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「ここに慰めの共同体を形成させてください」第11周年記念

「ここに慰めの共同体を形成させてください」 
        2005年4月3日
        聖書朗読 コリントの信徒への手紙Ⅱ 第7章2節-13節
        テキスト マタイによる福音書 第6章13節

 1994年の4月3日に、協英ビルの3階の一室で始められた私どもの開拓伝道も、本日で2005年4月3日、ちょうど第11周年を迎えました。
 ここまで、導いてくださいました神に心から感謝申し上げます。また、背後で祈ってくださった大勢の方々のことを改めて思い起こし、感謝したいと思います。そして何よりも、今日、お互いの存在を、心から神に感謝しあいたいと思います。私自身、この教会に導かれ、皆さまと出会い、仕えることができましたことを心から神に感謝いたしております。
 第11周年という短い歩みですから、後ろを振り返って、ただ感慨に浸ることは、まだまだ、したくはないのです。むしろ、私どもの地上の戦いは、常に、「道半ば」であるわけですから、将来に向かって、前を向いて、心新たに踏み出してまいりたいと願います。しかしながら同時に、神の民は常に、後ろを向きます。この後ろを向く姿勢こそ、実に神の民の特徴であり、特権なのです。とりわけ、日本の国のなかで、この後ろをしっかり見つめることは、日本そのものを救う道であると確信いたしております。
先週、○○委員が、読書会で、韓国ビジョンツアーの報告をしてくださいました。それに先立って、礼拝式の報告の中で短い報告もされました。彼女は、これまで韓国に対して、日本が、日本の教会が何をしてきたのかを知らなかった、知らないのは罪であったと仰いました。牧会通信にも記しました、この無知の罪は、私どもにとっても同じことであります。知らなかったのは事実ですが、積極的に知ろうとすれば、知ることができるわけです。そして、何よりも、聖書を知らないという罪についても、私どもは、心にわきまえをもっていたいと思います。聖書に慣れ親しむ生活のないところでは、私どもの信仰者の基本的な生活は、整いません。その意味で、今年の初め、○○委員が教会として聖書日課があると良いのではないかと提案されました。皆様の方からは、ぜひ、欲しいという声はまだ挙がっていないように思います。教会として準備するかどうかは、なお、議論があるでしょうが、自分の生活の中で、聖書に慣れ親しむ生活を作ることは、言わずもがなの基本であると信じます。
そしてその聖書の大部分は、何について書いているのかと申しますと、それは、歴史であります。過去の歩みなのです。この過去の歩みを学ぶことが、今を生かす道であると、神御自身がお考えになっておられるのです。過去の歴史それは、言葉を変えますと神の御業、神の救いの歴史であります。その中に同時に、人間の罪の歴史が記されているのです。聖書を読むことは、常に後ろを見ることです。過去に目を閉ざすのではなく、過去を見つめるのです。これは、苦しいことでもあり、しかし、そこにこそ、救いがあるのです。
今日の日本の最大の罪と課題は、なんと言っても過去を直視しない、歴史を正しく認識しないという点に尽きるように思います。その中で、私どもキリスト者もまた、同じ誘惑と罪の前にある、これもわたしの理解であります。
さて、そのような記念のときを迎えた本日、私どもにとっての過去をきちんと振り返ることがどれほど大切なことであろうかと思います。私どもの教会は、日本キリスト改革派教会がその創立宣言をもって、明確な教会の方向性、ビジョン、教会理解を明らかにしたことと、その志においては実は、同じものがありました。当時は、この創立宣言の存在も知りませんでしたし、私どもが打ち出した教会形成の筋道、ビジョン、教会理解と重厚な創立宣言とは比べられません。しかし、私どもの教会がこの11周年をここまで導かれたのは、明らかに、この方向性があったからであります。ただ教会をつくって、受洗者を多く獲得して、教会を大きくすれば良いのだというような開拓伝道とはまったく異なったものでした。それが、名古屋岩の上伝道所の開拓伝道であり、教会形成でした。
本日は、午後にも皆様と自由に懇談と感謝のときを持ちます。そこで、これまでの歩みのなかで、変えてはいけないもの、変えてよいもの、変えるべきものについて話し合い、確認しあいたいと願っております。そこで、鍵となるのは、変えてはいけないものと変えてよいものとを峻別することでしょう。今朝は、その中でも、変えてはならないことのひとつだけに絞って、聖書から教えられたいと願います。

 そこであらためて、私どもの開拓伝道開始以来、一貫して祈り求めてきた、言わば私どもなりの創立宣言に当たる祈りの言葉を思い起こします。「ここに神の教会を、ここにキリストだけを主と告白する、慰めの共同体を形成させてください。」わたしの記憶では、ときどき、「ここに神の教会を」の次に、「ここに聖餐を囲み」という言葉を入れたこともしばしばありました。この祈りの言葉のなかに、いくつも鍵の言葉が含まれてあります。何よりも大切なことは、「キリストだけを主と告白する」つまり「キリストの主権、権威」です。キリストが中心の教会が、すなわち神の教会です。そのようなことは当たり前ではないかといぶかる方もおられるかもしれません。ところが、教会は、キリストの教会、神の教会であるというまさに聖書の常識が、しかし、本当の意味では常識にはなっていない現実を私どもは見るのです。キリストの教会と看板を出していても、その実、結局、そこに集っている人々が中心になり、自分たちにとって良い教会、都合のよい教会をもってキリスト教会と自認するのです。私どもは、神の教会を、神が立て上げてくださることにこだわりました。そのために、自分たちが何をここですべきかを、聖書と信条つまり教会の歴史に学び続けたのですし、これからも続けるのです。これをやめたならば、わたしどもはまさに偽善的になります。つまり、自分たちの教会は、まことの神の教会になってしまっているから、もう大丈夫といううぬぼれです。もし、日本キリスト改革派教会がそのようなうぬぼれを持つなら、自らの死を意味するといっても言い過ぎではありません。
もうひとつは、慰めの共同体です。慰めの家、慰めの教会、慰めは鍵の言葉です。そしてそれは、キリストの主権を確立することと矛盾したり、対立することではまったくありません。むしろ、まことの慰めは、キリストの権威、キリストの主権に服するときだけ、教会に実るものであります。そして、この慰めが、聖餐と深く結びつくものであることを改めて確認したいと思います。それが、「ここに神の教会を、ここに聖餐を囲み」という祈りの言葉になるわけです。 慰めという言葉、ギリシャ語では、聖霊を意味し、励ましとも訳すこともできます。また、「説教」とも訳すことができるのです。そうなれば、慰めつまり説教と聖餐ですから、これは、まさに教会の主日礼拝式のもっとも大切な要素、教会形成の基礎であることがわかります。つまり、私どもが開拓の最初に祈り始めたこの路線、この教会理解、ここでの戦いとは、教会が教会となり、教会が教会であり続けるためのまさに基本中の基本、教会の常識、まさに教会が教会でありえるための基礎を据えたわけです。

 さて、この朝は、主の祈りの第6番目の祈りの言葉を読みました。「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」この祈りは、主が十字架につけられる前夜、ゲツセマネの園での祈りの言葉と同じものです。丁寧に申しますと、この祈りは、そのいっときだけのものではなく、むしろ、主が地上においてご自身の信仰の歩みを作られたときに、「激しい叫びと涙とをもって」祈られた祈りであると言えます。なぜなら、人類の中で最も激しい誘惑、試みを受けられたのは真の人間となられた御子イエス・キリストだからであります。そして、その戦いに完全な勝利をおさめられたのも他ならぬ主イエス・キリストでありました。ですから弱く、罪深い私共は、この祈りを自分自身の祈りとして祈る事によって、実に、勝利者イエス・キリストのもとに逃げ込む事が出来るし、逃げ込まなければならないのであります。私共は、この祈りを祈るたびごとに、主イエスからこのように呼びかけられているのであります。

「わたしの懐に逃げ込みなさい。誘惑に直に戦っては駄目だ。それは自分自身の罪の深さ、徹底的に罪人であることを弁えない傲慢な態度だ。誘惑に打ち勝ったわたしのところに逃げ込むことが、この祈りなのだ」つまり、この祈りは、キリスト者をして、勝利者主イエス・キリストへと導く祈り、主イエス・キリストに逃げ込ませる祈り、その主イエス・キリストと一つとさせる祈りなのであります。その意味で、この第6祈願の祈りは言わば「勝利者なる主のふところに逃げ込ませる祈り」と言うことができると思います。

しかし、この祈りはその一方で、正反対のように、信仰の戦いへと私共の姿勢を整えさせる祈りでもあるのであります。「ここに神の教会を、ここにキリストだけを主と告白する、慰めの共同体を形成させてください。」慰めの共同体、慰めの教会であります。しかし、この「慰め」と言う言葉を、この日本で使うときには、おそらくほとんどの方が、聖書の言葉の意味、教会で使う言葉の意味としての意味をはき違えられてしまう可能性が極めて高いと、わたしは予想しておりました。つまり、ある神学者が、現代の社会のぺストと指摘したほど、心の病を病む方は急増しています。私どもの開拓伝道とは、そのような社会状況のなかで、私どものこの教会が、現代人に心の逃れの場、オアシスを提供するのだ、ということを第一に考えたのでは、決してありませんでした。勿論、心を病む人の友となり、その癒しの為に教会こそが用いられたいと祈っております。ただしかし、私共の教会が「慰めの共同体を形成させて下さい」と祈り続けております祈りとは、世知辛い、病める社会に心の憩いの場、オアシスを造ろうという「程度」のことではなかったのであります。それなら、教会が慰めの共同体である、慰めの共同体を形成するとはどのような意味を持つのでしょうか。慰めの共同体とはどのようなものなのでしょうか。

 最初に、この「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」の祈りは、イエス・キリストのもとに逃げ込ませる祈りですと、申しました。私どもが生活のなかで、慰め、力、希望、愛、勇気、それらが必要なときに、どうするのでしょうか。もちろん、祈ると思います。何よりも、この主の祈りを祈ることが大切であります。ただしかし、そこで勘違いしてはなりません。祈るとは、どこか人里離れたところに出かけゆくこと、そこてじっくりと神と一体一になることを最初に連想してはならないのであります。
最初に申しました、イエス・キリストに逃げ込むとは、どうすることを意味するのでしょうか。主イエスのところに行くというとき、先ず最初に、連想しなければならないのは、どういうことなのでしょうか。それは、目に見える、現実の、自分が所属する教会、私どもにとりましては、この名古屋岩の上教会に逃げ込むことに他ならないのであります。そのことなしには、「信仰」とか「慰め」とか「イエス・キリスト」と言っても、それはあやふやで主観的なものにならざるを得ないのであります。

 カルバンの言葉として有名な言葉に「神を父として持つものは、教会を母として持つ」があります。私共が、「父なる神」と心からの確かさ、力強さをもって、確信を持ってお呼びするためには、ここが肝心要となります。それは、個人的な信仰の強さ、信仰の確かさ、信仰の深さに由来するものではないと言うことであります。勿論、それは必要です。しかし、ここが大切なのです。イエス・キリストに逃げ込む事が出来る幸いとは、言葉を変えますと、信仰の生活の確かさとは、それは、その人が具体的に属している神の民と共に生きること、教会に生きること、その共同体の交わりを自ら育てることです。そのようにして初めて、実はもっとも深く自分自身が支えられているという祝福にあずかるのが、教会生活に他なりません。これが、聖書が示す言わばキリスト教なのです。キリスト教の真の姿なのです。これこそが聖書の信仰なのであります。もしもこの基本、この根本が見失われるなら、キリスト教信仰は実に個人主義的で、主観的になります。言わば「信念」の類に転落してしまうのであります。教会には行かずとも、自分は主イエスを信じていると自分で考えている自称キリスト者は、実はこの日本に少なくないと思います。しかし、それは、自分の信念にしか過ぎないのではないでしょうか。よくて思想でしかないのではないかと思います。主イエス・キリストを逃げ場とすることが出来る人は、教会を逃げ場とすることが出来る人に他ならないのであります。

 そのような逃げ場とすることのできる教会をこそ「慰めの共同体」と言うのであります。そのような教会に連なる私どもはどれほど幸いでしょうか。今から、11年前に、それを目指し、歩み始めて、私どもは今、もとより道半ばではありますが、ここにその慰めの共同体を見出しているのです。午後の懇談のときも楽しみですが、私自身、既に、何度も、名古屋岩の上伝道所を外側からほめられてまいりました。このようなことを申し上げるのは異例のことです。しかし、11年目に初めてのことですから、許されるのではないかと考えます。憧れの目で見られることがあります。恥ずかしい思いが致します。しかし、外の声だけではないのです。他の教会から転入してくださった方で、読書会や祈祷会などで、何よりも個人的にも、この教会における生活のなかで、信仰の新しい恵みを受けたのだという証をどれほど聞いてきたことでしょうか。

私共キリスト者は、教会を慰めの共同体として建て上げるために救われたのであります。そしてまた逆から申しますと、そのような教会の懐に抱かれないで、そして今や、そのような仲間によって、いよいよ、ここに慰めの家が形成されております。キリスト者にとって、このような慰めの家がなければ、信仰の旅路を終わりまで全うすることはできないと、私は思います。教会の交わり、この礼拝式、祈祷会から離れて、いきいきと信仰者として生きれるような英雄的なキリスト者など誰もおりません。誰よりも私自身、この慰めの共同体なしに、牧師として生きることは不可能でありました。皆さんの中に万一、牧師や、あるいは長老は信仰が強いので、自分たちのようには慰めを必要としていないのではないか、信徒、信者の方は、牧師から慰めを受ける側で、牧師は与える側・・・。そのように考える方はおられるでしょうか。

 私共の教会では、この言葉も、開拓初期に繰り返し言い交わしてまいりました。「お互いの弱さを受け入れあおう、しかし、わがままは斥けよう。」弱さもわがままも、自分の罪に起因します。言うまでもありませんが、誰でも、罪を抱えたままに、地上の信仰の旅路を、天国を目指して進んでいるのであります。私共は教会形成の現実の歩みのなかで、具体的な失敗、過ち、罪をそれこそ何度も犯してまいります。しかし、そこで問われることは、自分の「弱さ」を「わがまま」にしないということであります。それなら、弱さとわがままの違いとは、何でしょうか。弱さとは、悔い改めに導かれることであります。弱さを認めるとは、謙遜になることであります。しかし、「わがまま」とは、自分の非を認めないことであります。神の御前に、悔い改めを勧告された時に、むしろ悪いのは相手の方だと審き、攻撃することであります。教会に生きる私共は、多かれ少なかれ、いつでもこの弱さとわがままを、つまり、罪を抱えて自ら苦しみ、また他者を苦しませることを繰り返しているところがあります。しかし、大切なことは、お互いにまさに、その弱さを持っていることを認め合うことであります。自分の中に自己中心の弱さがあり、共に生きる仲間の中にも自己中心の弱さがあるのであります。ですから、もしも、自分の弱さで、交わりを損なっているときには、自分の弱さを嘆くことであります。認めることであります。認めて良いのです。それは、開き直っていることではありません。

 洗礼を施して頂いて教会生活は始まります。洗礼を受けるとは、何よりも自分がキリストを殺した者、キリストを殺してしまわねばならないほど、神の御子の死を要求するほどの罪の責任、罪責を負う者であることを、神と人との前に表明することであったはずであります。洗礼を受けていながら、自分が罪人であることを否定することはおかしなことです。そして、教会に生きるお互いが「赦された罪人」であることを認め合うことによって教会の交わりが成立していることを確認したはずなのであります。

 さてそのことをきちんと押さえながら、しかし、そこで改めて問わなければならないことがあります。罪人の集いとは、どのような集いであるかということです。慰めの共同体とは、単に、自分が罪人で、主の救い、赦しにより頼むばかりで、うなだれた姿勢を取るのかということであります。そうではありません。慰めの共同体は、うなだれた姿勢の交わりではありません。頭を挙げた者たちの交わりであります。心を高く挙げて生きる者の交わりであります。信仰の戦いを戦う者たちの交わりであります。つまり、自分自身のもう根っこにこびりついてしまっているかのような、その弱さを克服しよう戦う事であります。信仰の戦いを戦うとは、それぞれの自己中心の罪と戦うことであります。そこに、戦う共同体の姿があります。それが、私共の慰めとなるのであります。慰めの共同体とは、神の栄光のために闘う者たちによって築かれる共同体に他なりません。この私どもの神の家とは、闘う者たちの家なのであります。この戦いとは何も、教会の外の人々との戦いということを意味するのではありません。むしろ、私共の戦いの第一の、何より優先する戦いの相手とは自分自身であります。そして、そのような闘う私共でありますから、当然傷ついている私共であります。自己中心で神の主権と栄光を損ない、自分自身と共に生きる仲間を傷つけ、裏切る私共なのであります。罪によって、傷ついているのであります。
 

その傷は、罪の誘惑に抗えず、神に背いてしまった故の傷であります。敵に攻め込んで、積極的に負った傷というよりは、むしろ、自分との戦いに破れてしまって、そこで負った傷のほうが圧倒的に多いのではないでしょうか。しかし、その傷は、主イエス・キリストの負われた勝利の傷が癒すのであります。主の傷口から、癒しの力が私共の傷に注がれるのであります。
 傷と言うことで、私共が思い出すことが出来るのは、あのトマスの物語ではないでしょうか。復活の主イエスの現れた弟子たちの集いに、共にいなかったトマスは、弟子たちの「私たちは主イエスを見た。主は復活された。」と言う言葉を信じることができませんでした。しかし、次の日曜日に、トマスが弟子たちと共にいた時に、復活の主イエスが現れてくださいました。そして仰っいました。「傷口に触りなさい、触って信じない者ではなく信じる者になりなさい。」トマスは、不信仰になり、心頑になり、その心をイエスには勿論、悲しいことに仲間にも開くことができなくなってしまっていました。しかし、それによって、最も傷ついていたのはトマス本人だったのではないでしょうか。しかし、その不信仰によってもたらされた自分自身の傷が、主が負われた傷、勝利の傷口によって癒され、立ち上がらされることが出来るのであります。

 主イエス・キリストの御傷によって、癒されたトマスは、彼本人を立ち上がらせただけではありません。その癒された傷痕をもって、こんどは信仰の仲間達を癒す、イエス・キリストの使徒となったのであります。その癒しはトマスの内側から溢れ出るのではなく、傷から、つまりイエス・キリストに癒された箇所、つまり、イエス・キリストに満たされた部分から迸り、溢れ出るのであります。その癒しはですから、トマスのものではなく、イエス・キリストのものなのであります。

 実に、その経験は、使徒ペテロも持っています。ペトロもまた、主イエスを裏切ったのであります。十字架へ引っ張られて行くその主を置き去りにしたのであります。裁判にかけられた主イエスを知らない、と神に誓って宣言したほどなのであります。しかし、その彼の決定的な傷は、主イエス・キリストの打たれた傷によって癒されたのであります。キリストの慰めによって立ち上がったのであります。ペトロもまた、自分の負った傷口は共に生きる信仰者を慰める傷口になったのであります。

 そう考えてまいりますと、実にエルサレムで始まった最初の教会は、皆傷を負う者たちの共同体に他なりませんでした。使徒たちも、新たに教会に加わった三千人の信徒も、まさにキリスト殺しの当事者達、十字架の周りにいた者たちに他なりません。しかし、その傷が癒されたのであります。イエス・キリストの慰めが、彼らを癒し立ち上がらせ、神の新しい家を建てさせたのであります。そして、これからは、罪と闘おう、自分の罪の赦しを確信させていただいた者らしく、罪を憎み、人間中心から神中心へと歩み変えそう、悔い改めて生きてゆこう。このように志を定めて新しい人生を始めたのが最初の教会員でありました。

 私共もまた今日、この慰めの共同体の伝統をそのままこの地に受け継いでいるのであります。キリストの為に責任を担う交わりであります。この交わりは、キリストにより頼む交わりであって、キリストに甘えた交わりではありません。キリストのもとに逃げ込むことによって勝利する者の交わりは、先立つキリストの後ろにつき従って、イエス・キリストの口となり、手となり、足となって、働く者たちの集いであります。 

先立つキリストの後ろにつき従うとは具体的にどうすることでしょうか。それは、主イエス・キリストの祈り、「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」との祈りの後をついて、祈ることであります。主イエス・キリストにつき従うとは、何か英雄的な、勇ましいことを最初に連想することはありません。皆さんにとって、びっくりするくらい単純なことかもしれません。しかし、主イエス・キリストと共に生き、共に戦うとは、他でもないこの祈りを真剣に、その意味を噛みしめて、信じて祈るということなのであります。何故なら、この祈りを祈るときには、この祈りを祈られた勝利者イエス・キリストと私共とが一つに結び合わされているからであります。そのようにして、ただそのようにされてのみ、この弱さを抱えている現実の私共が、イエス・キリストと共に既に勝利者となっていることを信じることが出来るのであります。勝利者とされてある故に、闘うことが出来るのですし、事実戦うのであります。そこでの、戦いももちろん、勝利者イエス・キリストの内に包み込まれて、よろわれての戦いにほかなりません。

 しかし、地上において、サタンは勝ち誇った顔をしています。自ら、この世の支配者のような顔つきをして神の教会を欺き翻弄します。しかし、騙されてはなりません。終わりの勝利は、私共教会に約束されているのであります。  このイエス・キリストのもとに、イエス・キリストの御体なる教会の交わりのもとに踏みとどまって闘う者を、サタンがそこから、神の愛から引き離すことなど決して出来ないのであります。「他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない」からであります。(ローマの信徒への手紙8:39)勝利は決定しています。  この世界は、悪魔と神との戦いがなお継続して、勝利がついていないではありません。騙されてはなりません。悪魔は既に、その頭は砕かれてしまっているのであります。私共は、その十字架の事実をしっかり覚えて、現実の教会の前進後退に一喜一憂することなく、勝利を信じて、キリストの支配を、キリストが主でありたもうことを教会において確立し、もって世界に宣べ伝えるのであります。その武器がまた、祈りであります。この第6祈願、「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」なのであります。この祈りをもって、  戦いに参戦しているのが教会であり、そのような教会こそが慰めの共同体であり、私共の教会は既にそのようなものとされているのであります。

 祈祷
 教会の頭なる主イエス・キリストの父なる御神、ここにキリストだけを主と告白する慰めの共同体を形成させてください。私共の絶えることのない祈りであります。キリストに救われ、そしてキリストの為に生きる私共であればこそ、この世からの試み、自分自身の内側からの罪への誘惑にさらされ、しばしば打ち負かされ、傷つきます。しかし、主のもとにこそ真の慰めがあり癒しがあります。どうぞ、私どもが、その生ける主イエス・キリストを頭とする教会を形成するために、慰めの交わりを築き育てる為に、ますます、教会に生きる者として下さい。このあなたの家が慰めの共同体としてますます実ることができますように、罪人であることを恥じることなく、イエス・キリストなしに生きれない者であること恥じることなく、むしろ、それを感謝し光栄に感じる、福音による交わりを築かせて下さい。 アーメン。