過去の投稿2003年12月26日

洗礼入会の証 20代男性

 仕事の関係でこんな会話を聞いたことがあります。「あなたは何のために仕事をするのですか?」ある人はこう答えたそうです。「生きるためです。」そうすると、こんな返答があったそうです。「なるほど、ではあなたは虫と一緒ですね。虫もただ生きるために一生懸命働いていますよ。」「・・・」その方は悔しかったそうですが、何も言い返す言葉がなかったそうです。

 私自身、非常に考えさせられる会話の内容でした。もし自分だったらどう答えるんだろうか。その当時の答えは、「自分が生まれてきたミッション(使命)を果たすため」でした。ところがこの「ミッション」、誰に与えられたものではなく、自分が考え、暫定的に最善だと思う事を自分自身で決めたという、本当に自分勝手なものでした。昔から「目に見えない力」「第6感」などというものを否定できずにいた私は、「ミッション」はやはり自分の想像もつかないような力の働きでなくてはならないような、そんな違和感を感じずにはいられなかったわけです。

 キリスト教と私との出会いは高校生の時でした。当時野球が強いという理由で、あるミッションスクールに通い、そこで聖書、礼拝に触れました。ただまったく自分にとっては形式的なものでしかありませんでした。大きく「宗教」というものに触れたのは大学生のとき。アジアを一人旅したときにその存在の大きさを知ることとなります。今まで日本で感じてきた「宗教」「信仰」のそれとは大きく異なるものでした。大変な刺激を受けた私は日本に戻るとすぐ「宗教学」の授業を選択し、勉強したことを覚えています。
 しかしもっとも決定的で、かつもっとも存在が大きいのは妻の存在です。彼女との出会いは大学3年の時。たまたま専攻したゼミが同じだったことがきっかけです。いつしか付き合うようになり、結婚が決まり、本当に幸せな時間を過ごしていますが、当時からただひとつだけ心に引っかかることがありました。それがいわゆる「クリスチャン」と「ノンクリスチャン」であることだったのです。
 結婚とはなんだろう。私は一言でいうなら「人生のパートナー」と答えます。
では最高の人生のパートナーになろうと考えた時、その人の根底にあるものがこれほど大きく違うことがありえるのでしょうか。私にはまったくイメージができませんでした。今から思えば彼女へのプロポーズこそがある意味、天の神、主イエス、そして聖霊なる神へと導かれた瞬間だったのかもしれません。

 そして学びを重ねている今、本当に素晴らしい時間を過ごしています。妻とは以前よりももっと深く繋がる事ができています。言葉では言い表せないくらいに幸せを感じています。おそらく私よりも、洗礼を目指すと言った私のただの「言葉」を無条件で信じてくれた妻の方が、そしてご両親やご兄弟のほうが私よりも大きな喜び、幸せを感じていらっしゃるかもしれません。
 そして主・イエスが私のためにも十字架についてくださり、そして復活してくださり、その恵みにあずかることができると知った時、「なんて自由なんだ」と感じました。信仰は束縛ではなく解放ではないか、そう思います。いつどんな時も神様が一緒にいてくださる。その恵みを感謝し、甘えることなく生きていく。大変な安心感と同時に身の引き締まる思いで毎日を過ごしています。

 さて、私の「ミッション」ですが、今までは自己満足、と言われても言い返すことができませんでした。とくにボランティア、社会貢献という言葉は、残念ながら日本では偽善だと捉えられがちであることは否めません。そうではない、と言いたくても私自身の中で言い切る根拠がない、というのが現状でした。
 しかしながら、今でははっきりと言えます。私の「ミッション」は神様の栄光を現すことです。神様に喜んでいただくために自分が今できること、これからすべきことを考え、社会に貢献していきます。
「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(コリント信徒への手紙一 第10章31節)
まさにこの言葉が全てだと感じています。
 これから先、本当に感謝と喜びと感動と愛に満ち溢れた人生が送れることを確信しています。これほど幸せなことはあるのでしょうか?神に感謝し、祈りを続けます。多くの方がこれから神様の赦しと恵みにあずかれますように。世界が平和でありますように。