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「天地創造前からのわたし」


2005年5月15日

聖霊降臨祭礼拝式・幼児洗礼入会式・信仰告白式
聖書朗読 使徒言行録第2章1節~4節
テキスト エフェソの信徒への手紙第1章3節~14節


「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」 

本日は聖霊降臨祭の主日礼拝式を祝っています。聖霊降臨祭は、主イエス・キリストが成し遂げられた十字架と復活という救いの御業の50日後、聖霊なる神が、祈っている弟子たちに注がれた日の出来事を記念する教会の祝祭日、お祭りです。聖霊が注がれたとき、弟子たちは、大胆に、信仰を告白することができるようになりました。「イエスさまは主であられる、あなた方が殺したイエスさまを父なる神は、死人の中から甦らせて下さった、あなた方も罪を赦され、神の子となるように悔改めて主イエスを信じなさい」と、説教し始めたのです。こうして、その日、一気に3000人が洗礼を受けました。これが、私どもの教会がこの地上に姿を現した日なのです。

聖霊降臨祭を、ペンテコステとも呼びます。使徒言行録に「五旬祭の日」とあります。50日目の日ということです。ギリシャ語では、50をペンテコストスと申します。五旬祭とは、ユダヤ教の「刈り入れの祭り」を意味します。2000年前、この刈り入れの祭りの日に、単に食物の収穫ではなく、霊的な収穫、神との交わりへと人々を収穫する祭りの日となったのです。この霊的な、決定的な刈り入れ起こった結果、教会が地上に誕生したのです。このような特別の祝いに、本日は、小林悠香ちゃんの幼児洗礼入会式、相馬恵姉妹の信仰告白式を挙行することができますことは、特別の祝福、二重の祝福であると信じます。新たな教会員が、教会へと霊的に刈り入れられる、増し加えられるのです。まことに聖霊降臨祭にふさわしい挙式、祝福であると思います。

この日、皆さまと読むべく与えられたのは、エフェソの信徒への手紙第1章であります。特に、その4節、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」という御言葉を中心に学びたいと思います。

聖霊降臨祭のことをしばしば教会の誕生日とも申します。決して間違いではありません。しかし、丁寧ではありません。なぜなら、地上に教会が誕生する以前から、教会は、旧約聖書の時代に、存在していたからであります。教会は、2000年前に突如、起こったわけではないのです。そのことを考えながら、本日は、このお二人、いへ、ここにいる私どもすべての存在のことを重ねあわせて考えてみたいと思います。私どもは、それぞれの誕生日の前に存在していたのでしょうか。生まれる前、わたしという存在はあったのでしょうか。なかったのでしょうか。それを鮮やかに教えてくれる御言葉こそ、先ほど朗読したエフェソの信徒への手紙第1章であり、エフェソの信徒への手紙全体なのであります。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」天地の創造、それが、いったいどれほど以前のことなのか、誰も分かりません。この地球の誕生がどれほど前のことなのか、それも、確実には分かっていません。人間がいつこの地上に誕生したのかも、確実には、分かりません。確実に分かっているのは、そのとき、わたしは存在していなかった、生まれていなかったということであると思います。

しかし、神は、ここで鮮やかに、天地創造の前から、私どもは神に知られていた、覚えられていたとお教えくださいます。私どもが、今日、ここに生きて、存在していること、さらに、実に神の御前に聖なる者、汚れのない者とされていること、神の子とされていることを教えられます。心から感謝致します。この私の存在、この私が神の子として救われてあることは、人間的な、思いつきなどではなく、決して偶然などではなく、神がその救いへとお選びくださったからなのであります。神の御計画、直訳すれば奥義にあるのです。神の熟慮、神の愛の熟慮に基づいて、私どもは、この地上に生まれ、洗礼を受け、信仰を告白し、今日があるのです。繰り返しますが、私どもの存在は、決して偶然ではなく、神の天地創造の前からの選びに基づいている、土台をすえられているのです。

生まれる前のことについて、考えること、これは、この聖書を読み、天地創造の神を知ることによって考え始めるということが、多いかと思います。しかし、ほとんどの人にとって、少なくとも一度は考えることがあるのは、このことではないでしょうか。それは、死んだ後はどうなるのかということであります。
私どもは、生まれて、物心がつくようになりますと、人間は、誰しも死ぬのだということに気づき始めます。命あるものには、終わりがあるということが分かってまいります。ただし、幼児には、人の死を知っても、自分も死ぬとは考えない場合が多いかもしれません。しかし、少しずつ成長すれば、自分も間違いなく死ぬことを予想するのです。ただし予想はするのですが、死後のことを考えても分からないし、恐ろしいので、なるべく考えないようにします。つまり、死を見つめて生きることをしない、死を見つめて生きることができないわけです。

もとより、どこかのおかしな宗教のように、死後のことをさも見てきたかのように述べるのは、愚かなことであります。私どもは、聖書に記されていること以上に、詳細に述べることはできません。しかし、何故、死後のことを詳細に、知らなくても平気でいられるのか、聖書は、そのことに対して、驚くほど自制的に記すのか、それは、この地上にあって、生ける神、天地の創造者なる神との交わりに生きることができるからであります。今ここで、永遠の神に顧みられていることの確かさを知っている人間は、つまり、キリスト者は、地上に存在する前のこと、死んだ後の自分の存在が、神の御手、神の懐に抱かれたものであることを確信することができるからであります。

ここにキリスト者の救い、幸いがあると言ってよいのです。だから、私どもの地上の人生は揺るがないのです。詩篇第46篇で、詩人はこのように高らかに歌っております。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦 苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。 わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。」永遠の神、天地の創造者なる神に選ばれ、知られ、顧みられている私どもは、天地が動揺しても、揺るがないで生きれると歌うのです。アウグスティヌスの言葉として有名な、「わたしたちは神の懐に抱かれるまで決して安らぐことはできない。」という言葉も思い起こされます。神の懐に抱かれる経験、それは、神を知り、神を信じ、神に従って生きる者に与えられる経験であります。その人にこそ、魂の安息、平安が訪れるのです。魂の平安は、生きる力を与えるものです。使命に向かって生きる動力、生きる力もまた日々与えられるのです。

神は、エフェソの信徒への手紙を通して、私どもは何故、天地創造の前から、神の御前に聖なる者、汚れのない者にしようとなさったのか、つまり私どもの生きがい、使命をもあわせてお教えくださいます。それは、「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」と申します。先ほどの短い聖書朗読のなかで、神を讃える、神の栄光を讃えるという言葉が三回も記されております。まさに、私どもの生きる目的、救われた目的、神の子とされた特権の目的、使命、ミッションとは、神の栄光を現すこと、神の栄光を賛美することにあるのです。これは、私どもの教会の信仰告白であるウエストミンスター大小教理問答、また、子どもカテキズムにも記されています。「人生の目的とは何ですか」「神を知り、神を喜び、神の栄光を現すこと」であります。そこへと、その目標に向けて、私どもは造られました。それが、人生の目標、目的、目指す的なのです。人生の目的とは、日々の生活の目的、意味のことではありません。今この1、2年の目先のことで、何のために生きているのかということではありません。生涯全体にわたる生きる意味、生きる目的について考えること、その答えを見出すことは、人間が人間として生きる上で、不可欠のことです。これなしに、私どもは、地上で、まことの生きがいをもって生きることができないのです。
いったい、もしも我々に、この人生の目的、目標、的が分からないとどうなるでしょうか。それは、脱線です。脱線することがどれほど悲劇的なことになるのか、先日の大阪、尼崎のJR西日本の脱線事故のことを思い出していただければ、すぐにお分かりいただけると思います。その悲惨さは、まさに目を覆いたくなります。

ところが、実は、神なき人生においては、既にこの脱線が起こっているのです。聖書は、神を知らない人生、生きる真の意味と目的を知らない人生は、まさにこの脱線と同じであると警告しています。むしろ、あの脱線事故にまさって悲惨な状況にあると言えるのです。聖書は、それを「罪」と申します。もともとの聖書の言語の罪とは、的をはずすと言う意味を持っています。的外れに生きることが罪であるという理解が聖書の罪の理解なのです。天地の創造者なる神御自身は、人間を創造し、人間が人間として生きるためのレールをひいて下さいました。つまり、脱線して走っている、生きていることを罪と申します。

このレールは、一人ひとりに用意されています。それは、誤解してはなりません。親が決めたレールの上を走らされるというような意味でのレールとはまったく違います。そのようなレールではないのです。そのようなレールは、初めからよく見えております。良い学校に入学する。良い会社に入社する。良い人と結婚して、良い老後を送る。そのようなレールが果たしてよいのかどうか、問われます。また、結局、良いレール、エリートコースのレールから外れたら最後、どうすればよいのでしょうか。第二番目のレールがあるのでしょうか。敗者復活でもとのレールに乗れるようにがんばるのでしょうか。第二がだめであれば、第三とランクを落とせばよいのでしょうか。第三もだめなら、そのようなレールの存在自体を否定して、なるがまま、楽な方に流されて生きてゆくしかないと言うのでしょうか。しかし、いずれにしろ、そのようなレールと、神がお与えてくださるレールとはまったく違います。具体的には自分で、試行錯誤しながら見出して行くことができるし、そうすべきなのです。それだけにそのレールは、ひとりひとり違っているのです。比較して優劣を問うこともできません。しかし、どのレールも神を目指して、進んでゆくレールなのです。そこから脱線すると、自分が死ぬばかりか、隣人をも破滅に招きこむことが起こるのです。責任ある立場にいる人ほど、まことにその責任は思いのです。

この後直ちに、最初に、幼児洗礼入会式を挙行いたします。これから小林姉は、幼子に、あなたは契約の子であると教えるのです。契約とは、選びです。神が一方的な恵みをもって、愛し、選ばれたのだと教えるのです。神のめぐみを讃えるために、生まれたのだと、人生の目的を教えるのです。神の設定してくださったレールを教えるのです。親の敷くレールではなく、神のレールを教える。このレールを生きるとき、神がその子に与えられた賜物を用いてくださるに違いないのであります。

悠香ちゃんは、お母さんのお腹の中にいるときから、教会で祈られてまいりました。毎週の祈り会で祈りを重ねてきたのです。その意味では、小林姉はこれから、幼子と共に、祈祷会に出席する努力を、最善の努力を払っていただきたいと思います。しかし、今日の神の御言葉は、それ以上の現実を私どもにはっきりとお教えくださいました。つまり、彼女は、私どもが祈りを捧げる、はるか以前から、神に覚えられていたということです。

ですから幼児洗礼を施していただくことを願い出られた親は、この神の、わが子への計り知れない選びの事実を告げるのです。教えるのです。エフェソの信徒への手紙はこのように告げます。「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」契約の子の親とは、神のこの御計画、約束、すなわち契約を教えるのです。あなたは約束されたものの相続者なのだと、神の子として生きるように選ばれているのだと教えるのです。あなたは、人間らしく生きなければならない、的をはずさないで、脱線しないで、神の栄光を讃えて生きる人間として生きなければならない、それを告げるのです。それがどれほどの恵みであるかを、自分の口で公に言い表せるように信仰を教えるのです。そのためには、親である自分自身が、信仰に生きることが必要です。

神のわが子への愛の集中、愛の事実に倣って、わが子を愛するのです。それは、神の愛に教えられ、学ぶことです。それは単なる母性愛ではありません。それを越えるものです。産んだ母としての自分の愛がほとばしり出ること、それ以上のことです。神の愛に見倣って愛すること、育てること、育むことです。自分の子を神に与えられた子として、見ることに通じます。わが子は、自分のものではなく、神のものとしてみることです。その意味では、幼児洗礼とは、その親の信仰を支えるしるしともなるのです。またこれは言うまでもありませんが、洗礼の礼典によって、公に、幼子は、神の契約の民の一員として受け入れられます。つまり、生涯消し去ることのできない神の恵みのしるしを、ここで証印されてしまうのです。目に見える形で、契約の子となるのです。幼児洗礼を受けるとき、今そこで、本人の決定的な祝福を受けることを意味するのです。

しかし、あえて申し上げなければならないことで、その意味で、この契約のしるしをわが子に施すことが許されていない、できない仲間もおられます。配偶者の理解を得られるようにと絶えず祈らなければなりません。わたしは、これほどの恵み、神の愛の招きを、人間が押し留めてよいのであろうかと心の底から思います。信仰が与えられていないので、分からないのですから、仕方がありませんが、それでも何とか、子どもたちに洗礼を施してあげたいと思うのです。なぜなら、親以上にわが子を愛しておられる神御自身が、その御前で、聖なる者、汚れのない者にしようとキリストにおいてお選びくださっているからです。

 今、信仰を公にし、現住陪餐会員として聖餐の食卓を整える業、つまり教会形成に主体的に、責任をもって担う仲間も備えられております。今日から、聖餐にあずかれます。聖餐にあずかるとは、主の体なる教会のために生きることを表明する行為です。教会のために生きようとしない者は、私どもの理解からは、聖餐にあずかることを許すことはできません。ですから、赤ちゃんでは不可能なのです。幼子では早いのです。しかし、今、時至り、親の意思ではなく、自分の意思で、いへ、聖霊のお働きに押し出されて、信仰を告白することになりました。なお高校生ですが、しかし、今日の会員総会の議員にもなります。特権と同時に責任も与えられるのであります。しかし、何と言う光栄ある特権と責任を与えられたことでしょうか。遂に、伝道する公的な資格を与えられたのです。この与えられた特権を無駄にしないように、これからなす勉強も遊びも、ただ神の栄光のために取り組むこと、それが使命と同時に特権です。神を讃える全生涯となるように選ばれたのです。今、そのお選ぼくださいました神、契約の神に信仰を告白するのです。そもそも告白と言う言葉の意味は、賛美するという意味を併せ持っているのであります。つまり、この告白の行為こそ、神が天地創造の前から御計画しておられた神秘、奥義、御業なのです。それが、今、地上で、目に見える形で実現するのです。神の厳かな御業を思います。コリントの信徒への手紙一第12章3節にこのようにあります。「また、聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです。」信仰を告白させてくださるのは、聖霊なる神御自身の御業なのです。聖霊降臨祭で、聖霊が注がれたとき、使徒たちは、イエスは主であると命をかけて告白しました。それと同じ一つの霊を受けたからこそ、あなたは、今日の信仰告白式を迎えることができたのです。神のご目的、永遠の御計画が、あなたの一生涯を通して実現するのです。そのことをおそれおののきつつ、いっそう信仰の成長、人間としての成長に取り組むことができるのです。

そして、この二人を新たに迎え入れた私どもは、なお、心を引き締めて、この教会がいよいよキリストを主と告白する慰めの共同体となるように、彼らのよき模範となるように、励みたいと思います。そのためにも、聖霊の新たな注ぎを絶えず求める教会、つまり祈る教会、信仰を公に告白する教会、つまり伝道する教会として、神の御前に立ちたいと願います。

 祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、私どもの地上の命の前から、天地創造の前から、私どもを主キリストによって神の子とし、神の愛と主イエス・キリストの恵みを讃えさせるために、主キリストにおいてお選びくださいました御業を心から感謝申し上げます。私どもは今、福音を聞き、聖霊によって神の子として証印され、保障され、信仰に導きいれられました。どうぞ、あなたの目的である、神の栄光を褒め讃えることに全力を注がせてください。喜びにあふれ、感謝に満ちて、生き生きと神よ、あなたを褒め讃える生涯を送らせてください。今言葉も分からない幼子を抱き、幼子のために祈り、幼子に教理を教え、契約の義務を果たすように全力を注ぐことを誓うあなたの僕を祝福してください。また、今日、遂に信仰を公に言い表し、聖餐の礼典にあずかり、聖餐の食卓を整える奉仕者に導かれた若い仲間を祝福し、その生涯を神の栄光のためにささげ、尊く用いてくださいますように。アーメン。