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「主イエスの御名を呼ぼう」第2章14節~21節

「主イエスの御名を呼ぼう」
                 2014年3月3日
テキスト 使徒言行録第2章14節~21節
【 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。
終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。
わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。
すると、彼らは預言する。
上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。
血と火と立ちこめる煙が、それだ。
主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、
月は血のように赤くなる。
主の名を呼び求める者は皆、救われる。』】

先週は、主イエスがご復活されてから50日目、主イエスが天に昇って行かれてから10日後、ちょうどユダヤ人の五旬祭のときに、遂に、約束された聖霊が弟子たちの上に降臨された出来事を学びました。
その時、天から風が吹いてきたような大音響がエルサレム神殿に轟きました。そして、弟子たちはそれぞれ外国の言葉で神のすばらしい御業、大きな救いの御業について語り始めました。この物音に驚いて集って来たユダヤ人は、この一団の人々に驚かされました。神さまは聖霊降臨の出来事に際して、多くのユダヤ人をご自身のもとに集めなさるとき言わばいたずらのような大音響をもって、人々を野次馬のような形で呼び集められます。とにかく、どんな形でも人々をご自身のもとに集めることに、一つの意味があるのだと思います。それは、私どもが伝道のためにいろいろな事ごとを企てて、教会に一人でも多くの方をお招きすることと似ているかもしれません。
さてしかし、単なる人集めと伝道とは、まったく違います。ここで彼らは、めいめい外国語を語ります。大音響で野次馬のように集まった人々は、その不思議な光景にいよいよ驚きます。それは、たとえばコンサートを教会でするのに似ているかもしれません。教会でするコンサートは、基本的に福音にもとづく楽曲や讃美歌が演奏されます。しかし、私どもはやはりそれだけでは足らないと考えると思います。大勢の方が来て下さっても、なお、教会としての務めを果たしていない、そのように考えられるかと思います。

このとき、ある人々は、「あの人たちは、新しいぶどう酒によっているのだ」とあざけりました。つまり、起こっている事柄が分からなかったのです。伝道において何より大切なことは、「ことば」です。はっきりと事柄を説明する言葉が必要です。しかし、そのことばとは、説明のことば、明らかにすることばです。何を説明するのでしょうか。何を解説するのでしょうか。それは、出来事です。出来事を説く言葉、そこに私どもの伝道の言葉、福音の言葉の本質があります。そして、出来事とは、何でしょうか。神の偉大な救いの御業です。それをあえてごく単純に、ごく短く言ってしまえば、イエスさまの成し遂げられた御業、救いの出来事です。ついに、彼らは今、立ちあがります。ユダヤ人の通常の神の言葉の語りのスタイルは、座ることです。主イエスは、山上の説教において座って語り始められたのです。しかし、新しい時代が始まっています。この新しい時代は、終わりの時代です。終末の時代です。その終わりの時代が今まさに、始まったのです。それを、宣言する、そのために今、ペトロと他の11人の使徒たちは、立ちあがります。ペトロは、使徒たちを代表して語り始めます。言わば、キリスト教会最初の説教がここから始まるわけです。説教するということが、どれほど教会にとって、伝道にとって生命的に大切なものであるかは、これからいよいよ分かってきます。いへ、もっとも分かるのは、このときの出来事と言っても良いかもしれません。もはや使徒たちは、ここで「自分が説教する、いやわたしが語る」とみっともない言い争いをしません。まさに心一つに、そして神が立てられたリーダーシップをペトロに認めて、また、ペトロもそれを自覚して立ちあがって語るのです。今は、そこに集う誰もが分かる言葉、おそらくアラム語で、説教するのです。こうして語る者たち、聞く者たち、すべての人がペトロの説教に集中する状況が整えられます。ここにも伝道する教会の模範があります。

最初に語るのは、何でしょうか。ある人々が「酒に酔っている」とあざ笑いました。不思議なことですが、聖霊を受けた人々が大変に興奮して、すごい熱気を帯びて語る姿は、ユダヤ人の宗教生活においては、言わば、非日常的なものだったようです。確かに律法学者やファリサイ派の人々は、知的で理性的なユダヤ人のイメージに重なります。しかし、今、決定的に大切なことは、この瞬間から世界史は、新しい舞台へと押し上げられたということに他なりません。繰り返しますが、終わりの時代が始まったということです。それは、これまでとはまったく質の異なる時代なのです。その時代が始まったのに、興奮しないでいられない。熱気を帯びてかたらずにおれない、それがキリスト教の弁明だと思います。ペトロは、「今は、朝の9時だから、違いますよ。」と先ず、簡単に弁明します。しかし、大切なことはこの後に続く言わば大説教の中身です。そこに示されるのは、これが3年前まで漁師をしていた人の言葉かと、疑うほどに聖書を深く説き明かす、知的な、理性的なペトロの姿、いへ、説教の内容です。聖霊に満たされた者たちは、キリスト教のあるグループのように、興奮して、言っていることがよく分からなくても、雰囲気や感情で分かったように思うそのようなものとは違うということが、このペトロの説教を読むだけで分かるだろうと思います。確かに、酔っているような非日常的な興奮した姿があります。しかし、同時に、理性の言葉を、聖書の真理を深く掘り下げて、今ここで説き明かす知的な姿を見せる、それが聖霊の実りなのです。

さて、いよいよ説教の本論に入ります。ペトロたちは、今、自分たちに起こった出来事の意味を説明します。彼はただちに旧約聖書、ヨエル書第3章を引用するのです。まさに聖霊の導きがそこにあったはずです。彼がいつもヨエル書を読み、暗記していたのだとも思われません。しかし、おそらく50日の間、特に主イエスが昇天された10日の間、彼らは熱心に聖書を調べていたはずです。そして、終わりの時代がまさに今来ようとしていることを彼らは、いよいよ切実に悟っていたはずです。だから、ヨエル書第3章に着目できたのかもしれません。ここに記されたヨエル書第3章は、後で調べていただくとすぐにお分かりになりますが、一言一句そのままの引用ではありません。そこにペトロたちの解釈が添えられ、ヨエルの預言の意味をさらに鮮やかに、際立たせるのです。それは、これからの新約の時代における旧約のふさわしい解釈の模範でもあります。さらに正確に言えば、主イエス・キリストによる新しい啓示に即した、そして聖霊によって導かれた正しい聖書解釈が彼らによって始められたのです。それが言わばキリスト教をつくって行ったと言っても良いのです。

ユダヤ人にとって、言いかえれば旧約の民にとって、終わりの日、それを旧約ではしばしば「主の日」と表現します。この主の日が到来することこそ、救いでした。彼らが待ち望んだのは、主の日の到来なのです。その日が、イスラエルが再興される日となるからです。偶像礼拝をする諸国の民は、神の怒りと裁きを受け、イスラエルだけが神の国、神の王国として世界に君臨するわけです。それをもたらす人こそが、メシア、つまりキリストなのです。そして、今こそ、終わりの時代に入った、それこそここで、つまり説教の冒頭で第一に告げるべきメッセージなのです。

終わりの時、終末という言葉は、すでに我々の中でもあるイメージが付いている言葉のように思います。それは、世界の破局というものです。世界の終わり、この世の終わり、それが我々の世界での意味だと思います。ですから、そこには何の光もありません。おそらく多くの人々にとって世界の終わり、終末とは救いの反対の言葉として理解されるだろうと思います。そして、まだまだ終末の時代にはなっていないと考えられるのだと思います。
それに対して、ペトロが告げる神の真理は、まったく異なります。終わりの日に、神が聖霊を豊かに注がれるというのです。何故、そのような新しい恵みの時が始まるのかと言えば、御子なる神イエス・キリストが十字架で死なれ、墓の中からお甦りになられ、人間の罪の贖いを成し遂げられたからです。こうしてユダヤ人だけではなくすべての人間が救われる神の偉大な御業が成し遂げられたからです。ご復活されたイエスさまは、天の父なる神の右に座し、本来の神の栄光の場所に戻られ、父なる神からの霊をご自身を通して、世界に注がれることがおできになったのです。

こうして注がれた神の霊、キリストの霊、つまり聖霊なる神は、何よりも預言、つまり、神の言葉を語る者となるのです。ここでの預言とは、未来に起こることを前もって予告するという意味での予言ではありません。それを含むこともありますが、大切なのは神の言葉をお預かりして、それをまっすぐに語るという事です。終わりのときには、若者は幻、老人は夢を見ると言われます。これは、民数記第12章にも予告されていますが、幻や夢はたんなる夢幻ということではありません。それをはっきりと語る、預言するというのです。夢も幻も地上で成就する、それこそが、ここで言われている内容です。「若い者は経験がないし、よく分からないのだから、ひっこんでいなさい」とか「もう老人の出る幕ではない、大人しくしていてください」とか、そのような考え方も言い方も終わりの時代、聖霊が注がれ、働く教会においてはまったくふさわしくないというわけです。若者も老人もひとしく聖霊を注がれて神の偉大な救いの御業を語るのです。ヨエル自身は、男女の奴隷も等しく聖霊を受けて語ると言います。つまり、教会における身分や男女の差別が克服されること、克服すべきことが予告されているのです。

今朝も、教会は語ります。ここで牧師である説教者が立てられて語ります。そして私だけではなく、子どもの教会でも教師が立てられ、説教が語られました。このようにして、キリストの教会では、聖霊を満たされ、終わりの時のしるしが今も、今朝も見えているのです。

さらに言えば、「終わりのときにはわたしの霊をすべての人に注ぐ」というヨエルの預言は、私ども教会にとっての聖霊降臨の恵みだけではく、さらに広い広がり、意味を持っていると思います。先週は、バベルの塔の物語を学びました。神に反抗するために心を合わせて、高い塔を建築した人間たちに、神は、それをできなくさせるために、ことばを混乱させられました。それは、人間を究極の破滅に至らせまいとする神の愛と恵みであったこと、そのような意味での神の裁きであったことを学びました。そして、聖霊降臨は、人間の共同体を神の御言葉、福音によってもう一度建てあげる可能性、教会共同体の使命が暗示されていると学びました。

ここでは、もう一度創世記を思いだしたいと思います。第2章の人間創造の物語です。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹きいれられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。この後、アダムとエバは、毎日、命の息を満たされ続けながら生きるべきでした。しかし、彼らは、神の御言葉を破り、その御心に背いて罪を犯します。つまり、神の命の息を受けられなくなってしまったのです。こうして、人類は、最初の人間のいのちの姿、本来の姿を失ってしまいました。しかし遂に、終わりの時が来たのです。そして、それは、何を意味するのかと言えば、主イエス・キリストによって成し遂げられた救いの御業、贖いの御業によって、ユダヤ人だけではなく、男も女も誰でも信じる者に、御父から発出するする聖霊が、主イエス・キリストによって注がれる時代になったのです。今朝も、ニカヤ信条で告白した通り、私共には聖霊は御父と御子よりここに注がれているのです。そのようにして、私どもを本来の人間に、神は取り戻して下さったのです。それが、終わりの時代のしるしなのです。そして、教会は、人間にとってこの神の霊なしには救われないこと、生きれないことを証言するのです。証言しなければならないのです。私どもだけがこのいのちの祝福を一人占めにしてはならないのです。

さて、次に、「主の偉大な輝かしい日」について、学びましょう。その日には、確かに、このような世界の破滅の様相が描き出されています。「上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。」これは、何でしょうか。これこそ、今始まった終わりの時、終わりの時代の終わりの日の予告です。主の偉大な輝かしい「日」の日とは、単数形で、終わりの「時」とは複数形、つまり、終わりの日々というニュアンスです。終わりの時代が始まった、それはまさに誰でも救われることができるという驚くべき恵みと救いの時代の始まりなのです。しかし、その日々は、長く続きません。それが閉じられる日が来て、世界は完成されるのです。その日までは、なお、世界には、人間によるバベルの塔の企てがやまらないと思います。歴史が証言している通りです。今も日本は、バベルの塔構築を恥ずかしげもなく、熱心に推進する少なくない人々とそれに知らずに巻き込まれる大勢の人々がおります。

さて最後にペトロはヨエルの預言の言葉の引用をこの御言葉で終えます。「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」すばらしい約束の御言葉、祝福と救いの言葉です。聖霊降臨によって始まった終わりの時代、言いかえれば教会の時代、さらに言いかえれば聖霊の時代は、驚くべき単純さをもって、若者も老人も、男も女も、誰でも、ただ主なる神の御名を呼び求めるだけで救われるのです。そのような時代が始まったのです。救いの門戸が限りなく広げられたのです。ちなみに、ペトロは、ヨエル書第3章の最後の御言葉を敢えて引用していません。時間の関係で、後は家に読んでみてください。終わりの時に、シオンの山、エルサレム神殿に逃れる場があると、ヨエルは言うのです。ペトロは、それをこの説教で引用しません。くわしい解説は省きます。大切なことは、終わりの時代は、エルサレムやシオンの山だけに救いの場所があるのではないからです。むしろ、全世界の言葉で弟子たちが御言葉を語り出したように、どの国でも、どの場所でも、主の御名を呼び求めるものは皆救われるということです。

まさに救いの、ふさわしいたとえではないと思いますが、敢えて言えば救いのハードルがものすごく下がったということです。救いの門戸がものすごく広げられたということです。

そして、もはや言うまでもないかもしれません。ヨエルにとっての主の御名は、イスラエルの神、ヤッハウェです。その御名を直接唱えることは、主の御名をみだりに唱えるべからずとの十戒の第三戒に基づいて、主と呼ぶようになったのです。しかし、この終わりの時代は、違います。私どもは主なる神、父なる神が私どもにお与えになられた御子なる神、そして私どもの救いのために人となられたイエスさまの尊い、聖なる御名を唱えるのです。そうであれば、今日、こう言い変えた方がよいでしょう。主イエスの御名を呼び求める者は誰でも救われる。ですから、今朝も私どもはここで主イエスの御名をお呼びしたのです。毎日、主イエスの御名をお呼びして、神に祈るのです。それが、聖霊の時代のしるしです。私どもが聖霊を受けたしるしです。ヨエルは、「天と地に記しを示そう」と言います。こんなにすばらしいしるしがあるでしょうか。私どもは、今朝も主イエスの御名を唱えるのです。ですから、私どもに聖霊が注がれています。使徒パウロもまた、このヨエルの御言葉をローマの信徒への手紙第10章で引用しています。主イエスの御名を大胆に唱えましょう。信仰を告白しましょう。イエスさまはわたしの救い主、主、神と、神と隣人の前に告白しましょう。その人は確実に救われています。何故なら、その人は、すでに聖霊を注がれ、受けているからです。聖霊に導かれる以外に、誰も、イエスさまを主と告白し、お呼びすることはできないからです。

私どもは今朝、特に、この告白を隣人にすること、つまり伝道のために祈りましょう。主イエスの御名を唱えて、聖霊を求めましょう。このお方だけが、私どもの舌を、力をもって動かし、愛と勇気を与えて神の偉大な救いの出来事、物語を語らせて下さるのです。

祈祷
天の父よ、今、あらためて私どもが終わりの時代の中に生かされていることの意味を悟ります。今なお、古い時代のとりことなっている多くの人々がおります。彼らの隣人となり、あなたの偉大な救いの御業を語り、主イエスの御名を大胆に唱えさせて下さい。主イエスへと、主イエスの教会へと、導かせてください。若い仲間も高齢の仲間も、男性も女性もすべての者を一つにして、教会の伝道を推進してください。アーメン。