過去の投稿2004年5月9日

「あなたはどこにいるのか」-神のやさしい招き- 創世記第3章1節~24節

1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 3 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 4 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 5 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。 6 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
7 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」 8 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」 9 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」 10 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」 11 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
12 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。 13 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
14 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
15 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 16 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。 17 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
18 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。
19 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
20 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」 21 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。 24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。


創世記 第2章15節~17節
15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。 16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。 17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」 18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。 20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。 21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」 24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

日曜日の朝、今ここに、皆さまと共に復活された主イエス・キリストを礼拝する恵みにあずかれますことを心から感謝いたします。心から嬉しく思います。お一人お一人を心から歓迎いたします。私どもは今確かに自分の意思でここに来ています。これは確かな現実、事実です。しかし、それよりはるかに勝って確かな事実、現実があります。それは、お甦りになられた主イエス・キリスト御自身が皆さまお一人おひとりをその名前を呼ぶようにして、ここに呼び集めてくださったと言うことです。ここにいる私どもはひとりの例外もなく、主 イエス・キリストからのお招きにあずかってここに来ることができたのです。
 そのように招かれたお一人お一人の上に、この礼拝式を通して、主イエス・キリストの恵みと父なる神の愛と聖霊の親しい交わりが豊かに注がれますように。

礼拝式の最後のプログラムに、「祝福」があります。わたしが皆さまに神の祝福を告げるのです。その祝福の言葉に対して、皆さまが「アーメン」と告白されたなら、その祝福がまさに現実のものとなります。皆さまの生活は、神の  祝福に囲まれたものとなります。この「アーメン」と言う言葉は、教会に初めて来られた方には、最初に、とまどいを持たれる言葉かと思います。アーメンとは、「真実」という意味です。そしてそこから祈りの後にアーメンと申しますとき、ごくごく単純に申しますと「本当に」とか「その通りになるように」   という意味を込めた言葉として、用いられます。アーメン、本当にその通りになりますように、と受け入れられたら、本当にその通りになります。

この祝福を告げる言葉の前に、わたしは一つの言葉を皆さまに告げます。  これは、主イエス・キリストの言葉です。「安心してゆきなさい。」です。これは、いわば、イエスさまが「わたしが一緒についてゆくから、安心して出掛けてゆきなさい。行ってらっしゃい。」という意味です。「行ってらっしゃい」といって送り出されたと言うことは、わたしどもは、今、帰ってきたということになると思います。つまり、「ただいま」といってここに戻ってきたということです。そして、この教会こそが、私どもの本当の居場所、教会の礼拝に出席することこそが、ホームポジション、いるべき、あるべき場所なのです。その意味で、この朝、皆さまが本当に帰るべき場所にこうしておられることを心から感謝いたします。何よりもこの現実を喜んでおられるのは、主イエス・キリストとその父なる神であられます。改めて祈ります。その喜びが今、聖霊なる神によって、お一人お一人の上に豊かに注がれますように。

さて、本日、皆さまと御一緒に聴きました、聖書の箇所は創世記第3章であります。第3章を読むときに、どうしても先に読んでおかなければならないのは、第2章15節から17節です。「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」これは、神が人間を創造し、エデンの園と呼ばれるまことに祝福に満ちた場所、食べることに困ることがない、まさに楽園に生きる場所が与えられたのです。何よりもすばらしいことは、そこには、主なる神、創造者なる神が共におられる場所であると  言うことです。この神は、人間を祝福することを御自身の喜びとされています。この神は、人間が、何不自由することのないようにと生きる場所を整え、人間が喜んで生きることを、喜びとしておられるのです。そのような神のご好意がみなぎる言葉が、先ほどの「園のすべての木から取って食べなさい。」と言う言葉にあります。いったいエデンの園には、何本、何百本、何万本の果実を実らせる木が生えていたのでしょうか。とにかく、自由に食べてよいのです。しかし、ただ一本の木だけは、禁じられています。それは、ほとんど何千万分の一ということだと思います。たった一本だけは絶対食べてはならないのです。何故なら、それを食べるとは死を意味するからです。死が入り込むからです。その木の名は「善悪の知識の木」と言います。

第3章で、突然、蛇が登場します。蛇とは、サタン、悪魔の象徴です。もっとも賢い生き物である蛇が、女に誘惑をしかけます。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」これは、なんと悪意に満ちた  言葉でしょうか。神は、食べてはいけないと、否定の言葉を仰ったのではなく、その正反対です。食べてよい、と肯定する言葉を仰いました。これは、神への偏見を助長させるための実に巧妙な言葉です。
女は即答します。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。」これは、その通り、正しい答えであります。しかし、次の言葉はいかがでしょうか。「でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない。触れてもいけない、死んではいけないから、と神さまは仰いました。」彼女は、善悪の  知識の木を、園の中央に生えている木と言います。これは、本当にそうであったんかどうかは、分かりません。けれども、彼女がそのように言ったことのなかに、彼女にとっていつも気にかかる木であったことは確かだと思います。彼女は絶えず、この木の存在を意識していたということかと思います。しかし、その木において神が警告されていた言葉を彼女は正しく受けとめていたとは言えません。「食べてはいけない」と彼女が言ったことは間違いありません。その通りです。けれども、「触れてはいけない」ということはいかがでしょう。神は一言も仰っていません。さらに、「死んではいけない」とは、いかがでしょうか。神が仰ったのは、食べたら必ず死ぬという宣言、警告です。死んではいけないとは、死ぬかもしれないという意味です。「かもしれない」とは、不確かです。やってみなければわからないというニュアンスがこもっています。本当のところはどうだか分からないという感じが致します。神の御言葉の確かさを彼女ははっきりとここで軽んじていることが分かります。

すると悪魔はチャンスとばかりに一気に畳み掛けます。「決して死ぬことはない。」神の御言葉に反抗します。そればかりか、「神は嘘をついている、神は、あなたの目が開いて、神のように善悪を知るものとなることをご存知なのだ、それを妬んでいる。あなたが神になっては、神の絶対的な権威が相対化する、軽くなる、それが困るのだ。」とそそのかすのです。この蛇の発想、考え方は、いかにも人間的です。いかにも人間同士の発想です。自分の良い立場を独り占めにして楽しもうとしているかのように、神を侮っているのです。天地の創造者なる神を自分と同じような存在として、格下げしているのです。
悪魔にそそのかされて、彼女は、改めて、善悪の知識の木の実を見ます。   いつもと違って見えています。他の木がまずかったわけでは決してないはずです。他の木に飽きていたわけではないのです。しかし、悪魔に、自分の弱みに付け込まれたときに、今までと違って見えているのです。もちろん、木の実そのものが唆すわけではありません。原因は、彼女自身にあります。彼女の心の動きがそのように見させたに過ぎません。そして彼女は取り返しがつかないことをします。実を触り、そして食べたのです。しかも、自分だけではなく、 一緒にいた男にも手渡したのです。そして、男はそれを食べました。

聖書は、ここで何を言おうとしているのでしょうか。わたしはこの聖書をこれまで、何十回、いえ何百回と読んでまいりました。読むたびに、この聖書の物語の底知れぬ深さに驚かされます。これほど、見事に人間の罪の現実を明らかに示す物語があるかと思います。
第3章は罪の起源を明らかにします。それだけではなく、罪とは何かという、罪そのものの性質を明らかに示します。罪とは、神の御言葉に背くことです。罪とは、神を神としないことです。罪とは、神を認めないことです。罪とは、神を軽んじることです。そしてそのような罪を犯す動機にあるのは何なのでしょうか。それは、人間が自分自身を神にするということに他なりません。しかし、もしかすると多くの方々が、「まさか、自分はそんな大それた事を考えたことはないし、そのようなことを実行したことはない」と言うかもしれません。果たしてそうなのでしょうか。神は食べてはいけない木の実のことを「善悪の知識の木」と命名されました。善悪の知識の木というのであれば、何か、悪魔が言うとおり、それを食べると善悪をわきまえることができるような気が致します。むしろ、人間はもっとこの善悪の知識の木の実を食べるべきではないかとすら、わたしはかつて思ったことがあります。

私どもは、子どものしつけに際して、ごく基本的なこととして善と悪の区別をしっかり覚えさせようとすると思います。これはしてはいけないことだと、何度でも言って聞かせます。時におしりを叩くこともあるでしょう。それ位、人間の生活にとって善悪を知ることは基本中の基本だと思います。しかし、神は、その善悪の知識の木を食べるなと命じられたのです。何故なのでしょうか。

今、我々の世界の大きな関心事は、間違いなくイラクでの米英軍の戦争です。自衛隊も派兵されています。ブッシュ大統領は、「これは正義の戦争である」と宣言して戦闘を開始致しました。米英軍は善であり、フセイン大統領を支持するすべての者たちは悪とされました。まさに善と悪との戦いであると言うのです。しかし、本当にそうなのでしょうか。いったいその善と悪とを誰が決めるのでしょうか。これが、善悪の知識の木の実を食べるということです。つまり、善悪の決定権は自分自身にあるとするのです。そしてまさにそのときには、  意識せずとも、事実上は、自分が神になっているのです。神のみが善悪の基準なのです。その神の権威、神の領域を人間が犯すのです。

私どもの日常生活でも、しばしば同じ事をしています。自分が善悪の基準になるということは、自分中心ということです。自己絶対化ということです。  世界は自分のために存在している。世界は自分のためにある、かのように考えるところに、人間中心主義、わがままが起こります。ひとりひとりが自己中心なのですから、人間と人間とが共に生きること、お互いに真実に、愛し合って、尊敬しあって、重んじあって、楽しく愉快に生きることがどれほど難しいか、いちいち説明するまでもないのではないかと思います。これが、私どもが生きてゆく上での困難、悲しみ、つらさの主要な原因であります。神との関係が  壊れてしまったときに、神を神として重んじ、神の言葉に従って生きるときに、人間は人間らしく生きることができました。人間が人間として生きることは、神の言葉に従うことなのです。それは、何も特別なことではありません。実に人間らしいこと、人間にとってもっともふさわしい、あるべき姿なのです。  人間にとって幸せになる道以外の何ものでもないのです。人間を卑屈にさせ、低いままの状態にさせるようなものでは決してないのです。その正反対なのです。善悪の基準は、人間が自分勝手に作り上げてはならないのです。そのようなふるまいこそが、自分を神とすること、自己中心の典型的な行為なのです。

さて、神に対して罪を犯した人間はどのようになったのでしょうか。このようにあります。「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」この御言葉を読むとうっかりすると、「あぁ、悪魔が指摘したとおりのことが起こった。目が開いたのだ。  その意味では、本当に賢くなったのだ。」と誤解する人がいるかもしれません。けれどもまさにそれは大きな誤解です。彼らはもともと裸でした。今、初めて裸になったのではありません。いったい彼らに何が起こったのでしょうか。  それは、自分が自分であることに耐えがたくなったのです。自分自身の存在をあるがまま、そのままを受け入れることができなくなったのです。しかもそれは、ただ自己嫌悪するということに留まらず、共に生きる仲間、相手をもあるがまま、そのままで受け入れることができなくなったのです。お互いを恥ずかしい存在と見なすようになったのです。自分自身を人に隠そう、飾ろうとし始めたのです。これが、神とのあるべき正しい関係、正常な位置関係を壊した  人間の顛末です。神との正しい関係を失った人間は、そのときに人間どうしの正しい関係をも失い、壊してしまったのです。自分自身との関係をも破壊してしまったのです。自分が自分であることを受け入れがたいこと、耐え難いことになってしまったのです。

もう7年前になりますが、今は、牧師夫人として働いている一人の教会員が「岩の上便り」と言う伝道新聞に「わたしがわたしである喜び」という題で文章を書いてくださいました。忘れがたい文章の一つです。彼女のこれまでの課題、悩みとは、「自分が自分であること」だと言うのです。抜書きして読みます。「いい人になりたいけれどなれない。私はなりたくて今の自分になったのではないのです。今の自分がつくられたのはさまざまな環境からの影響は避けられません。しかしそれは、不平等、不公平だと感じます。しかし、私に希望が現れました。『神がおられる、神が私たちを愛しておられる』このことを知ったのです。これが私たちにとって平等であり、これこそ、真理であると知ったのです。主イエス・キリストが、「わたしがわたしであること」に悩み続けた私を救ってくださったのです。このお方は知った今、「私が私である事」これが、かけがえのない喜びとなりました。」

さて、罪を犯し、目が開いた人間はさらにどのようになったのでしょうか。主なる神は、いつもエデンの園におられました。いつものように彼らは、神の足音、つまり神が近くに来られることに気づきました。いつもなら、二人は  手を取り合って、神のもとに近づいたのだと思います。それが、これまでの神との当然の関係だったのです。ところが、罪を犯した今、彼らは、神の御顔を避けました。隠れるのです。今までは神は彼らの喜びそのものであったにもかかわらず、今や神との関係は彼らにとって恐怖となってしまっているのです。
そのような二人に神はここで御声をかけられます。「どこにいるのか。」この神の御声はどのような響きを立てているのでしょうか。これは、決して「どこにいるのだ!出て来い!」と言うことではありません。「どこにいるのかぁー?」と人間を見失ってしまって、迷子になって子どもを捜して叫ぶ親の声ではありません。「どこにいる、自分で出てきなさい。わたしはあなたが隠れていることが分かっている。だから、はやくごめんなさい、と謝りなさい。自分で出ておいで。」このようなやさしい招きの響きを立てていたはずです。

彼は、答えます。「あなたがそば近くにおられるのが、恐いのです。だから隠れているのです。」神は、仰いました。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」これは、確かに神の叱責です。しかし、この叱責は単なる叱責ではありません。神は、人間がしたことをご存知なのです。ですから、自分の口で、もう一度、「ごめんなさい。」と罪を告白し、謝罪すること、ざんげすることを求め、招いておられるのです。

アダムは、なんと答えるのでしょうか。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので食べました。」この御言葉を深く味わうためには、どうしても2章22節を読まなければなりません。「人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところに連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、肉の肉。」これは、人類最初の恋愛の歌です。アダムは、心の底からエバの存在を喜んでいるのです。もはや、自分と一心同体、別々の人間ではあるが、一体とまで結び合わされる存在として、彼女を愛したのです。しかもこの恋愛の歌、結婚には、神への感謝が込められています。神が与えてくださった伴侶なのです。恋愛も結婚も神からの祝福として、神への賛美と感謝があるのです。

ところが、神とのあるべき正しい関係を失った人間は、このようにうそぶくのです。「あなたがたわたしと共にいるようにしてくださった女が、木からとって与えたので、食べました。」これはつまり、責任転嫁です。自分が罪を犯したのは、「女が悪いのです」と責任をなすりつけるのです。そればかりではありません。「その女を自分のそばに置かれたのは、神よ、あなたなのだから、究極の責任は、神にあるのだ」つまり、神に責任転嫁するのです。

恐ろしいことですが、しかし、このことも私どもがじつにしばしば考えることではないかと思います。「我々人間が罪を犯してしまうのは、そのように作った神が悪いのだ、もっときちんと罪を犯さないように造ればよかったはずだ。罪を犯すように造ったのは、神が失敗してしまったのだ、人間は神の失敗作だから、人間はむしろ犠牲者だ。」しかし言うまでもなく、神は罪の作者でも原因でもありません。神には責任がありません。人間が、その与えられた自由、 
  尊厳を自分勝手に、間違って使ったからです。その結果、アダムは、あれほど、愛していたエバを裏切りました。憎しみました。エバを与えてくださった神に感謝したはずなのに、神を軽んじ、反抗したのです。これが罪のもたらす姿です。自分の責任をとろうとしない態度です。

神は、次に、女に向かって仰いました。「何と言うことをしたのか。」神はここで、彼女を頭ごなしに叱りつけておられるのではありません。私どもは、  つい、子どもが悪さをした時など、咄嗟に「こらぁ!何をしているんだ!」と頭ごなしに叱り飛ばすことがあります。しかし、神はここでも、なお憐れみをもって、エバが自ら悔い改め、懺悔し、赦しを請うことを求めておられるのです。期待しておられるのです。それが、「何ということをしたのか」という言葉であったのです。ところが、彼女もアダムと同じことをします。彼女は、こんどは、蛇に責任をなすりつけるのです。決して素直に「神さま、ごめんなさい」と言わないのです。罪を犯した彼女もまた、心が固くなってしまいました。硬直したのです。心にしわが寄ったのです。平らな心ではなく、しわくちゃになったのです。

それなら、このアダムとエバはその後どうなるのでしょうか。彼らは予告どおり、警告どおり、神の裁きを受けて即死させられるのでしょうか。もちろん、神の言葉を破り、神の警告を無視したのですから、神の予告されていた御言葉通りに、そうなるのが当然であると思います。ところが、そうではなかったのです。彼らは、エデンの園から追い出されました。しかし、その命はなお続いたのです。ただ、彼らはエデンの園を追われた故に、永遠に生きることはできなくなりましたが、すぐに死ぬことがありませんでした。

むしろ、神は、彼らのために、「皮の衣」つまり、毛皮をまとわせられるのです。救いを準備されたのです。助かる道を与えられたのです。神にはそのような責任も義務もありません。神御自身が、そこで、そのような憐れみを施さなければならない、いわれはまったくありません。それにもかかわらず、神は、アダムとエバに憐れみを施したいのです。これが、神の御心なのです。
神はどれほど深く人間を愛し、憐れんでおられるかがここで分かります。  

しかし、私どもがなお命を保って生きるために、その陰に、覚えていなければならないことがあります。それは、動物が死んだということです。毛皮を着せられるということはそう言う意味です。彼らがしでかした罪のために、動物が死ななければならなかったのです。この動物の死を、教会は古より私どもの  救い主、主イエス・キリストの十字架の予告、預言であると理解してまいりました。そこでは、動物ではなく、神の御子イエス・キリストが死んでくださるのです。アダムとエバが犯した罪を、神は見逃したり、容赦することは決してできません。もしもそうすれば、神御自身の正義、真実が壊れてしまうからです。神御自身の言葉を御自身で放棄することは、神の自己矛盾となります。
神が神であるために、どうしてもしなければならないのは、罪を犯した人間を罰することです。裁くことです。それなしに、神は自らを裏切ることになるのです。神は、この窮地を自ら担ってくださいました。それが、神の御子を人とならせて、十字架の上でアダムとエバの罪を罰するということです。動物の死ではなく、罪無き、神の御子イエス・キリストの命を代価に支払って、私どもを神の子として取り戻されたのです。私どもをお救いくださったのです。

「あなたはどこにいるのか。」これは、実に、この物語から始まって旧約聖書を貫き、新約聖書を貫いています。聖書は実に、この「出ておいで、わたしの前から逃げ出さずに、ごめんなさいと言って出ておいで、赦してくださいと言って、出ておいで」と言う招く神の行為、ふるまい、出来事が記されているのです。結局、「あなたはどこにいるのか」と人間を探し続ける神の物語が聖書そのものなのです。そして、その探すお働きの頂点こそ、神の御子が人間となって、この地上に降りてくださり、十字架についてくださった御業なのです。
神は、今日ここで、私どもを探し出しておられます。そして、私ども一人一人に向かって優しく招くその御声を、掛けていてくださいます。「あなたはどこにいるのか。」探し出されているのですから、何の準備も要りません、そのままで、出てゆけばよいのです。

あなたは、神との正しい関係に生きておられるのでしょうか。もしも、まだ、自分は神とのふさわしい関係にない、神から離れている、さ迷っているとお思いでしたら、今、この神からの招きを受け入れて下さい。隠れる必要はまったくありません。あるいは、あなたが神を、真理を求めて世界中を探しまわる必要はありません。どんなに、あなたが探しても、それで真理、神の救いを得ることはできません。神があなたを探しておられるのです。命を懸けて探してくださったのです。そして、事実、私ども一人一人は今、このお方に招かれたからこそここに来ることができたのです。探し出されて今ここにいるのです。私どもは今、本来人間としているべき場所に、いわば故郷に帰ってきたのです。「ただいま」と言って、戻ってきたのです。この事実を認めること、これが信仰であります。神に愛され、赦され、求められていることをアーメンと言って受け入れるのです。そのときに、神が私どもと正常な関係を作ってくださるのです。そのための手続きは、御子イエス・キリストが十字架で死んでくださったおかげで完了しているのです。私どもは、ただ提供されているキリストを信じるだけで、罪が赦されるのです。
どうぞ、今、このキリストが与えてくださる罪の赦しを受け取ってください。そして、一日も早く、洗礼を受けて、正式に、この神の家であり私ども人間の本当にいるべき我が家に、魂の故郷である教会に戻ってください。

祈祷
「あなたはどこにいるのか」と、今私どもを救いへと、神と共に生きる幸いへと招いてくださいます父なる御神。私どもがあなたを探したのではありません。あなたこそ、私どもを御子イエス・キリストによって、探し、招いてくださったのです。今、その招きを受けいれます。「わたしはここにおります」と、あなたに立ち返ります。どうぞ、既に、この家の中で生かされている者も、今日新たに、志を与えられた仲間も、等しく、あなたの愛の中においてください。永遠の神の家に生きる喜び、天国の喜びを味あわせてください。神と共に生きる真の安心、平安の中においてください。           アーメン。