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「あなたも罪人」

「あなたも罪人」    
   2005年4月24日
         テキスト ローマの信徒への手紙 第3章9節~20節①

では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

本日の説教題は「あなたも罪人」としました。これは、私どもキリスト者には、そのまま、通じる言葉であると思いますが、未信者、一般の方には、おそらく不愉快な印象を与えるのではないかと思います。実際、看板に書き出すことにいささかためらいをも覚えました。私どもは、ローマの信徒への手紙を学び始めて既に25回、本日は26回目の主の日の礼拝式を捧げています。第1章18節からは、罪を巡ってのパウロの言葉に集中してまいりました。今日はその第13回目です。つまり、これまでの半分は、罪を主題にして説教でした。

罪について、学び続けるということ。それは、ローマの信徒への手紙の鍵の聖句、第1章16節御言葉の恵みが私どもに分かっているからこそ、できるのではないでしょうか。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」誰よりも、この御言葉は著者のパウロ自身が身に染みて、その全存在に徹するまで経験しているからこそ、これほどまでに情熱を傾け、徹底的に、人間の罪を描き出し、暴き出すことができるのであると思います。しかも、忘れてならないことは、この情熱、この真剣さ、この迫力は、他でもない、パウロを通して語っておられるこの手紙の真の著者でありたもう神御自身、聖霊なる神の熱心にあるのです。主イエス・キリストの情熱であると申してもよいのです。それは、たとえば、お甦りになられた主イエスが、弟子たちのなかで、一人信じることができなかったトマスのために、御姿を現され、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と迫られた御心に通じるものであります。「信じない者になってはならない」これは、主の愛の言葉です。愛の叱責です。トマスはどんなことがあっても使徒として立ち上がり、使徒として生き、奉仕に生きなければならない、生きてもらわなければならない、そのトマスへの激しい愛が、この叱責の言葉を生んでいるのです。

しかしながら、一つ不思議なことがあります。これほどまでに、ひたすらな思いで、読者に、罪を認めるようにと呼びかけ、招き続けたのにもかかわらず、実は「罪」という言葉そのものが出てくるのは、この9節が初めてなのです。もとより、パウロは、既にこれまで、一生懸命、罪の何たるかを指摘したのです。しかし、ここで初めて、罪と言う言葉を用いるのです。聖書を学び始めると、すぐに、覚える言葉、それが、「罪」ではないでしょうか。主イエス・キリストというお方のお名前ももちろん、覚えるでしょう。十字架やキリストの復活という言葉も覚えると思います。しかしそれらとワンセットのようにして、「罪」という言葉も、学び、教えられるのです。そのときしばしば、この罪というギリシア語は、「的はずれ」と言う意味を持つとも教えられます。聖書が意味する罪とは、何かの犯罪行為、道徳的な悪いこと、悪徳というより、的外れ、関係が壊れ、なくなっていることだと教えられるのです。的とは、人生の的、目的です。生きる目標、意味です。これが見失われている状況を罪と言うのです。何のために、生まれてきたのか分からないままの状態は、罪なのです。そして、この的はずれ、的をはずして生きていること、この的は、神御自身ですから、神との関係が失われている状況が、罪に他なりません。
パウロは今、いよいよ、この罪を論じぬくのです。そして遂に、ここでこれまでの議論の結論を記すのであります。それが、9節の後半であります。「既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」これまでの長い議論、論述は、ひとえにこの事実を明らかにする為のものだったのです。

しかも、ここでは、ユダヤ人に限定されてはおらず、ギリシア人にも言及するのです。「ユダヤ人もギリシア人も」、とあるとおりです。ユダヤ人とギリシア人、それぞれに、自分たちの立場から申しますと、誇り高い民族です。ユダヤ人は申すまでもなく、天地の創造者なる神から御言葉をゆだねられた、目もくらむような恵みを受け、祝福を受けている民です。一方で、ギリシア人とは、優れた科学技術文明、哲学に代表されるような学問をも盛んにする、文化人、教養人を自負する民族です。パウロは、今ここで、そのようなユダヤ人とギリシア人を十把ひとからげにしてしまうのです。しかもその意味するところは、このユダヤ人とギリシア人だけではなく、我々も当然、含めているのです。人類を十把ひとからげにしてしまうのです。ですから当然、「ユダヤ人もギリシア人も皆」のなかには、我々、日本人も含まれているのです。つまり、説教題にあるように、「あなたも罪人」ということがここで言われているのです。

「罪の下にある」これは、言い換えると、罪に支配されているということです。罪に首根っこを押さえつけられて、まったく無抵抗の状態ということです。人間は、罪の勢力に押さえつけられ、その虜とされている。罪に屈服させられているということなのです。それが、罪の下にある、という言葉の意味です。しかも、この罪の下に屈服させられている現実の有様については、もはや、これまで十二分に語られ、明らかにされて来たのです。

ところが、パウロは、それでも足りないと言わんがばかりに、あるいは、まるで止めを刺すかのようにして、すべての人間が罪に屈服させられてしまっている現実の姿を、神の言葉によって証拠だてるのです。神の言葉がなんと言っているのか、これこそ、すべての判断の基準になるものです。聖書に何と言っているのか、聖書はどのように証言しているのか、それこそが、真理の唯一の判定基準になる、これこそ、パウロの確信であり、教会の信仰なのです。「次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」

これは、このままの言葉が聖書のどこかに記されているというのではありません。多くは詩篇から抜き取られ、イザヤ書からも引用されています。もしかすると、このような抜書きは、パウロが独自にしたのではなく、当時の教会で語られていたのではないかとする学者もいるようです。

しかしながらここには、世間一般の常識から申しますと、誇張のしすぎと受け止められかねないような大変な言葉が記されてまいります。「一人もいない」という言葉です。「善を行う者はいない。ただの一人もいない。」とあります。ある人は、「ただの一人もいないというのは、いくらなんでも言いすぎでしょう。」と仰るかもしれません。「自分はそうではなくとも、社会には、善を行う人がいるし、歴史上の有名な人、釈迦とか孔子とかソクラテスとか、少なくとも偉大な宗教家、聖人など呼ばれる人はそう言い得るのではないか。」しかし聖書は、「ただの一人もいない」と言い切ります。

わたしはしかし、そのような主張をなさる方の心のなかにある問題、つまり、そのようにどうしても例外を認めたがる人の心の裏側にある問題を指摘したいと思います。それは、実は、その人自身の罪をも、相対化したいという隠された意図があるということです。つまり、「なるほど、聖書が言うように人間は、罪深い者でしょう。しかし、罪は罪でも、どんな罪も同じであるはずはないでしょう。重い罪と軽い罪という風に分けられるはずでしょう。そうであれば、わたしはもちろん、罪深い人間であることは認めますが、あの人、この人と比べれば、まだ、罪は軽い方だと思いますよ。」このような発言がどれほど的外れな議論であるのかを思います。一言で言えば、そのような発言ができるのは、聖書が問題にし、意味している罪とは何かが、まだまったく分かっていないからに他ならないのです。

さて、この詩の中の、「だれもかれも役に立たない者となった」と言う言葉に注目したいと思います。役立たないという言葉の語源にある意味は、腐るという言葉なのです。つまり、「すべての人間が腐った者となってしまった」ということです。確かに、食べ物の中で、腐りかけのものが一番おいしくなるというものもないわけではないでしょう。しかし、まったく腐った食べ物を口に入れるなど、想像するだけで、気分が悪くなってまいります。そのような者は、まったく何の役にも立たないのです。はやく地面に埋めて処理する以外にありません。しかし、13節には、「彼らののどは開いた墓のようであり」とあります。この当時の墓は、死体をそのまま安置したと言われます。まさに、自然に腐ってゆくのにまかせたのです。ですから、その墓が開いたままであるということは、死臭が強烈に漂うということです。考えただけで、気味が悪く、まさに臭ってくるようです。しかし、聖書は、言うのです。他でもない、私どもの口から、わたしの口から死臭が臭いたつのです。私どもの存在とは、そのようなおぞましい、役立たない、死の臭いのする存在であると言うのです。

この人間の罪を暴き立てる詩、聖書から抜書きされて再構成されたこの詩には、しかし、人間の罪について、口と足で一括して語られています。我々が罪を犯すのは、頭も手も、そのほかたくさんあるはずですが、口と足で代表させれば、十分であると考えているのだと思います。

私どもの口が犯す罪について、たとえばヤコブの手紙第3章8節以下にこのようにあります。「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」この御言葉は、未信者の方への言葉ではありません。キリスト者への警告の言葉であります。主の日の朝、今ここでは神を賛美する歌を歌いながら、家に帰ると、悪口を言い始める。呪い始めるというわけです。悪口に一つくらいは言うけれど、呪うことまでは言ったつもりはないと、多くの方が、自分自身のことを考えられるかもしれません。それならお世辞ということはどうでしょうか。お世辞の一つも言えなくては、会社勤めがつとまるかと言われたりします。お世辞は、悪口ではなく、いわんや呪いではありません。しかし、そこではいつでも自分のことばかりが考えられているのです。自分が得することのために、言葉が発せられているのです。呪うことも本質は同じであります。私どもは、これまで、誰かにこう言われた、ああ言われたということで、本当に傷ついた、傷つけられた経験をお持ちのことと思います。眠れないほど、ショックを受け、怒りを抑えることができず、悔しくもんもんとする、などということも、経験されたことがあるのではないでしょうか。それは、受けた方は忘れがたいのです。ところが、それを発した本人は覚えていない。しかし、そこで、自分を欺いてはならないと思います。自分自身がどれだけ、加害者になっているかという事実です。自分の言った悪口、人格を貶める言葉を吐きながら、人を傷つけながら、自分のほうではケロリと忘れてしまっているのです。 

ついでのことですが、上品な言葉つかいということは、私どもの中で、決して軽んじられてはならないことだと思います。なぜなら、それは人格そのものが滲み出るものだからです。丁寧な言葉づかいということは、一朝一夕で身につくものではありません。広い意味で、教養を積む事が求められます。しかし、それなら、聖書は、教養がある人間は、口で罪を犯さないとか、人を欺き、呪いと苦味で満ちたような言葉を吐かなくなると言うのでしょうか。マムシの毒のように、人を殺す言葉、死の臭いが沸き立つような言葉を吐かなくなるというのでしょうか。まったく、違います。ユダヤ人もギリシア人も、どちらも教養と言う点では、誇りを持っていたのです。しかし、ユダヤ人もギリシア人も例外なしに、その言葉を発する口、のどは、死臭ただようものなのです。なぜなら、そのような言葉を生み出すのが、罪だからです。罪こそが、源なのです。ですから、どれほど、教育を施し、文化、教養を身につけさせても、この問題を克服することができないのです。死の臭い、それは、命がないからです。死んでいるからです。罪人とは、死んだものであるのです。命の神との関係が途絶えているゆえに、罪人には、永遠の命がないのです。今、あるのは、ただ、死に向かって歩ませる命でしかないのです。

次に、足です。ここでは、私どもの全ての行動、行いを意味するものとして用いられていると思います。頭や心で考えたことを、具体的に持ち運ぶ足、そこで、具体的に罪を犯すのです。行ってはいけないところへ足が連れて行く、その場にいてはいけないところに、足が連れて行くのです。しかも、もちろん、自分の足です。無理やりに連れてゆかれて、罪を犯すのではないのです。自分で決定して罪を犯すのです。そこには、破壊と悲惨、争いがあるのです。それは何も、ヒットラーが犯したような巨大な罪を想像するまでもありません。私どもは、どれほど、しばしば人と争ってしまうのでしょうか。どうしてそうなるのでしょうか。「わたしが、わたしが」と自我が突っ張っているからではないでしょうか。そこでも自分が中心、自分の楽しみ、自分の喜びが第一になっているからです。

さて、あらためて、この罪を歌う詩の冒頭に戻ります。「神を探し求める者もいない。」最近も、ある高校生とこのような会話を致しました。「神さまを求める人はいない。信仰などなくてもみんな生きている。そのような友達にどうやって信仰を伝えて行けるのだろうか、そもそも、その人たちにキリスト教は必要なのだろうか」今の高校生たちに、悩みがないなどとは、誰も思わないでしょう。しかし、その悩みを、神の下で、教会で解決しようと、解決できると多くの高校生たちは考えていないのだと言うのでしょう。わたしは、高校生では手遅れであるといは決して申しませんが、しかし、信仰の教育は、幼ければ幼いほど良いし、大切なのです。しかしその一方で、最近ある長老の方から、自分たちの教会には、年間50名の新来者が与えられていると伺いました。なんとすばらしい環境にある教会なのかと、本当にびっくりしました。神戸や横浜など、確かに、ある意味で、黙っていても、教会に新来者が来られるのかもしれません。しかし、私どもの地域では考えられないことです。それなら、年間、50名の方たちは、神を探し求めて教会に来るのでしょうか。それなら、パウロが言うことは間違いなのでしょうか。そうではありません。神を探し求めると言いつつ、誰のためにということがここで問われるのです。神のために、神を求める、それこそ、神を求めるということなのです。自分を幸せにするための装置としてのキリスト教、教会であるのであれば、それは、まさに、神を求めているのではなく、自分を幸せにし、楽にし、役立つ神を求めるのです。

万一、そのような人が真の神に出会わず、つまり、本当に自分の罪を認め、悔改めないまま、洗礼を受け、教会員になってしまえば、これは、大変なことになるはずです。教会は自分の役に立つものとして理解されるとき、役に立たない部分は、かかわりを持たない、あるいは、役に立つ教会にしてしまうからです。そうであれば、いかに、教会活動に熱心であったとしても、そのような活動がいかなる意味でも奉仕にはならないことは明らかであります。礼拝式のことを考えてみればすぐに分かるのではないかと思います。いったいこの礼拝式は、誰のためにあるのでしょうか。丁寧に言わなければ誤解が生じやすいのですが、しかし、素朴に、シンプルに答えることも大切であると思います。素朴な答えは、一つです。神のためです。神の栄光のために捧げられるものなのです。

最後に、この詩の最後の言葉に注目いたしましょう。「彼らの目には神への畏れがない」実に、ここにこそ、罪の正体があらわにされているのです。罪とは、何か。それは、神への畏れがないことです。
使徒パウロは、不信仰者たちの弁解、屁理屈にたいして、「決してそうではない」と繰り返しましたが、最後の言葉は何でしたでしょうか。「こう言う者たちが罰を受けるのは当然です。パウロは刑罰を受けると申しました。しかし、私は思います。この刑罰を本当に恐れることができる者は、既に、罪から神へと転回する、方向を変えることができるということです。神から受ける刑罰のリアリティが分からないから、屁理屈を言えるのです。いや、ある人はこうも言うかもしれません。たとえばエホバの証人に入信した方は、大変、脱会することが困難であるということです、しかも、その方がキリスト者になると言うことはほとんど困難であると聞きます。それは、エホバの証人の教えの中では、キリスト教会とは、悪魔の虜であり、そこに行くなら、神の刑罰があるとまさに叩き込まれているからです。ですから、信仰を捨てることも困難であり、ましてキリスト者になることは大変なことだと言うのです。そこでも、しばしば、刑罰がその人をコントロールするのです。マインドコントロールの一つの有力な方法は、刑罰への恐怖心を叩き込むことです。罰の恐しさを徹底して教えるのです。そうなれば、その団体から離れることができにくくなるのです。

それなら、キリスト者は、「罰を受ける」ことへの恐れから、罪に踏みとどまるのでしょうか。確かに、それがないとは言えません。たとえば、聖餐を祝うとき、制定語を読みます。自分の身に神の裁きを受けることがないように、御体を弁えなさいと警告されます。ですから、この警告を受けて、具体的に罪から離れることが起こるし、起こるべきであります。しかし、私どもが罪とたたく原動力は、ただ、恐怖心からしか来ないのでしょうか。どこから来るのでしょうか。それは、主イエス・キリストが神の刑罰をお受けになられ、私どもの罪の赦しの道を切り開いてくださったことです。そのようにしてまで、神は、私どもの罪を赦し、神の子としての喜びの道を切り開いてくださったのです。ですから、私どもは、このキリストの苦難と死を知ったものとして、この神に喜ばれるように生きたい、神の悲しみと怒りを招くような罪を重ねたくない、このようなブレーキが、強力なブレーキが働くのです。高速道路を疾走する何トンもする車であっても、最近の車の強力なブレーキは、壊れずに、ディスクを挟み込んで止まらせます。私どもは、罪との戦いを、どこでするのでしょうか。それは、「そんなことをしたら、結局自分の損になる。結局、自分の人生を損なう、メンツがつぶれる、恥ずかしい」と、このような思いの中で、留めるだけだとしたら、それは、キリスト者でなくとも、多くの人々がしていることではないでしょうか。しかし、私どもは、神への畏れに基づいて留まるのです。また、主イエス・キリストにおいて啓示された父なる御神を悲しませたくない、悲しませてはならないというその点で、踏みとどまるのです。さらにただ罪を犯さないという消極的な生き方から解放さ、神を、真に探し求める人間になるのです。つまり、神の栄光を求める人間となるということであります。「子どもカテキズム」の問い一は「、人生の目的は、神を知り、神を喜び、神の栄光を現すこと」でした。もともと、目的を見失うことが罪でした。目的から逸れることが罪でした。しかし今や、神が私どもを拾い上げて、真の目的、まことの目標に向けて生かしてくださるのです。解き放ってくださるのです。それは、神の栄光のために生きるという新しい生き方です。それは、まったく新しくされた人間として造りかえられるといっても良いほどの御業です。今までとはまったく違う方向へと、きびすをかえて歩み始めるのです。

どのようにして、そうなるのでしょうか。それは、神がまさに必死になって、命をかけて、私どもを探してくださったことを知ったからです。神が、命の主であるお方のもとから、迷い出て、道をさ迷い、開いた墓のような死臭をもたらすような人間、結局のところ人を殺すことでしかない者となり下がってしまった者をも、憐れんで下さったからです。その憐れみの御業が、主イエス・キリストの御業であります。命の主は、はぐれてしまった私どもを探し出し、拾い上げて、私どもに、主イエス・キリストの十字架と復活の御業を当てはめてくださいました。赦しと救い、祝福の御業をあてはめてくださって、私どもを神の子、神の栄光を喜び、神に喜ばれるように生きたいという志をあたえてくださったのです。

パウロは、これまで、必死に、罪を認めるようにと促し、説得してまいりました。それは、罪を認め、お詫びし、悔改めつまり自己中心から神中心へと方向を転換すること、キリストを信じて生きることがどれほど、嬉しいことであるのか、どれほど、神が喜ばれることであるかを知っているからです。だからこそ、パウロは、不信仰者に対して、屁理屈を言う人々に対して、一歩も譲歩しなかったのであります。彼らが憎いからではないのです。神が罪人を激しく愛する愛、真剣な愛を知っているからなのです。私どもはこの礼拝式で賛美を歌いました。この唇が、そのような唇に変えられている事をどれほど感謝すべきでしょうか。今、祈りのあと、直ちに共に声高らかに歌いたいと思います。開いた墓ではなく、神への感謝と命の賛美を捧げましょう。そして、今週も、具体的な罪と戦い、神を神として崇め、神の栄光を求める歩みをなしてまいりましょう。

 祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、私どもは罪人です。パウロが言いましたように、私どもひとりひとりが罪人の頭であります。他の誰かと比較するからではありません。私どもの罪は、御子を殺した罪です。隣人を口で、足で殺した罪であります。そして、その罪を償わせるために、御子イエス・キリストすら私どもの口で、足で殺したのです。
しかしながら、御父よ、あなたは、そのような私どものために、御子を十字架に罪の支払う償いの代価として、ほふられました。それによって、罪人を神の子、まことの神の民の一員にひろいあげてくださったのです。心から感謝申し上げます。今、あなたの御霊のお働きによって、私どもの心の中に、あなたに喜ばれるように生きたい、あなたを悲しませたくないという、まことにかつてまったくなかった、信仰の心があなたによって与えられています。心から感謝申し上げます。この信仰の心を、富ましめてください。そのためにも、御言葉を聴き取らせ、祈りへとたえず、連れ戻し、神の栄光のために生きる志を常にお支え下さい。罪を犯したときには、屁理屈を捨て、速やかに悔改めることのできる柔らかな、あなたを畏れる信仰の生き生きとした心を絶えず新たにしてください。アーメン。