過去の投稿2005年2月20日

「神を信じない人間の不自然さ」 ローマの信徒への手紙 第1章24節-32節③

「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」

 「自分らしく生きる」この言葉は現代のとくに若い人々にとって、一種の流行のような言葉であり、考え方のように思います。個性の時代と言われます。皆、オンリーワンの自分であれば、そのような自分らしく生きよう、他人とは違った自分で構わないと言います。このような言葉は、何も、現代の青年たちが言い始めたのではないと思います。例えば、ビートルズの世代の方々は、「レット・イット・ビー」と言う楽曲のことを思い起こされるかもしれません。1960年代の終わりにビートルズが解散するとき、この曲が発表されました。名曲と言われています。どのように翻訳すればよいのか、大変難しい言葉であるかと思います。これまで、「あるがまま」「なすがままに」と翻訳されてまいりました。この曲のメッセージは、「自分の個性をそのままで生きる」という思想になって行ったように思われます。しかもあなたはあるがまま、そのままで良いのだと聖母マリアがささやくと歌っているのです。私は、この曲の流行と共にいよいよ、「そのままのあなたで良い」という現代の人間肯定のメッセージが広く行き渡り、深く浸透してきたのではないかと思います。自分らしく生きること、これは、端的に申し上げて悪いことではありません。自分の信仰、思想、良心などが他からの強制によって制限されるようなことがあれば、キリスト者としては断固戦わなければなりません。しかしながら、今日、「自分らしく生きる」と言うことが大切で、すばらしいことと言われながら、しかしそれが、「自分探し」をすべき思春期、青年期のときに、自分が確立していないのに、自分らしさを主張するところに、大きな問題があることに気づかねばならないと思います。自分が何者なのか分からないのに、自分らしく生きるということが、自己本位な生き方、自己中心の生き方を何か正当化するような響きを持っているように思うのです。自分とは誰か、人間とは何物なのか、これは、すぐに答えがでる問題ではありません。これを問うことは、古来、哲学の領域でした。人間にとって究極の問いであったし、これからも同じであるはずです。
何よりも、私どもの信仰の教えから申しますと、これは、神によって教えていただかなければ、決して人間は本当の自分の姿も、人間とは何であるのかも、人間はいかに生きるべきかも分かりません。創造者であられる神に教えていただかないところで被造物の人間が自分勝手に決定することは、まったく的外れの行為、まったく愚かな行為なのです。まさに、それをこそ、聖書は罪と呼ぶといっても良いのです。

 しかしこの、「自分らしく生きる」という言葉の響きは、良い響きがあると思います。我々の憧れなのではないかと思います。特に、会社などの組織のなかで、自分の考えとは異なった仕方で、命じられることをこなさなければならない状況を強いられる人にとっては、会社から自由になって、したいことをしたい、自由な時間を手に入れて、自分の好きなように生きてみたいという誘惑を多くの人が持つのではないでしょうか。今の自分の立場が、自分で選択したのではなく、仕方がなく今は、この立場で生きているのだと現状に不満を持ち、空しさを抱えるときには、「自分らしく生きる」「自分のしたいように自由に生きる」という言葉は、心の琴線に触れるものとなりえるかと思います。
 つまり、今の自分は不自由に、不自然に生きているのではないか。本当の自分はこのような自分ではないのではないかと考えるわけです。本当の自分らしく生きてみたい、この欲求のなかで、人間が選択することは、いったいどのようなものなのだと言うのでしょうか。
 使徒パウロが、ローマの信徒への手紙のこの箇所で描き出したこと、それが、まさに、そのような人間の願いにもとづいて、人間が選択したことがどのようなものであったのか、そして今あるのかを描き出したのであります。それは、一言で申しますと、不自然な生き方であると言うのです。自分らしくない生き方です。人間らしくない生き方なのです。神に創造された人間が、神の働き、真理の働きを妨げる、その不信心、つまり不信仰と不義、つまり、罪の行為に対して、神は天から怒りを現されます。そこで神は、人間の心の欲望、その願いどおりをするに任せられるのです。人間が、自分が考えるとおり、自分のしたい通りに放任されてしまうのです。それを使徒パウロは、神の怒り、神の裁きであるとしました。そしてそこで、一体人間は、自分の考える自然な生き方、人間らしい生き方として何をしたのか。
 「彼らは互いにその体を辱め」たのです。「神の真理を偽り」としたのです。真理を虚偽と断定したのです。真理を踏みにじる、真理を否定する、そのとき一体人間は、何をするのでしょうか、真理を虚偽とする行為の典型、究極の姿とは、「造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕え」ることに他ならないとパウロは断定するのです。
 そして思わず、使徒パウロは真理と言う自分の言葉に全存在をもって反応してしまうのです。それが、文脈を破って、ここで挿入された讃美歌です。神賛美の叫びなのです。「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン」「Soli Deo Gloria !ただ神の栄光のために!」に他なりません。
 神の怒りは、天からどのように啓示されているのか、世の終わりにおける最後の、究極の審判をまたずに、現在、神が神御自身の真理を偽りとした人間をどのように裁いておられるかと申しますと、それは、重ねて申します。まかせられた、放任したというのです。恥ずべき情欲へとまかせられるのです。それは、女性も男性も「自然の関係」を自然にもとるものとし、自然の関係を捨ててしまって、互いに情欲をもやし、恥ずべきことを行っているのです。

 夜の祈祷会に出席された方はご存知かと思いますが、昨年末から、我が家では、インコを飼うようになりました。雛のインコが、今、成長し始め、自分の羽を広げてわずかですが飛び跳ねるようになりました。また、クラッシク音楽に見事に反応して、見よう見まねの鳴き声を出すようになりました。ペットを飼うことは、その世話はときに大変ですが、しかし、楽しみと慰めを与えられるものであろうと思います。インコは、もともと、オーストラリアで成育された種であるそうですが、もっとも買いやすい小鳥の一種となっています。この小鳥と人間とを比べて、どちらが自然に生きているのか、ときに考えてしまいます。籠のなかに入れられて、大変、狭い場所でその意味では籠の鳥となって、不自由な生活を強いられているのかと思います。それにくらべて、しかし、わたしなどは、基本的には、牧師室に毎日、閉じこもるようにいるわけですからどちらも変わらないように思えるときもあります。しかし、家の外に飛び出せる我々ですが、ここで使徒パウロが記したことは、禽獣、鳥にも劣る恥ずべき行為なのではないでしょうか。男と男とが、女と女とが、不自然な関係に転落したのです。同性愛です。しかもそれを不自然とも思えないほどに、人間は無価値な思いに引き渡され、神によって見放されて、その迷った行いの当然の報いを受けているのです。同性愛は、鳥獣、動物や鳥の世界でも行われていないと思います。パウロは、そこに人間の不自然さを、言い逃れできない仕方で、同性愛によって指摘したのです。もとより、人間の不自然さは、同性愛だけではありません。その前に、何よりも基本的なこととして、第七戒の戒めがあります。そこでは、「姦淫してはならない」と命じられています。姦淫とは、どこまでの行為なのであるかは、はっきりと記されておりません。しかし、それを主イエス御自身ははっきりと解釈、解説してくださいました。他人の妻をみだらな思いで、つまり、その行為に及ばずとも、心の中で姦淫を犯すことがあると指摘され、それもまた、神の御前では姦淫の罪であることを示されました。マタイによる福音書第5章の山上の説教にあります。主イエスは、「体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」と言明され、姦淫の罪の恐ろしさを示されたのです。
 
 私どもの教会にとってもっとも大切な神学者といえば、カルバンであることは間違いありません。ジュネーブの改革者カルバンがいなければ、私どもの教会は存在しなかったかもしれないのです。改革教会の源流に位置する神学者、説教者です。このカルバンの書物のなかで、特に重要な書物の一つに、ジュネーブ教会信仰問答があります。その問い一は、私ども日本キリスト改革派教会の憲法である、ウエストミンスター大・小教理問答の問い一と同じものです。「人生の主な目的は何ですか。」答え「神を知ることであります。」問い2、「どんな理由であなたはそういうのですか。」答え「神は我々の中にあがめられるために我々をつくり、世に住まわせられたのでありますから。また、神はわれわれの生の源でありますから、われわれの生を神の栄光に帰着させるのはまことに当然であります。」われわれの人生、生を神の栄光のために方向付けることはまことに当然と言います。こうなりますと、ここでの答えは、ウエストミンスター大教理問答とまったく一つに重なります。人生の目的とは、神の栄光をあらわすためだとカルバンは言うのです。それが、神に創造された人間の当然の姿であるというのです。当然とは、自然と言い換えても間違いではありません。人間の当然の姿、自然の姿は神の栄光を現すように神を知ることなのです。ですから、カルバンはいささかくどいくらい問い3でもこう尋ねるのです。「では人間の最上の幸福は何ですか。」答え「それも同じであります。」問い4「何ゆえそれを最上の幸福というのですか。」答え「これを欠くなら、われわれの状態は野獣よりも不幸であるからであります。」
 
 しかし、この信仰問答を読みながら、誰でもがすぐに納得できるわけではもちろんありません。多くの日本人は、神を信じる人、しかもそれを徹底して信じる人、自分のため、自分の利益のためにではなく、ただ神のために神を信じるような人、そのような信仰を、自然な人間の姿とは考えないのではないでしょうか。むしろ、少しは尊敬はするけれど、聖人君子だなどと、心で思ったり、口で言ったりして、揶揄すること、けなし、軽蔑することがあるのではないでしょうか。つまり、信仰に生きることを自然な姿ではないと考えるのです。不自然とするわけです。神から離れ、しかし、ときに、困ったときとか、元旦とか、結婚、受験、出産など人生の節目にお世話になれば、それだけで、良いと考える人が多いのです。つまり、神を心から信じることはとても難しい、毎日、毎時間、毎秒神を覚えて生きることは、人間の自然の心に反することだ、それは、宗教家、牧師であるような特別な人のことなのだ、そう思い込んでいるところがあるのではないでしょうか。まさか、教会員の皆様はそうは思わないでしょう。しかし、どこかに、教会生活や聖書に親しむ生活とは、人間の普通の努力ではまにあわないようなところがある。特別な努力がひつようであるのではないかと考えることがあるかもしれません。毎週日曜日、そして水曜日には、教会に行く、礼拝式や祈祷会に励む、それは、人間にとって不自然なことなのでしょうか。それとも自然なことなのでしょうか。

 そこであらためて、先ほどの主イエスの山上の説教を思い起こしますが、主は、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。それはみな異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」そのように教え、命じられました。主イエスは、ここで明らかに、人間は、神の国と神の義を求めることが人間らしいことであると言明されたのです。そしてその人間の人間らしい姿をもっとも鮮やかに見せて下さったのは、人となられた御子、主イエス・キリスト御自身であられました。

 先週の祈祷会で、私どもはあらためて祈りとは何かということを学びなおしました。主イエス・キリストのご訪問を受けるときと場所を設けること、主イエス・キリストが共にいて下さる事実をいつも確認すること、その恵みに気づき、立ち返ることが祈ることであると学びなおしました。そこで、最初に使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙第5章に記された罪のリスト、罪表を読みました。一つ一つを読んでゆけば、自分自身の罪の姿が分かるということです。しかしローマの信徒への手紙のこの箇所のほうが、ガラテヤの信徒への手紙の第5章より、より詳しく罪が数えられております。21の罪が記されるのです。しかしそこで著者の加藤先生は、コリントの信徒への手紙一第13章の有名な愛の賛歌をも記しました。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」この愛という文字のなかに自分の名前を入れて読むことが出来るのかと問いました。誰一人できないわけです。ここでの愛の賛歌は、このローマの信徒への手紙の罪のリストの正反対とも考えられます。不義に対抗し、無慈悲に対抗するのです。愛は情け深いのです。そして不義を喜ばないのです。この愛の賛歌の、愛と言う文字のなかにイエス・キリストの御名を加えるなら、まさにぴったりと当てはまることに気づきます。つまり、主イエスを見れば、真の人間の自然な生き方の典型なのです。主イエスは、愛に生き抜かれました。愛の賛歌をご自身の全存在をもって歌われました。ご自身の全存在が神の国と神の義を第一に求めた人間の姿そのものでした。そして、主イエスは、それを人間の自然さ、人間の本性に逆らって、それこそ一生涯逆立ちをして過ごすような脅威的な努力、奇跡的な努力によって勝ち得ることなのだと主張しているわけではないのです。むしろ、正反対です。一生涯、逆立ちして過ごしているのは、神の国、神の義を求めない人間、神を信じないで生き抜く人間、それこそは、不自然な姿、鳥獣にもおとるような惨めな、悲惨な罪の姿、不自然な姿であると言うのです。
 パウロが歌うような「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です。アーメン。」神の栄光を求めて生きることこそは、本来の人間の姿なのです。パウロは、思わず叫びだすのです。それは、不自然な努力などではないのです。心の底からの神への感謝と賛美、礼拝なのです。
 
 今、私どもの周りは、圧倒的に、圧倒的大多数が主の日を主の日にしていません。それぞれが、日曜日を自分のために使って恥じません。誰も咎める人などおりません。また、余計なことですが、私は、これを法律のように規制してみても、ほとんど意味がないようにも思うのです。しかし、キリストに贖われた私どもにとりまして、十戒の第4戒は、「安息日をおぼえてこれを聖とせよ」は、命令であり、掟です。しかし、こんなにうれしい掟があるだろうかと思います。私どもにとって、礼拝出席は、喜びであり、感謝です。今、布団の中にいることではなく、ここにいることがどれほど、人間にとって自然なことであり、楽しいことであり、むしろ私どもの欲望といっても構いません。この欲望を満たす行為であると思います。この欲望に生きることが、実に私どもの幸福なのです。人間らしく、当然で、自然なことなのです。神に造られた人間として実に人間的な行為なのです。
 しかし、同時に私どももまた深く知ることがあるのではないでしょうか。洗礼を受けてからこそ、知る戦いであります。神にまかされた人間は、坂道を転げ落ちるかのように、恥ずべき欲望のとりことなって、罪に罪を重ねます。洗礼を受けるとは、主イエス・キリストと結ばれて、新しく創造された人間とされたことを意味します。誰でもキリストと結ばれるなら、その人は新しく造られた人間なのです。この新しさなしには、人間の自然は、逆さまになったまま、神を信じない人間、動物にも劣る人間になるのです。
 この新しさを造って下さるために、父なる神は御子を人とならせ、人間となられた主キリストは、罪のリストを全部破っている私どもの罪を、御自分に引き受けて下さいました。それが十字架での死の意味であります。十字架の死は、私どもの罪の支払う報酬を贖われたことです。贖いの代価として、罪なキリスト神の子が死んで下さったのです。そのようなまことに痛ましい手続きを経て、私どもは今、洗礼を受けて神の子、まことの人間として、神の御前で取り戻していただいたのです。
 ですから、洗礼を受けていよいよ知ることは、このキリストから離れるなら、私どもはいつでも不自然な生き方に逆戻りする危険性、可能性をはらんでいるということです。その危険性、可能性を、洗礼を受けなければ、意識することも悩み、戦い、そして時に、自分がその不自然さに逆戻りしていること、その罪の恐ろしさを味わうことになってしまうこともありうるのです。
 いへ、それが、地上の教会の戦いの姿なのです。キリスト者とは、天へと召されるその最後の一日、最後の瞬間までこの戦いと無縁ではないのです。それなら、やはり、信仰に生きることは、何か英雄的なこと、何か人間の業にさからう異常な行為、例外的な人、もともと宗教的な人がすることになるとでも言うのでしょうか。いいえ、違います。私どもは、洗礼を受けるとき、何を信じて受けたのでしょうか。それは、改革教会の教理の言葉で言えば、全的堕落であったかと思います。自分の全存在は、罪にまみれている。詩篇第51編で学びましたが、母の胎内にあるときから罪のなかあったのです。つまり、自分の内側の可能性では、神の喜ばれる、神に受け入れられる善き業は何一つなしえないのです。徹底的に、完全に、堕落して、救われる能力など何一つ持っていないのです。しかし、まさにそのような私どもを救う神の恵みが現れたのです。主イエス・キリスト御自身です。このお方の十字架の死と復活、このお方のご人格とご生涯が、私どもの救いの根拠となるのです。ただ、このキリストのおかげで、私どもの数々の「死に値する罪」は客観的に赦され、実質的には、神の子とされたのです。この新しい人間の創造、自分が本来の自分に取り戻されることは、聖霊御自身がキリストを信じる信仰を与えて下さることに成し遂げられたものなのです。ですから、信仰とは、人間の可能性で、持ったものでも、もたらされるものでもなく、神の一方的な恵みなのです。これは、神の力にのみ基く、神のデュナミスとパウロがローマの信徒への手紙第1章16節で高らかに宣言した福音の力に基く恵みなのです。そうであれば、信仰に生きる自然さ、自然に生きる姿とは、この聖霊に導かれる自然さの他には考えられません。しかも、戦う教会、戦う信仰者は、この神の力の勝利によって勝利できることは戦う前から既に定まっているのです。
 この神の力が、既に私どもに働いているのです。それが、私どものこの礼拝式の姿なのです。礼拝出席、祈祷会出席、もちろん、そこには戦いがあるのです。家族の無理解もあるでしょう。しかし、必ず、家族もまた、この人間の自然さの前に立ち返るのだと信じて、私どもはここにいるのです。その戦いをしながら、ここにいるのです。その真剣さが、神の恵みによって用いられます。神に造られた人間が、神を礼拝しないことは、動物にも劣るような惨めな人間となっていることを、直接には、家族に言わないかもしれません。しかし、私どもはそれを信じて、それだけに、家族の分まで、ここで神の恵みにあふれ、祝福を注いでいただき、この恵みをもって家庭に、職場に、それぞれの場所へと派遣されるのです。そのためにも、私どもはこの主日礼拝式を重んじます。水曜日の祈祷会を全力を尽くして守るのです。そして、毎日の生活のなかで、主イエス・キリストのご訪問を受け続けるため、私どもの罪深さを誰よりも悲しみ、しかもそこで私どもをお見捨てにならずに、どこまでもともにいて下さる主イエス・キリストに気づくためにこそ、日々の祈りの生活を守るのです。祈りと御言葉に慣れ親しむ生活を整ええるのです。その祭壇が何ど崩れても、神の力に頼ってやり直すのです。7度の70倍の忍耐をもって、顧みていて下さる主イエス・キリストを信じて、繰り返すのです。使徒パウロもまた、自分の罪の力の強力さ、巨大さに慄いていたのです。しかし、いかなる罪の力、罪の不自然さをも破壊する力、そこから取り戻す神の力を彼は知ったのです。私どもも、ここで、共にこの福音の力に圧倒され続けたいのです。祈りのスクラムを組み続けるなら、私どももまた、負けません。人間らしさ、神を信じ、このお方の栄光を求めて生きる生き方へと繰り返して呼び返されるのです。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、私どものまわりで自分を見失ったまま、自分探しの旅の中で、倦み、疲れている青年たちがおります。罪の中で生きること、その弱さのなかで生きることを肯定し、それこそが、人間の真実なのだとうそぶいて生きる大勢の人々がおります。教会への道を回避して、さ迷っている数えることも出来ないほどの人々を私どもは目の当たりにしております。どうぞ、私どもキリスト者、教会を用いて下さい。証し人として、信仰に生きる人間の自然な生き方を見せることができますように。そこでこそ、自分の力にたよる罪から守られ、神の力によって勝利させて下さいますように。私どもが神の力の証人として、生き抜くことができますように。あなたの御霊をもって、支え導いて下さい。アーメン。