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「神の御顔の前で」

   
    2005年5月1日
         テキスト ローマの信徒への手紙 第3章9節~20節②

では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

今、使徒パウロは、このように断定します。「既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」つまり、すべての人間は、いかなる民族を問わず、罪の下にある。罪の力に支配されている。屈服させられているということです。しかも、使徒パウロの最大の目標、この議論の眼目は、ユダヤ人も、実に異邦人であるギリシア人と同じ罪人に他ならないのだと言うのです。彼らが抱いている誇り、自己像とは、「自分たちは、神の律法を与えられた神の民なのであるぞ」、という点に根拠がありました。そこから、ユダヤ人以外は異邦人であるという蔑視する見方、さげすむ思いが固まっていったのです。しかし、今や、パウロが繰り返して議論してきたとおり、聖書自らが主張している通り、人間は、男も女も、若い者も高齢者も、神の御前に罪人であるというのなら、ユダヤ人たちのその誇り、自己理解は意味を失ってしまいます。

どうしてパウロは、それほどまでにユダヤ人を問題にするのでしょうか。それは、神の約束は、ユダヤ人にこそ最初に向けられたことは事実だからです。神の御心は、このユダヤ人の救いであり、ユダヤ人を基点にして、ユダヤ人を初めとして、全人類へと及ぼすことであるからです。それは、このローマの信徒への手紙におけるパウロの一貫した主張なのです。

しかし、もう一点もあるように思います。人間が罪を認めるということは、簡単なようで、しかしもっとも難しいことだからです。先週も、安城のスーパーマーケットで赤ちゃんの頭を包丁で刺して、逮捕された男性の初公判が開かれて、犯人は、謝罪を述べなかったとの報道がありました。法廷での戦いは、一般常識が通用しないような部分があるのかもしれませんが、しかし、被害者、遺族にとってはたまらない思いがしたでしょう。自分の罪を認めることは、自分が不利になるのであれば、決して認めない。しかし、ここで認めることが法廷闘争上、有利になるのであれば、情状酌量を求めて認めると言うことも起こるのでしょう。ただ、一般的に申しまして、あからさまに罪を犯して、それが本人だけではなく、周りの者たちも知っている、知られてしまったときには、「私は悪いことをしました。私は、罪を犯しました」と認めることは、簡単であると思います。
ところが、やっかいなのは、自分はどこをどう見られても、人様に後ろ指を指されるようなことはしていない。自分の名誉にかけて、犯罪者、罪人呼ばわりされるいわれなど、まったくないと生きている、言わば、立派な人格者であればあるほど、自分の罪深さを認めることができにくいというところがあると思います。ユダヤ人とは、まさに、このような民であるのです。まさに、もっとも自分が神の御前に犯罪者、罪人であるなどとは認めにくいのがユダヤ人なのです。ユダヤ人が罪を認めるなら、他の民族が罪を認めることは、容易であるとおそらくパウロは考えたのだと思います。

罪とは、的外れの生き方、神という人生の目的を無視したあり方であると先週も学びました。そうであれば、ユダヤ人は、自分たちこそ、神に選ばれ、的である神を知り、神によって、的を目指して歩むようにと神の御言葉、律法を与えられ、一歩一歩、手取り足取り導かれている民なのです。そのような民が、自分たちも異邦人と同じように神の御前に罪人であるという理解は、断じて認めがたい、受け入れがたいのです。しかしそこにこそ、パウロがこだわるのです。もっとも、罪人であると認めたがらない人間にこそ、焦点を絞って、悔改めへと導くこと、それが、伝道者パウロの言わば狙いなのです。

さて、パウロは、ここで、「それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。」と言います。すべての人の口がふさがれるとは、どのような意味でしょうか。先週も、我々罪人とは「役立たず」な存在であると学び、もとのギリシャ語の直訳で言えば、腐っていると、腐敗しているということであると学びました。腐敗したものほど、手に負えないものはないと申しました。当時の聖書が読まれていた時代、地方のお墓とは、土葬ですから、まさにそのまま地面に埋める、あるいは、主イエスのお墓であれば、洞穴のようなところに、包帯のようなものを巻いたまま安置するわけです。その洞穴が開いていれば、そこから、死臭が漂うことは、当然です。そして、聖書は、我々の口とは、開いた墓のようである。蝮の毒をもっている、つまり、人を殺すほどの毒をもっているというのです。

しかし、パウロは、世界中の人間が、男も女も、若者も高齢者も、こぞって神の法廷に出廷すること、神の裁きを受けるために神の御顔、ある翻訳では、神の視線、神のまなざしと訳しましたが、神の目のまん前に出ること、これをこそ、パウロは求めているのです。パウロは、言わば、徹底的に、検事になるのです。すべての人間を神の裁きの座に出させたいのです。

ところが、出廷しているユダヤ人は、なおかまびすしいのです。本当は、すでに口がふさがれるべき、屁理屈を捨てて、黙るべきなのに、そこでなお口をあけるのです。そこで、律法を堂々と語るのです。その有様を描き出したのが、第2章17節以下です。「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。」

ユダヤ人は、律法を頼りにし、神を誇る。良い意味でそうしているのではないのです。そこで胡坐をかいているのです。律法の教師であることを自認しながら、しかし、自分自身は、それを行っていない。パウロはイザヤ書を引用し、痛烈に批判します。「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」

先日、私どもの5周年記録誌を読み返しておりましたとき、家内の礼拝式での奨励を読み直しました。そこに、孫引きになりますが、三浦綾子さんの言葉が引用されているのです。「わたしたちの心の内側は水洗式ではなく、汲み取り式のトイレの内側のようだ。底をのぞくには勇気が要ります。そしてそれを主イエスはしてくださいます。」「彼らののどは開いた墓のよう」とは、まさにそのこと、汲み取り式の便所のようなものです。今の子どもたちには、分からないたとえになってしまったかもしれませんが、くさいもの、汚いもので満ちているのです。ですから普段は、便器には蓋をかぶせているのです。ところが、それが、開いている、しかもいつも開いているのです。それが、神と隣人との前にある私どもの姿、罪の姿なのです。開いて何をするのか。弁解する、屁理屈をこねる、悪いのは、自分ではないと言いのける。あるいは、悪いのは自分だけではないと論理を挿げ替える。あらゆる手立てをたてて、神の法廷に出ようとしないのです。いや、神の法廷に出ていながら、自分たちはなおそこで、罪を認めないのです。それが、ユダヤ人、そして我われ異邦人、すべての人間の罪の特徴であり、姿なのです。しかし、そこに、一人、主イエス・キリストだけは、私どものその汚れ果てた心を覗き込んでいてくださるのです。
あるいは逆に、このような企みもまた、ありえます。ユダヤ人より、我々、異邦人が企てることの方が多いように思います。それは、神の御前に、だんまりを決め込むことです。時間稼ぎをするのです。言わば黙秘権を使うのです。黙ったままでいれば、そのうち、忘れ去られるとでも考えるのです。黙っていれば、神の御前でも、時効になると、たかをくくるのです。

かつて、律法学者たち、ファリサイ派の人々は、けんけんがくがくと、かまびすしく主イエスに向かって、彼は律法を破ったのだと訴え続けました。捕らえられた主イエスは、祭司長たちの法廷に出させられました。弁解することはいくらでもおできになられたにもかかわらず、主イエスは、何も語られませんでした。ただ黙って彼らの言葉を聞いておられたのです。イザヤ書が予言したとおり、主イエスは、毛を刈るものの前にいる羊のように黙ってさばかれていたのです。

この主の御姿は何を意味しているのでしょうか。何を明らかにするのでしょうか。それは、本来、わたしどもこそ、神の御前に言い開きをせず、神の裁きを服することが当然であるということではないでしょうか。私どもこそ、神の裁きの座の前で、言い開きをすることはできず、口をつぐんで、ただひたすら神の正しい裁きを受けるだけの存在であることが、逆に、はっきり示されるのではないでしょうか。そして、そのように神の法廷に出廷するときこそ、そこで実は、私どもに身代わりになって神の法廷に出廷し、私どもの罪とその責任を担い、神の怒りをお受けになられた主イエスと出会えるのです。パウロがしたいことは、実に、このことなのです。

パウロは、私どもを断罪したいから、神の法廷に出廷させようと、これまでの議論を重ねたわけではないのです。その正反対です。自分の罪を認め、神の御前で、口をつぐんで、その刑罰を粛々と受けるように、と招くのです。そして、そのとき、使徒パウロは、言うのです。言いたいことがあるのです。それこそが、第3章21節以下です。あるいは、既に学びました第1章16節「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」この主イエスを信じて救われる道があるから、それを知っているから、この赦しにパウロ自身があずかったから、彼は何とかして、この主イエスの御前に私どもを出させたいのです。主イエスの御前に出るとは、神の御前に出ることです。そこで、罪を認めるのです。

今日、我々人間は、主イエスの御前でしか、罪を認めることはできません。父なる神の御前で、認めることはできないのです。それは、まさに私どもが徹底して罪人だからです。罪人である私どもは、神の御子であり、私どもを罪から救うために人となられた主イエス・キリストのもとに出る意外には、自分の罪、自分の便器の底を見ることができないのです。主イエスによって、覗き込まれ、しかもなお、主イエスによって拒絶されず、むしろ、憐れまれることによってしか、私どもは自分に素直になることも、罪を認めることも、罪を悲しむことも、罪を憎むこともできないのです。しかし、主イエス・キリストの十字架のもとに赴くとき、私どもは罪を悲しむことができるのです。罪を、自分の罪を憎むことができるのです。

私どもは、罪を憎むところまで行かなければ、決して、勝利ある生活ができません。しかし、パウロは、ここまで、キリスト者を導こうとするのです。そのためには、どうしても、自分の罪を認めること、口を閉ざして神の裁きの前に出ることが必要なのです。そして、そこでこそ、父なる神が、私どもをその御子の身代わりの死によって、私どもの罪責を帳消しにしてくださるのです。

私どもは、今朝も、聖餐の祝いに招かれています。それは、神の裁きと同時に、赦しにもあずかるときです。ここにキリストがご臨在しておられます。キリストが獲得された命の糧は、パンとぶどうジュースという二つの品によって、象徴され、この命の糧は、信じて既に洗礼を受けた者には等しく、平等に与えられるのです。そこに、新たな平等があります。すべての人間が、自分自身が犯した罪の下に平等に、神の断罪を受けることが定まっているのです。ところが、そのような罪人のために、神はその一人子を十字架にお与えくださり、私どもにお与えくださって、私どもの罪を赦し、神の子としてくださったのです。ここに平等があります。新しい恵みの平等です。
この聖餐に私どもは招かれ、この天国の祝宴の前味を味わいます。礼拝式が既に、この前味を味わうときですが、聖餐においては、まさに、私どもの喉で、味わうのです。開いた墓のような喉のなかに、聖餐の食物が入るのです。そのようにして、私どもは罪を赦され、神の子としての新しい存在へと造りかえられ続けてまいります。

ですから、聖餐の度に、私どもは式文に則って、コリントの信徒への手紙一第11章を朗読します。主の体を弁えないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自らに裁きを飲み食いしているのです。という警告を聴きます。私どもの教会の式文には、コリントの信徒への手紙一第12章30節以下は記されていません。「そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。わたしたちは自分を弁えていれば、裁かれはしません。裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための主の懲らしめなのです。」実に、恐るべきみ言葉です。この御言葉の警告を真実に受け止めることが、実は、教会にとってどれほど、大切なことであるのか、それは、正直に申しまして、私自身、今まで消極的でした。日本キリスト改革派教会の式文にも、コリントの信徒への手紙一の第11章の朗読は、29節までとなっております。私どもは、これまで聖餐を祝うという表現をしてまいりました。聖餐式を行うというより、主日礼拝式のなかに、あらたに式をするわけではありませんし、礼拝式は基本的に、聖餐を伴うものと言う理解がありますから、聖餐を執行する。しかし、執行するなどという、味気ない言い方より、この聖餐は天国の祝宴のモデルなのですし、事実、天国を開くものなのですから、聖餐を祝うと11年間表現してまいりました。しかし、パウロのこの警告を、合わせて読むことも大切ではないかと考え直しております。その点、日本キリスト改革派教会の定めた式文の招きの言葉にはその、最後にこう言うのです。「また、陪餐停止あるいは除名の戒規の下にある者も聖餐を受けることはできません。どうか、主が、そのような人を悔改めに導き、この恵みに再び浴し得る日を早くお与えくださるように祈ります。(このような人々は、配られるパンとぶどう酒を受け取らないようにしてください。)」とあります。わたしは、この式文で、毎週、毎回聖餐を祝うのなら、いかがなものかと思ってまいりましたし、今も、基本は同じです。聖餐を祝うとき、陪餐停止者や、除名された者がおられるなら、まだしも、いないのに、形式的に式文を読むのであれば、問題がある、お祝いの喜びを返って損なうと考えます。しかし、一報、私どもの現在の式文には、確かに、警告の部分は弱いと言えば弱いかもしれません。しかしながら、私は、聖餐に招かれている一人ひとりが、自分をよく確かめること、吟味することがなされれば、問題はないと思います。牧師は、聖餐の食卓を整えるために神に立てられています。教会形成とは、聖餐の食卓を整えることなのです。洗礼を施し、信仰告白に導くのも、ひとえに、この聖餐の食卓にふさわしく整えるためです。教会で、一生懸命、会員を訓練するのも、ひとりひとりが、聖餐の食卓にふさわしい神の子として神にお捧げするためです。

そして、私どもは、今朝も、この聖餐の食卓に招かれています。そして、神の裁きと赦しとを同時に受けるのです。そして、今ここで受けるからこそ、私どもは、やがて天上でも主イエス・キリストとの交わり、その命の宴にあずかれる保障をいただくことができるのです。ここで、断罪される、ここで、主の裁きに服し、口をつぐむ。しかしそれこそは、私どもにとりまして、主の獲得された罪の赦しを受けることでもあるのです。それが、使徒パウロが、これまで一生懸命議論してきたこと、この聖餐の食卓に招くこと、主イエスの与えてくださる罪の赦しの救い、神の力を受ける場所へと招くことなのです。

さて、パウロは、第2章14節でこう申しました。「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法をもたなくとも、自分自身が律法なのです。」しかし、今日の御言葉は申します。「なぜなら、律法を実行することによっては、誰一人神の御前に義とされないからです。」一見、矛盾するような言葉ですが、私どもは、パウロが、律法を実行することによっては、誰一人神の御前に義とされないことを徹底的に知っているゆえに、律法を持たない異邦人が、自然に行えばとことを言えたのです。確かに、律法を完全に行うことができれば、律法を持っていない者も、その人自身が律法となりますが、しかし、そのような人間は誰一人もいないのです。律法が悪いわけではありません。人間が、アダムにおいて罪を犯し、罪を犯さないでは生きれない人間に成り下がってしまったからです。律法は、神の恵みとして与えられたものであり、律法は、神の愛のしるしなのです。祝福なのです。ところが、人間が罪を犯して、罪人に成り下がったから、律法がかえって呪いになってしまったのです。

「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」このパウロのメッセージを、今朝、私どもはどのように受け止めたら良いのでしょうか。今日のわたしどもにとって、律法とはいかなるものなのか、それは、ローマの信徒への手紙全体が取り扱う、大きな主題です。しかし、その答えはここでも既に出ていると言えます。律法は、私どもに罪の自覚を与えるのです。罪の自覚を、英語の聖書では、罪の知識と訳すものが多いのです。これは、ただ頭で知ることではありません。キリスト者だからこそ、知る罪があるのです。赦された神の子だからこそ、いよいよ知ることがあるのです。それは、律法によって知るのです。今日も十戒を唱えました。口で唱えました。しかし、この十戒を、実生活のなかで、絶対に守ろう、どんなことがあっても守り抜こうと決心して唱える人と、このような方はここには誰もおられませんが、式次第にあるから、なんとなく唱えている人とでは、まったく意味が違ってまいります。絶対に守ろうと唱えようとするとき、私どもがどれほど、罪人であるか、罪深いものであるかが分かるのです。そこに、この律法の一つの尊さ、すばらしさ、ありがたさがあるのです。自分の罪を知るのです。罪の知識が与えられるのです。そこで、何が起こるのか、私どもはこの聖餐に招かれているありがたさを知るのです。ここでこそ、主の赦しを味わうのです。ここで、主イエス・キリストが十字架についてくださり、お甦りになられたのは、私どもの罪を贖い、赦すためであったと知るのです。ここで、聖餐の礼典において、私どもは、神の御顔の前で、英語の聖書には、神の前を、神の視線においてと訳しました。聖餐の礼典にあずかるとは、神の見ておられる前で、主イエス・キリストの獲得された義、救いを分け与えていただくことです。

ここに、私どもの感謝があります。そして、願わずにおれないのは、まだ、この聖餐にあずかっていない方々が、一日も早く、この命の食卓、天国の宴の保障にあずかってほしいということです。もしも、ローマの信徒への手紙をここまで学んできながらなお、自分の罪が分からないと仰るなら、今日から十戒を守ろうと徹底して実践してみてくださればよいのです。来週、どのような思いで、礼拝式に来ることができるでしょうか。すぐに、自覚が与えられるはずです。罪の知識が与えられるはずです。そして、そのときには、この罪から救ってくださいという祈りと願いも与えられるはずであると信じます。そうであれば、速やかに洗礼を志願してください。そこから、聖書の教え、教理の学びが始まります。

また、既に洗礼を受けた者は、改めて自ら問いましょう。御体を弁えているのか。キリストの体なる教会の一員、一枝として、どのようにすぐる週、すぐる一ヶ月間を生きてきたのか、そのことを問うのです。そして、心からの悔改めをもって、そしてそれにまさる望みと喜びをもって、この礼典にあずかりましょう。この聖餐は、神の法廷に出ることです。そして、そこではっきりと無罪の宣告を受けることができるのであります。

祈祷
 父なる御神、罪について学び続けてまいりました、律法によってあなたの裁きに服すべきことを教えられてまいりました。そして、あなたの法廷に出廷した私どもに、あなたは、裁きではなく、罪の赦しの宣言を与えてくださいました。それを保障するため、今朝は聖餐の礼典にまで招いてくださいます。この恵みに発奮し、今週も、罪と戦い、神に喜ばれる生活へと踏み出させて下さい。