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「正しく裁かれる神」

「正しく裁かれる神」                    
2005年3月13日
        招  詞 詩篇 第51篇18-19節
        テキスト ローマの信徒への手紙 第2章12節-16節

「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」

 今年に入ってすでに八回、ローマの信徒への手紙第1章18節以下のテキストからの講解説教を聴いて神を礼拝してまいりました。ローマの信徒への手紙の主題は、第1章16節と17節「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」にあると学んでまいりました。つまり、福音とは、ユダヤ人をはじめギリシア人、つまり、人種によらず、性別にもよらず、能力にもよらず、生活ぶりもによらず、品性にもよらず、信じる者であれば誰でも救うことができる神の力であると言うのです。

 しかしながら、この八回の説教の中で、明るい光を受けるより、何かそこに暗さ、厳しさ、神の裁きによって自分自身の罪の深さがえぐりだされるようなつらい思いを経験し続けてきた、そのように思われる方もおられるかもしれません。実は、私どもは、第1章18節から今日までの御言葉だけではなく、少なくとも第3章20節まで、神の審判、神の裁き、神の断罪に身をさらして行くこととなります。そうなりますとますます晴れやかな気分、春の明るい陽射しのなかに出てゆくような気分になって、読み進むことはできないのでしょうか。どこか心の片隅に「今日も、まだ、ローマの信徒への手紙の第2章か、早く第3章21節にたどり着かないかなぁ」と言う気持ちが潜んでくるのではないかと思うのです。

しかし感謝なことに、先週も、朝の祈祷会の後、教会の庭で、立ち話のなかでしたが、一人の姉妹から証をうかがいました。先週の説教を聴きながら、自分が契約の子として生きてきた歩みのなかで、新しい信仰の深まり、経験へと導かれているというものでした。一つの説教が、信仰のさまざまな段階にある会員、求道者の方にも、自分のために語られている説教であると聴き取られることは、まことに幸いなことであります。この箇所を学んで、神の裁きを受け続けるということは、一方で、第2章4節にありますように、「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」というこの救いの御業、赦しの恵みに深くあずかることと一つのことであります。ここでこそ、パウロが目指し、祈っていること、それは、神が、「悔い改め」を与えてくださるようにということであります。

 さてしかし、この箇所は神の福音が記されているのは頭では分かっていても、読めばすぐに、福音の光ですぐに照らされるようになるかといえばいかがでしょうか。そのように読むことの難しさを覚えることも事実であろうと思います。私自身、正直に申しますと、覚悟していたことではありますが、福音として読む難しさということとも重なりますが、解釈するのに難しい思うことがあります。本日のテキストもそうです。

実は、昨日、奏楽奉仕者から本日の讃美歌の番号を知らせるメールをいただきました。いつもは、もっと早くいただくのです。なぜ、そうなったのか、私自身、大変に、申し訳ない思いが募るですが、一つには、このテキストのせいであると思います。このテキストからの説教にふさわしく選曲なさるからです。どれほど、難儀をなさったのか、ご本人にはお断りしておりませんが、引用させていただきます。「明日の讃美の番号を決めるため、12章12節から16節を読んでいますが、とても疑問が広がります。律法を持たないことと神を知らないこととは別の事なのか?律法を知らなくても、神を知りつづけ正しい行いをする事ができるのか?なぜ律法を持たずとも正しい行いができる人とそうでない人の違いが出てくるのか?その正しい行いができる人が真に救われる事ができるのか。疑問を持ちつつ明日の説教を楽しみに礼拝式に臨みたいと思います。」おそらくこれはこの姉妹の疑問だけではなく、これはとても大切な、一つの常識として心していただきたいことでもありますが、前もってテキストを読んで礼拝準備をなさる方であれば、共通の問いではないかと思うのです。
言うまでもありませんが、説教の準備のために、必ず、先達の文章を読みます。これを経ないことは、教会という既に2000年の歴史を歩んできた神の民の努力、またその民を導かれた神御自身の御業を重んじないことになるからです。古い人の話、研究などより、自分の考えや、今日の状況について学んだほうが良いというわけにはまいりません。しかし、言うは易く、でありまして、書物を丁寧に読んでゆけば、それだけに大変な時間を費やさねばなりません。そして、時間をかけるとますます困惑が広がってゆくと言うこともしばしば経験させられることでもあるのです。なぜなら、解釈者のなかで、意見が割れることがしばしばだからです。今回も、一人の優れた神学者の若いときの著作と、晩年近い著作において、理解が異なっているのを発見いたしました。何より、歴史を刻むような神学者同士、一つの御言葉をめぐる理解がいつでも一致するということでは決してありません。そうなりますと、ますます、時間がかかるわけです。そうなりますと、大切なことはそこで基本に立ち返って、御言葉そのものを熟読すること、ローマの信徒への手紙全体をあらためて読むような作業が求められるのです。そして、ごく基本的なこととして、最初に申しました、ローマの信徒への手紙の中心主題、聖句に立ち返るのです。

 使徒パウロは、ここで「わたしの福音」と申しました。この福音こそ、彼のメッセージなのです。そして、私どもは、改めて気づかされるのです。この神の裁き、神の罪人を断罪する言葉の連なりとは、福音、喜びの知らせ以外の何ものでもないということであります。パウロは、我々読者はいざ知らず、彼自身の心の中では、これまでの第1章18節以下の叙述は、福音以外のなにものでもない、読者を喜び躍らせるニュース以外に書いていないという自己理解を持っているのです。どこまでも、福音を語っているのです。そうであれば、私どももこの箇所を、読むこと、聴くことは、福音を読み、聴くこと以外に正しい解釈の可能性はないのです。一つひとつの御言葉、その文脈の流れについて異なった解釈は当然ありえます。それは、可能ですし、歴史的な事実です。これからも、それは、起こるでしょう。しかし、いずれにしろ、それらが大きな意味で正しい解釈の範疇に入ることができるかどうか、それは、ひとえに、福音として聴き取られているか、解釈されているのかという、この一点に尽きるのであります。
 
さて、今、そのパウロの福音によって明らかにされる真理とは何でしょうか。先ほどの奏楽者の疑問にも戻りたいと思います。第11節で、「神は人を分け隔てなさいません。」とあり、本日のテキストへと続きます。その意味では、本日の箇所で二つに分けることには、いささか問題がないわけではありません。先週学びましたように、すべて悪を行う者は、ユダヤ人はもとよりギリシア人、つまり異邦人にも苦しみと悩みが下ります。そして同じように、すべて善を行うものにも、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられるというのです。悪を行う者と善を行うという対比を、この箇所では、神の律法、神がユダヤ人にお与えくださった掟をめぐって、さらに突っ込んで、悪を行うこと、善を行うこととは何か、それをめぐって、福音のメッセージを丁寧に、鮮明に語ろうとしているのです。つまり、福音のなかでこそ見えてくるまことの罪とはいかなるものなかの、まことの善とはいかなるものなのかを明らかにするのです。

「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。」改めて確認いたしますが、律法とは、神の与えてくださる掟、十戒に代表される神の言葉であり、ユダヤ人にとりましては、まさに自分たちがユダヤ人、イスラエル、神の民であることの目に見える証拠でもありました。これほど、自分たちを誇らしいものとするものはないのです。たとえば、詩篇第119篇にも歌われていますように、ユダヤ人にとっては、律法とは、蜜のように甘く感じるものだったのです。繰り返しますが、この掟こそは、自分たちの特権を保証するものだからです。しかし、ユダヤ人パウロは、この第2章において、まさにこのユダヤ人の誇りを木っ端微塵に粉砕するのです。その戦闘開始を告げるラッパの音こど、第1節でありましょう。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。」これは、ユダヤ人の特権意識をぶち壊す宣言なのです。

この難解な箇所を紐解く鍵になるのは、まさに、ここでパウロがしようとしている狙いを読みはずさないことです。異邦人、神の契約を受けていない、神の律法を与えられていない、それだけに、簡単に偶像礼拝に転落しやすい異邦人問題、異邦人を攻撃している、少なくともそこに主眼が置かれているのではないのです。わたしは、かつて第1章18節以下を取り扱った説教におきまして、新共同訳聖書が「人類の罪」と小見出しをつけたことを、大変高く評価をしてみせました。なぜなら、「異邦人の罪」と書くなら、ここで問題にしている罪からユダヤ人は完全に除外されているということになってしまうからです。しかし、そうではないのです。確かに、直接には、異邦人に言及されています。しかし、そこでも彼のまなざしは、ユダヤ人に向かっていたのです。それゆえに第2章の「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。」と叫んだのです。異邦人を軽蔑し、批判している者は弁解の余地はないということであります。ユダヤ人への激烈な断罪です。

そのことを踏まえて、ここを読みたいのです。「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。」律法を聞く者、つまり、ユダヤ人のことです。いへ、先ほど紹介した姉妹の証を引用すれば、それは、ここにいるキリスト者のことでもある、そのように読み取れ、聴き取れるのです。キリスト者が教会で、説教を聞いている。しかしただそれで、神の前で正しいとはされない、そうではなく、神の言葉と御心に生きる、実行する者こそが義とされると、パウロは言うのです。これこそ、ここでの鍵の言葉であります。

そうなりますと、私どもは、すぐにヤコブの手紙を思い起こすのではないでしょうか。ヤコブの手紙の中心主題は、その第2章24節にあります。「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」これは、大変に有名な話ですが、教会の改革者マルチン・ルターは、このヤコブの手紙を、「藁の手紙」と申しました。聖書のなかで、もっとも価値の低いものという意味です。何故なら、ルターは、福音とは、信じる者すべてに救いをもたらす神の力であると信じているからです。彼は、「人はただイエス・キリストを信じる信仰のみによって救われる、これこそ、福音なのに、ヤコブの手紙はそれを否定するものだ」と、理解したからです。しかし、そうなるとルターは困ってしまうのではないかと思います。何故なら、使徒パウロもまた、「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。」と言って、ここでヤコブの主張を裏付けているからです。確かに、私どももまた、ルターと同じように、いえ、それ以上に、「人はただイエス・キリストを信じる信仰のみによって救われる」と確信しておりますし。これが福音の真髄であると理解しております。しかし、丁寧に考えなくてはならないのです。信仰によってのみ、神の御前で義とされる、救われるということと、行いによって救われるということは、実は、聖書のなかで相矛盾している教えなどではないのです。「聖書のなかにも、矛盾があるのだ」というような短絡的な考えを受け入れることはできません。
 
 「律法をもたない異邦人が、律法の命じるところを自然に行えば」と、パウロは言います。しかし、そこで、素朴に疑問が生じるのではないでしょうか。「いったい、異邦人であっても、神の御前に善き行い、正しい行いをすることができるとパウロは考えているのだろうか。」「例外的ではあっても、そのような可能性があって、信仰によらないで、その人の行いによって義とされる道があると使徒パウロは考えているだろうか」ということです。先ほどのルターは、ですから、当然でしょうが、ここでの異邦人をそのまま文字通りの異邦人とは理解しません。カール・バルトという神学者もまた同じです。彼は、はっきりと「ここでの異邦人とは、異邦人であるキリスト者のことを言っている」と理解します。神によって新しく創造されたキリスト者であれば、神の御心を行う意思、意欲が与えられ、自然に神に従うことへと進んでゆくと考えてのことであります。しかし、改革者カルバンは、こう言います。「ここでは、律法を成し遂げる力のことを言っているのではない。律法の認識について言っているのだ。」つまり、洋の東西を問わず、人の親であれば、自分の子どもに、これは悪いこと、これは良いことと、善悪の基準を教えるものと思います。人間には、そのような良心が与えられていて、悪いことをしているときは、通常、これは悪いことをしているのだと認識できているのということです。15節にこのようにあります。「こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」異邦人にも、未信者にも、良心が備わっていて、悪いことは悪いのだと認めることができるのです。その意味で、わたしは、カルバンの理解こそ、もっとも文脈にそったものであると考えます。

 実はこの議論は、既に、第18節以下の箇所でもなされました。「世界が作られたときからこの方、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」異邦人も、神が存在していることは分かる、理解できるということです。しかし、だからと言って、その神がいかなるお方であるのか、主イエス・キリストにおいて現れてくださったお方であることは、分かりません。そうであれば、ここでの議論も、神を知らない異邦人、神の御言葉を聞いたことがない異邦人であっても、神の律法を行いうるのかどうか、神の御前で、善き業をする異邦人が例外的ではあってもいるのだというような議論をしているわけではまったくないのです。

もとより、キリスト者でなくても、むしろキリスト者よりさらに、倫理的に高く、立派に生きている人の存在を私どもは知っているはずです。そして、わたしもそのような方を尊敬し、むしろ、自分のキリスト者としての生活、生き方を恥ずかしく思わされることも少なくないのです。
あるいは、ここで仏陀とか、孔子などの歴史上の偉大な人格と称される人物を出しても分かりやすいかもしれません。たとえば、人の生きる道を説いた中国の孔子などは、その論語に記された生きる道を、もしもその通りに孔子が生きたというのであれば、それは、きわめて高い倫理性をもった人と言わなければならないでしょう。論語の一説に有名な言葉があります。「子曰く、吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。」子どもたちもおりますので、解説しますと、「私は十五才で学問の道に入ろうと決めた。三十才で学問に対する基礎を確立した。四十才では、戸惑うことがなくなった。五十才では、天命を悟った。六十になっては、何を聞いても動じなくなった。ついに七十才になってからは、心のおもむくままに行動しても、道理を踏み外すことがなくなった」とこう言うのです。わたしは素直ではないのでしょうか。はたしてこれは、本当のことだろうかと思います。むしろ、仏陀のように、自分の罪深さ、煩悩の深さに悩んだ人の方が、本物らしい、深みがあると考えてしまいます。孔子が、「わたしは70歳になってからは、心の思うままに行動しても、道理から外れることはなくなった」と豪語したとき、厳しい言い方ですが、結局のところ、70歳になったとき、自分自身を道理、自分を律法・掟にしてしまったということに過ぎないのではないかと思います。パウロは、孔子のような人は、神の律法なしでも、神の御前で自然に行えるのだと考えているのでしょうか。断じてそうではありません。それは、第3章9節以下で、完膚なきまで否定されるのであります。
 
 パウロが、ここで指摘するのは、異邦人も律法なしに神に裁かれるということです。-ただし、わたしは、異邦人であってもユダヤ人であっても、神の裁きは公平で、正しいのですから、その行いに応じてかの日の審判は違うとも考えております。もとより、人間がその行いによって神に義とされる、天国に入れるなどとはまったく考えられません。-パウロがここで主張することは、唯一つです。ユダヤ人は、神の聖なる律法を与えられていても、それによって、自動的に神の祝福、神の救いを受けられると考えることは、間違っているということなのです。異邦人を引き合いにだしたのは、ユダヤ人より、行いに優れた異邦人もいるのだと、ユダヤ人の鼻柱を折るためではありません。実に、異邦人の罪もユダヤ人の罪も一つのこと、同じものなのです。しかも、どちらが罪深いかと言えば、ずばり、ユダヤ人であるというのです。なぜなら、彼らは、偶像礼拝をはっきりと禁じる掟を受けているからなのです。神の御言葉を聞いている、説教を聞いている人間が、聴いていない者より、その責任を深く問われるのは当然のことです。使徒ペトロの言葉を思い起こします。ペトロの手紙一第4章17節「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。」つまり、神の裁きは神の民、神の新しい家である教会から始まるのです。しかも、今、始まるのです。パウロは彼の福音に言うとおり、「人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日」それは、この世の終わりであるとたかをくくっているのは誤解です。今始まるのです。ここで始まるのです。

 異邦人ですら、神の正しい裁きを受けるのです。逃げ隠れできません。いわんや、神の民が裁きを受けるのは当然です。ユダヤ人は、自分は裁かれない、自分たちこそ裁くのだと考えていました。そのような罪がまさに頂点に達したのは、どこであったのでしょうか。それは、ユダヤ人イエスを彼らが十字架で、裁いたときでした。罪人の友として、生き抜いた方、彼らのために命の限りに愛し抜かれた主イエスを、ユダヤ人は裁き、断罪したのです。万死に値する罪であると断定したのです。そこに、彼らの罪がありました。

パウロは、今、その罪を糾弾し、断罪するのです。なぜ、それほどまでに徹底して彼らを裁くことができるのでしょうか。それは、他ならない、神の福音のなかで、主イエス・キリストと出会うことができたからです。主イエス・キリストの十字架の恵みのなかで、かつてキリスト者を裁き、迫害していた自分の罪ですら赦される道、赦されたことを知ったからです。ただ、このキリスト・イエスを信じる信仰によってです。パウロの福音とは、徹底して、赦しが勝つからです。パウロは、いかなる罪といえども、その行いによらずに、赦される道を、主イエス・キリストの十字架とお甦りにおいて知っているからです。思えば、ペトロもヤコブも、ユダヤ人。パウロもユダヤ人です。彼らは、自分たちの罪がキリストを十字架に殺したことを知らされたのです。しかも、他ならないその神が、実に、神を神としない罪、自分は高みに立って人を裁けるとうぬぼれる罪を、御子を十字架で裁き、断罪する、殺してしまうという方法で、赦してくださったからであります。

実に、これが「わたしの福音」パウロの福音なのです。そうであれば、「わたしの福音」とは、「このわたしの」福音でもあります。私どもは、四十にして迷い、六十にしてなお、動揺してしまうことがあるかもしれません。しかし、そんなことで、私どもの神の子、罪の赦しが揺るぐことは、ありえないと知っているのです。ですから、格好をつける必要もないのです。ただ、神の御前に砕かれ続け、それだけに真実の意味で謙遜にされることです。そして、しっかと立つのです。自分を宣伝するために立ち上がるのではない、この救い主、この福音を証するために立つのです。これが、キリスト者の証であります。

 神の正しい裁きは、今や、ご自身の正しい御子を十字架ではりつけること、断罪することにおいて明らかになりました。神の公平さとは、神御自身の側で、どれほどの犠牲を支払って成り立つものなのでしょうか。神の怒りも、正しさも、そして赦しも、御子イエス・キリストにおいてのみ、ある、成立するのです。そのことに気づくなら、私どもに新しい志が与えられるはずです。あなたもまた、「律法を行う者になりたい。」と言う欲求を持つはずです。隠れた事柄を隠そうとするのではなく、知っていただくこと、悔い改めることへと促されるはずです。そうであれば、ルターやバルトの誤解、ここでの異邦人とは異邦人キリスト者という解釈もまた、よく理解できるようになるのではないでしょうか。私どもは、聖霊によって律法の命じることを自然に行う新しい人間、作品とされたのです。もとより、そこには、戦いが伴います。自動的ではないのです。自分の内側からなにかしらの善き業、志が生じるのではありません。外から、神からの力、福音の力にあずかり続けること以外にありません。それが、教会の生活によってもたらされることは、言うまでもありません。ですから、今、そして今週も、家庭での祈りに励み、祈祷会へと急ぐのです。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、正しい裁きを、ご自身の正しい御子を殺される方法で、貫いて下さいました。その愛の御業、正義の御業で、私どもへの裁きは過ぎ越し、私どもは、赦されました。そればかりか、良い業に熱心に生きようとする欲望、欲求をも与えられました。心から感謝申し上げます。この恵みのうちに私どもを守り続け、成長させてください。どうぞ、私どもが、ここで断罪されている信仰者のように、思い上がって、他人を裁き、裁くぶんだけ、自分が神に近いものであると考えようとする偽善の罪から守って下さい。                     アーメン。