過去の投稿2010年2月28日

2月28日

☆   本日は、読書会で、「個人伝道」について学びます。先週の祈祷会は、「信徒の手引き」はちょうど、第5章、 「(5)世界(歴史)の完成に奉仕する教会」と「(6)世界の聖化に奉仕する教会」を扱いました。

(5)から抜粋します。「再臨を待望する教会は、教会が自ら教会となり続け、福音を伝道し続けることによって神の国とその進展を証します。60周年宣言で、「福音の宣教こそ神の国の進展の中心的しるし」と告白している通りです。つまり、教会こそ、歴史を形成する主体であり、福音伝道こそその方法なのです。伝道しない教会があるのなら、すでに自らを神の国そのものとしてしまっているか、あるいは自ら神の国の存在と価値を否定しているか、どちらかとなってしまいます。福音伝道こそ、世界の完成に奉仕する教会の存在理由そのものです。」福音伝道によってのみ世界史は完成されます。それは、私どもの高慢な意識からではなく、ただ創造者なる神のご計画に基づくのです。

    (6)から、「創立宣言の第一の主張は、「より良き日本の建設」を目指し、有神的人生観、世界観をもって生きることを標榜しました。有神的人生観をもって生きるとは、「一つ善き生活」を教会形成の枠だけに閉じ込めずに、あらゆる生の領域に展開するあり方です。そして、それこそが「より良き日本」を構築する土台となると信じたのです。「より良き」とは、神の御心に適う愛と正義と公正と平和が支配する国の姿を意味します。つまり、日本がキリストにあって福音化されるということです。言葉を換えれば、聖化されて行くのです。 牧師の職務を英語で、ミニスターと言いますが、本来、キリスト者は誰でも、神のミニスター(大臣)なのです。教会は、言わば、神のミニストリー(内閣、政府)として、神の歴史形成に参与する特権、神の国の完成に奉仕する使命が与えられているのです。私たちは、自分の小ささや無力さに目を落としていてはなりません。絶えず目を挙げて畑である全世界を射程に置くことが求められています。(ヨハネ第4章35節)世界は、私たちが善き生活に励み、福音伝道によって教会形成に励むとき、その希望が教会にあること(60周年)、教会の主なるキリストと神にある(創立宣言)ことをいよいよ知ることとなるでしょう。たとい小さな町の片隅にひっそり生きているような小さな教会であっても、主の業に励むとき(?コリント15章58節)、世界の中心で、神の国の完成のために奉仕することができるのですし、実際にしているのです。」伝道の世界政策的意義、目的です。

しかし、それと同時に、私どもが最も集中して取り組むべきことは、「ひとりの魂の救い」です。世界のあらゆる問題と、ひとりの人の中で取り組むと言っても良いかもしれません。もしも、あなたが、自分が「原因」となって、「きっかけ」となって、誰かの救いのために用いられるとしたら、どれほど光栄なことであるかと思いませんか。わたしが、献身して、伝道者になったのは、まさにそこにあります。上述のような理解を持ち合わせず、実に狭い、伝道理解でした。しかし、あのときの思いは間違いではありません。今もわたしの最大級の喜びは、洗礼を目指して、膝を突き合わせるようにして、マンツーマンで聖書を説くことです。(先週も、何人かとしましたが、この機会に、あらためて、牧師の牧会を受けることの重要性をお伝えします。)

☆    そのために先ず、自分じしんが変わらなければと思います。個人伝道への召命と重荷です。「無縁社会」という言葉が言われ始めています。私どもは、誰かを商売相手としてではなく!人格として!!絆を結ぶような関係を持つことが大切です。その意味では、単に宗教の布教相手、伝道対象として見る観方の中にも福音の真理から照らされれば、危険性があるとすら言えます。ただその人を、神に造られ、愛されている人として見る。それゆえ、その人に絶対に必要な知識として「福音」があると信じることです。これは、教理的な理解と確信です。その上で、その人じしんを、神から与えられる愛をもって見る、愛することが伝道の基礎です。今年、ひとりの人を、自分の「口」で主イエスを語るまでの人格関係を築くことができるように、先ず、祈りましょう!伝道する相手、隣人を神に与えて下さいと祈り求めましょう。そこから、始まります。 

★   先週は、連合○○会の代議員準備会が行われました。今年は、当伝道所の○○会が中央担当です。担当教師三名が、陪席されました。ひとりの教師が帰りの車中、「帰って、説教準備をする気持ちがなくなった・・・」。わたしもかつて担当したことがありますので、その気持ちはよく分かりました。会議であっても、教会の交わりであれば、出席者を励ますことになる・・・。そのような会議を求めなければ、と思わされます。

☆   愛知県立芸術大学の学生たちの小論文を読みながら、労をねぎらわれました。「音楽家人生の転機・・・」とまで書いた学生がいました。教育の働きの底知れぬ尊さを思います。教会教育に携わる教師はもとより、キリスト者はみな隣人のためにキリストの「教師」でもあります!なんと尊い使命でしょうか!