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「愛に生きる人間 -他人の立場に立たれた唯一の人-」

「愛に生きる人間」
               2009年5月10日 ファミリー礼拝式
      子どもカテキズム 問40
      テキスト マルコによる福音書 第12章28~34節
 「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

今朝も、僕たち私たちは、一人ひとり神さまから名前を呼ばれて、名古屋岩の上教会に来ました。天のお父さまが、愛するわたしの子どもと、あなたの名前を優しく呼んでくださったのです。そうでないと、私たちは教会に来ることはできないのです。

さて、子どもの教会では今、十戒を学び始めています。もう、毎週、唱えているので覚えられているお友達もいるでしょう。十戒は、神さまが、ご自分の愛する民に、人間に、もう二度と、奴隷のような生活をしなくてよいように、いつめでも自由に幸福に生きれるようにと、与えて下さった愛の言葉です。愛と自由と命、本当の意味で、人間らしく、幸せに生きるための道しるべとして与えて下さったことばです。

当たり前過ぎるかもしれませんが、僕たち私たちは、人間です。人間には、人間らしく生きる道があります。犬とか猫には、犬らしく生きることを考える必要はありませんから、考えないはずです。猫も、犬ではないから猫らしくしようなどと一度も考えないはずです。けれども人間は、違います。人間だけは、神さまに「似せて」造られているのです。それは、神さまとお話ができるように造られたということです。神さまにお祈りできるように造られたということです。そうなると、お祈りを知らない人、お祈りしきない人は、決定的に、人間らしく生きることができないということになります。お祈りというのは、神さまとお話することですが、それを皆でするのが、日曜日のこの礼拝式です。聖書のお話、説教を聴くことがその中でも一番大切です。ですから、これからも聖書のお話を真剣に聴いて行きましょう。

僕たち私たちは、きっと、もう誰かとお話しているはずです。一番最初にお話したのは、お父さんかお母さんでしょう。いつも、声をかけてくださったし、名前を呼び続けて下さったのです。その後は、兄弟でしょうか。そして、学校のお友達ともお話するようになったでしょう。親しく、何でもお話できる相手のことをお友達というのです。お友達が多ければ、嬉しいです。たったひとりでも、本当のお友達がいてくれたらうれしいです。誰も話をする相手がいないなんて、恐ろしいほど悲しいでしょう。さびしいでしょう。

実は、神さまは、お父さんやお母さんと比べられないほど、僕たち私たちの名前を呼んでくださっています。お話をしてくださっています。神さまが、命を与えて下さって、神さまの話し相手になるように、人間として僕たち私たちをお造り下さったのです。ですから、最高のお友達は、神さまです。そして、もしも誰も友達がいなくなっても、神さまは、いつも最高の友達でいてくださいます。

誰かに話しかけられたら、無視する人はいますか。だめですよね。名前を呼んでも返事してくれない。悲しくなったり、怒れてきます。神さまを無視すると、どんなに神さまは悲しまれるでしょう。何よりも、そんなことをしたら、人間は、人間らしく生きれないのです。楽しくないはずです。幸福になれるはずがありません。
今朝、一緒に、人間らしく生きる、それってどんなことなのか、イエスさまのみ言葉から学びましょう。

ある日のことです。イエスさまが、説教なさっているのを熱心に聴いていた一人の聖書の学者、律法学者がイエスさまの前に進みでて、質問をされました。「イエスさま、旧約聖書のなかにある神さまのたくさんある掟の中でどれが第一のものでしょうか。」さすが、学者です。専門家です。どれが第一ですか?という質問は、少し難しい言葉で言うと、本質って何ですか?ということです。すべての事柄を貫いているもの、すべての源になっているもの、すべてに共通しているコトガラ。それは何か。神さまの掟にはたくさんあるけれど、そもそも掟って、神さまと人間の間のルールって何だろう。神さまが一番大切になさっておられること、それはつまり、人間が人間らしく生きるために、ぜったい必要なものってなんだろうということです。
そこでイエスさまがお答えくださったのが、今日の暗唱聖句の箇所です。子どもカテキズムでも唱えました。

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

律法学者は、とても満足そうにイエスさまを褒めました。すると、イエスさまもまた、この聖書の学者をおほめになられました。この聖書の学者は、旧約聖世のホセア書の第6章6節、今朝の礼拝の一番最初に読んだ箇所を、瞬間に思い起こして、言いました。「神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
ホセア書には、こう書かれています。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」

愛こそ、愛することこそが人間にとって一番大切、本質、神さまの御心の中心なのです。なぜなら、神さまが愛そのものだからです。昔の人たちは、礼拝のとき、動物を献げなければならないという掟がありました。けれども、神さまがそこで求められたのは、ただ単に、動物を捧げるなら、自分の罪は赦されるなんてことではなく、神さまを心から敬い、信じて、愛してしなければ無意味だとおっしゃるのです。形ばかり、かっこうばかりでは、本当の信仰ではないということです。

もちろん神さまは、僕たち私たち、人間が、神様を礼拝することを真剣に求めておられます。けれども、そこに神さまへの愛がなければ、無意味なのです。神さまは、愛のお方。言い換えると「憐み」のお方です。皆さんは、憐みという言葉を聴いたことがあるでしょうか。それは、分かりやすく言うと、「かわいそう!」と思う心です。皆さんは、そんなことを思ったことがあるでしょうか。きっとあると思います。

たとえば、犬や猫の赤ちゃんが、どぶに捨てられている。それを、見たら、やっぱり「かわいそう!」と思うのではないですか。
小さな子どもが迷子になっているのを見ても、かわいそうと思うでしょう。テレビで、遠くの国の子どもたちが、お腹を突き出して、やせ細っている姿を見たことがありませんか。お腹をすかしている子どもを、見て、「かわいそう。」と思うはずです。

旧約聖書の中で、憐み、愛という言葉は、「はらわたが痛む」という意味があります。お中がキリキリする。胃がギュっとするのです。そんな風に、そこまで、苦しくなって、かわいそうと思ったことはありますか。ちょっと、自信がないかもしれません。

ところが、もしかすると、その反対のことは、経験しているかもしれません。皆さんは、「はらわたが煮えくりかえる」という言葉を知っていますか?憤りでカッカするのです。頭に血がのぼると言います。頭から湯気を出すとも言います・・・。はらわたが煮えくりかえるというのも同じことです。怒れて興奮する。そのときは、冷静でない。汚い言葉や、暗い心がわく。
その反対が、憐み、愛するということです。

でも、少し真剣に、落ち着いて考えてみましょう。口で、愛する、憐れむと言っても、実際に愛すること、憐みの心を持つことがどんなに難しいことかをもう知っているのではないですか。皆さんは、「かわいそう」と思って、実際に何をしたのですか。僕たち私たちは、心のなかで、かわいそうと思うだけで、何もしない。手をださなかったことの方が多いのではないですか。心では、かわいそうにと思っても、何にもしないのであれば、それは、もしかすると、「焼き尽くす捧げもの」をしているだけかもしれない。頭のなかで、言いこと教えてもらったなぁ。心の中で、言いことをならったなぁ。それで終わってしまうなら、それは、愛とは違います。

問題は、そこです。僕たち私たちは、本当に、自己中心なのではないですか。自分のことが「かわいそう」でならないと考えている。自分が一番、かわいそう、だから、自分が楽しければ、嬉しければそれで良い。その楽しさの邪魔になるものには、かかわりたくない。見ないようにする。

学校でも、家でも、先生や親から、「相手の立場に立って考えなさい」と、教わっているでしょう。でも、実際にはそれがどれほど難しいか。教えている先生も親もそれが、実際にはできないことが多いのです。

憐みに生きること、愛することは、本当に難しい。いや、先ほどは、少し考えましょうと言いましたが、とことん考えてください。そうすると、それは、人間には無理ではないかと思えてならないのです。

そうすると、人間の世界の中に、憐み、その人の立場にたって考えることができる人、どんな立場の人にも優しく、柔和で、憐み深く接して挙げられる人は、いるのか。答えは、「いない。」

いへ、僕たち私たちは、知っているはずです。聖書によって、教わったでしょう。たったお一人、そのお方がいらっしゃった。それは、イエスさま。イエスさまは、本当に、わたしたちの立場に立たれた。愛を注がれた。見捨てなかった。

だから、命をかけて愛して下さった。それが本物の愛。それを神の愛と言うのです。神さまは、僕たち私たちのことを本当に、はらわたが煮えくりかえるようなことをしたのにもかかわらず、はらわたを痛めて下さっているのです!すべて赦して、愛してくださったのです。その証拠が、イエスさまの十字架です。僕たち私たちの身代りに十字架で死んでくださったイエスさまは、神さま、天のお父さまからのプレゼントです。そうなると、天のお父さまもまた、憐みの神さまだとわかるでしょう。

その天のお父さまが、僕たち私たちを憐んでくださったからこそ、十戒を与えて下さったのです。捨てられた犬や猫。迷子の子どもを見捨てられないのです。命をかけて、イエスさまを犠牲にしてまで僕たち私たちをとことん愛して下さるのです。

その十戒は、二つのことが書いてある。一つは、神様への愛。もう一つは、お友達への愛。二つの石の板に神さまがご自分で書かれた。唯一の言葉です。イエスさまは、旧約聖書の言葉を引用して、十戒の心を教えてくださった。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」

心は精神、目に見えない部分をまとめる場所。精神とは、魂。思いは、知性。力は体のことと考えたらよいでしょう。つまり、一人の人間の全部を総動員して、しかも中途半端ではなく、とことん、神さまを愛することが、神さまに愛されている人間の当然することなのです。それを、本当に、喜ぶのが、信仰です。神さまを信じるということは、人間が、その一生涯のその全部をかけても、すこしも惜しくないものなのです。信仰って、そういうもの。神さまはそう言うお方です。どこまでもキリがないほど、神様を愛してもまだまだ足らないのです。それほど、神さまの方はもっともっと僕たち私たちを愛しておられるからです。

そして、その目に見えない神さまへの愛は、目に見えるお友達への愛を、命じられます。わたしを愛する人は、お友達を愛する。自分を愛するように、というのは、相手の立場に立つということです。イエスさまは、ご自分の立場、天国の王座、神さまの独り子の位、王の王としての力や富をお捨てになられて、命までもお捨てになられて、僕たち私たち、人間の立場に立たれたからですね。イエスさまが愛されたように、ほんのわずかでもそれを真似るのです。

今、世界に必要なのは、この愛です。この愛が今、世界で冷えてなくなっているのです。実は、大勢の人が、この愛をなくして、お金を稼ごうとします。そうすると、世界は、どんどん貧しくなる人が増えてしますのです。それは、その人だけ、自分だけ儲けようとするからです。でも、神様を愛すると、それを分かち合おうとするでしょう。

今朝、僕たち私たちは、この愛をもう一度、学びました。イエスさまの愛を受けているのです。この愛を無視しないでください。人間らしく生きるということは、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛することにあるのです。教会は、この愛を学び、愛を実践する場所です。これからも、子どもの教会、大人の教会で、それを学び、実践しましょう。何度失敗しても大丈夫。やってみましょう。始めてみましょう。今朝は、母の日でしょう。まず、お母さんを愛する。それも、イエスさまが命じられた愛の一つです。