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「聖餐と教会-今日の教会の課題として-」(日本キリスト教団)

「聖餐と教会-今日の教会の課題として-」

2003年2月16日 2:00(15)~4:30(15)
日本キリスト教団愛知東地区教会・役員信徒研修会

於 日本キリスト教団 岡崎教会

日本キリスト改革派教会 名古屋岩の上伝道所 牧師(宣教教師)相馬伸郎

はじめに
 受洗教会は日本基督教団田浦教会。(1980)
 出身神学校は東京聖書学院(日本ホーリネス教団立、1988)
 最初の赴任地は、再洗礼派の背景を持つ、開拓教会。(88~94)
 単立名古屋岩の上教会の開拓。(94~98)
 同教会と共に日本キリスト改革派教会中部中会に加入し現在に至る。

教会を論じる前提、土俵としての事柄
1、制度としての教会と交わりとしての教会の聖霊における統合 教会を「制度」として捉えることにナイーブな日本の教会は、「交わりとしての教会」という側面を重んじる。ところが、その交わりとしての教会においてこそ、弱さを露呈し、紛糾、混乱を生じてしまうことが実に多い。それは、制度と交わりを「二分化」して考える弱さ(過ち)を克服しえないからである。敬虔主義的諸教会から、「教会の制度を強調すると霊的な命が枯渇する」と言う激しい主張が繰り返される。(一方最近、むしろ制度的教会への関心が、いわゆる福音派諸教会からも生じて来ているのも事実である。)
教会の「制度」は、すべて霊的なもの、つまり聖霊の働きの媒介となるものである。言わば、「霊的制度」である。霊的制度の整備を怠ったなら、教会の生命を継承し、伝達することにおいて齟齬を来たす。
古来、教会はキリストの主権、支配を確立するため、逆から言えば、人間の支配を排除するためにこそ、制度の整備に励んだ。制度がなければ、教会は人間的な集い、宗教集団、人間的共同体に転落するしかない。
   それ故、教会は、4~5世紀には、聖書の正典化と共にニカイア信条の受容がなされ、監督による教会統治がなされた。これは、決して教会の堕落でも、聖霊の働きの後退でもない。むしろここにこそ、教会を導かれた聖霊の足跡を見ることができる(し、そのような信仰の目が、聖霊の導きによって立つ教会にとって不可欠の眼差しである)。

2、まことの教会はどこにあるのか 
「使徒よりの唯一の聖なる公同教会」(ニカイア信条の告白)
信仰の様々な事柄を学ぶ際に、その大前提として、「真の教会」とは何か、それはどこにあるのかという本質的な議論なしには、おそらくすべては実体が不確かとなり、空虚な営みにならざるをえないであろう。単純素朴に、教会生活を送っているキリスト者にとって、自分の所属する日本キリスト教団○○教会は自明の存在かもしれない。けれども、その教会が本当に、聖書の信仰、教会の教えの筋道にかなっているのかどうかに関心を注ぐことは極めて重要なことなのである。なぜなら、真の教会なしに、真の救いはありえないからである。キリストの臨在が確かな礼拝式(本物のキリストの教会)でなければ、私どもの救いは不確かなものとなり、主観的な事柄に貶められてしまわざるをえない。
わたしの仕える日本キリスト改革派教会は、戦後いち早く、教団を離脱した。それの志、目標は、「目に見えない教会」つまり「公同の教会」を、地上において「目に見える教会」として具現し、これをもって、唯一の聖なる公同教会の枝である事実を確信させられ、自分達の救いの確かさを立証することを願ってのことであると、その、創立宣言に記されている。

古より、真の教会は、使徒性・唯一性・聖性・公同性の四つの性質を保持すると信じられてきた。これを「教会の標識」と呼ぶ。使徒性以外は、目に見えない。使徒性とは、使徒よりの教え、神の御言葉を正しく継承していることである。ここでこそ、聖書が光彩を放つ。使徒性によって、唯一性、聖性、公同性は顕在化させられる。またそのような「教会の標識」は「教会成立の要件」という言い方でも説明しうる。使徒性をどのように明らかにしうるのかという筋道である。それを「正典・信条・職制」教会成立の三要件と言う。
 
 正典(〈キャノン〉、旧新約聖書66巻、絶対的規範)・聖書66巻を、「キリストを証し」(機能)する「神の言葉」(本質)として信じ、信仰と生活の唯一の規範(権威)とする。
 信条(〈クレドー〉、ニカイア信条・カルケドン信条・使徒信条、規範される規範)・記された神の言葉である聖書の解釈基準としての基本信条を受け入れる。
 職制(〈オルドー〉、教会政治、教会規則、教職制度)・今ここで、神の言葉を語る人を教会が立て、キリストの支配、キリストの福音を現在化させるための制度(教会政治{長老主義政治・監督主義政治・会衆主義政治}、教会規則{教会憲法・政治基準・礼拝指針}、教職制度{招聘制度・任命制度})
教会は聖霊の支配と導きの中で、この三つを整備、整頓した。いずれも、「生ける唯一の神の言葉イエス・キリスト御自身」を証言するものである。  
何故、その必要があったのか。それは、罪の赦しの福音の確かさを保障するためであり、キリスト臨在の礼拝を成立させるために他ならない。つまり、これらすべては霊的な要件(要素)である。同時にまた、教会の成立の要件たる三つは、礼拝式の成立、確立の要件しても完全に一致する。つまり、公同の教会とはキリストの臨在を保障する礼拝式によって実現する。キリストの臨在(現臨)の確かさ抜きにして、我々の救い(罪の赦し)は空虚であり、主観に過ぎなくなる。この三つはそれぞれ、主イエス・キリストの臨在を証しし、キリストと結び合わせる通路として機能する。

 歴史的なキリスト教会は、この三つの整頓なくして存続しえなかった。つまり、「教会の伝統」(福音的伝統、教会の信仰)は、この三つによって担われ、継承されたのである。実に、教会にとって根本的、決定的に大切であり、その生命維持、継承にとって、まさに不可欠のものである。ローマ・カトリック教会も東方諸教会も、もちろん福音主義諸教会も、およそ公同の教会に連なることを教会の生命線として認識するほどの教会は、いずれもこの三つの要件を具備する。まさに公同教会につらなるための要件である。
  ところが、再洗礼派、無教会に代表される無信条的教会、非制度的教会や、敬虔主義的教会は、「聖書だけ」ですべては解決できると空想する。おしなべて日本の教会は、この三つについてあまりにもナイーブと言える。しかしこのスタートラインにきちんと立てないと、教会形成は実らない。これが、教会形成の営みの土俵。この土俵の外では教会的な議論は不毛となるし、ここでお話できるのも、この土俵のお陰である。

3、教会のしるし (宗教改革時代の諸信仰告白による定義) 「教会とは、聖徒の交わりであり、説教が正しく語られ聴かれ、聖礼典が正しく執行され受領されるところに存在する。」
(アウグスブルク信仰告白より(ルター派信条)・ 《ちなみに改革派教会は、この二つに、正しい戒規(教会訓練)の執行を加える。》)
 その後、宗教改革においては、礼拝の改革、キリストの臨在、罪の赦しの福音の確かさを立証するために、ローマ・カトリック教会と戦った。その際に改めて真の教会はどこにあるのかを言い表したのが、上記「教会のしるし」論である。この伝統を継承し、これに生かされているのが、我々、福音主義教会である。「改革された教会」は、教理の整備と体得に全力を注いだ。実に、教理の整備こそ、教会を人間の支配から解放し、キリストの支配、主権を確立させるための自由の戦いなのである。その意味で、教理の整備、信仰の告白は、教会が地上に生きてある限り決して途絶させてはならない営みであり、教会の存在証明とすら言える。(「御言葉によって絶えず改革される教会」=改革派教会)

4、人間の理にかなう教会 神の理にかなった教会
 教会が、もしもこのような制度や教理の整頓をないがしろにするなら、教会において幅を利かせるのは、この世的な常識、哲学、わがまま、自己主張、力関係である。「神の教会」は、人間の「理」に合わせて形成する事は不可能であるし、してはならない。神の教会は、「神の理」にかなって形成されなければならない。この神の理にかなう筋道を明らかにするために整えられた教会の教え、聖書の信仰を「教理」と呼んでも良い。それ故、教理の体得なくして、キリストの真の支配を確立することも、私どもが正しく教会に生き、仕えることもできない。それに無頓着であれば、教会は自然と人間(の力、の知恵、の好悪・・・)の支配に転落せざるをえないであろう。結局、「神の教会」の形成としての実りを結ぶ事はできない。

聖餐と教会
① 今、何故、「聖餐」なのか
上記の通り、我々は、ローマ・カトリック教会に対して、「教会のしるし」論をもって、自らの使徒性、公同性を主張した。宗教改革者の確信は、説教と聖餐の正しい執行と受領なしに真の礼拝式、公同の礼拝は存在しえないということであった。教会は礼拝(祈り)の家であり、それゆえ正しい礼拝なしに教会は存在し得ず、礼拝なしにキリストとの交わりもありえない。
おそらく、我々の教会の礼拝堂の中心位置には、聖餐卓が設置されているのではないかと思う。つまり、聖餐によって教会は形成され、聖餐が与える恵みによって教会は存在し、生きることを、教会は視覚的にも表現していると言えよう。そして、それはまさに古よりの教会の自己理解であったし、そのような恵みの経験を積み重ねて来たからなのである。
 ところが、今日の教会の中で、急速にこの聖餐を巡って混乱が生じて来た。それは、日本キリスト教団の中で顕在化し、激しい議論が起こっていると伺っている。未受洗者の陪餐容認問題である。いわく、「伝道の進展のためには、受けたいと願う誰でも食することを可能にすべきである。洗礼受領の有無によって、聖餐の交わりから疎外することは、差別である」というような議論である。教区、地区によれば、それを推進(容認)する牧師が過半数をしめるところがあるとも言う・・・。この議論こそは、教会がその存在を賭けて議論すべき主題である。何故なら、この問題は、教会の生命そのもの、教会の存亡に関わるからである。自分達の救いそのものに関わる根源的問題なのである。もし、そのことに気づかない、あるいはそのように理解できないのであれば、まさに死の危機に瀕していることが明らかになっていると言わざるを得ない。それ故に、今、聖餐について聖書の信仰と教会の伝統から、正しい認識を深めることが焦眉の急なのである。
以下、議論の筋道は整理されておらず心苦しいが、思いつくままに聖餐を巡って考えたい。

② 聖餐の理解を巡っての歴史的議論
 最初に、歴史を振り返れば、聖餐を巡っての激しい議論は、福音主義教会をルター派と改革派に二分する教派の発生の端緒を開いた事であったことにすぐ気づかされる。ある人々は、それ故に、そのような神学議論そのものを重んじない方向にベクトルを向ける。しかし、そのような激しい議論をすることは、極めて大切なことである。コリントの信徒への手紙Ⅰの中で、使徒パウロは聖餐を巡って激しい議論をしている。「あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。」(11:19)真理に対する議論は教会の生命線であり、これを重ねない教会は、「真理の柱」としての教会たる志を弱くし、失っている危険性すらあるであろう。(ただし、筆者は、結果としてのルター派と改革教会との二分裂を悲しむ。)
聖餐におけるキリストの臨在のあり方を問う激しい議論を簡単に、振り返る。

 ① ローマ・カトリック教会は、パンとぶどう酒がキリストの肉と血に変化すると言う。(実体変化説、化体説)(蛇足であるが、この変化は、目に見える品(形態)の変化ではない。むしろ1215年のラテラノ会議(化体説の確定)の狙いは、そのような迷信を打破するためでもあった。しかし、ローマ教会は、実体とは何か、その変化とはいかなることかを教会として明らかにしないままである。不誠実、狡知の謗りを受けてもやむを得まい。)(我々がこの点を批判するより、むしろ、ミサ理解、つまり、聖餐を神への奉献とするあり方こそが、聖書の信仰からの逸脱として批判するほうが、有効性があるのではないかと思われる。)
 
 ② ルター派は、パンとぶどう酒の中にキリストの人性と神性とが同時に臨在すると言う。(共在説「キリストを食べる」と言う表現。)

 ③ それに対して、ツヴィングリ(改革派)は、聖餐はキリストの体にあずかるのではなく、十字架の恵みの記念をするのであり、パンとぶどう酒は「記念」とする。(象徴説)

 ④ 当然のごとく、この両者では、一致点、妥協点は探れないので分裂  (マールブルク会談〈1529年〉の決裂)が起こった。
 
 ⑤ 後にカルバンが登場し、やがて彼の聖餐理解が改革派の聖餐理解として受け入れられる。(チューリッヒ一致信条〈1551年〉、改革派教会の成立)  カルバンはルターと同じように、聖餐によってキリストの体と血にあずかると理解する。しかし、彼は「しるし」(物素)と「事柄」(しるしが示すもの、=キリストとの結合、交わり)をきちんと分ける。つまり、カルバンの聖餐理解は、「パンとぶどう酒と共に聖霊においてキリストの臨在がある」(霊的臨在説)とする。(・・・両者の違いはキリスト論の違いに基く。つまり、前者が「属性(人性と神性)の交流」を強調する立場であり、後者が「混合せず、分離せず」(カルケドン信条)を強調する立場に立っているから。)
 以上が大まかな内容であるが、ここで明らかになっている事は、いずれも、聖餐を「聖礼典」(サクラメント)として受け入れていると言うことである。ところが、上記のように今日の教会の中に、礼典としての聖餐理解をとらない教会が増えている。しかしそうなるとこれは、教派の対立という次元の問題ではなく、使徒的、公同的教会であるか否かという大前提の問題とならざるをえない。ローマ・カトリック教会や東方の諸教会からはもち論、福音主義諸教会からも、果たして教会として看做しうるのかと言う、根本的な疑義が投げかけられる事になるのではないか。宗教改革によって成立した我々の教会の中から、今日そのような主張がなされていることは、由々しい事態と言わねばなるまい。

③ 聖礼典の本質
聖餐においてキリストの臨在のあり方をめぐっての対立を学んで、今日の我々からは、このような意見が出るかもしれない。「難しい議論なら、むしろ先送りして、協力を進めたら良いではないか、少々の違いなら、仲良く乗り越えて一致することの方が得策ではないか・・・。」
キリストの臨在のあり方を問う事は、救いの確かさ、つまり「罪の赦し」の確かさ、その権威を巡る問題に他ならない。そして、その救いの「事態」とは、「主イエス・キリストとの結合(交わり)」に他ならない。(これこそ、カルバンの救済理解であり、改革派の救済論の要諦である)実に、聖礼典とは、「救い(罪の赦し)の確かさ(権威)」、つまり「キリストとの結合(交わり)」を確立(表し、保障し、しるしづける)することにあるのである。それゆえに、聖礼典の問題は、キリストが確実に現臨されておられるのか、私どもが主イエス・キリストと真に結ばれているのかいないのかを問うことであり、我々の永遠、生き死にに関わる、究極の問い、課題となる。
どのような教派的立場に立つとしても、キリストの臨在、キリストとの結合なしに礼拝式は成り立たない。救いは達成されない。蛇足ながら、その際注意したいのは、このキリストの救いの御業の確かさをめぐる議論は、ただ、キリストの救いの御業への賛美と頌栄の心、神に栄光を帰するためにのみ行なうべきものであって、決して分派的精神によってなされてはならない。

④ 聖餐とキリストの御業
聖餐は、キリストの御業、何よりも十字架上で成就された唯一の犠牲を指し示す。キリストの成就された御業に我々の祝福のすべてがかかっている。説教も聖餐もこの事実を集中的に証しするものである。我々が、礼拝式において想起し、あずかるのは、このキリストの御業によって獲得された贖いの恵みのすべてであり、臨在のキリスト御自身である。
ここでは、多言を控え、聖餐の礼典をもっともコンパクトに感動的にまとめている文書と思われるハイデルベルク信仰問答問い75を引用し、聖餐とキリストの御業との関係を改めて確認したい。
「問い75 あなたは聖晩餐において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲とそのすべての益にあずかっていることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか。
答え   次のようにです。キリストは御自身を記念するため、この裂かれたパンから食べ、この杯から飲むようにとわたしと全ての信徒にお命じになりましたが、その時こう約束なさいました。
第一に、この方の体が確かにわたしのために十字架上でささげられ、また引き裂かれ、その血がわたしのために流された、ということ。
それは、主のパンがわたしのために裂かれ、杯がわたしのために分け与えられるのを、わたしが目の当たりにしているのと同様に確実である、ということ。
第二に、この方御自身が、その十字架につけられたからだと流された血とをもって、確かに永遠の命へと私の魂を養い、また潤してくださる、ということ。
それは、キリストの体と血との確かなしるしとして、わたしに与えられた、主のパンと杯とを、わたしが奉仕者の手から受け、また実際に食べるのと同様に確実である、ということです。」

⑤ 聖餐と受肉の体
 聖礼典はそもそもキリストの「受肉」なしに成り立たない。「教会はキリストの体」(エフェソの信徒への手紙)であり、キリストの受肉の神秘、秘儀によって与えられた「御体」こそが、教会の根拠であり、聖礼典の根拠である。キリストの体との霊的な結合のしるし、証印が聖礼典なのである。「受肉」は神秘そのものであり、教会の存在はその神秘に拠って成り立ち、常に新しくその神秘にあずかり続けることによって、この世にあって、神秘の存在となる。教会はその神秘を証しするために召されている。この神秘は、世界に対して、救いと審きを告げる働きを担う。世界の中に、この神秘はなく、この神秘なしに救いは与えられない故に、世界はどのように自らを飾り立てても教会の代替になり得ない。つまり、世界の限界を告げる。それは、一方で世界への正しい審きを告げることであると同時に、他方、教会も世界に向かって、絶えず自らを開き、自らへと招き入れる。さらにまた、世界が教会にならうべきように告げる。しかし反対に、教会も世界の代理となることは不可能であることを覚えさせられる。
 
 教会がキリストの受肉によって獲得されたキリストの御体であると言う信仰、この神秘(神秘に対する感覚、信仰)を失ったとき、教会は「キリストの体なる教会」ではなく、単なるキリスト教的「宗教団体」、キリスト教愛好者クラブになる。この神秘性を失った教会は、既に聖礼典の正しい執行と受領を失っている。聖礼典の正しい執行と受領なしに、教会の健やかさ、教会の実質は失われているのである。この神秘性は、正しい受領(信仰による受領)によって与えら、養われる。
 さらに言えば、もしも教会が「聖礼典的な神秘性」ではない神秘性、例えば、聖人崇拝、聖遺物崇拝、あるいは、癒しの奇跡、不思議な業の実演、商売繁盛・・・を、「自ら」帯びようとするときには、むしろ教会の聖さを損ない、教会を人間的宗教集団として貶めている。偽りの神秘となっている。

⑥ 洗礼と聖餐の共通点と違い
 洗礼も聖餐も、キリストの受肉、その御体に根拠を持ち、真の神であり真の人となられた(受肉された)キリストとの結合の祝福にあずからせられることである。つまり、キリストの受肉の御体なしに、ありえない。また、その目的は、神・人キリストとの結合であり、それは、キリストの御体なる教会の形成である。
 洗礼は、キリストが獲得された贖いの恵みを受けていること、それは、「キリストの体と結ばれている」と言うほど徹底した、確かな恵みであることを「しるし」づけ「証印」するために施される一回限りの聖礼典である。この聖礼典は、教会の信仰(教会が生み出した信仰告白、信条)を受け入れ、告白する「個人」に、教会が選び立てた(正)教師によって施される。
 聖餐は、洗礼によって与えられた絆を更新し、深めるために、主が再び来られるまで繰り返し執行される聖礼典である。通常、受領者は一人ではなく、教会の共同体と共に、礼拝式のなかで受領する。それは、洗礼が教会共同体の教えを受け入れ、その共同体の一員とされることであったとまったく同じである。聖餐も、教会共同体がキリストのからだであり、自らはその一枝であることを悟らせ、その「キリストにある相互の交わり」の絆を深めるための教会の礼典である故に、個人的な聖礼典の受領は、礼典の恵みを損なう危険性をはらむ。

⑦ 聖餐と聖霊
 礼典の効力は、どこにあるのかと言う問いを巡って、宗教改革者は、ローマ・カトリック教会と論争した。人効説(エクス・オペレ・オペランティス=「なす者の行為によって」礼典の効力は礼典執行者の状態に依存する。)も事効説(エクス・オペレ・オペラト=「なされた行為から」効力は礼典そのものにある。トリエント総会議16世紀に確定)も斥けた。
我々は、礼典の効力を、ただ聖霊のお働きとこれを制定されたキリスト御自身の祝福にのみ(ウエストミンスター大教理問答問161)認めている。それゆえに、これは、聖霊を受領した信仰者によってのみ受領されなければならない。幼児洗礼受領者は、教会共同体とその親に与えられている聖霊の恵みとキリストの契約のゆえに施されている。しかし、幼児受洗者は、聖霊によって信仰を告白するまで、聖餐受領は引き止められる。ここにも、礼典を人効としても事効としても理解しない我々の立場が確認できるはずである。
加えて言えば、礼典は、「恵みの(外的)手段、【御言葉・聖礼典・祈祷】」(ウエストミンスター大・小教理問答 問154・問88)の一つである。聖霊は、この三つの(外的)手段を用いて、キリストの贖いにともなう様々な祝福を分かち与えてくださる。この外的手段は聖霊の通路であるゆえに、これを受けるのは、聖霊の賜物としての信仰(内的手段)である。しかも、その信仰を起こし、堅くするのも三つの手段を通しての聖霊の働きによる。(ハイデルベルク信仰問答問65)
 つまり、信仰によって、聖霊なる御神を待ち望む祈りの内に、執行され受領されるのが聖礼典なのである。信仰なき者の聖礼典受領(未受洗者も信じているなら受けられると言う議論は、「信じている」という主観は、教会の信仰告白の受容のしるしとしての洗礼によって客観化、証明されなければならない。)は、空虚であるばかりか、神の制定された恵みを受ける手段を軽んじ、損なう罪といわざるを得ない。
 聖霊はキリストの御霊である。キリストは天におられるが、地上の我々に御霊を注いでくださることによって、キリストの御体と一つとしてくださる。ハイデルベルク信仰問答問76に「主は天にいまし、われわれは地上にいるのではありますが、しかもなお、われらの肉の肉、骨の骨となって、一つ霊によって(あたかも、われわれのからだのえだえだが一つの魂になっているように)永遠に、生き、支配されるようになる」とある通りである。この文言には、アダムのエバへの愛の歌を想起させられる。そのように、主イエスが私どもを花嫁として全人格的に受け入れ、愛し、喜びの叫びをすら挙げていてくださる事が明らかにされている。(ハイデルベルク信仰問答が、自らの救いの事態を表現する一つの結晶と言えるであろう。問い1で、唯一の慰めは、「わたしが、身も魂も、生きているときも、死ぬときも、わたしのものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものである」とされていることと言い表されている。)実に、聖餐の恵みとは、救いの事態、つまりこのキリストとの結合の事態を目に見え、体に味わえるような確かな仕方で、説得し、証拠付け、保障する恵みの手段、聖礼典である。パンとぶどうのジュースは、聖霊のお働きの中で、信仰における霊の真の食物、飲み物として機能させられているのである。しかもこの食べ物は主イエス・キリスト御自身であり、主が成し遂げてくださった御業、獲得された義そのものである。まことに聖餐に正しくあずかる者は、恵みによって、キリストを得ているのである。

⑧ 聖餐と説教
 説教は、聖餐と共に、「恵みの手段」である。しかも、その目的は、聖餐のそれとまったく一つのこと、ひとつの課題を担っている。キリストの贖罪の御業である。説教の課題の認識が不明瞭、間違っていれば、そこでなされる説教は、礼拝式を成立させる説教、正しい説教とはなり得ない。それ故に、聖餐の理解と実践の乱れは即、説教の言葉の乱れ、説教における福音の不明瞭さをもたらさざるを得ない。説教の課題、目的が、「キリストの臨在に仕える」という理解から逸脱すれば、そこで何をする事になるのか。聖書の「文字の説明」、「教えの説明」だけとなり(勿論、これらの説明は必要である)、果ては説教者の個人的感想、キリスト教的思想の開陳、宗教的欲求、宗教的興奮、満足感を満たす手段へと転落しかねないのではないか。
 実に、聖餐の乱れは、単に、聖餐式の乱れに留まらず、教会の営みのすべての乱れになるのである。説教も牧会・教会戒規(訓練)も聖餐において起こっている現実、与えられる霊的祝福、すなわちキリストとの結合を目指してなされる営みなのである。その意味で聖餐こそ、教会形成の土台であり、力の源泉であり、その目標を明らかにすることとなる。
 そうであれば、聖餐の食卓を囲むイメージが、我々の礼拝堂のあるべき姿であろう。説教卓と聖餐卓を礼拝堂において、どのように設置するのかは、礼拝式の充実のために枝葉のことではないであろう。いずれにしろ、聖餐を重んじることなしに、地上にあって目に見える教会は形成し得ない。それは教派の個性、強調によるというようなことでは全くない。真の聖餐を失うとき、キリストの臨在の確かさ、つまり救いの確かさを、教会を失うこととならざるをえないのである。
 救いの制度、機関としての教会に対しての関心が低い教会が何故、聖餐への関心をも失うのかということは、以上のことからも明らかにされよう。つまり、「キリストの救い」、罪の赦しの恵みの確かさ(その客観性)を軽んじているからに他ならない。キリストの臨在を保障するための制度の整頓を軽んじる非制度的教会、非信条的教会は、結局、福音の言葉そのものも、不明瞭にしか発音できなくなるのではないか。

⑨ 聖餐と牧会 
 最近の新聞で、東本願寺がその末寺に、人々の悩み、苦しみを救済するために活動していることをアッピールするように看板を掲示するよう指導したと言う。さらに、悩みを抱いて訪ねる人々を解決に導くための「マニュアル」を作って配布したと言う。ところが、多くの寺、僧侶たちから「自分には出来ない、むしろ自分自身が悩みを抱えている」という応答があったのだと言う。
現在、教団出版局から「牧会の歴史」と言う書物がシリーズで刊行されている。日本の教会において、牧会についての理解が深められて来ている。幸いなことである。教会がその会員に対して「魂の配慮」(牧会)をすることは、常識である。それなら、自分自身は牧会されているのか、牧師は牧会をどのように理解しているのかが問われる。言うまでもなく、仏教も、「牧会」を行なう。(現実は上記の体たらくではあるが。)優れた宗教家たちは、心の深淵、魂の深みを課題にした。しかし、今日、人々から重宝がられ、尊敬されている牧会者は、心理カウンセラーや精神科医かもしれない。彼らはその「技術」、「投薬」で悩みに沈み、病んで行く人を立ち上がらせる助けをする。
それなら、私ども牧師は、そこで何をするのか。しかし、その前に確認すべきは、我々、福音主義教会は、「牧会」を牧師の専任事項とする理解を放棄したことである。いわゆる「全信徒祭司性」の主張である。キリスト者は、お互いのために祭司であるし、そう実践することが求められる。そこでこそ、正しい牧会(魂の配慮)とは何かが問われるべきである。
牧会とは、救いの事態そのものである、キリストとの交わりの恵み、キリストのものとされている慰め(ハイデルバルク信仰問答問1)へと立ち返らせ、あずからせ、深めさせるために営む、個別的な、御言葉による魂への配慮である。そうであれば、一体、聖餐を軽んじている教会や牧師であれば、そこでなされる牧会の内実は、宙に浮いてしまわざるを得ないであろう。良くて、仏教の僧侶、心理カウンセラーのように、生きる知恵、問題解決の手助けをすることができようが、(悪くすると、共倒れとなる・・・)それでは、我々からすれば、空虚と言わざるを得まい。
 聖餐は、教会の牧会を常に正し、牧会は、常に聖餐を目指すのである。改革教会が「戒規」を「教会訓練」として理解し、聖餐にふさわしく教会員を整えるための営みと理解したことは、真に正しいと言い得るであろう。聖餐の乱れは、真の牧会の喪失を意味する。世俗のカウンセラー、宗教者の「牧会(心のケアー、魂の配慮)」では、「救い」にはならないのである。

⑩ 聖餐と伝道
 聖餐を軽んじる教会は、自分の「救い」に無関心となっているゆえに、隣人の救いにも無関心、いいかげんにならざるを得ない。そこでは、自覚しようがしまいが、教会の命が枯渇し、教会形成、伝道、訓練の目標を見失い、空を打つ拳闘をし、空虚に終わる。その空虚さを、この世の事業、活動に熱中して自己満足するのであれば、教会は世界の中で、「空虚」「無駄」(コリントの信徒への手紙Ⅰ15:14)な存在になるのではないか。
 聖餐を重んじ、聖餐によって築かれるキリスト者の交わりを重んじる教会は、世界の中に、キリストの現臨が鮮やかに示されるゆえに、「キリストの主権」、「キリストの支配」を豊かに映しだすことができる。この交わりは目に見え、輪郭がはっきりさせられる。神がこの世にこのような輪郭を与えてくださる。それは、かつての律法学者、パリサイ派のように教会をゲットー化することではない。むしろ、輪郭を明らかにする事によって、神の国の到来を告げ、もってこの世を「この世」として自覚せしめ、教会へと招くためなのである。この輪郭を鮮明にする事が教会形成であり、それに励む教会は必ず、その領域の拡大のために勤しむ。それが伝道である。地の果てまで、「キリスト支配」、つまり神の国の到来を告げ、福音を告げ、教会へと招きいれるのが聖餐を正しく祝う教会の姿である。(「聖餐と受肉」を参照)
この世との違いの線、キリストの支配に喜んで服し、その確立を目指して全力で励む共同体と人間(自己)の支配に服し、その確立に全力を傾ける、この世とはまったく存在のあり方が違うことを証しする事ができなければ、教会はこの世にあって使命に生きることができない。このような理解に立てば、洗礼を聖餐も、教会の教え(信仰告白)を受け入れ、その信仰上の意義を弁えていることが受領の条件とされることは当然と言わねばならない。信仰なき者を、聖餐に招く事は、決してキリストの愛を証しすることではなく、むしろ、キリストの御体を弁えないで飲み食いすることを勧めること、つまり神の怒りと審きを増し加えることに加担することである。聖礼典を制定されたキリスト御自身の意図、恵みの契約のしるし、証印を無意味、空虚にすることである。

⑪ 聖餐と教会形成 
 教会形成とは、「目に見えない教会」(使徒的公同的教会、天上の教会)を「目に見える教会」として具現することである。(日本キリスト改革派教会創立宣言より)主イエス・キリストの受肉の体と地上に打ち立てられた教会は輪郭を持つ。この輪郭を際立たせることが、目に見える我々の教会形成に他ならない。
 我々が救われた目的は、地上において教会形成に仕えるためである。それは、決して教職や役員だけの課題ではない。キリスト者全員の共通の使命である。信徒職務者は、信徒として、教会形成に仕える。それは、教会の中だけで生きることによって果たされるわけではない。教会が世界に遣わされた使命をその与えられた立場、賜物において担う。
 そもそも、教会は「聖徒の交わり」(使徒信条)として告白されている。教会の本質は、聖徒つまり、「キリスト者相互の交わり」と言うことである。加えて言えば、良く知られたことであるが、聖徒の交わりというラテン語原文によれば、「聖なるものによる交わり」とも訳す事ができると言われる。聖なるものを共有し、分け合うことによって造られる交わり、共同体が教会と言うことになる。聖なるものとは、まさにキリスト御自身を指す言葉として理解できるが、我々は同時に、聖餐の食物、飲み物をもここで思い起こすことができるであろう。まさに、教会は古より、自らは聖餐によって形成されること、聖餐の食卓の交わりこそ、教会の交わりそのものとして理解したのである。それゆえに、礼拝堂内部構成は、主の食卓をその中心に設置(祭壇と)した。聖餐執行こそ、礼拝の歴史の源にあると言われている。
 神の言葉は目に見えない。しかし、聖餐は「目に見える神の言葉」と言われる。この聖餐を祝うときこそ、地上において教会は目に見える共同体となりうる。「聖礼典は教会に属する者とこの世の他の者との間に目に見える区別をつける。」(ウエストミンスター信仰告白第27章1節、ハイデルベルク信仰問答問74・82参照)のである。さらに、「公同的教会の枝である個々の教会はそこで福音の教理が受け入れられ、諸規定が執行され、公的礼拝が行なわれる純粋さに応じて、より純粋な場合もあればそれほどでもない場合もある。(純粋さに相違がある)」(ウエストミンスター信仰告白第25章4節より、松谷訳より)とも言われる。そうであれば、この純粋さ、その徹底性が教会の輪郭を鮮明にするための筋道となると言えよう。
 このように、我々の教会理解とは、「聖餐共同体」として言い表せる。教会が教会となるために、主イエスこそが、聖餐の祝いを与えたもうた。聖餐によって、キリストとの結合が与えられ、それは、同時に、キリスト者同士の結合をも表す。「主の体のことをわきまえないで飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしている」(コリントの信徒への手紙Ⅰ第11章29節)その「主の体」とは、キリストの体なる教会のことであり、兄弟姉妹の交わり、聖徒の交わりを意味している。それゆえに、兄弟への愛、祈りを忘れたところで個人的に聖餐にあずかって恵みを受けようとするなら、聖餐の礼典を正しく受領することにならないのは明らか過ぎるほどである。(「洗礼と聖餐」を参照)
 洗礼も聖餐もその執行の主体は、キリストの体、教会共同体である。教会が正規の手続きを経て任職(按手)した教師(牧師)のみが執行するのである。厳密には、教師個人(人格)に権威があるのではない。そこでも、洗礼入会式の際、試問をする主体は、牧師個人であってはならず(日本キリスト改革派教会では、伝道所の場合、法治権を中会が教師に委託しているという理解のもと、教師個人がなす)教会の役員会における試問がなされなければならない。
いずれにしても聖礼典執行が「教会共同体形成のため」になされ、その一枝としての個人に祝福が注がれるという順序をわきまえること、個人主義的な礼典受領などということは決して考えられないことをきちんと弁える事が今日の教会の基本的な課題である。

終りに
―「祈りの法則が信仰の法則となる」・「教理の体得を目指そう」―
 最初に述べたとおり、「聖書の信仰」を「正典」つまり「教会の信仰」として受け入れるための集中的戦いは、2~4世紀末までになされた。4世紀末に至って、教会の教理的自己同定は一応の完成を見ることができた。つまり、「三位一体論」「二性一人格論(キリストは真の神であり真の人である)」が確立し、教会成立の三要件は整頓された。
この間、聖霊の神性を認めることにおいて疑義を唱える教会、監督は少なくなかった。しかし、自らが施してきた洗礼式や捧げて来た主日礼拝式の定式(リタージ)において、聖霊の神性を告白するものが、既に広範な教会に支持されていたのである。もしも、この礼拝式の定式(法則)がなければ、教会は自らの教え(法則)を確定することは困難であったとも言えるのである。「祈りの法則が信仰の法則を生む」(レックス・オランディー エト レックス・クレデンディー)と言う古代教会以来の教会の歴史的真実と確信を示す言葉は、現代の我々においてこそ、改めて思い起こされるべきである。
教会生活が長くなってくると、つくづく我々は、聖書の信仰の理解と体験とは、毎週捧げる礼拝式とその習慣(典礼・リタージ)によってこそ、深められ、更新されてきたという「実感」を持つのではないだろうか。我々は、主の日の礼拝式を中心にした教会生活、教会体験を重ねる中でこそ、洗礼、聖餐の聖礼典が礼拝式とキリスト者の生活にとって極めて重要な要素であることを、体験的に教えられてきたのではないかと思う。
 神秘をとらえる感性はまた、福音の真偽を見抜く、正邪の判定の知恵と重なる。例えば、我々の多くは、三一の神を「上手に」説明できない。しかし、ある教えが、三一の神への信仰に基づくものであるか、偽の信仰によるものかどうかを判定することは容易にできる。これこそ、信仰の感性にもとづく判断であり、健やかな礼拝生活を重ねたキリスト者の実力(正確に言えば、聖霊による礼拝式の実力であろう)である。信仰の感性を磨いた信徒であれば、時に、ある種の牧師以上に福音の真理への正しい応答と判定を下す事が出来るとすら言いうる。               
 ところが、今日の教会の聖餐を巡る混乱によって、まさに、この幸いな「祈りの法則」に基く「教会的体験・福音理解の道のり」の伝統が、大きく揺らいできている、瀕死状態にあるとすら言いうるかもしれない。
 これこそ、我々の教会が置かれている現実であり、課題である。この課題を克服するためには、順序を逆にして、「信仰の法則」を改めて学びなおすことによって、正しい礼拝式の整頓を目指すべきであろうし、それによってなしえる。

 実に、今日の我々の教会の課題の急所は、
◆ 「信仰の法則」とは、「聖書の信仰」(聖書が告白する信仰)」を「教会の信仰」として受け止めるためになされて来た古代教会以来の営みの成果であり、これによって、教会の自己同定は確立したこと。
◆ しかも、この営みは、絶えず鮮明にするために継続されなければならないこと。(御言葉によって絶えず改革される教会)
◆ この果実は、継承されることによって、歴史を越えて保持され、これが教会の生命の伝統であり、この伝統に生きること。
◆ この伝統の内実、すなわち「教会の信仰」を明らかにするものこそが実に「教理」(信仰告白諸文書)に他ならないこと。これらをわきまえることである。
⇒ それ故、聖餐の正しい執行と受領のために、何よりも、教会の再興は、ひとえに、正しい「教理の体得」にかっかっていると言わざるをえないのである。
  
   
 上述のように、神の「理」にかなった仕方で、こつこつと、主日礼拝式(聖餐)を正しく豊かに捧げて行くことに集中してまいること、これこそ、緊急の、しかも時代を越えた、教会の本質的課題であり使命であろう。
21世紀の日本と教会のために、力をあわせてこの道を皆様と共に進んでまいりたい。 
         Soli Deo Gloria!