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「信仰告白-神さまの真実におおわれて-」

「信仰告白-神さまの真実におおわれて-」
                   高校2年生
2005年5月15日 聖霊降臨祭主日礼拝式

 私は、生まれる前から毎週教会に通っています。だから教会に行くことは、ごく当たり前の、習慣的な行為でした。
幼い頃から、あれこれと考える事なく、神さまが天地の造り主であり、真の神であることを確信していました。それに、神さまとはとてもすばらしいお方で神さまを信じて歩んでいけば間違いない!と思っていたので、幼い頃からしっかりと神さまを信じて、信仰を告白できる人になりたいと思っていました。

それなのに、一方で、神さまへの大きな敵対心もありました。それは、神さまはいるはずなのに、今の世界は戦争で傷つけられた人や飢餓で死んでゆく子どもたちがいること。日本人の多くの人は、ほとんど神さまのことを知らないけれど、その人たちはどうなるのか?そのように考えて行くと神さまがひどい方に思えてしまうのでした。その時、神さまを理解できない、心から信じられない自分がとても悲しかったのを覚えています。

 高校に入った最初の夏休み、私は、母の友人で、教会の伝道師である方のお世話になり、アメリカに三週間滞在しました。そのとき、たくさんの教会の  集会に出席する機会を与えられました。また、その母の友人の方は、何をするにも先ず神さまに祈り、感謝していろいろなことをお願いしていました。また、ホームステイ先のホストマザーの方もキリスト者で、私が体調を崩して寝ているときには、お嬢さんのエリカちゃんと三人で手をつないで、わたしのために祈ってくれたのでした。それまで余り熱心に何をするにも先ず祈るということをしたことがなかったので、とても新鮮な感じを受け、同時に大きな安心感に包まれました。

そんな生活の中で、その時わたしは神さまを素直に愛し、信じることにあまり抵抗を感じなくなっていました。帰国してからも、その時の思いもあり、  学校でのいろいろな事に対してお祈りするようになりました。そうするうちに今度は、神さまのことをもっと皆に伝えたいと思うようになり、それにつれてもっと神さまを知りたいと思うようになって行きました。

 しかし、いざ、信仰告白の文章を書こうとするとまた疑問が出てきてしまったのです。本当に自分は神さまを信じているのだろうか、神さまはわたしを選んでくださって、洗礼を受けているけど、自分はまったくキリスト者にふさわしくない人間ではないではないか。そもそも、神さまはわたしのことを本当に愛していてくださるのか。もっと強い確信を求めたくなりました。

 すると、次の日の礼拝式の説教で、このようなことが語られました。「信仰者、キリスト者とは、まるで、誰から見ても立派な人間でなければならない、誰から見ても祝福されている立場でなければならないなどと思い込んでしまうのです。ただ信じるということになお付け加えて、自分の中にある確信を求めるのです。確かさを求めるのです。」わたしも同じことをしていました。 
さらに、こうも語られました。「どちらも、主イエス・キリストの真実への信頼ではなく、結局のところ、自分がキリスト者として立派に生きれるか生きれないのか、自分を覗き込んでいるだけです。自分は信じているのかどうかを、自分を点検して、自分で判断して、まだだめ、もうよいと判定していることです。」「『ただ信じる』と言うことができない、満足できないとき、それは、自分のなかに確信を持つようにしたくなるのです。それは、信仰のようであって、まことの信仰ではないのです。信仰とは、自分自身の真実などかなぐり捨てて、主によりすがることです。いへ、もともと自分の中に真実などないのです。本当に疑い深いものであって、信頼しきれない人間なのです。しかしそのような不信仰な者、罪人にもかかわらず、その不信仰を、言い換えれば、その不真実を主イエス・キリストの真実が覆ってくださるのです。包み込んで、神の義をまとわせ、信じる人間へとつくりたててくださるのです。」これはまさに自分のことを言われていると思いました。すぐ自分のなかに確信を求めてしまう信頼しきれないこの罪深い私をその時、神さまの真実が覆ってくださいました。私の中には、真実や、キリスト者としての立派な信仰や生活があるわけではありません。けれども、イエスさまの真実がわたしを救ってくださったことを信じています。そして、祈りによってこの立派でない信仰と生活も変えられることを信じています。

 わたしは、子どもの頃から、イエスさまが十字架にかかられたのは、私の罪のためであって、罪を赦してくださるためになされたことを信じてきました。しかし今神さまを心から信じた時に、まぎれもないこの自分のためにイエスさまが十字架にかかり、私の、私たちの罪を赦してくださったことを確信できるようになりました。信じることができた時、その事がすっぽりと心の中に入り、心から感謝することができたのです。

ローマの信徒への手紙第8章28節に「神を愛する者たちつまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということをわたしたちは知っている。」とあります。わたしにも神さまの御計画があることを感謝しています。そのお働きによって、信仰告白する事ができたことをとてもうれしく思います。そして私はこれから神さまのご計画のなかで、神さまと教会のために用いられる事をとても楽しみにしています。

 最後に、これまで皆さんにお祈りして頂いたことを心から感謝します。また、これからもお祈りしてください。わたしも、これから、お祈り会にも出席して、教会のためにお祈りしてゆきたいと思います。