門のたとえを用いています。私どもは開かれる門の前にいなければならない。決して開かれるはずのない門の前で、並んでいても無駄であるということです。決して開かれるはずのない門とは、行いによってその門をこじ開けることができる、自分の力で、自分が神の掟を守ってみせることによって、門を開けることができると考える門のことです。律法を行うことによって救われるいう考え方のことです。しかし、救いの門は、ただ神ご自身がその絶対的な主権で、お開きになられるのです。神が御自ら開いてくださるときのみ、その中に入れるのです。

さて、使徒パウロこそ、ここで、例話を語ります。彼の例話は、聖書の引用です。それは、旧約聖書イザヤ書です。「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。」

これは、実は、二つの御言葉をパウロが自由にドッキングさせたものです。前半は、イザヤ書第8章13節です。「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。」躓きの石、妨げの岩が、救いの門の前に置かれている。これは、悲劇であります。何故、そうなるのか。いったいその躓きの石、妨げの岩とは何でしょうか。そのような岩が、門の前に転がっていれば、開かれるはずもありませんし、入れません。門の前に岩が置かれていれば、門が開いたかどうかも分かりません。それは、一体何を意味するのでしょうか。それは、キリスト・イエスに他なりません。そしてまさにイエスさま御自
身が、イスラエルにとっての躓きの石、妨げの岩になっているのです。

そして同時にまさにそのお方が、異邦人には唯一の希望、救いになるというのです。同じ一人のお方、主イエス・キリストが、イスラエルにとっては妨げ、異邦人にとっては救いの望み、救いの岩になるのです。いったい、そこに何が横たわっているのでしょうか。パウロは言います。「これ」を、つまりこのお方イエス・キリストを信じる者は、失望することがないのです。信仰によってイエス・キリストと結ばれるとき、このお方が私どもの救いの岩、ゆるぐことのない岩、土台となって私どもを支えたもうということです。しかし、信仰によらないで、義の律法を追求する人間には、反対に、このイエスさま御自身がそれをとどめてしまわれるのです。妨げてしまわれるのです。

それなら、イエスさまは、ユダヤ人には救いにならないのでしょうか。決してそうではありません。神は、ユダヤ人に、イスラエルにこそ、御子をお与えになられたのです。母マリアはもとより、肉の父親ヨセフもユダヤ人です。ダビデの子孫です。神は、彼らをつまずかせるのです。彼らが、並んでいる門の前に主イエスさまをお与えくださることは、どういうことでしょうか。それは、このお方を見て、悔い改めればよいのです。気づけばよいのです。「ああ、自分たちは、義の律法を行って、それを達成すれば神に救われ、天国へ行くことができるというとんでもない考え違いをしていた。そうではない。わたしたちは、ただ神の恵みによって救われる、その恵みこそ、目の前に立ちはだかって、通せんぼをして、この道ではない、別の道、ただ信仰によってのみ進む道へと、方向転換を求められたのだ。わたしたちは、このイエスさまを信じる。」これこそ、神の御心です。

私ども異邦人は、決してユダヤ人を前に誇れません。誇れるわけがありません。私どもは、最初にこのイエスさまを与えられて、そこから神とのかかわりへと、救いへと招かれただけだからです。信じることによる以外に、救いの道がないことが、怠惰な異邦人だからこそ、受け入れやすかったのです。

そして、それだけに、異邦人であるキリスト者は自ら問うべきです。それは、もしかすると、今日、私どもこそ、使徒パウロが厳しく叱責したユダヤ人の罪、過ちを犯していないかということです。つまりこういうことです。まるで、自分たちの教会生活が、その熱心なる活動が、あるいは、洗礼を受けたという立場が、あるいは正統的教理、伝統的教会に生きているということが、まるで自動的に天国への道、門に通じるとうぬぼれたり、イエス・キリストを信じること以外に、教会が寄って立つべき拠点があるかのように、この世の価値観に絡め取られるということです。教会が、順調に、問題なく進んでいるから、自分たちは安心とか。イエスさま以外に安心や幸せや、喜びや生きがいを求めるということです。はたして、私どもは、ただイエス・キリスト以外によるべき数意の岩、人生の拠って立つ場所、拠点はありえないと確信しているのでしょうか。
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」主イエスのこの御言葉こそ、私ども名古屋岩の上伝道所の教会名の根拠です。キリスト・イエス御自身を信じる信仰、キリスト・イエスに対する信仰告白、これ以外に、教会の土台を据えたり、より頼んだりするなら、わたしどもの教会もまた、躓きの岩に躓くしかありません。しかし、もしも、この岩を、救いの岩と信じるなら、たといどれほど小さく、弱く、未熟であっても、私どもの教会は、真の神の教会、イエス・キリストの教会なのです。

最後に、私自身、この箇所から初めてのように気づかされたことをお分かちしたい。創世記の第3章にはエデンの園における人間の罪、罪によって神とともに生きる園からアダムとエバは追放される箇所があります。その最後の御言葉24節が、今一つ、その意味がつかめませんでした。しかし、今回、気づいたのです。「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」わざわざ、神さまが、命の木に至る道を守り、封じられるために、いわば、妨げの石、岩ならぬケルビムや炎を置かれたのです。その意味は何か。それは、まさに、自力で救われる道をきっぱりと否定しておられるということでなくてなんでしょうか。

 神は、人間が自分の掟を守ることによって、天国へ達する道を、その不可能をこのような形で激しく示しておられるのです。私どもは、ユダヤ人が失敗したように、自分の力、あるいは他人の力でも、いかなる人間の力、賢さ、よい行いによっても天国に達することはできないのですし、そのようなことを企てることそれ自体が、神を畏れない、神を神としない不信仰であるとわきまえたいのです。他人事ではありません。ユダヤ人はダメで、キリスト者がよいなどということでは決してありません。どちらも神の民だからこそ、受ける誘惑であり、躓きになるのです。 
私どもは徹底して、ただ主イエス・キリストに、このお方のみに頼りましょう。このお方を自分の救いの岩としましょう。そのときこそ、まさに、イエス・キリストの恵みによって私どもはこの罪人のまま救われるのです。

このイエス・キリストにのみ信頼を置き、足場を置く、それがキリストの教会です。そのときこそ、失望することはないのです。どんなに小さな私どもの教会であっても、私どもに救いが約束されているのです。名古屋岩の上教会という名称のすばらしさを心に刻み、この岩の上での旅路を今週も、共に歩んでまいりましょう。

祈祷
私どもをただあなたの恵みによって、主イエス・キリストの十字架の御業によって救い、神の子としてくださいました父なる御神。しかし、この驚くべき恵みを忘れ、主イエスとの交わりに生きることを怠る私どもがおります。なんと愚かで傲慢なことでしょうか。どうぞ、赦してください。そして、常に、信仰によって、恵みによってのみ今日あるを得ていること、救われていることを心に刻み付けてください。イエスさま以外のものを、人生の岩にしようとする愚かさ、その誘惑と徹底して戦わせてください。そして、私どもの揺ぎ無い岩なるイエスさまを心から賛美させてください。私どもの周りには、風の吹くまま、流されるまま右往左往して、道を失っている圧倒的に大勢の隣人がおります。どうぞ、彼らのためにも、先ず、私どもが、信仰によって生き抜く恵み、揺ぎ無き人生の幸いを生きて、彼らの道しるべとならせてください。アーメン。