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「外面ではなく、内面を見られる神」

「外面ではなく、内面を見られる神」                     2005年3月20日
        招  詞 詩篇 第51篇18-19節
        テキスト ローマの信徒への手紙 第2章17節-29節
「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」 

皆さんは、落雷をご覧になるのは、お好きでしょうか。滝ノ水に引っ越してまいりまして、この場所は、まさに高台ですから、2階の南側からは、見晴らしが良いのです。ですから、落雷の時には、その様子がよく見て取れます。窓の外の落雷は、その雷鳴などは、怖いほどです。なによりも、電気製品に悪影響も受けることもありました。しかしときに、自然現象の美しさに魅入る思いをも持つこともあります。

今、私どもが耳に致しました使徒パウロの言葉、その内容を読んで最初に浮かんだイメージは、雷でした。しかも、それは家の中からのんきに、窓の外を眺めているようなものではありません。自分が、広い野原で、滝ノ水公園の天辺で、雷立て続けに落ちるその現場に立ち会っているようなイメージです。雷を直接に受ければ、即死するのではないでしょうか。教会の改革者マルチン・ルターの伝記によれば、彼が修道僧になる経緯において、落雷の恐怖のなかでの祈りにあると言われております。外にいて落雷に会った青年ルターは、確か聖人の名を呼んで、「助けて下さい。助けてくだされば、自分は修道僧になります」と誓約したのだそうです。その後、彼は実際に、修道院に入るのです。私どもは、今朝、この神からの落雷を受けています。いったい、どうなるのでしょうか。逃げ惑うのでしょうか。どこか避難場所に入ってしまうのでしょうか。

 パウロは今、「ところで、あなたは」と言います。彼は、今まで、ユダヤ人について語ってきたのです。しばしば我々は、「日本人とは」、「我々日本人は」と申します。そのとき、本人は、その日本人の外にいるような評論家の意識をもって言います。あるいは、説教でも、「私どもキリスト者は」と申します。しかし、そのときどこか他人事のようにして済ませてしまう思いがないでしょうか。パウロは、今ここで、「あなたは」と言います。これは、単数形です。あなた方はではないのです。つまり、「ところで、わたしは、目の前にいる君に言うのだ。」と言うことです。
これまで、使徒パウロは、ユダヤ人を糾弾してまいりました。「だからすべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。」とユダヤ人に向かって徹底的な批判をしたのです。神の御前に裁きをまぬかれることは決してできない、異邦人に下る裁き以上の裁き、怒りと憤りを受けるのだと言ったのです。
 先週も学びました通り、それは激烈なものでした。しかし、ことはそれで終わらなかったのです。いや、むしろ、それはここで頂点に達するかのようです。パウロはここで、自分の側に立って、「パウロ先生、そうですね。おっしゃるとおりです。本当に、ユダヤ人は我々の先輩たちのしてきたことは、間違ってきました。仰せの通りです。神の裁きが下るのは当然ですね。」とこのように理解を示し、パウロを支持してみせるユダヤ人読者に立ち向かうのです。「これまで、わたしは他の誰のことでもない、君のことについて語ってきたのだ。今、あらためて君自身についてわたしは言うべきことがあるのだ」と、語り始めたのです。窓の外の落雷の恐ろしさと美しさを見ていた人が、激しい雷が落ちてくるのです。
 
 パウロは言います。「君はユダヤ人と名乗っている。律法に頼っている。神を誇りとしている。神の聖なる御心を知っている。神の御言葉、つまり律法に教えられて自分が何をすべきかを弁えている。」これは、すべてすばらしいことです。何一つ、悪いことなどはないのです。さらに続きます。「君は、律法の中に、神の知識と世界の真理とが具体的に示されていると考えている。君は、盲人の案内者である。闇の中にいる者の光のような存在。無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。」これもまた、悪い自覚ではありません。たとえば、わたしは、親として、また牧師として、契約の子たちが、自分たちが生まれたときから、教会に通い、イエスさまを知り、お祈りすることができる環境にいることを、一日も早く、感謝し、誇りに思い、何とか、この幸せを他の人にも味あわせてあげなければと、自覚をもってもらいたいと真剣に祈ります。その意味で、ここでパウロが語ったことは、否定すべきことではなく、むしろ、わたしの、私どもの目標でもあるわけです。来週も、契約の子の祈祷会を開きますが、私どもはもっともっと真剣に、力を注いで、契約の子らの信仰告白のために祈りたいと思うのです。
 さてしかし、パウロはここで語ったことは、すぐに、強烈な皮肉であることが21節以下を読んでまいりますと分かります。パウロは、言うのです。「しかし君は、本当の意味では、これらのことをしそこなっている。律法に頼るのではなく、律法にあぐらをかいているだけだ。神を誇りとしているのは、結局、神を誇っているのではなく、自分の優れた立場を自慢しているだけだ。君は、幼いときから、神の御心、ご計画を教えられてきた、しかし本当は身についていない。」ここでの教えられるとは、「カテキズム(信仰問答)」という言葉のもとの言葉、カテーケーオーが用いられています。幼いときから、神の御言葉を繰り返し教えられて来た、それが、ユダヤ人なのです。その教育のなかで、神の言葉、律法、それを記した聖書の中には、人間が知るべきもっとも大切な知識が記されてあり、世界の真理が具体的に示されていることを、既に大人になって十分に理解していると自覚しているのです。そしてこれを人々に教えてすらいたのです。その意味では、当時のユダヤ人は、伝道に大変熱心だったのです。マタイによる福音書の第23章で、主イエス御自身のこのような厳しい御言葉を思い起こさせられます。「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。」彼らは、まさに自分のことを「盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師」と自負していたのです。
 しかし、ついに今、そのような彼らの上に、神から、垂直に雷が落下するのです。「それならば、君は他人には教えながら、自分自身には教えないのですか。君は、「盗むな」と説教しながら、自分では盗むのですか。君は、「姦淫するな」と言いながら、自分自身では姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、自分自身が神殿を荒らすのですか。」
パウロのあまりの断定的宣言を聞いて、君と名指しされたユダヤ人はどのような思いを抱くでしょうか。いったい、ファリサイ派の人たちは、盗みをしたのでしょうか。当時、誰もが、尊敬していた宗教家たちです。先週の孔子ではありませんが、まさに立派な人たちです。いわば、ユダヤの国の良心、良心的勢力とみなされていたのです。そのような人たちが、何を盗んでいたというのでしょうか。姦淫をしていたなどと名指しされれば、顔を真っ赤にして、否定するのではないでしょうか。まさに名誉毀損で訴えられるような、彼らにとっては万死に値する非難であったと思います。それは、神殿を荒らす、神殿のものをかすめとるということも同じです。まさに目もくらむような断罪です。憤死する、怒りに打ち震えて死んでしまうほどだったのではないでしょうか。
しかもパウロは、これらを一般化して言わないのです。君のことだと、言うのです。律法にあぐらをかいて、自分自身が知識と真理そのものと教えている律法を破っている。主イエスの言葉で言えば、地獄へと導いていると言うことでしょう。「「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。」これは、聖書のなかで、いくつもの箇所にあります。

 さて、このすさまじい批判は、なお、その手が緩みません。まさに徹底するのです。ユダヤ人がユダヤ人であることの客観的な保障、その最後の、究極は、割礼でした。割礼については、創世記第17章を読んでいただきたいと思います。そこには、イスラエルの父祖となったアブラハムに、神が契約を与えられた記事が記されています。神は、すでに99歳になっているアブラハムに、男性性器の包皮を切り取ることを命じられるのです。それが、神の契約のしるしであると仰せになられました。彼は、自分はもとより、すべての男性にナイフを入れたのです。それが、割礼であります。ですから、割礼は、自分が神の約束を受けた民であることを目に見える形で保障するまさに拠り所であったのです。生まれた8日目に男の子は、割礼を授けられて、ユダヤ人、神の民イスラエルとして受け入れられるのです。これは、まさに目に見えるしるしです。生まれたばかりの赤ちゃんにとって、まさに泣き叫ぶような痛みでしょう。それにくらべて洗礼を受けるとき、体に激痛を覚えることはありません。頭に水を注がれたなら、数時間で、乾ききってしまいます。しかし、割礼は、一生残るのです。消えない傷でしょう。
  今パウロは、先回りをするように、ここで押さえるのです。「自分たちにはしかし、割礼がある。神の目に見える祝福のしるし、契約のサインが体に刻まれている。だから、神に断罪され、神の怒りと裁きを受けることは、少なくとも異邦人のような者と同列に置かれるわけはない」このような言い逃れを遮断するのです。割礼は、神の御言葉である律法を守るからこそ、有効である。律法の実行なしに、割礼を誇っても、空しいのだと言う論法です。先週学びました、「律法を聞く者が神の御前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。」これと同じ論理です。ここまで来れば、まさに落雷はどこかに落ちるのではなく、自分に落ちたと、感じるしかないのではないでしょうか。

さて、改めて確認したいと思います。パウロは、この手紙を誰に書き送っているのでしょうか。言うまでもなく、ローマにあるキリストの教会、キリスト者たちです。しかもほとんど面識のない会員たちです。そのような教会に、使徒とは言えど、まだはっきりとした信頼関係を築けていない伝道者、そのためにこそこの手紙を役立てたいと考えている伝道者が、この読者たちに向かって、「あなたは」「君は」と名指しするように語り始めていることに、大変な驚きを禁じえません。つまり、ユダヤ人一般をさしているのではないのです。明らかに、これは、ただ単に律法学者やファリサイ派の人々を攻撃して、ことを済ませているのではないのです。自分たちと対立する相手を攻撃して、利害の一致する対立相手を非難するその分、お互いに親しさを増すという人間の罪深い習性がありますが、ここでパウロがしていることはまったく違うのです。ユダヤ人キリスト者に向かっているのです。
  改めて驚きを禁じえません。パウロは、いったいなぜ、これほどまでして、そこまで追い詰めるのだろうか。これは、恐ろしく危険なことではないでしょうか。一歩間違えれば、「名誉毀損」、「憤死」。パウロはローマで伝道するどころか、ローマの信徒たちは、パウロを拒絶し、追い出してしまうのではないでしょうか。
わたしは一人の説教者として、伝道者として想像してみます。わたしが説教の途中で、説教卓から降りてきて、目の前で、「この説教は、君のことを言っているのだ、君は盗んでいる、姦淫している、神の御言葉を破って神を侮っている、あなたのせいで、未信者たちは、神の御名を侮って、教会の評価は下がっている」と言うのです。これは、お互いに、目もくらむようなすさまじいことではないでしょうか。しかし、パウロは手紙ではあっても、同じことをここで企てているのであります。
わたしは改めて想像してみます。私自身が、一人の牧師、説教者として、パウロ先生からこう名指しされたらどうするでしょうか。牧師を辞めるか、あるいは、徹底してパウロに反論するか、いずれでしかないように思ってしまうのです。

パウロのここでの説教、主張の中心は、最後の28節と29節にあります。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」パウロは、ここまで、ユダヤ人のいわば外見と中身のギャップについて糾弾してまいりました。確かにユダヤ人には、律法が与えられ、割礼が施され、神の救いの約束を受けた神の民という外見があること、形式があることは明らかです。しかし、それに見合う、内容、内面が伴っていないではないか。そうであれば、異邦人の方が神の裁きを受ける点で、その責任が小さいほどではないか、むしろ、ユダヤ人こそ神の裁き、その責任を思いと問い糾したのです。
我々は、ここでパウロが指摘した事実とは、実は、すべての人間の真理についてであることを思います。しかし何よりも彼はここで、ユダヤ人全般を糾弾するだけではないのです。ユダヤ人キリスト者の問題だけでもないのです。実に、私どもキリスト者をも深く、徹底して問い糾しているのです。洗礼を受け、聖餐にもあずかっているキリスト者、それは、まさに外見上、間違いなくキリスト者であり、教会員です。しかも、今まさに私どもはここで神を父と子と聖霊の三一の神を礼拝しているのです。
ところが、神は、既に旧約聖書、律法の書において、繰り返して警告しておられます。たとえば今、礼拝式の招詞で繰り返して読んでおります、詩篇第51編の御言葉にもあります。焼き尽くすいけにえを捧げる礼拝式。にぎやかで、きらびやかで、盛大な礼拝。しかし、神はそれらを受け入れられないと仰せになるのです。神の民は、礼拝をきちんとしているとうぬぼれているのです。ところが、神御自身が彼らの礼拝にうんざりしていると仰せになるのです。まことの礼拝とは、悔い砕かれた霊、くず折れた心をもって、神の憐れみによりすがる礼拝式だと仰せになられるのです。主イエス・キリストがお教えくださいましたとおり、「霊と真理とによる礼拝」こそ、神に喜ばれるまことの礼拝式なのです。形式だけでは無意味なのです。だから、パウロは語るのです。あらためてここで問うのです。「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく、“霊”によって心に施された割礼こそ、割礼なのだ」と。
しかしそこで丁寧に考えなければなりません。もとより、私どもは、洗礼も聖餐も形式上のことだとか、儀式だとかと言って、聖礼典や制度のような伝統を軽視するようなキリスト教の異端にくみしませんし、極端なことを言って、奇をてらうようなキリスト教会とも一切かかわりません。ただしかし、そのような私どもだからこそ、ここで、パウロが恐るべき、目もくらむような自己批判を展開していることを、真剣に考え続けなければならないのです。ここでの議論、聖書の議論はもとより、聖書の議論は、いつでも、自分のことにかかわるのです。他人事として聖書を読んでいる限り、私どもは、神の憐れみを受けて悔い改めることができないのです。悔い改めることができない人間ほど、惨めな人間はありません。自分の罪の中に、自分の罪の責任を負って、滅びる以外にないからです。神の裁きを自分の全存在で引き受ける以外にないのです。悔い改めないということは、自分の責任は自分でとりますという態度表明、姿勢の決定だからです。

外見を見て満足するユダヤ人、うぬぼれたユダヤ人には、そのうぬぼれには何の根拠もないのです。神は、姿かたちではなく、心をご覧になられるからです。内面をご覧になられるのです。口語訳聖書は、この内面を「隠れたユダヤ人」と訳しました。心がユダヤ人、その人こそ、正真正銘のユダヤ人、神の民。それは、聖霊によって、心に割礼を受けた人です。確かに、洗礼を受ける人には、割礼を受けた人のように激痛が走ることはありません。しかし、聖霊によって洗礼を受けるとき、まさにそれは、ここでのパウロの糾弾にまさって、上から、神からの直接の雷に打たれるようなところがあるのではないでしょうか。神によって悔い改めを促される人は、常に、この神の義に打たれるのではないでしょうか。しかもそこで、即死するのではないのです。神の義に打たれて、確かに、打ち砕かれるのです。しかし、その砕かれた心こそ、本物の心、神の御前に立つことのできる心なのです。この心は決して生まれながらに持っている素直な心のようなものではありません。あの人は心が優しい人、心根のきれいな人と、誉めそやされるような人がいるかもしれません。しかし、キリスト者とは違います。キリスト者は、心根がきれいで優しかったから洗礼を受けた、救われたのではないのです。むしろ、自分の心が何と汚れているのか、汚いのかを神がその御子イエス・キリストにおいてお教えくださった者なのです。「打ち砕かれ悔いる心」を造っていただいたのです。

心の底の底、もっとも深いところに神のかえりみを受けたのです。だから、神に素直になれる。神の御前に、誰にも言えないことを言える。打ち明けられる。それを聴いていただける。それを見ていただける。神が砕いてくださったみすぼらしい心であり、心の底ですが、しかし、その心の底の底に、聖霊御自身が宿ってくださるのです。それが、心の包皮を取るということ。旧約聖書自身が繰り返しユダヤ人に、教え続けたまことの信仰の姿です。心に割礼を受けるということです。その旧約聖書の信仰は、今や、キリストにおいて、キリスト者において実現する、しているのです。私どもはキリストの十字架を仰ぎ見ます。そこに正義を自称するユダヤ人から裁かれた、真の正しい人間を見るのです。まったく裁かれる部分のないお方が、ユダヤ人の正義、人間の正義心、偽善の心で断罪されたのです。しかし、御子イエス・キリストはそれを耐え忍ばれました。彼らの罪をあがなうために死んでくださり、三日目にお甦りになられました。そのようにして、私ども罪人の救いの道を切り開かれたのです。
誤解してはなりません。「私どもは、外見はみすぼらしいが、内面はそうではないのだ」などと弁解する必要もありませんし、なによりそれは、偽りそのものです。偽善です。そうであれば、私どもはこう言うしかないのです。「私どもは、内面も、いえ、神が見てくださる内面こそ、神の御前でまことに見ていただくにはあまりに汚い者です。」しかし、それだけでは終わりません。さらにこのように申し上げることができるし、許されているのです。「神は、その聖霊によってわたしの心を打ち砕いてくださいました。わたしの心は、汚いのです。しかし、この心を、神が受け入れてくださったのです。この心の底の底に聖霊が宿ってくださっているのです。わたしの心を神の神殿、神の家としてくださっているのです。」だから、私どもは、人の誉れを受けることから解き放たれることができるのです。私どもはこのような罠から解き放たれるのです。「一生懸命やっているのに、誰もちっとも褒めてくれない、自分の心、内面を誰も評価してくれない。だから、自分で自分に偉いと言って上げよう。」このようなことから解放されるのです。何故か。神が見ていてくださるからです。神がご存知だからです。神が私どもを褒めていてくださることを知っているからです。このぼろぼろの汚れた内面を、他人になど決して誇れない、まさにその心を、しかし神が憐れみ、支えていてくださるのです。だから、私どもは強いのです。悔い改める自由、悔い改める恵みを受けているからであります。世界の中で、神のみ前で悔い改めることができるキリスト者と、教会ほど強いものはありません。このような教会であればこそ、内面の自由を、心の自由を知っている教会であればこそ、心を支配しようとする、心の自由を侵そうとする権力者に対しては、敏感になります。そして、徹底的に戦わねばならないと知るのです。
パウロは、これまで一貫して、ただひたすらに、「神の義」を明らかにしているだけです。そして、「神の義」とは、神の裁きです。しかし同時に、いや、それにまさって神の憐れみなのです。彼は、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、信じるすべての人間を救う神の力を証し続けるのです。この福音、つまり、神の憐れみのなかで、読者の一人も漏らさずに、神の御前に、悔い改めるようにと招き、求めているのです。
私どもは、今、神の雷を受けているのです。そして、そこで即死するのではない。むしろ、そこで生きたのです。今、生かされているのです。パウロはそれを誰よりも経験したのです。だから、ここで、これほどまでに大胆に、これほどまでに熱心に、一人一人に悔い改めへの道を指し示し、招いたのです。
受難週が今日から始まります。神は外見ではなく、私どもの心を見ておられます。それなら、いよいよ神のみ前に、悔い改めの恵みを求めて行けば良いし、そうしたいと思います。共に、熱心に、聖霊を求めてまいりましょう。そのために、神の律法の説教を聴き、それに生き、祈りを深めることです。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、私どもは、律法を教えられながらその教えに生きることにおいて、なお破れております。しかしそのことをあなたが繰り返し教えてくださいます。私どもは開き直りません。弁解する必要がありません。外見におきましても内面におきましても、御子イエス・キリストの赦しなしに、生きることができません。どうぞ、終わりまでこの悔い改めの心を与え続けてください。そして、そこで、赦された喜びと新しくされ、完成される望みをもって、律法を行う意欲と力とを富ましめてください。 アーメン。