過去の投稿2005年2月6日

「死に値する罪を赦されて」 テキスト ローマの信徒への手紙 第1章24節-32節②

「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」

 パウロは、18節で、神の怒りは天から啓示される、現されると言いました。この24節では、パウロは、その神の裁きとはどのように現されたのかということを明らかにしております。そしてこの神の怒りを明らかにする鍵のことばがここに記されます。このテキストに三度同じ言葉が出てまいりました。「まかせる」という言葉です。24節「そこで神は、彼らが、心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ」26節「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられ」28節「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され」この「渡され」も「まかせる」という言葉が使われています。神の怒りとは、任せること、放任するということです。人間に、自分がしたいことをしたいままにさせられるということです。

それなら、人間がしたい放題をするとき、そこでいったい何をすることに傾くのでしょうか。それは、結局、神を神としてあがめないということへと傾くのです。そして神を神としてあがめない人間、礼拝しない人間、むしろ倒錯して、逆さまになって、不自然になって、偶像礼拝を犯すのが、使徒パウロが見た、人間の現実の姿です。神との正しい関係を壊してしまった、人間の現在の事実、現実は、不自然に生き、不自由に生き、不義を犯して、罪の泥沼のなかで生き、悲惨な罪の姿にほかなりません。その罪の具体的な姿を数えますと、21登場しました。パウロは、これらを、死に値する罪と言いました。もちろん、神によって死に値する、死刑に相当する罪が、この21の罪に限定されるものではありません。いちいち、数えてまいりますと際限がないのではないでしょうか。そして、際限のない、具体的な人間の罪の行為がどこから生じるのか、罪の親玉、罪の根源、罪の源はどこにあるのかをパウロは既に申しました。神を神として礼拝しないこと、感謝しないことであります。これが、罪の本質なのです。

 このテキストを読むことは、素朴に申しまして、実に暗い気持ちになります。厳しい思いを禁じえません。光が射していないように思われるのです。しかしそこでじっくり、考えたいのです。なぜ、パウロは、そのような暗い現実、性的に倒錯した人間の恥ずべき姿、真の神を偶像に置き換えてひれ伏す礼拝の倒錯、偶像礼拝のおぞましさ、つまり罪の現実の姿をこれでもかといわんがばかりに描き出せるのでしょうか。 
その謎を紐解く鍵になる言葉が記されています。この罪の深みのなかに、驚くべき言葉、印象に残る言葉が突き刺さっているのです。25節、「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です。アーメン。」これは、文脈から言えば、つながりません。まるで、思わず、無意識の内に、叫びだしているような感じが致します。これは、讃美歌です。「造り主こそ、永遠にほめたたえられよ、アーメン。」つまり、私どもが親しんでおりますラテン語、Soli Deo Gloria !のことであります。「ただ神のみに栄光あれ!」という賛美がここに記されるのです。
 ここでパウロがしているように、私どもに自分自身の罪を直視させることができるのは、そこに神の光が射し込んでいるからなのです。ここに神の光、福音の光、主イエス・キリストの光があざやかに射し込んでいるのです。この光のなかでこそ、初めて見えてくるのが、この人間の罪の現実なのです。しかし、驚くべきことには、この罪のおぞましさ、悲惨さのなかで、なお、ひとりの人間パウロが、このような歌を歌い始めることができるのです。これはまさに驚くべきことではないでしょうか。これは、ほとんど奇跡の言葉なのではないでしょうか。この暗い罪を暴き、糾弾する言葉のなかから、思いがけずに、神賛美が聴こえて来る。その不思議さについて、今朝、皆様と御言葉の真理を尋ねる旅をしたいと願います

死に値する罪と、説教題に記しました。それは、32節の御言葉から引用したものです。「このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」未信者の方はこの説教題をどのように読まれるのでしょうか。「自分は、死罪に相当することはしていない。だから、当然、死に相当する罪を赦されたこともなければ、赦される必要もない」そのように心のなかで思って、無視されるのかもしれません。

ここで数え上げられた罪を一つひとつ解説する暇も必要もありません。ゆっくりと読めばよいと思います。このようなことを行う者は、死に値する、死罪、死刑に相当するとパウロは主張するのです。死刑制度の存続、廃止に対しては社会的な議論がなされております。教会としては、おそらく、死刑制度の廃止という方向性が主流ではないかと思います。私自身の思いは、そうであります。ところが、使徒パウロは、ここで罪に対する処罰として、死に値するというのです。これは、神の定めであると言うのです。それは、十戒において明らかにされた神の律法のことであります。神の律法によれば、罪への代価は、死なのです。パウロが後の6章でも、罪について改めて詳細な議論を始めます。「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。~罪が支払う報酬は死です。」罪が支払う報酬は死なのです。

しかし、丁寧に考えたい。たとえば、車を運転していて、交通違反を一度も犯したことのないという方は、おそらくいないのではないかと思います。わたしは、自慢するわけではありませんが、ゴールドカードとなっています、数年間、無事故無違反ということに「一応」なっております。しかし実際は、警官の前で、摘発されなかったというだけのことです。例えば、一時停止を無視したというようなことを例にとって見ましょう。細い道で、そこで、一時停止をしなければならない、その標識が立っていたことにしましょう。しかし、その標識なりを見落とす場合もないわけではありません。「ここに一時停止の標識があったことなど気づかなかった」と弁解したと致します。しかしながら、交通反則者を摘発するためにその現場に隠れて立っていた警官に、それを主張しても、「知らなかったではすまないのです。」と怒られるのが関の山でしょう。それなら、警官がその現場に立っていたならどうでしょう。それを目撃すれば、大抵は、スピードを下げて、何かあるなと思うのではないでしょうか。交通違反をすれば、切符を切られて、罰金を払わなければならないと、知っているからです。それを知っていて、しかもそこに警官が明らかに立っているのが見えている上でなお違反をするということは、通常考えられません。

ところが、使徒パウロは、ここではっきりと言うのです。彼らは、知っていながら行っている、死罪に当たる罪であることを知っていながら、堂々と行っているというのです。それだけではなく、他人の同じ行為をも是認しているとまで言うのです。私自身、ここで思わず、「本当にそうなのかなぁ」と思ってしましました。人間とは、それほどまでに愚かな者なのか、人間はそれほどまでに罪深いのか、堕落しているのか、おそらく多くの人々にとっては、信じられないのではないでしょうか。むしろ、反発するのではないでしょうか。いや、憤られるのではないでしょうか。そんなことを神が言うなら、そのような神こそ悪いとすら思うのではないでしょうか。人間を徹底的に悪者にする、徹底的に罪人と考えるような、冷たい考え方をするような神こそ、不正義ではないか。わたし自身、かつてそうでした。結局、創造者である神こそが、悪の根本、悪の原因をつくっているのではないか、そうなれば、神の愛などと言ってみたところで、まったく限定された愛であり、条件付のものであり、愛とは呼べないものであると考えて、聖書に反発したのです。聖書を投げ捨てたのです。

私どもは、このように考える人々のことを知っております。「確かに、ある人の中には、そのようなことが認められるかもしれない。しかし、それは、そのときうっかりしてしまったからです。罪を犯してしまったのは、その人の弱さであって、教育によって何とか克服できるようになります。環境の改善によって、上手に対処できるようになります。それをするのが大人の責任、社会の責任、周りの責任ではないのですか」このように考えて、まさに骨身を削って、愛の労苦に勤しむ未信者の方が一方で確かにおられます。言うまでもありませんが、教会は、まさにその方々の働きのために祈りますし、祈らねばなりません。

さてそれなら、教会は、このパウロの見ている深淵をどのように解釈するのでしょうか。この聖書の言葉、使徒パウロの言葉を取り下げるのでしょうか。あるいは、これは、このパウロ個人の人間観、人間理解であるとするのでしょうか。いいえ違います。このパウロの言葉は、神の言葉であります。
先週の説教のための聖書朗読箇所は詩篇第51編でした。また、これは予定外のことでしたが、祈祷会でも丁寧に51編を読みました。今週も、なお第51編を読む予定であります。そこでダビデはこのように祈りました。「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。/わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。」ここで、ダビデは、自分自身の罪がどこまで深いものであるのかを教えていただきました。「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。」これは、ダビデが姦淫によって身ごもったとか、性行為そのものに罪があるとか、そのような意味はまったくありません。これは、人間は既に母の胎内にあるときから、罪の内にあるという教えであります。使徒パウロは、このダビデの祈りをここで深く解き明かしているといってよいのです。一言で言えば、人間は徹底して罪人であるということです。つまり、人間とは、自分の力で神の御前に善き業は何一つできないということです。もちろん、相対的に善い行いというのがないわけではありません。先ほど紹介しました未信者の方々のことを思い起こしていただけたらすぐに分かります。ときに、キリスト者が本当に恥ずかしくなるくらいに社会的な不正、悪との戦いに熱心な未信者の方々は、少なくとも日本においては、圧倒的に多いくらいです。しかし、「それなら、完全な罪人だなどというのは不当ではないか、言いすぎではないか」という議論が生じるかもしれません。しかし、人間の罪とは、どのようなものであるかと申しますと、人間の霊的なすべての部分、領域は神の御前に死んでしまっているというほどの状態なのです。これは、病とは違います。重篤の病にたとえることはできません。病に伏すことと死とは決定的に違います。聖書は、人間とは、神の御前に霊的には、死んでしまっていると言うのです。こう言って構いません。人間には、神を信じる力はないのです。もはや、自分の力ではまったく神を信じ、神に立ち帰ることができないのです。

たとえば、教会に来て、福音の説教を聴きます。先日も、生まれて初めて、教会に来られた方がこのようにご挨拶くださいました。「とても良く分かりました。とても役に立ちました。」明らかにその方は、大変、理解力がある方であるかと思います。説教をお聞きくださって、自分の人生に職業に適応できる部分があるなと、そのように受け止められたのだと思います。しかし、私は何を目指しているのでしょうか。これは、ある方にとっては、とてもおかしな言い方に聞こえるかもしれません。私の説教は、神の霊、聖霊によって、信仰によって聴きとって下さらなければ、何の力にもならないことを語っているはずなのです。説教とは、どこかのお寺の説法、お説教のように、それを聞いたら、すぐに生活や、人生にためになるようなものではないのです。説教とは、端的に申しまして、聖書に記された神の御言葉を解き明かすことです。それなら聖書のみ言葉は、お寺の説法のようなものでしょうか。そのような、お気軽な内容を扱っているのでしょうか。決してそうではありません。例えば、考え方を変えて、気が楽になる。励まされた。ありがたいお話を聞いて、反省した。生き方に知恵が与えられた。そのような次元のお話ではないのです。

繰り返しますが、ここでは、神の御言葉の解き明かし、説教が語られるのです。しかも、人間には、神の言葉を理解する能力がないのです。ここで既に多くの方は、このことが信じられないはずです。少なくとも聖書であっても人間の言葉が記されているのだし、説教だって、人間が人間に語っているのだから、理解できるはずだ。理解できない言葉など、もともと無意味ではないか、このように思うのではないでしょうか。しかし、事実はその通りなのです。
それなら、あらためて、死んでいるというのは、どういうことを意味するのでしょうか。それは、反応しないということです。死ねば、呼んでも叩いても反応しません。意識を失う状態はそれに近いでしょうが、なにかしらの手当てをすれば意識を取り戻し、回復する余地があります。しかし、人間が神の御前に罪人であるということは、何かの手当てをすれば、回復するようなものはありません。死なのです。神との関係において死んでいるのです。それを肉体の死と区別して、「霊的な死」と呼んでよいと思います。人間は、神に立ち返る能力などもっていないのです。人間は、自分の力では、悔い改められないのです。ある人がこう仰います。キリスト者になるのは、悪くない、しかし、今は人生も楽しみたいし、お迎えが来るようになったら、そろそろ教会のお世話になります。洗礼を受けます。そのように聞いたことがあります。しかし、そのときになってその方が望まれるように信じられる分けがありません。神を信じることは、勝手なことではないのです。神のお働きかけ、聖霊にお働きがなければ、人間は神を信じることができません。さらに言えば、自分が信じていないということも、神に教えていただかなければ分からないのです。

パウロは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていると言います。この言葉から考えれば、これは、異邦人のことではありません。ユダヤ人のことでしょう。十戒を与えられ、子どもの頃からそらんじ、学び続けたユダヤ人を意識しいていると思います。十戒を学びますときに、この掟を破れば、神の裁き、神の刑罰としての死が定められると学びます。ですから、パウロの言うように、彼らは罪が死罪にあたることを知っているのです。しかし、同時に思います。それなら、異邦人は、どうなのでしょうか。彼らは、神の言葉を直に受けてはおりません。しかし、パウロは丁寧に説明し、20節で指摘しました。彼らにも、神がおられることは明らかであって、弁解の余地がない。異邦人には、「良心」が神によって与えられております。この良心によって、罪の責任能力が十分問われるのです。自分がしたことは罪であることは、明らかに示されていると糾弾するのです。

重大な罪、事件を犯した者が逮捕されてすぐに話題になるのは、責任能力があるかどうかということです。安城市で、悲しい、悲惨な事件がおきました、スーパーで、一歳に満たない赤ちゃんが通り魔に頭部を刺されて殺されました。警察は、責任能力があると判定しました。精神疾患の犯罪者は、罰することができません。それなら、母の体内に身ごもられたときから罪を持っている人間は、神の御前に霊的に死んでいる者には、責任がないのでしょうか。決してそうではありません。人間は、自分の決断で神の御前に良いことをすること、神の栄光を求め、神のために、神に喜ばれることをする能力がなくなったのです。まったくの無能力者になったのです。自分の罪で、そのような立場に至ったのです。ですから、神の御前では、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、責任能力があるのです。異邦人である私どもも、聖書に教えられなくても悪いこと、してはいけないことが分かっています。分かっているのに、やめないのです。分かっているのに、やめられないのです。それは、我々の言葉で言えば、一種の病気となるのかもしれません。しかし、その病気もまた、罪が生んだものなのです。坂道を手押し車を押し上げようとして、しかし、手を離せば、かならず転げ落ちて行きます。それが、罪人の現実なのです。しかも、これは、すでに病気なのだから仕方ないということには、神の御前では決して通じません。

パウロは、自分だけのことではなく、おなじことを他人がしているのを知っていても、それをとどめない、それを認める、肯定すると言います。神から離れて生きる者が、一人で、罪を犯すのではなく、皆で罪を犯すことを喜ぶのです。それは、自分だけが異常なのではない。これが人間なのだ、人間らしいことだ、時に、罪に負けて、悲しんで苦しみ悩んで生きるそれこそが、人間らしさなのだと開き直りたいのです。だから、他人の罪にも寛大なのです。そこで、自分の罪を小さくさせ、正当化すらし、ますます鈍感になって、神の御前に苦しまなくてもよいようにと工作するのです。それが、人間の罪のまことの悲惨な姿なのです。

しかし、パウロは、まさに、そのような罪の深淵の底で叫ぶのです。「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です!」この叫びは、誰も彼も、神の栄光を求めず、ただひたすらに自分の欲望、自分の考えることを絶対化し、やりたいようにやって、生きている罪人の姿を見て、どうしても叫ばざるを得なかった賛美なのです。この賛美がなぜ、この暗い叙述の只中に挿入されているのか、何故、文脈とはまったく関係なく、叫ばれているのか、ここが急所です。
それは、パウロが、ただ単に、「罪人は、間違っている!倒錯している、転倒している!そのような生き方は不自然である!そのような罪に閉じ込められた生き方は、時代錯誤である!」と裁いているだけではないということです。本当に、そのような罪の行為を止めなさいという叫びがこのテキストなのです。パウロは、ここで人間は罪人に成り下がって、罪によって倒錯した生き方、転倒した生き方、時代錯誤の生き方をしているのを糾弾しながら、しかし、言いたいことは、それだけではないのです。「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です!」こう叫びの声を挙げて、彼は自分が主イエス・キリストによって死に値する罪を赦された者の代表、典型、プロトタイプとならせていただいたことを証拠として、明らかにしたのです。彼は、罪人の頭としてここでもこの手紙を書いたはずです。

何度語ってもよいかと思います。使徒パウロとはかつてどのような人であったのかということです。彼は、神の選びの民を代表して、復活の主イエス・キリストとの出会いを経験しました。ダマスコの村に向かって、息を弾ませ馬に乗っていました。それは他でもありません。主イエスの弟子たち、キリスト者を迫害し、捕らえて殺す為でした。しかしその途上、彼は、天からの光を浴びたのです。そのとき、彼は打ち倒されました。馬から転落しました。それは、まことに暗示的です。そのとき初めて打ち倒されたのですが、本当は、すでに倒れて生きていたのです。逆立ちしていたのです。そのとき馬から転落しましたが、本当は既に人間の本来の生き方から転落していたのです。しかし、彼は、主イエスの御言葉を直に聴きました。それはこのような御言葉でした。使徒言行録第26章に記されています。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そしてこれからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人とするためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして、彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」
主イエスは、パウロの目を開かれました。闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせられたのです。つまり、それまでは盲目だったのです。しかし今度は、パウロを通して、神は、ユダヤ人にも異邦人にも、主イエスへの信仰によって、罪の赦しを得させ、キリストの恵みを受け継ぐもの、恵みの分け前をあずかる者とされたのです。これは、神によって目が開かたからこそ担える御業なのです。目が見えなかったもの、死んでいたものの目が開かれたのです。生き返ったとき、目が開かれたとき、自分の罪が分かりました。そしてその罪が主イエスによって赦されていることも分かりました。そのように死罪に値する罪を赦され、神の子とされた者だけが、ただ神の栄光のためにと歌い始めることができるのです。奇跡が起こるのです。これこそが奇跡であります。まことの奇跡とは、全くの、徹底した罪人が、この叫びをあげることであります。 これは、まさに、死人の復活を意味します。死に値する罪を私どもは赦されたのです。赦された罪人だけが、パウロとともに、「造り主こそ、永遠にほめたたえられよ アーメン」と賛美することができるのです。新しい人間として誕生するのです。

その目に見えるしるしが洗礼であります。まことにこれらすべての祝福は、人となられた主イエス・キリストのおかげです。十字架で私どもの死に値する罪を贖う為に、この死刑を身代わりになって死んで下さり、三日目に死人の中から私どもの罪を赦し、新しい人間とするために、復活してくださったお方のおかげであります。今、この御子イエス・キリストが成し遂げ給うた、救いの御業を、私どもに新しく当てはめて下さる恵みの食卓が整えられています。聖餐の食卓です。ここに招かれて、私どもは、不自然な生き方をもう一度、捨てるのです。そして、死に値する罪を新たに赦されるのです。そして新しい人間として、神の子として甦るのです。私どもの新しさは、ここで更新されるのです。この食卓に、信仰をもって、大胆にあずかりたいと思います。そして、この食卓を真実に祝うことは、悔い改めに生きること、生き続けることであることを新たに悟りたいと願います。これからは、自分のために死んで甦った方のためにその全存在をかけて生きる歩みへと志を新たにするのであります。

祈祷
万死に値する罪とは何であるかを、あなたは教えて下さいました。神を神としない生き方、神をあがめ、感謝しない生き方が罪であることを、あなたの御子の十字架において、その復活において私どもにお教えくださいました。私どもの目を開いて下さいました。この開かれた眼がいつもあかるくあなたを見上げていられますように。罪の暗黒の中で、あなたの光を見失うときにも、あなたが私どもを見失ってはおられないことを、心から感謝致します。その恵みのなかで、私どもは悔い改めることが赦されます。どうぞ、御霊を注ぎ、私どもの全存在を神の栄光のために差し出して歩む者とならせてください。そして、拙く、か弱い信仰者ではありますが、なお、あなたの証人として生きることができますように。この私どもの志を一生涯支え、深めて下さいますように。
アーメン。