過去の投稿2003年12月25日

救いの証 40代女性

救い主イエス・キリストの父なる御神,御名を崇め賛美いたします。

この度,「救いの証(信仰の告白)」という,かけがえのない御恵みの備えを与えていただきましたことを感謝いたします。

私は,中学一年生の時,初めて通った教会の日曜学校を,ある事から神様に疑念を抱いた為,遠のいた経験があります。しかし「この疑念をとり払い本当の神様を知りたい。」という思いと,「心から天のお父様とお呼びしてお祈りしてみたい。」という憧れを,心の片隅に持ち続けていました。

三年前の春,十年余り続いた心身疲労の末入院したのが引き金となり,「心を元気にしよう」と,信念を強く持ち明るく生きているかのように見えた「エホバの証人」の家庭研究を決意しました。しかし一年半後,聖書を書き換えるような恐ろしい集団と分かり離れました。一人で読むと疑問が膨らむばかりなので,聖書からも離れました。私は今,あの人々が,真の神のお導びきによってマインド・コントロールから解かれますことを,祈り願っています。その後一年半,私は二つの暗い壁に取り囲まれ出口が分からず,閉じこめられていました。一つは,「神様への疑念を抱き続け,聖書から離れたままでいたら,死ぬ間際に後悔するに違いない。」という焦る思い。もう一つは「子供への愛に絶対の自信を失い,自分が信じられなくなりました。それなのに自己に囚われている愛のない自分が,どうしようもなく恐ろしくなった。」ことです。真っ暗やみを彷徨い這っているようでした。やがて,心の奥底から「信じきることが出来るもの,永遠に変わらない確かなもの」を強く求めるようになりましたが,どうしたらいいのか分かりません。探し求め喘いでいた今年の春,伝道新聞「岩の上だより」が目に留まりました。初めて教会を訪れた5月6日,相馬先生・直子先生は,警戒しながらも耐えられない思いで来た私を,優しく迎えてくださいました。相馬先生はルカによる福音書から,『「見失った羊」のたとえ』のお話しをしてくださいました。その「見失った羊」が私であることを,そして,いまの私は「本来あるべき自分の姿,本当の自分」ではないことを教えてくださいました。「本来あるべき自分の姿,本当の自分」全く分かりません。イメージさえ浮かびません。その言葉が頭の中でぐるぐる回るだけでした。また,相馬先生は,「聖書を知りたい。」という私の一方的な申し出に,個人の学びを設けてくだいました。相馬先生よって安心して導いていただけます本当に貴重でかけがえのないこの時,この幸いを深く感謝いたします。

6月8日の主日礼拝式で,私は今までとは違う思いを味わいまいた。相馬先生は仰っしゃいました。

「わたしこそが,あなたがたに豊かな実を結ばせるのだから,皆,この杯から飲みなさい。私を信じて,私との交わりに生きてゆきなさい。」

『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。』(ヨハネ福 第15章16節)

「キリストが私ども枯れていた枝,捨て置かれてやがて焼かれるだけであった枝,死んでいた枝を拾い上げてくださったのです。拾い上げて御自分と 結び合わせ,つなげてくださったのです。」
先生の語りかけが,そのままイエス様の語りかけとなってストレートに響いてきました。御言葉をその場で聴いているように感じました。「イエス様が選んでくださる。あー,真実なるイエス様が,罪人の私をも拾い上げ結び合わせ,つなげてくださる。私が獲得し,私が成し遂げるのではない。そうじゃなかった。」と分からせていただいた時,ふわっと力が抜け,張りつめていた心にあかりが灯りました。「イエス様につなげていただいて,生きてゆきたい。」と,切に思いました。

『わたしは必ずあなたと共にいる。』(出エジプト記 第3章12節)

「神様が私たちを愛してくださり,「見失った羊」,迷子になった私たちを探してくださり,心の扉をたたき呼びかけてくださり,私たちが立ち帰ることを求めておられる。神様はお見捨てにならない。私が気が付かずにいただけで,神様はいつも私と一緒にいてくださっている。」と分からせていただきました。私は,素直な気持ちで「天のお父様」とお呼びし,喜んでお答えすることができました。もう空しさはありません。大きく優しく包み込まれているような安心感,暖かさがあります。暗闇の中に光が射し輝きました。天地の造り主,全能の父なる神様の愛の支配のもとで,はじめて私たちは幸せに自由に,自分らしく生きることができます。光の中を歩んでいくことができます。神様を知り,神様を喜び,神様の栄光のために生きること,それが「本来あるべき自分の姿」なのだと,気が付かせていただきました。神様に立ち帰ってこそ,「本当の自分」に出会うことができるのだと分かりました。真の神は,私に生きる勇気を与え,前を向いて歩む力となり,支えとなってくださいます。神様は私に奇跡を起してくださいました。

『神は,その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで,永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは,世を裁くためではなく,御子によって世が救われるためである。』
(ヨハネ 第2章16節17節)

神様は,イエス様を十字架にかけられ,死なせられ,お甦りにならせて,私たちに神の愛をお示しになられました。神の愛によって一方的な選びのうちに,信仰を与え,イエス様を信じさせてくださり,イエス様の十字架と復活を見せてくださいました。神様は,イエス様の十字架の贖いゆえに私たちの罪を許し義と認めてくださり,神様の憐れみによって私たちを神の子としてくだしました。神様と共に永遠の命に生きる祝福をお約束してくださいました。これほどまでの愛,過分なる賜物に,私は何をもって応え得ることが出来るのでしょうか。神の御業,御心をどのようにしたら悟り得ることが出来るのでしょうか。私は,いつも御言葉に背いてばかりで,一つも守ることが出来ず,罪を重ねてしまいます。どうかお許しください。憐れんでください。神様を畏れ,悔い改め,御心に聴き従う者とならせてください。神様を愛する心をお与えください。神様に祝福され与えられた命,世の人々を,かけがえのない一人ひとりとして慈しみ,思いやり,愛する心をお与えください。いかなる状況に於ても,神様により頼み,神の子の祝福を受けておりますことを変わらない事実として確信し,祈り感謝をもって歩めますよう,豊かな聖霊をお注ぎください。弱いよわい信仰の私をどうか強めお守りください。

『主よ,恵みの業のうちにわたしを導き
まっすぐにあなたの道を歩ませてください』(詩編 5編9節)
主イエス・キリストのみ名によって,感謝し,祈り願います。アーメン。