過去の投稿2005年3月6日

「分け隔てのない神」 テキスト ローマの信徒への手紙 第2章6節-11節

「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。  すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と  誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。」

 私どもは、自分が特別扱いされることが大好きであろうと思います。もちろん、その特別扱いと言うのは、特別に大切にされるということの意味であります。ビップ待遇という言葉があります。特別に重要な人物ということなのでしょう。誰でも、自分が特別に重んじられて気分が悪くなる人はおりません。お金を支払えば、ビップ室とか貴賓室、特等席、ファーストクラスに移ることができます。およそ私とは縁遠いお話ですが、お金がある人には、魅力的サービスになるのでしょう。それだけに、ビジネスの世界では、重要なサービスになるのだと思います。

 さて、使徒パウロは、先週から学び始めておりますこの第2章におきまして、ユダヤ人に向かって、その特権意識、つまり特別扱いを受けることを当然とみなす理解に真っ向から立ちはだかります。パウロは、ユダヤ人にとってもっとも重要な、人間としての誇りをご破算にしてしまう、無効にしてしまうのです。ユダヤ人とは、自分たちがユダヤ人であるゆえに、すなわち神の御言葉、律法を与えられているゆえに、神の契約を受けているゆえに、自分たちが決して異邦人のような扱いを神から受けることはないと考えているのであります。しかし、パウロは、ここで、そのような彼らの誇り、自尊心のもっとも深い部分にメスを入れるのです。
 6節にこのように記されています。「神はおのおのの行いに従ってお報いになられます。」この意味は、要するに、11節にありますように、「神は人を分け隔てなさいません。」という御言葉に通じています。神は人を「ひいき」することはないということです。公平に取り扱われるということであります。パウロが、ユダヤ人に「神はおのおのの行いに従ってお報いになられます」と主張したとき、彼らにとっては衝撃が走ったと思います。神は、自分たちを特別扱いされないということは、到底受け入れがたい考えだからです。私の卑近なたとえで申しますと、たとえば船旅、フェリーでの旅において特別室で優雅に旅を楽しんでいた人がいきなり、わたしがいつも利用する何の仕切りもない部屋で寝かせられるようなものかもしれません。彼らは、自分たちユダヤ人、イスラエルの民には、神は特別扱いをしてくださるのが当然であり、それだからユダヤ人なのだと、確信しているのです。それだけに、このパウロの御言葉は彼らに衝撃を与えざるを得ないはずです。
それに対して、我々異邦人がこの御言葉を読みますと、とても気分が良くなるのではないでしょうか。たとえば、身近なことで言えば、社会の巨悪と呼ばれるもの、権力をかさにして悪いことをして、弱いものを踏みつけるようにして、自分の権益を拡大し、利益を上げている実力者。あるいは、政治権力をかさに着て圧政をしく者。そのような者が大手を振ってのさばることなく、彼らに神の怒りと憤りとが臨んで倒されるなら、それは、我々の心をすっきりさせるかと思います。喝采を叫ぶこととなります。「そうだ、神は、ユダヤ人を特別扱いはなさらないのだ。不公平はなさらない、神は、良いことを行う者にはそれ相応の報いをお与えくださり、悪いことを行うものには、相応の怒りと憤りを与えられるのだ、そうだ、正直者が馬鹿を見るようなことを神は許されないのだ」しかし、実はそこに落とし穴があるのです。落ち着いてゆっくり考えなければなりません。そのように気分よく考えているとき、いったい、自分自身をどの立場において考えているのでしょうか。神は分け隔てをなさらない、えこひいきをなさらない、公平なお方であると言われると、もしかするとそこで、自分は神に祝福される側にいるということを自明のこと、当然のこととして考えているのではないでしょうか。
  
さて、わたしは今、良いこと、悪いことと、簡単に二つを分けて申しました。しかし、これも丁寧に考えなければなりません。つまり、いったい何をもって善いことと悪いことを区別できるのかということです。ある人は、そのようなことは明らか過ぎるではないかと申します。善いこと悪いことの区別くらい簡単で基本的なことはないと申します。しかし、聖書は、使徒パウロは、それを丁寧に説明していることに注目すべきです。7節「すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり」つまり、善とは、人間が自分勝手に考え、判断するものではないのです。善き行い、それは、一言で申しますと、神を目的とした行いです。神の御心にかなった、神に喜ばれる行為です。神の栄光のためになされる業、それが、善です。善あるいは、善き業とは、神とのかかわりにおいて判断されるものなのです。神によってその行いが善と判断される限り、私どもの業は善となりうるのです。パウロは、善なる業を「栄光と誉れと不滅のもの」を求めることと言い換えております。つまり神の栄光と神から受ける誉れ、そして不滅のもの、つまり、目に見えないもの、霊的なもの、それは神御自身を意味できるでしょうし、神にかかわるものと言ってよいのですが、善を行う人は、これらを追い求めるのです。そして、10節であらためて言われるのですが、そのような善を行うものには、神が、「栄光と誉れと平和」をお与えくださることが約束されています。そしてその「栄光と誉れと平和」もまた、神とかかわるものであり、神のみが与えてくださるものなのです。  繰り返しますが、この善とは、世間一般が考える善と、イコールではないことは明らかです。
また、善とは何かが簡単に分かり、分かるだけではなく、いざ実践しようと思えば即座に善をなすことができるというようなものではないのです。パウロは、善をなすためには、何よりもそこで忍耐が求められるというのです。つまり、とても難しいこと、困難を伴うことだということです。善をしようと決意すれば即座にできるというものではないのです。忍耐しないと善を行えないのです。しかも、この忍耐と言う言葉も、世間一般が考えるイメージとは異なっているのです。忍耐とは、歯を食いしばるように、つらいことに耐えて、言わば暗い顔つきになっているイメージがあるのではないでしょうか。しかし、聖書の言う忍耐は、特に、ローマの信徒への手紙の第5章3節以下に、このように明らかにされています。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」あるいは、第8章25節に、「わたしたちは目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」目に見えないもの、つまり不滅のものを追求する人には、忍耐が伴うのですし、その忍耐は希望に支えられ、忍耐はますます希望を鮮やかにするというのです。私どもが善を行うのは、希望があるからです。神を信じているからなのです。神なしに善を行うのは、ヒューマニズムでは、理念としては可能かもしれません。しかし、少なくとも信仰者の力、善を行う原動力とは異質なものです。私どもには、永遠の命が保障されている、だから、忍耐を尽くせるのです。善を行う意欲を沸き立たせるのです。ですから、信仰が萎えると、力も殺がれます。希望がぼんやりすると、信仰の生活じたい、行いが的をはずすのです。

祈祷会で学んでおります、「祈りへの道」のなかで、最近、「明るい祈り」と言う文章を読みました。その中にこのようなすばらしい言葉がありました。「罪の目が見ることができなかった、私ども自身の美しい姿に気づくのです。」著者の加藤先生は、自分のことを美しいと見ているのです。自分が美しい人間であると見えているのです。罪にとらわれているときには、見えないのですが、信仰の目には、そのように映るのです。忘れがたい、すばらしい言葉であると思います。エフェソの信徒への手紙の口語訳聖書のなかに「私たちは神の作品」という言葉があります。新共同訳では、こうなっております。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」わたしたちは神に造られたものと言います。しかも、神が前もって、あらかじめ備えていてくださった善い業をするために、キリスト・イエスにおいて造られた、新しく創造された作品だと言うのです。だから、必然的に、善い業を行えるはずですし、行わねばならないと言うのです。そうであれば、使徒パウロもまた、自分自身を美しい人間と見ていることは明らかです。自分を見る目が明るくなっているのです。キリスト・イエスによって、あの十字架で流された御血によって、自分は赦され、きよめられ、聖霊の力によって新しく造りかえられたのだ、すばらしい自分になっているのだと確信しているのです。その意味で、彼は、肩肘張ってそのように自己主張しているわけでも、自己暗示をかけているわけでもありません。
善を行うように新しく造られたことを信じた者は、見よう見まねでとにかく生きてみます。そのときそのときに、何が善であるかということは、神がその御言葉によって明らかに示してくださるから、できるのです。お祈りの中で、聖霊によって、何よりも説教を通し、教会生活を通し、私どもが忍耐をもって、何をすればよいのか、すべきかは示されて行くはずです。これは、明らか過ぎる私どもの実体験のはずです。教会の生活、礼拝の生活をしながら、自分が何をすべきかが分からないままであることは、ありえないのです。生まれた赤ちゃんが、おぎゃぁと泣き出すことが、必然のように、キリスト者が神を父とお呼びし、父なる神の栄光を求め、神から受ける誉れを最高の光栄とし、神御自身を求めることは、キリスト者の当然の道となるのです。なぜなら、目の前には、言葉では言い尽くせないほどのすばらしい賜物、永遠の命を受けることが確実な身とされているからであります。

 さてそれなら、その反対に、悪を行う者には、何が伴うのでしょうか。9節に、「苦しみと悩みが下り」とあります。8節には、怒りと憤りとが示される、下されるとあります。それなら、悪を行う者とは、どのような人々なのでしょうか。それはもはや、丁寧に説く必要はないのではいかと思います。これまで、第一章でくわしく見てきたとおりのことごとを行う者たちのことであります。ただし、パウロはここで、そのような者たちの特徴を新たに解説しております。それは、「反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者」ということです。ここでの反抗心とは、何に対する反抗の思いなのでしょうか。それは、言うまでもなく、神御自身に対してのものでしょう。しかも、神への反抗心は、具体的には、人間関係のなかにも現れてまいります。不義に従うとも言われます。従うという言葉には、説得されるというニュアンスが込められていると言われます。悪に傾く人は、喜んで悪の説得を受けるのでしょう。神にではなく、神への反抗へと喜んで、前向きに説得されるのです。口語訳聖書ではこの反抗心を「党派心」と訳しました。赤信号でも、徒党を組んで渡れば、青信号になるのでしょう。自分が不義に傾くことの正当性をそこで確保するのです。神とともに、神のために善を成す者は、ほとんどいつでも少数でしょう。孤独な戦いを強いられるのです。おそらくキリスト者が社会の多数派となるということは、真実の意味では歴史のなかで、なかったことではないか、それは、わたしの個人的な思いではありますが、あながち否定できないのではないでしょうか。私どもが多くの人と歩調を合わせて生きようとすれば、おそらく不義へと傾くこととなるのではないでしょうか。

 さて、話をもとに戻しましょう。神は、ユダヤ人でもギリシャ人でも善を行う者には、栄光と誉れと平和を約束されます。永遠の命を与えてくださると保障してくださいます。それには、ユダヤ人の特権、特別待遇はないのです。神は公平に、分け隔てなくお報いくださるのです。わたしの友人の牧師が仕える日本ホーリネス教団という教会の機関紙に、彼が、今年の新年に開催された大きな集会で説教したときの言葉が載っておりました。このような言葉です。「皆さん、ホーリネス教会の会員だからと言って天国に入れるとは限りません。悔い改めましょう。」ホーリネス教会の方々は、信仰的なプライドを持っておられるのだと思います。あるいは、バプテスト教会の方も、プライドをお持ちだと思います。そうであれば、私ども日本キリスト改革派教会の者どもも、我らこそは、「源清くかつ正しき進展をへきたれるキリスト教教理を堅持する教会」とか「光輝ある教会」とか創立宣言にはまさにこれ以上ないような誇り高い自覚を漲らせる言葉を記して創立を宣言したのです。しかし、ホーリネスでも、バプテストでも改革派でも、自分がその教会に所属していることだけを頼りに、自分は神様に特別扱いしていただけると考えるのなら、それは、ユダヤ人キリスト者、ユダヤ人とまったく同じ過ちを犯していることになるのではないででしょうか。私どもは、確かに改革教会の伝統を正しく継承している教会としての誇りを重んじます。しかし、その教会員、イコール、神に自分の信仰の生活が特別扱いされることはないのです。

 さて、今まで、私どもは神が不公平はなさらないのだと言うこと、分け隔てなさらないのだと言うことを学びました。しかし、最後にさらに丁寧に、深く考えたいのであります。
 マタイによる福音書の第20章に有名な、ぶどう園の労働者のたとえ話があります。主イエスが天国のたとえとして語られたのです。長い引用ですが全文を朗読致します。「「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
 いかがでしょうか。これを読んだ最初の印象としておそらく我々は、これはおかしい、理不尽だと感じるのではないでしょうか。不公平ということです。分け隔てもはなはだしいと言ってもよいかもしれません。朝から晩まで働いた労働者と、ほとんど何も働かなかった人とが同じ一デナリオンを受けたのは、それが、雇い主に不正はないのですが、契約どおりなのですが、どこかで、納得いかない思いを禁じえないのではないでしょうか。
しかし、主イエスは、これが天国である。これが、神のなさりかた、福音の神の御業であるとお告げになられるのです。神は、憐れみに富むお方であり、その憐れみは、その恵みは、その人が言わば善なる行為を何一つしなくても、一方的な恵みで、永遠の命、天国にお入れくださるというメッセージを、このたとえ話は語っているのです。
そうなりますと、あらためて問いが生じるかもしれません。使徒パウロがここで、神は、善を行うものには、栄光と誉れと平和が与えられ、悪人には、苦しみと悩み、怒りと憤りとが、与えられるというのは、まるで因果応報、つまりその人がした通りに報いられるという世界観、宗教観と同じではないかと言うことです。
しかし、ここでパウロが明らかにしたことは、そのようなことではありません。パウロは、ここで、我々がユダヤ人であろうがギリシャ人異邦人であろうが、天国に入るのには、富も教養も地位も通用しないということなのです。ユダヤ人だから、免除ということはないし、異邦人だから、神をよく知らないのだから大目に見てもらうということもないのです。
その意味で、まさに公平なのです。そして、まさにその公平さ、ユダヤ人とギリシャ人とが神のみ前に公平であるとはいかなる意味においてなのでしょうか。それは、その両者とも、罪人であるということです。ユダヤ人である罪人とギリシャ人である罪人なのです。罪人である本質においては変わらないのです。ところが、神はその罪人を、ユダヤ人もギリシャ人も、ただ、御子イエス・キリストの十字架の故にまったく、徹底的にお赦しくださるのです。そこで、神は徹底的に公平なのです。分け隔てをなさらないのです。
同じマタイによる福音書の中でその山上の説教において主イエスは、このような説教をなさいました。第5章です。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」この説教は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」との説教のなかで語られた言葉であります。父なる神は、悪人にも、善人にも太陽を昇らせてくださる。そのとき、いったい私どもはこの御言葉を自分自身をどこにおいて聴き取っているのでしょうか。もしも、自分を善人の立場に置くのであれば、主イエスのメッセージのありがたさを、その恵み深さ、福音を受け止めそこなうのではないでしょうか。私どもは、悪人であり、正しくない者なのです。しかし、父なる神は、そのような私どもに憐れみを施し、太陽どころではない、雨や水どころではない、御子なる神、主イエス・キリストを十字架にお与えくださったのです。この十字架に釘つけられたままなる主イエス・キリストを仰ぎ見るとき、そのときこそ、私どもは、自分が罪人でありながら、赦された罪人であることを認めることができるのです。人間の平等性も分かります。神の公正さ、分け隔てなさらない恵みの神、憐れみの神の豊かさを知るのです。そして、神の憐れみを受けた者として自分見るとき、罪人である私が、もはや、汚い者ではないこと、神の子であること。神の作品であること、神によって善き業を行うように造られてしまっていること、美しい自分であることを見直すことができるのです。ここに私どもの勝利があります。

私どもは今、聖餐を祝います。聖餐の食卓に招かれることは、すなわち、罪人である私どもを天国の食卓に招いてくださる約束、保障であります。この食卓は、主イエス・キリストの食卓なのです。これにあずかる資格とは、罪を認め、悔い改め、十字架と復活の主イエス・キリストを信じる信仰だけです。しかもその資格も、聖霊なる神が一方的に付与してくださったものです。私どもは、今既に、神のぶどう園の労働者にしていただきました。年若き者も、人生も後半にこのぶどう園に迎え入れられた者も、等しく神の憐れみを受けたのです。そうであれば、私どもは、熱心に働きたいのです。忍耐強く善を行い、神の栄光をあらわし、神から受ける誉れをこそ光栄とし、神の御心を行いたいのです。5時になったら働こうなどと思えないのです。神とともに働くその光栄、その誉れを味わいながら、善き業に引きづられて行くのです。それが、私どもの新しい姿であり、神によって美しくされた本当の自分自身の生き方なのです。

祈祷
 私どもはかつては、ギリシア人、異邦人として神なく望みなく生きてまいりました。罪と暗闇の中で、反抗心にかられて、ただあなたの怒りと憤りを頭の上に積むような死んだ行いのなかに日を過ごしてまいりました。ところが、主イエス・キリストの御父、あなたは、そのような私どもの上に太陽を登らせ、雨を降り注ぎ、私どもを育んでくださいました。何よりも、御子イエス・キリストを私どものあがないの代価として十字架にお与えくださいました。その計り知れない恵みのゆえに、私どもは、罪を赦され、神の子とされ、善き業に励む民の一員に加えてくださいました。願わくは、弱く、拙く、乏しい者ですが、あなたのご計画に基づき、私どもを通して、あなたの栄光を現してください。そのために、今、聖餐の食卓につきます。御言葉の糧とともに、このパンとぶどうジュースによって、私どもを清めてください。そして、ここで私どもを感謝のいけにえとしてお捧げしますので、御子のゆえに、私どもを受け入れ、あなたのために用いてください。私どもがなしうる最善の善き行いは、礼拝であり、聖餐を正しく祝うことにあります。どうぞ、この聖餐の聖礼典を祝福してくださいませ。


            アーメン。