過去の投稿2005年1月9日

「見よ、神の怒りを!」 テキスト ローマの信徒への手紙 第1章18節-23節①

「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」

 さて、本日は、いよいよ18節以下に記された箇所に進んでまいります。新共同訳聖書の小見出しには、「人類の罪」と記されています。また、多くの聖書の注解者たちは、この箇所から言わば本論が始まると申します。8章までが、「救いの道」、12章までが「イスラエルの将来」、そして16章までが「キリスト者の生活」と、大きく三つの部分に分けるのです。つまり、今日から始まる18節以下と16節、17節との間には、区切りがあるとするのです。しかしながら、もともとの言葉をきちんと訳しだしますと、18節は、冒頭に「それゆえ」、「だから」と記されています。それまでの文意を受けて展開されるわけです。実は、16節にも17節にも、「それゆえに」、「何故なら」という接続詞がつけられているのです。あるいは、17節の啓示という言葉に注意してくださればと思います。啓示とは、これまでベールがかかってありましたものを取り除いて明らかにするという意味です。そうすると18節のなかに、「神は天から怒りを現されます。」とありますが、その言葉は、啓示という言葉と同じなのです。「神は天から怒りを啓示されます。」ということです。つまり、使徒パウロは、福音という一つの主題の中から、豊かな響きを聴き取っていると言うことができます。そこでこそ今朝、私どもはあらためて気づかされるのです。この豊かな福音の響きのなかには単に明るく、嬉しく、甘い音色だけではないということであります。

使徒パウロはなんとしてもこの福音をローマにいる教会員、ローマに住む人々に伝えたい、伝えなければならないと、神からの果すべき責任とかんがえています。この果すべき責任である福音の伝道は、まさに恥とすべきものではない。いや、恥どころか、これ以上の誇りはないという思いでパウロが生きているのは、この福音のなかには、神の義が啓示されているからであると言ったのであります。しかし、パウロはそこで終わらない。彼は、そこに18節を付け加えるのです。何故なら、「不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」この18節もまた、福音を恥とせず、福音を伝える力となっているということです。この朝は、この一句に焦点を当てて学びたいのです。

先週、学びましたが、預言者エゼキエルに見せられた神が食べなさいとお命じになられた巻物を思い出します。そこには、「哀歌と、呻きと、嘆き」の文字が表にも裏にもびっしり記されてあったのです。わたしは、この箇所を読み続けながら、あらためて思い起こしておりました。18節以下3章20節までは、言わば、口に甘い言葉は記されていません。それは、当然でありましょう。「神の怒り」そして人間の正体が啓示されているからです。しかしそこでこそ、エゼキエルの経験、先週学びました御言葉を思い起こすべきであります。エゼキエルは、哀歌と呻きと嘆きの言葉を食べたとき、なんとそれを甘く感じたのです。これはもちろん、舌が麻痺したわけではない。呻きとは、声にもならない、嘆きの極みの状況です。誰でも、そのような呻きの言葉を食したなら、お腹をくだすしかないと思われます。今朝は24節以下は読んでおりませんが、不義によって真理の働きを妨げる人間の行いが列挙されています。これをみれば、2000年前も今日も人類の状況に基本的には何ら変りがないことに気づかさせられます。いや、ここで数え上げられた罪のリストに変わりはありませんが、その罪と悪の力と影響は増幅、拡大していると思います。そこで、あらためて自ら問われるのです。この御言葉を私どもは、どのように聞き取れるのか。一体、この御言葉を味わい、見て、甘く感じ取れるのだろうかと思います。

わたしは、この御言葉を読み続けながら、ヨハネによる福音書の冒頭を思い巡らしておりました。待降節、クリスマスの季節に必ず読まれる御言葉であります。「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずになったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によってなったが、世は言を認めなかった。」

ヨハネによる福音書は、主イエス・キリストを言葉そして命、さらに光とも言い表しました。万物は、この言によって成り立ち、言のおかげで万物、つまりこの世、この世界はあると告げます。この言に命があり、光がありました。しかし、この世は、この光に照らし出されたとき、暗黒であることが分かった、暴露されてしまったのです。そして、暗闇であるこの世は、光を理解しませんでした。「世は言を認めなかった。」ともあります。実に激しい裁きの言葉です。この世界は言、光、命を認めない。それだから、暗黒であるのです。暗黒の中では、自分が何をしているのかも分かりません。暗黒のなかですることは、神と共には決して出来ないことです。神に喜ばれないことだからです。神を認めず、無視して行う事柄だからです。それらを、聖書は罪と呼び、パウロは、今、この罪を不義と呼びました。不義とは、神の義と対立するものです。人間の義です。人間が定めた正しさのことです。それが不義なのです。その意味で、この不義の問題は、単なる道徳の問題ではありません。道徳的に正しく生きていれば、何も救いとか、赦しなど必要ではないなどとうそぶくことは許されないのです。「不義によって、真理の働きを妨げる人間」とあります。人間は自分自身の義、自分勝手な主張、自分の正義、自分勝手な欲望を推し進めることによって、人間の、自分の正当性を主張しますが、それは、神の御前には不義でしかないのです。罪なのです。しかも、人間の不義は、結局、神への反抗という態度に出ます。それは、真理の働きを妨げる行動です。真理とは、これもヨハネによる福音書で学びましたが、それは、主イエス・キリスト御自身のことでした。ここで、パウロも、ヨハネによる福音書の理解と同じであると言って構わないと思います。福音の真理とは主イエス・キリスト御自身だからです。神が私たちの主イエス・キリストを通して活動されたのに、人間は、それをかつて妨げたのです。今、妨げているのです。そのような人間の不信心、不義、つまり、不信仰に対して、神は天から怒りを啓示されたのです。

さて、この神の怒りの啓示に対して、不義によって真理の働きを妨げる人間は、すぐに反発し始めるのです。説教の言葉としていかがかと思いますが、あえて申しますと、「神の怒りなどくそくらえ」と反発するのです。そんな怒りの神など、認めない。怒る神なら、こちらが一枚上手をとって、なだめればよいとすら考えるのです。なぜ、そのようなのんきな考えができるのでしょうか。それは、簡単です。不信心な人間には、そもそも、神の怒りそれじたいが既に分からないからです。今ここで、神に叱られ、戒められ、裁かれる経験を持ち合わせていないからであります。たとえば、私どもは神の怒り、神の裁きと申しますとき、どのような出来事を思い起すのでしょうか。創世記をひもとけばおそらくすぐに思い起こされるのは、ノアの箱舟の出来事ではないでしょうか。ノアの時代、神は、「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」と御言葉は告げます。我々は、そこですぐに反発するのです。どのような反発かと申しますと、「神が人間を造られたのではなかったか、その造った人間が悪いことばかりを心に思いはかり実行しても、その責任は、最終責任は、神にあるのではないか、それにもかかわらず、人間を造ったことを後悔するなんて、まったく、聖書の神とやらは、横暴で、まるで、幼児か、はたまた頭のかたくなっている老人か」このような反抗心です。今、まことに、我ながら、唇が曲がるような心苦しさを覚えましたが、しかしこのように動く心を私どもは知らないわけではないと思うのです。少なくとも、私は、かつて聖書を読んで、そのような葛藤をしばし経験し、聖書の世界に入れなかったのでした。

ある人はこのような、とんでもない勘違いをします。それを実際に読んだり、聞いたりしたこともあります。こう言うのです。「怒る神などというのは、旧約聖書の神である。我々、キリスト教とは、旧約聖書の神ではなく、新約聖書に啓示されている神を信じている。旧約聖書で止まってはならない、新約聖書の愛の神こそ、神の人類への最新の、究極の啓示なのだから、そこにとどまっていてはならない。」そのようなキリスト者は、旧約聖書をどのように読むのでしょうか。いや、読めなくなってしまうのではないでしょうか。旧約の神と新約の神とは違うと言うのでしょうか。そうであれば、すでに明らかにそれは、教会の教えとは無縁の宗教になっています。怒る神に躓くのは、怒りのなかにそもそも、使徒パウロが現す神の怒りなるものを知らないからではないでしょうか。我々は、人間の世界のなかでこそ、怒りを知っていると思います。怒っている人とどう付き合うべきかを心得ているところがあります。自分自身が、怒るという感情のなかで、我を忘れ、状況を忘れて興奮してしまったときに、後で後悔し、恥ずかしい思いをしてしまうことを知らないわけではありません。そのとき、冷静に、言い争わずに、黙って相手の興奮が収まるのを待つしかない。そのような処世訓を心得ています。そこで、神の怒りという言葉を読むとき、我々の心の中に、すでに、神を人間化してしまっている。神の怒りを人間のそれのように考えて、それを静めるために、なだめるために、こちらで手を打つ。神社仏閣に詣でて、神の罰が当たらないように、むしろ、神に願いをかなえていただけるように、お賽銭をする。お祓いを受けるわけです。手を打つのです。そもそも、それが宗教、それが犠牲をささげるということであるなどと、考え、宗教となる、宗教を作り出すのです。

さて、パウロが神の怒りが現れると書いたとき、それは、過去のことなのでしょうか。もしそうであれば、何も、いまさら、パウロに言われるまでもなく、旧約聖書にはっきり記されたことのはずです。それなら、この神の怒りとは、将来のことなのでしょうか。ヨハネの黙示録でまなんだような、小羊の怒り、神の最終的な審判が人類に下される、世の終わりの最後の審判のことなのでしょうか。いずれもここで使徒パウロが言わんとしたことではないのです。なぜなら、ここで、「現されます。」とあるのは、現在形だからです。「神の義が啓示されています。」も「神の怒りが現されます。」もいずれも現在形なのです。今、ここで、起こっているのです。2000年前のことではない。これを読み、この説教を聞いている今のことなのです。神の怒りが今現されている。
ある人は、このように誤解するかもしれません。ノアの洪水ではないが、今まさに、世界は、スマトラ沖で起きた大地震と津波による未曾有の大災害を経験していますから、それが神の怒りなのか。このような理解です。しかし、それが、神の怒りであるなどと、聖書は告げていません。しかもまさに未曾有の大災害ではあっても、大胆な言い方になりますが、神の怒りが現されるなら、その程度のものではないのです。死屍累々たる様を見ていないから、そんなことが言えると叱られるかもしれません。しかし、神の怒りのさまは、15万人の死、500万人の被災者の困窮の姿を目撃しそれをもって想像したとしても、理解できるものではありません。たとい、ほとんど全人類が水死したとされるノアの洪水を思ってみても、たといバベルの塔のことを思ってみても、それで、神の怒りのすさまじさをありありと見ることなどはできないのです。

先日、ほんの一瞬ですが、帰省をしました。そして子どものたっての願いで、都内を車で行きました。月曜日、3日のことです。新宿から原宿、表参道付近まで行き、それこそ大渋滞でした。初詣客です。明治神宮、日本でもっとも大勢の参拝客が来ると言われる場所に近づいたからです。その交差点に、のぼりが立てられていて、どこかのキリスト教団体なのでしょう。スピーカーから、一生懸命、「偶像礼拝をやめましょう。神の裁きが下ります。イエス・キリストを信じましょう。」と録音テープが流されています。大きな神社には、この団体は、毎年のようにそのことをするのかと思われます。この事柄については、かつても詳しく申したことがあります。ここでその暇も必要もありません。もう何年も前になりますが、緑区に街宣車で、同じようなことをしているキリスト教団体がやってまいりましたときに、その車をおいかけて抗議したことがあります。明治神宮、熱田神宮、なるほど、大勢の人々が明らかな偶像礼拝をしているのです。日本の正月の慣習は、まさに、神道儀式に基づきます。おせち料理やお年玉どれ一つとっても、カミ、年神様との関係が指摘されます。それなら、キリスト者は、おせち料理を楽しんだり、お年玉を子どもたちに与えないとすれば、偶像礼拝に関与しないことになるのか。あるいは、そもそも、その慣習にのっとれば、キリスト者として、都合が悪いのでしょうか。事柄は単純ではありません。

もしも、キリスト者である私どもがこの箇所を、まだ、真の神さまを信じてない人々の罪の状況を聖書は数え上げているのだ、洗礼を受けた自分たちは、すでにこの状況を脱して、高みの見物なのだ。自分たちは、滅びさる人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像を神として礼拝などしてはいない。むしろ、この人々が神の怒りを受けることを目撃する、だから、自分たちの地盤は振るわれないので、彼らを言わば上から釣り上げるようにして、救いに導いてあげようと言う態度であってはならないのではないでしょうか。
私どもは毎週の礼拝式の度ごとに、これは、牧会祈祷と呼んでおります、祈りのなかで、常に、罪の告白の祈りを捧げます。毎週、毎週、必ずこの罪の告白の祈りを捧げます。いつでも、この祈りをするのは、あまりにも、不信仰ではないか。52回の礼拝式のなかで、一度くらい、「私どもは、罪を犯さずにここに来ることができました」と言うほど、真剣に罪を憎み、罪をきらい、罪と戦って、勝利の祈りを捧げることができないかと、思うとき、思う方も、もしかしたらおられるのではないかと思います。わたしは、洗礼を受けて数年は、しばしばそう考えておりました。教会は、いつもそのような弱弱しい祈りをしていて、たるんでいる。もっと、真剣に清い生活、神の栄光をあらわす勝利の生活、聖霊に満ち溢れた、力に漲った生活ができるはずではないか。聖霊を受けないから、そのような「憐れんでください、憐れんでください」というような女々しい祈りしかできないのではないか。今では大変恥ずかしいことですが、そのような義憤をもって、祈りを聞いていたり、教会員を見ていたことがあったのです。裁いていたわけです。キリスト者が未信者を裁くこと、キリスト者がキリスト者を裁くこと、これは、福音を正しく理解しないところではしばしば起こる私どもの弱さであり、罪であります。

真理の働きを「妨げる」とは、ふたをするという意味、牢屋のなかに閉じ込めるという意味があります。真理とは、私たちの主イエス・キリストであると申しました。そうであれば、すでに私どもは福音書のなかではっきりと見ているはずです。不義な人間が、主イエス・キリストのお働きに対して何を企て、実行したのかを見たはずです。彼らは、主イエスを捕縛したのです。縄で縛る。牢に閉じ込めたのです。そればかりか、墓の中に閉じ込めた、殺したのです。このような反抗、反発はなにも2000年前のことだけではないように思います。今日も、主イエス・キリストは、殺されています。我々は、無視するという方法で、御子なる神を亡き者にしているのです。無視さへすれば、自分の人生に関係ないと高をくくっているのです。イエスなど過去の人であって、ましてや、イエスに罰を与えられることもなければ、イエスから祝福を受けることもないと考えているのです。しかし、既に今そこで、そのようにこのお方に対処していることこそが、神の怒りであり、裁きとなっているのです。自分が暗闇のなかにいて、真理を妨げるとき、自分自身がそこで、自由になっているのではなく、自分自身を蝕み、損ない、破壊している。神の怒りの炎を自分の頭の上に積んでいるだけなのです。
著者パウロのことをここで深く思います。彼はやがて、このローマに本当に赴くことになります。ただしそれは、囚人としてでありました。つまり、パウロもまた、多くのものたちから、その働きを妨げられる経験を重ねた人なのです。しかし、よく考えれば、パウロもまた、かつて、この真理の働きを妨げるために一生懸命に働いた不信心と不義の張本人、彼自身の言葉で言えば、罪人の頭でした。しかし、驚くべきことに、彼は、神の怒りを受けていない。恐るべき神の怒りを受けていないのです。しかし、彼は、その怒りの恐ろしさは知っているのです。何故でしょうか。それは、十字架の主イエス・キリストを知ったからです。主イエスがどれほど激しい刑罰を愛する父なる神からお受けになられたのか、どんなに激しく父なる神の怒りをお受けくださったのか、それは、事実、御子を死に至らしめるほどのものなのでした。御子をお捨てになられた事実のなかに、神の怒りを使徒パウロは見たのです。しかもその怒りの本当の激しさにどこで人間は気づくのでしょうか。それは、復活であります。第1章4節、「聖なる霊によれば、死者の復活によって力ある神の子と定められたのです。」この復活によって、私どもは、十字架のイエスがキリスト・イエスであられることを見たのです。そこに神の怒りのすさまじさを見たのです。しかも、そこで、自分が滅びるばかり、まさに滅びるしかないことをしでかしたことをさとらされながら、同時に、この復活の朝陽、命の光に照らし出されて、赦されている自分、神の子とされている自分を見たのです。だから、使徒パウロは、神の怒りを告げます。神の怒りを語ります。そして、呼びかけるのです。そこに留まっていてはならない。どんなに神が悲しんでおられるのか、どんなに、愚かな生き方をしているのかを、大胆に、容赦なく暴くのです。しかし、それは、単に、お前たちは、そのままでは地獄に行く、偶像礼拝者は、神の永遠の裁きに突き落とされて、滅びると、高みに立って、宣伝するあり方をパウロは知らないのです。

 パウロは、自分自身がどんなにさかさまに生きていたのかを知っていました。不義を犯していたかを知らされました。しかし、彼自身が、神の力を経験したのです。破壊する力ではなく、造りかえる力です。破壊したものを完成させる力、それが、神の力、福音なのです。これも私どもが暗唱すべき言葉の一つであろうと思いますが、コリントの信徒への手紙二第5章17節にこうあります。「だから、キリストと結ばれる人は誰でも新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」その後にさらにこのような御言葉があります。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく」罪の責任を問われたのは、神の怒りをお受けになられたのは、神の御子でありたもう罪なき主イエス御自身であられたのです。だから、ここでもはや、疑う余地がない。あるいは迷っている余地がないはずなのです。救いは、福音のなかだけにあります。世界のどこに行っても、私どもはそこで、私どもの救い、罪の赦し、人間の真理を見出すことはできません。この世界から、見出せるものは、結局、自分自身の滅びしかないはずです。
ここに私どもが悪と罪、不信心と不義とに対抗する、抵抗する根拠があります。この神の怒りのすさまじさを知るから、十字架を知るからこそ、私どもは、奮起するのです。たとえば、もしも私どもが気軽に、「わたしは不信仰な人間です」とか言ってのけることがあるとすれば、それは、とんでもないこと、これは、まさにとてつもなくおそろしい言葉を吐いたことになるということが既に明らかにされていると思います。この御言葉を学んだのであれば、不信仰であることに平然としてなどいられるでしょうか。不義と不信心とは同じことです。それは罪なのです。そこにこそ神の怒りが下るとパウロは明らかにしたのです。パウロは、何故、なんとしてでもこのローマ行きたいと願っているのか、それは、5節で「信仰による従順へと導く為」だと語りました。この福音が明らかにされるとき、異邦人は信仰による従順へと導かれることができる、だから、それゆえに、パウロは、福音を恥としないと言ったのです。何故なら、ここにしか救いも希望もないからです。しかし、この福音の中には、私どもの命がある、喜びがある、輝きがあるのです。人間の健やかさ、人間らしさが取り戻される道があるのです。だから、パウロにとって福音の伝道は急務なのです。大災害の被災者を助けることはまさに急務です。大会の執事活動委員会からのアッピールが金曜日に届いたのは遅すぎるほどであったと思いますが、私どもはできうる限りの協力をしたいと願います。怪我をした方々、家をなくした方々、緊急の援助の必要性は、誰の目にも明らかです。しかし、何よりも思います。福音において啓示された、救いをもたらす神の力である神の義と神の怒りを、見ているのは、信仰によって生きる者としていただいた私どもだけです。福音伝道は、いつの時代にも急務なのです。福音によって誕生させられた教会、信仰によって生きる者として造りかえられたキリスト者であれば、ここに力を、時間を、賜物を、財を捧げるべきなのではないでしょうか。
この新しい一年、私どもは、自分の信仰の姿勢を、この福音の光の下でいつも正されていたいと祈り願います。福音の暖かな光の中でこそ知る自分の罪深さを、不信仰を、真実に嘆くこと、悔い改めることであります。信仰の従順をもって神の御前で生きて行くことであります。これをこそ、私どもの誇り、私どもの志としてこの歩みを教会の歩みとして刻んでまいりたいのであります。

祈祷
私どもはかつてあなたの怒りが分かりませんでした。しかし、今は違います。死人の中からお甦りになられた御子主イエス・キリストを知ったからです。私どもがかつて真理を妨げ、真理に反抗し、神を神として畏れ敬うことを知らず、自分の欲望のままに生きていたことを知らされました。しかし、今や、復活の命の光のなかで、自分の惨めさ、罪の深刻さを知りました。そして、同時に赦されている幸いをも知ることができました。私どもは、今、ここに、信仰によって立っているのです。この主イエス・キリスト以外に、人間が人間らしく立つ拠点、生きる道がありません。その道に招き入れ、立たせてくださったのも、父なる御神、あなたの恵みなのであります。どうぞ、この信仰の道をなお真剣に、真実に歩む者としてください。私ども教会の福音を証するためのすべての働きを今年も支えて下さいますように。自ら、これを妨げることがないように、悪魔によって妨げられることがないように、守り導いて下さい。
 アーメン。