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「誰がキリストを殺したのか」第2章22節~24節

「誰がキリストを殺したのか」
                 2014年3月9日
テキスト 使徒言行録第2章22節~24節
【 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。】

先週は、使徒ペトロによってなされたキリスト教会におけるまさに最初の説教の冒頭部分、序論から学びました。今朝は、いよいよ、その本論に入ってまいります。ここから一呼吸置くようにして「イスラエルの人たち」と呼びかけて、聴衆に向き合います。これは、14節の最初の呼び掛けでは「ユダヤの方々、エルサレム在住の方々」でした。ものすごい音響に驚いて、駆け集まって来た人々は、その意味では、単なる野次馬だったかもしれません。しかし、ペトロは今、ついにここから、野次馬としてではなく、まさにあなたがたイスラエル、つまり神の選びの民の救い、信仰にとって決定的に重要なことを話すのだぞという思いを込めて、「イスラエルの人たち」と呼び掛けたのだろうと思います。そしてペトロ自身もイスラエルの一人なのです。

彼は、こう切り出します。「これから話すことを聞いてください。」当たり前のことのように、読み飛ばしてしまうかもしれません。誰でも何か話をする人は、それを真剣に聴いてもらいたいと思うはずです。真剣に聞いてくれない時、力が抜けて、「時に、まあ、自分の責任だけ果たせればいいか。」という誘惑を受けることもあるかもしれません。しかし、福音の説教は、そうあってはなりません。「どうしても、なんとしても」聴いてほしい情報、命の情報だからです。福音は、いのちを左右するのです。永遠を決定してしまいます。ですから、「時間があれば、聞いて下さい」とか、「関心のある人だけが聞いてくれればよいですから」というようなものではないはずです。「どうぞ聞いて下さい」というお願いする言葉、謙りの思いと共に言わば、「真剣に聞いて下さい、すべてにまさって大切な情報ですから、自分のもっとも大切なこととして聞きなさい」そのような思いが必要です。ペトロは、聖霊に満たされ、おそらくある輝きを放っていたのだろうと思います。

さて、本論の冒頭で一番、告げたいことが明らかにされます。ナザレというイスラエルの人々から、イスラエルの歴史においては、まったく注目されることのなかった片田舎出身のあのイエスは、神から遣わされたお方でいらっしゃるということです。ただ単に、「神から遣わされた者」であれば、そのような人々は、イスラエルの歴史にたくさん登場しました。最近で言えば、あの洗礼者ヨハネなども、大勢の人たちから神から遣わされた者と理解されていました。しかしペトロはここで、ナザレのあのイエスもまた、そのような種類の神から遣わされた特別の預言者だというのでしょうか。まったく違います。一言で言えば、イエスは、神そのもの、神ご自身でいらっしゃるということです。

そこで、ペトロは、自分の主張を裏付けるために、多くの人たちが知っているあのナザレのイエスさまがなさった数々のことを、ここに思い起こさせます。「神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。」ひとつ一つ数えませんが、地上のイエスさまがなさった奇跡、不思議な業、神から遣わされた特別な方であることは、明らかだというわけです。神は、イエスさまが神ご自身でいらっしゃることを、イエスさまの力ある奇跡によって証明されました。これは、そこにいた全てのイスラエルとは言えないかもしれませんが、多くの人々は直接、見聞きしたことであったはずです。

さてしかしながら、実は、それだけでは、まったく説得力がありません。何故なら、ペトロ自身、主イエスのほとんどすべての不思議な業を目撃しながら、イエスさまが誰であるかを正しく知ることができなかったからです。ペトロだけではありません。弟子たち全員が、正しく知り、信じることができなかったからです。その意味で、どれほど主イエスが神でしかなしえない力ある奇跡、人間の力をはるかに越えた不思議な業を目撃し、立ち合い、その当事者となったとしても、ただそれだけでは、イエスさまを正しく知り、信じることにはならないのです。

それなら、ナザレのイエスを神として、神の御子として正しく信じるために、どうしても知らなければならないことは、何でしょうか。どこにあるのでしょうか。ペトロは言います。それは、イエスさまは十字架につけられて死なれたことだと。私どもが毎週唱えている、ニカヤ信条では、「ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ、苦しみを受け」と告白します。使徒信条では、「苦しみを受け、十字架につけられ」となっていて、順序が逆になっています。歴史的、時間的に言えば、使徒信条の方が、ふさわしいかもしれません。しかし、その本質、その中心から言えば、むしろ、ニカヤ信条のように「苦しみを受け」られたことこそ、十字架の死の意味、意義と言えるかと思います。ペトロは、ここで「死の苦しみ」と言います。ここに焦点を絞るのです。人々に信仰の焦点を合わせることを求め、勧めるのです。

今、聖霊に満たされたペトロはまっすぐに語ります。訴えます。「この死の苦しみを主イエスに強いたのは、強制したのは、いったい誰であったのか。神から遣わされて、人となられた神の御子でいらっしゃるイエスさまを殺したのはいったい誰であるのか」それを真剣に問いかけるのです。

この問いかけのなかで、ペトロはきちんと大切な真理を記します。つまり、このイエスさまの死とは、父なる神さまの想定外のこととして起こってしまったとわけではまったくないという事実です。その正反対です。神ご自身がお定めになられたご計画どおりであったのです。御子イエスさまが殺されることをあらかじめご存知の上で、イスラエルに引き渡されたのです。つまり、父なる神は、私どもにイエスさまを差し出されたのです。イエスさまをお恵みくださったのです。

それなら、イスラエルがイエスさまを殺したのは、仕方のなかったことになるのでしょうか。神がご計画されたのだったら、言わば、運命のように抗えないのだから、仕方がないではないかという議論は成り立つのでしょうか。いいえ、成り立ちません。仕方がなかったと言い抜けることはできません。むしろ、神は、その行動の中に、はっきりと人間の罪をあぶり出しておられるのです。

ここで少し考えてみましょう。今、ここに集っているのは、確かにイスラエルの者たち、ユダヤ人です。しかし、五旬祭で世界の各地から集って来たイスラエルもまた少なくないのです。ということは、何を意味しているのでしょうか。つまり、ペトロがここで言ったように、集まっているのは、ナザレのイエスさまの存在となされた奇跡を目撃した人ばかりではないということです。ペトロが、「あなたがたは、神の遣わされたイエスさまを十字架につけて殺した」と言われても、そもそも、全員が、イエスさまの裁判や十字架の場面に立ち合っていたわけではないはずです。それくらいのことは、ペトロも重々、分かっていたはずです。それならなぜ、例外なしに、全イスラエルは、イエスさまを殺したのだ、このイエスさま殺しの罪から関わりのない者はいないのだと問いかけるのでしょうか。
そして、それは、まさに、ここにいる私どもへの直接的な問いかけに他なりません。確かに、今を生きる我々は、誰も、2000年前のイエスさまの十字架に直接には何のかかわりもありません。説教者が、「あなたがたは、十字架につけて殺してしまったのです。」と言われても、「わたしは、生まれていませんでした。」そう一言答えて、終わらせてしまう方も少なくないのです。自分とはまったく関係のないことですと片づけてしまうことは、むしろ、当然と言えるかもしれません。

しかし、まさにそこが問題です。ペトロは、そこを問うのです。そして、あのイエスさまの十字架の死とは、あなた自身が手を下したわけではないが、あなたが加わっているというのです。つまり、イエスさまの死とは、単に2000年前の昔の事柄では済ませなくなっているのです。いつの時代の、どの国の人にも、直に関わる事件であるということです。ここに救いの問題の急所があります。

そもそも私どもが救いと言う時、それは、一体何を意味しているのでしょうか。ごく初歩的な問いです。しかし、最大の究極の問いでもあります。いったい、救われるとは何でしょうか。およそ宗教と名乗るものは、内容はともあれ、人を救うという何かを持っているはずです。だからこそ宗教には、一定の価値があると考えられています。人を救わない宗教というものは、ないのだろうと思います。しかし、まさに問題なのは、そこで言われている救いとは何かです。病気に苦しむ人にとっては癒しが救いでしょう。経済的に苦しむひとは、必要が満たされることが救いでしょう。人間関係に苦しんでいる人には、関係が良くなることでしょう。精神的な空しさに苦しむ人は、心の充実が救いでしょう。自分の性格や課題に苦しむ人には、理想のあり方に変化することが救いでしょう。それなら、いったい聖書が言う救いとは何でしょうか。もとより、今数えたことを聖書は軽んじません。どうでも良いこと、次元が低いことだと軽んじません。聖書の神は、それらの苦しみをも軽やかに克服させ、解決させてくださるお方でいらっしゃることを確信しています。しかし今掲げてみました苦しみからの救い、解放などの方法は、何も、神さまが与えて下さる以外にもいくらでも方法があるはずです。今は、病院、カウンセリング、自己啓発セミナーなど、宗教以外でも解決の道はあるのだと思います。何よりも、深刻にならずに、その苦しみを見つめないで気持ちをコントロールすればよいわけでしょう。自分自身で自分に合う宗教をつくってしまえばよいわけです。

さてそこでこそ、問われます。いったい、聖書の言う救いとは何かです。それは、罪からの救いです。神の前に犯した罪からの救いです。つまり、罪の赦しに他なりません。罪とは、何でしょうか。それは、神の御言葉に背いたこと、背くことです。十戒を破ったことです。神を愛さず、隣人を愛さないで生きたことです。その罪を償うためには、罪のない人間が、身代わりに罪の刑罰を受けなければなりません。罪の刑罰とは、死です。肉体の死ではなく、永遠の滅び、神の怒りを受けると言う意味、神の裁き、神に捨てられるという意味での死です。その死をもって、罪の報酬を支払わなければなりません。しかし、神は、その人間が犯した罪を、贖うために、神の御子をイエスさまとして十字架に引き渡されたのです。私どもが罪を犯さなければ、父なる神は、御子イエスさまを十字架につける必要はありませんでした。その意味で、罪人である私どもは、イエスさまを殺したことになるわけです。
逆説的な言い方ですが、イエスさまを殺したということを認めるところに、救いがあるのです。つまり、自分が神に背き、神の御言葉に従って生きていないこと、自己中心、自分を絶対化する生き方をしていること、つまり自分が神の御前に罪人であることを認めるところに、救いがあるのです。自分の罪とその恐ろしさを認めるところに、罪の赦しの恵みが成り立つのです。

これも逆説的な言い方ですが、イエスさまに直接手をかけたのは、ローマの兵隊たちでした。主イエスの十字架刑の判決は、ローマ帝国が任命したユダヤ総督ポンテオ・ピラトによるものです。つまり、直接に手をかけたのは、「律法を知らない者たち」なのです。一言で言えば、異邦人です。つまり、ユダヤ人以外の全人類ということです。神の救いの周到なご計画の中で、異邦人が救われるのです。主イエスを殺すことに加担させることによって、異邦人も救おうとなさる神の知恵なのです。そのために、あのピラトが用いられます。今朝も、彼の名前をニカヤ信条で唱えました。それは、決してピラトが憎いとか、断じて赦さない教会は忘れない等と言う意味ではありません。むしろ、異邦人である日本人として、このわたしとピラトとは、言わば、同じ立場にいるのです。彼は、律法を知らない私たちの言わば代表でもあるのです。ですから、ニカヤ信条で、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白するとき、まさに、わたし自身の罪が主イエスを苦しませたことを告白するのです。このわたしが、このわたしの罪がイエスさまを殺したという告白なのです。この事が分からなかったなら、キリスト教は空虚なものとなってしまいます。反対に他の何がよく分からなかったとしても、わたしの罪はイエスさまの十字架の死によって償われた。贖われた。赦して頂いたと信じて、感謝できれば、そこから聖書の真理のすべては開かれ、理解されて行くのです。そして、この説教を聴いた者たちの中の3000人が、このメッセージをアーメンと受け入れて洗礼を受けて仲間に加わりました。

最後に、24節を短く学びましょう。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」聖書を教えているとき、しばしばこのような質問を受けます。「イエスさまは、復活させられたのでしょうか。自分で復活したのでしょうか。聖書には、どちらにも受けとめられるように書いてありますが。」とても大切で、すばらしい問いです。この二つのセンテンス、文章の最初は、神がイエスさまを死の苦しみから解放させ、復活させたと表現します。つまり、父なる神が御子イエスさまの贖いの御業を完全、完璧なものとしてお受けとめ下さり、満足されたということです。それゆえ、父の許可として、御子を復活させたのです。主語は、父なる神です。父なる神の権能が墓からのご復活の根拠です。しかし同時に、ペトロはこうも言います。「イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」

イエスさまというお方がどなたでいらっしゃるのか、それは、ペトロにはよく分かっていました。主イエスが不思議な御業、奇跡を起こされたのは、常に、人々に命を得させ、命を守り、育むためだということを見ていました。つまり、イエスさまとはいのちそのものでいらっしゃるのです。肉体の命、永遠の命すべてのいのちの源でいらっしゃるのです。ですから、我々にとって、死とは、まさに圧倒的力、泣く子も黙る、全人類をぐうの音も言わせない程、一瞬に黙らせてしまう力そのものです。しかし、イエスさまにとっては、死はその力をもっていない、死の支配を圧倒的に黙らせてしまう命そのものでいらっしゃるのです。だから、イエスさまが墓にとどまることは、あり得ないとペトロは言うのです。どちらも真理です。順序から言えば、この通りですが、私どもにとっては、この二つが真理なのです。そして、このイエスさまによって、私どももまた、悩みがあり、苦しみがあります。丁寧に正確に言った方がよいでしょう。悩みを与えられています。苦しみを与えられています。しかし、主イエスの十字架とご復活を信じて、命そのものでいらっしゃるイエスさまと信仰によって結ばれているなら、私どもは勝利者とされるのです。そして、その勝利者は、与えられた悩みや苦しみを、自分に与えられた十字架と受け止め直して、生きて行けるのです。そこから逃げない。苦しみや悩みを、なかったことにすることもしない。キリストの死の苦しみによって、私どもの苦しみや悲しみ、苦難や困難は、不思議な光を放ってしまいます。自分を自分らしく支える杖のようなものになるのです。自分の十字架を負うのです。しかし、その十字架そのものが、自分を支える杖のようにもなるのです。
最後の最後に、今週、広島の聖恵会の機関紙を読みました。その巻頭の文章を神学校の市川校長が書いておられました。非常に励まされました。聖恵会は、ひとりの重い障がいをもっていた牧師の祈り、忠海教会という小さな教会の祈りから始まりました。死へと至る病を抱えた井原牧夫先生は、御自分の障がいを神の予定に基づくもの、神のご意志の中にあるものとして理解しているから、慰めがあり、希望があると常々仰っておられたということです。まことに、ハッとさせられます。神は、障がいの中に意味と目的を持たせておられる故に、自分には使命があり、この十字架に向き合えるとお考えになられて授産施設を興されたのです。この十字架が井原牧師をして井原牧師たらしめ、そして、教会とともに一つの事業を興す力となったのです。おそらく私どもは、この先生ほどの障がいを得ていないと思います。しかし、ひとり一人には、やはり担うべき苦しみ、十字架があります。しかしその十字架によってこそ、私どもは命の主でいらっしゃるイエスさま、死からの絶対的な勝利者でいらっしゃるイエスさまの死の苦しみに繋がるのです。ですから、私どももまた、このイエスさまを今朝ここで深く覚え、主イエスとの交わりの中で、立ちあがるのです。

祈祷
天の父よ、わたしどもはあなたが遣わされた救い主イエスさまを十字架で殺した者たちであります。罪人であります。しかし、それをあらかじめご存知で、あなたは、御子イエスさまをこの地上に遣わされました。今、私どもは、主イエスによって完全に罪を赦され、今あるがままで神の子とされています。この恵みの中で、私どもの十字架、私どもの苦しみもまた、あなたの栄光へと変えられて行くことを信じ、感謝致します。どうぞ、聖霊によって私どももまた自分の十字架を担って歩む者として導き続け、支え続けて下さい。アーメン。