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「世界中の人々の救い」第2章5節~13節

「世界中の人々の救い」
                 2014年2月23日
テキスト 使徒言行録第2章5節~13節
【 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。】

五旬祭の日に、主イエスがご復活されてから50日目、主イエスが天に昇って行かれてから10日後に、遂に、約束された聖霊が、120人余りの弟子たちの上に降臨されました。突然に、まさに驚くべき自然界の現象をも共なって信じて待ち望んでいた120人の弟子たち全員に注がれました。その結果、彼らは、全員が聖霊に満たされ、聖霊に導かれ語らせるままに、全員が他の国々の言葉で話しだしました。

さて、この時、彼らは、どこに集まっていたのでしょうか。聖霊降臨の場所はどこだったのでしょうか。おそらく、すぐに思い浮かぶのは、1章13節にある、エルサレム市内にあった家だと思います。そこは、彼らの身の安全を確保することができたであろうと思います。使徒たちの中の誰かの家である可能性はあり得ません。しかし、彼らの中にも、裕福な弟子もいたと思われます。新約聖書に基づいて想像できるのは、たとえばマタイによる福音書であれば、主イエスのご遺体を引き取ったアリマタヤ出身の金持ちのヨセフの家の可能性です。あるいはヨハネによる福音書であれば、最高法院の議員でもあった律法学者のニコデモの家であるかもしれません。

さて、ここにもう一つの可能性があります。私自身は、あらためてこちらの方を考えています。それは、エルサレム神殿の中です。その理由は、聖霊が降臨したとき、巨大な音響が響き渡ったと言われています。その音に驚いた人々が彼らのもとに駆け集まって来たというのです。120人もの弟子たちが一つの部屋にいるということもなかなか大きな家であると思いますが、しかし、それでもさらに大勢の人々が集まれるとは思えません。41節で分かりますが、その日、実に3000人もの人々が洗礼を受けたということです。集まったのは数千人であったわけです。それほどの人々に説教したり、集会を開くことができるのは、やはりエルサレム神殿だと思います。

その日は、ユダヤ人の祭りである五旬祭を守ろうとして、使徒たちはもとより、実は、世界の各地から大勢のユダヤ人が集まって来ていました。ちなみに、この世界の各地にいたユダヤ人のことをディアスポラと言います。「散らされた民」という意味です。使徒言行録を理解するために知っておかなければならない時代状況を示す鍵の言葉です。当時、様々な理由からイスラエルの地を離れざるを得なくなったユダヤ人は、世界中に自分たちのコミュニティをつくって暮らしていました。キリスト教の世界伝道は、まさに、この世界中に散らされていたユダヤ人、ディアスポラの人々を中心にした実現されて行くわけです。ここにも歴史を支配しておられる神の大きな御業を認めることができます。さて、この人々は、ものすごい犠牲を払って、ユダヤの祭りを守ろうとしてエルサレムにやって来ています。120人の弟子たちは、エルサレム神殿の、おそらくはソロモンの回廊に集まっていたのかもしれません。

ちなみにこのエルサレム神殿は、紀元70年にローマ帝国への独立運動を起こしたユダヤ人への徹底的な弾圧のもと、跡形もなく破壊されてしまいました。主イエスご自身が預言されていたことでした。そして、既に、この神殿は、イエスさまが十字架についてご復活されたことによってその機能は、終了したと言って良いのです。しかし同時に、約束の聖霊がエルサレム神殿で、自分たち独自に礼拝していた弟子たちの上に降ったことは、神の大きなご計画であり、祝福だと思います。彼らは、この後もエルサレム神殿で礼拝を続けました。しかし同時に、聖霊の注ぎは、この神殿の外でも豊かになされて行くことを、彼らは経験して行きます。そして今、私どものこの小さな礼拝堂で礼拝をささげる私どもの上にも、聖霊は豊かに注がれているわけです。

さて、ものすごい物音に驚かされて、駆け集まって来たユダヤ人は、あっけにとられてしまいました。何故なら、120人余りの人々が、どこから見てもガリラヤ出身者らしいかっこうをしていたからです。これは、田舎者と言う意味です。ディアスポラのユダヤ人は、エルサレム神殿の真ん中で、自分たちの国の言葉で、神の偉大な御業についての説教を聴かされたからです。ルカは、このように報告しています。「パルティア、メディア、エラム、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア、ローマ、クレタ、アラビア」ざっと16の国、地域、地名が挙げられています。要するに世界大の広がりを示し、全世界からユダヤ人が集まって来たと言うのです。それは、この後、まさに世界の果て、地の果てまで福音の伝道が進展して行くことを先取りした出来事でもあります。

さて、今朝は、この不思議な現象が、何故、何のために起こったのかについて考えてみたいと思います。聖霊なる神は、ご自身の本質やお働きについて、私どもの視覚に訴えるように舌として現れてくださいました。つまり、聖霊なる神とは、語られる神、福音を語る神、イエス・キリストを証言させる神ご自身としてお働きになられることが、ここで徹底的に強調されたわけです。そして、そのお語りになられる聖霊は、一つの言語ではなく、世界中の言語を用いて、神の驚くべき救いの業、救いの道を、弟子たちに語らせられるお方なのです。つまり、神の霊が注がれ、聖霊に満たされたキリスト者は、神の言葉を語るということです。沈黙させないということです。口を開かせてしまうのです。

旧約に登場する最大の信仰者と言えば、やはりモーセでしょう。ところが彼が、神さまの召しを受けた時、彼は、じたばたしました。その最大の理由は、口下手だということでした。そのために、神は、モーセにあなたのスポークスマンとしてアロンを伴わせよう。アロンは、神の御心を上手に民に語ることができる人として選ばれたのです。
しかし今や、祭司アロンのような、後のレビ人の祖先となるような優れた人だけに神の言葉を語らせるのではないのです。実に120人の弟子たち全員が、例外なしに語り始めたのです。そこには女性がいました。おそらく子どもたちもいたのではないか、わたしはそのように想像します。とにかく聖霊降臨によって、語るのです。

これはわたしの個人的な体験で、自分の召命にかかわることですが、エレミヤ書の第20章9節の経験を、わたし自身も与えられました。「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」もう仕事をしていられない、御言葉の説教者、伝道者にならなければならないと神さまに降参させていただいたのです。こうして、その翌春に神学校に入ったわけです。もとより、この体験を普遍化することはできません。しかし、主を語ることを黙っていられなくさせるお方は、私どもより強いお方です。

この聖霊降臨の出来事は、まさに空前絶後のことです。一度限りのことです。宣教師の方に伺ったことがありますが、外国語で神の救いの物語を語ること、聖書を説き明かすことは、簡単ではありません。また、母国語以外で深くお祈りすることはとても難しいとのことです。これは、想像に難くありません。ところが、ここでは、奇跡が起こったのです。おそらく、自分たち自身も語った言葉が分かったかどうか、しかし、その説教を聴いた者たちには、理解できる言葉が語られたのです。

中学生の時、何故、英語を習わなければならないのだろうかと悩んだ経験がある人もいるかもしれません。何よりも、そもそも何故、世界には、こんなにさまざまな言語があるのだろうか。皆が、一つの言語を喋れたら、どんなによいだろうかと考えたことがあるかもしれません。聖書は、その事についてきちんと解答を出しています。それは、あの有名な創世記のバベルの塔の物語です。第11章です。ノアの箱舟の物語、洪水の物語以降の出来事です。創世記は言います。第11章1節「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」つまり、もともと人間は同じ言葉を使っていたと言うのです。それならなぜ、言語が分かれてしまったのでしょうか。その理由は、創世記によって説明されています。そもそも、神は最初の人間を男と女に創造されて、彼らにこのような祝福の言葉、祝福の命令を告げられました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」これは、第一に、人間のいのち、その存在を祝福する神の御言葉です。増えることが許可され、祝福されるのです。どれほど増えるのか、地に満ちるまでです。つまり、人間は世界中で生きること、世界に散ってそこで暮らすことが求められているのです。そして、その目的は、美しい世界、大地をふさわしく管理することでした。言い換えれば、神の恵みと平和、愛と美しさ、神の祝福が世界を満たすことです。そのために、人間は生きることが許されているのです。これは、人間にとってこの上ない光栄な使命なのです。

ところがある時、東の方から移動してきた人々が、平野を見つけて、そこに住みつきました。人間が定住する場所を見いだすことが悪いわけではないと思います。また、石の代わりにレンガを、しっくいの代わりにアスファルトを造り出し、高層建築が可能となっていました。しかし、人間がいよいよその文明を発展させたことそのものが悪いわけではないのです。しかし、彼らはそこで、神に対して決定的な罪を犯しました。「彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。」「有名になろう」という意味は、自分たちの名前を第一にして、主の御名を第二にしようということです。彼らは、主なる神のことを知っています。主を信じています。主を恐れました。しかし、それは、私どもが今ここでしているように畏れ敬っているわけではありませんでした。彼らは、神との関係において正しくあろうとしなかったのです。

「有名になろう」の次に、主の前に罪を犯していることが分かるのは、次の言葉です。「全地に散らされることのないようにしよう」これは、神の人間への祝福の命令に対する真っ向からの挑戦です。既に神さまとの正しい関係を持っていないことがはっきり分かります。何故なら、彼らは、神さまの御心が、自分たちを恵みと慈しみ、祝福と繁栄を願っていて下さるというものであることを信じず、受け入れないからです。彼らの神のイメージは、まるで自分たちに都合の悪いことを指図する横暴な権力者のようなものなのです。

彼らが試みるのは、神を抜きにした人間の共同体の構築です。神を排除した世界を、自分たちの優れた知性、理性、科学技術で造り上げようとするのです。そして、彼らは知りました。人が多く集まるところにまさに経済的な繁栄や科学技術、多様な人材、優れた能力を持つ人と大勢の労働力、すべては、自分たち好みの世界を作り出すのに好都合に思えたのです。ですから、この成長や繁栄のサイクル、幸福のサイクルを決して壊してはならない、奪われてはならないと考えたのです。その象徴的な行為が高層建築、バベルの塔の建築でした。自分たちで天まで届く塔を建てよう。自分たちが神になれば、それでよいとする思想、考え方、これが、あのアダムとエバが善悪の知識の木を食べて神に反抗したこととまったく同じであることを思います。世界の歴史において明らかな事、何よりも近現代の日本の歴史において明らかになったのは、何よりも先の大戦や3:11で明らかになったのは、この同じ罪と過ちを繰り返しているということです。その規模は、あまりにも巨大なものとなってしまったのです。いったい、現代のバベルの塔の建築を推進しているのは、誰でしょうか。それをはっきりと認識しない限り、この恐ろしい運動に巻き込まれ、自分たちもまた被害者であると同時に何より加害者になってしまうことを、思います。教会には特別の責任があります。フクシマの問題を、名古屋の、この私どもの教会としても真剣に考え続けなければならないはずです。加害者にも被害者にもならない道を真剣に求め、願わくはそれをこの日本の社会の中に指し示すことを祈り求めたいと思います。

さて、バベルの塔の企て、人間の神への罪、神に対する高慢に対して、神は裁きを下されました。バベルの塔建築の阻止です。そしてその方法が、言葉を混乱させることでした。人と人とが、その言葉が通じ合えなくなったのです。お互いの言葉が通じないとき、お互いの思いも上手く伝わらなくなりました。その結果、人々は、混乱したのです。その町の名は混乱バラルからとって、バベルと呼ばれました。ただし、ここでも私どもは深く考えたいのです。この企てがもしも、神に放置されていたなら、どうなっていたのでしょうか。それは、究極の神の怒りと審判を受ける以外になかったはずです。混乱どころではなく、破滅、滅びです。つまり、神の御心はここでも愛と平和、祝福と慈しみがはるかにまさっているのです。人間を憐れむ神、人間を本来の人間らしくさせようとなさる神の憐れみがあります。その意味で、これは、自分ができないことですが、外国語の習得と何よりも異なる言語、文化をもった神の民と繋がることがどれほど、神の御心に即したことであるかは、明明白白です。

さて、まさに、そこにこそ、この聖霊降臨の空前絶後の恵みの奇跡の意味と目的が示されています。神は今、新しい神の民であるキリストの教会の出発において、言語の不一致による混乱を乗り越えさせて下さるのです。この日、人類の言語が統一されたわけではありません。しかし、この日、神の福音、イエス・キリストの福音が世界中に宣べ伝えられ、それによって混乱した人と人との関係、国と国、民族と民族の関係、その絆が結ばれる可能性が、その正しく真実の意味での唯一の可能性が示されたのです。

私どもの主イエス・キリストの十字架とご復活の贖いの御業は、神と一人一人の個人的な関係を回復させ、神さまとの正しい、いのちの関係、絆を結び直すこと、つまり罪の赦しの福音の恵みだけではないのです。さらに、人間と人間との関係を結び合わせる絆、その意味で、共に生きる共同体が真実に成り立つのです。一つの心をもって、その町に定住する共同体が、神に喜ばれ、御心に適うこと、そこで理性と知性を尽くして、文明、科学技術を進展させることがふさわしい位置を持つことになるのです。

世界は、実は、キリストの教会を憧れていると言っても言い過ぎではありません。20世紀の世界戦争を経て、人類の罪が地球規模の破滅をもたらすことを真剣に見詰めたとき、国連のような機関がどうしても求められるようになったことを見ても分かります。そして、第一世紀のキリストの教会は、既に、世界中の言語、人々に福音を告げ知らされ、数にすれば僅かでしたが、世界大にそのネットワークを広げることに成功したのです。ユダヤ人とギリシャ人、あの16の地域、国々に住む人々との主にある絆、キリストの一つの教会としての交わりが起こったのです。

確かに、聖霊降臨のときに、既に、この神の驚くべき恵みと愛の奇跡に対して、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者」もいたわけです。今日の日本においても、教会が笛を吹いても踊ってくれる人は少なく、むしろ、あざける人もいます。それは、決して思いがけない反応なのではありません。繰り返されてまいりました。しかし今、ここに皆さんがおります。私どもがいます。新しいぶどう酒に酔っているのではなく、聖霊によって神に感謝し、お互いの存在を喜び、感謝しあっています。今日も、共に集うことができたことを本当に嬉しく思い、神が聖霊降臨の出来事を今朝も続けていて下さるその事実を、信仰によって見ることができます。どうぞ、聖霊を受けた一人ひとりは、お互いにまったく異なった存在です。キリスト者も、ひとり一人の個性が際立ちます。しかし、キリストの救いにあずかって、聖霊を受けたそのとき、私どもは、お互いの違いを受入れあい、さらに豊かな共同体を形成することができるのです。旧約のあのエルサレム神殿に集まった弟子たちに聖霊が注がれて、神のご計画が実現し、いよいよそれが拡大して行きました。今日、私どもにとってのエルサレム神殿とは、この名古屋岩の上教会の礼拝堂に他なりません。この礼拝式に出席する私どもの上に、聖霊が注がれるのです。そして、その外でも、家でも職場でも学校でも、道端でも、主を見上げ、御言葉に導かれて聖霊を求める人には、聖霊の豊かな注ぎと導きとがなされます。そして、いよいよ教会共同体を建てあげる一人とされて行くのです。私どもは、この教会を通して、神の御心を実現してまいりましょう。神の国の福音、主イエスの福音を語って行くことです。それが、私どもの使命なのです。そして、この交わりは、決して閉鎖的なものではありません。神に、さらに、大きく広げて頂くように祈り求めましょう。この町に住む人々のためにはもとより、東北や沖縄へ、世界の人々の救いのために、キリストにおいてなされた神の驚くべき業を語りましょう。そのために、私どもの唇を神の口として用いて頂くこと、私どもの存在を聖霊の器として用いて頂きましょう。今ある、そのままで、大丈夫です。私どもが信じ、待ち望み、明け渡してしまえば、後は、聖霊がしてくださるからです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、2000年後の私どもの上にも御子によって、聖霊を注いで下さいました事、今、注いでいて下さり、ここで神との命と愛の交わり、そして兄弟姉妹との交わりを持つことが許されています。心から感謝致します。どうぞ、あなたの前に、高慢になり、あなたなしで善き人間の共同体をつくることができるかのように考え、実践する現代社会のただ中で、私どもの証、教会の存在をもって警告を発し、あなたの愛と祝福へと、悔い改めへと招くことができますように。私ども自身がいよいよあなたを畏れ敬い、あなたの御心に従って、愛と平和の交わりをここに堅固に築かせて下さい。