過去の投稿2005年7月3日

「いのちの道、十字架」

「いのちの道、十字架」
       2005年7月3日

テキスト マタイによる福音書 第16章21節~27節

このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。

 私どもは、この朝も、共にこの祈りの家、神を礼拝する教会に招かれました。主の御前にそれぞれの定位置についております。そのことを心から感謝する者であります。今朝も、ニカヤ信条の信仰の告白を、心を合わせ、声をそろえて唱和することができましたことを、心からうれしく思います。ニカヤ信条は、すでに、1600年余りの教会の歴史を貫いて、世々の教会を生かしてまいりました。世界の諸教会を結ぶ絆となっています。そして、この信条を作成するためにニカヤの町に集まった当時の教会の指導者たちの体には、厳しい迫害による傷跡があったと言われております。私どもの教会もまた、わずか11年足らずですが、このニカヤ信条に表明された教会の信仰告白を継承し、「聖霊の力あふれる教会」として育まれ続けております。そのことをどれほど感謝したらよいでしょうか。

 私どもの名古屋岩の上伝道所の「岩の上」という名称は、これまでに何度も申してまいりましたが、本日の聖書のテキストの直前にあります御言葉、第16章18節、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」に由来いたします。そして、この主のご決意が示されたのは、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と信仰告白した際に語られたものでありました。主イエスは、この告白に対して、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と、心からお喜びくださったのでした。想像するだけで、心躍ってまいります。そうであれば、私どもの先ほどのニカヤ信条を通して捧げた信仰告白をも、主がどれほど、お喜びくださっていることかと思います。主イエスは、今朝も同じように、「あなたがたは、幸いだ。本当にすばらしい、良かったね。」と私共を喜んでくださり、祝福していてくださいます。

 さて、マタイによる福音書は、「このときから」と告げます。それは、ペトロが、すばらしい信仰を告白したときからということであります。そうなりますと、私共はたった今、ニカヤ信条を告白したばかりですから、とても似た場面のことのように思えます。主は、そのような弟子たちに心を開いて打ち明けられます。「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」この主の御言葉、それは、今日のキリスト者からすれば、誰もが、よく弁えている、ごく基本的な教えではないでしょうか。ニカヤ信条で告白したとおりのことです。

それなら、これを一番最初に、打ち明けられた弟子たちは、私どものように受け入れたのでしょうか。ペトロは、「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」のです。このときのペトロの姿、このふるまいは、先輩、年長者としての姿です、いへ、それ以上に、まるで主イエスの先生でもあるかのようです。子どもの頃、「君、あとで職員室に来なさい」と言われたら、「ああ、叱られるのだ」と分かりました。クラスメートもすぐ同情してくれるのではないでしょうか。ペトロは、弟子たちの前で恥をかかせないようにという、主への配慮をして見せて、おもむろに忠告して言うのです。「とんでもないことです。」
このみ言葉を、文語訳聖書では、「神さまの祝福がありますように」とその欄外に訳し出しています。たった今、ペトロは、主イエスから神の祝福を告げられたばかりでありました。そうであれば、ここでは反対に、主イエスの上に立つような思いで、この祝福を、告げ返したと理解することもできるかと思います。「主よ、あなたは、メシア、救い主ではありませんか。あなたは生ける神の御子ではありませんか。どうぞ、弱気におなりになられませんように。あなたが、何故、エルサレムで殺されなければならないのですか。確かに、長老、祭司長、律法学者たちがあなたに敵意を持っていることは存じておりますが、けれども、主よ、意気地のないことを仰らないでください。断じてそんなことがあってはなりません。」

しかし、そうなりますと、わたしどもの心に、何か腑に落ちない気持ちがわいてまいります。あんなにすばらしい信仰告白をしたのに、あれほど、主イエスに喜ばれたのに、あのときの信仰告白は偽物なのかという問いがわくのではないでしょうか。「あなたは神の子、メシアです。」この告白は、まったく正しい信仰です。ニカヤ信条を生み出す、キリスト者と教会の信仰告白の原点とも言うべきまったく正しい信仰であることは、間違いないのです。しかし、その信仰の言葉の内容においては、明らかに彼は、誤解していたのです。ペトロが考えているメシア理解、信じている救い主の姿とは、エルサレムで人々に殺されるはずがない、そのようなことはありえないというものだったのです。
しかし問題は、今の私どもはこのときのペトロを、「まだ、主イエスの十字架と復活の前であったから、分からなかっただけで、教会の歴史のなかから言えば、例外的な事件、このとき限りのスキャンダル、醜聞なのだ」といって済ませるのでしょうか。もはや自分たちとは犯さない過ちとして批判したり、笑えるのでしょうか。

主イエスは、振り向いてペトロに顔をはっきり向けて、仰せになられます。「サタン、引き下がれ」これは、目もくらむような宣告ではないでしょうか。もしも愛する主イエスから「サタン、引き下がれ」などと言われたら、私どもは、いったいどうすればよいのでしょうか。途方にくれてしまいます。気の弱い方であれば、「わたしは、イエスさまのためを思って忠告したのに、教会のためを思って発言したのに、イエスさまから、そんなことを言われるくらいなら、もうイエスを信じることは止めた、教会に来ることも止める」黙って、涙を流しつつ、主の下から飛び出してしまうかもしれません。あるいは、逆に憤慨して「人のことをサタン呼ばわりするなんて、あまりにも、ひどいのではないか、そんな言い方をするあなたを見損なった」と主から離れるばかりか、食って掛かる人もいるかもしれません。わたしは改めて、この言葉のなかに、教会に生きる、信仰に生きると言うことは、これほど真剣なこと、厳かなことであると、あらためて思わされます。

横道にそれますが、かつて、開拓伝道の初期のころ、講師をお招きして、午後の学びの集会を行いました。そこに、教会に来られて間もない方も出席されました。その方が、集会の後、はっきりと、「教会は、それほど、真剣な場所、真剣に生きる場所であるとは思わなかった。自分のような者の来るところではない。」と仰って、本当に、来られなくなったご婦人がおられました。その方の願い、求めていたもの、あるいは教会や信仰のイメージと、私どもの教会の姿と信仰のイメージが一つにならなかったのです。教会に生きている者は、いったいどれだけ、この悲しみを経験することでしょうか。しかし、そこでややもすると教会は、この主の真剣さを、隠そうとする誘惑に陥ります。「教会は、楽しい場所ですよ。さまざまなプログラムがあって、あなたの人生に有益ですよ。何も信じることを強制しませんよ。とにかく一度、来てください。」つまり商業的な宣伝、宗教的勧誘に堕ちてしまいます。

いったいペトロは、ここで何をしているのでしょうか。彼が主イエスに期待し、夢見、考えていたことは何でしょうか。それは、主イエスに従う道の果てには、神の都エルサレムを王であられるイエスさまが治め、どの国よりも豊かな国、力ある国にまとめあげるという道でありました。いわば、楽しい宗教、ご利益を説く道、ユダヤの国を繁栄させる自分たちの宗教の拡大です。主イエスについて行く道は、たとえ今は、厳しくとも、しかし、もう少しすれば、あるいは最後には、これまでの努力は何倍にも、何十倍にも報いられるという期待、自分の人生が大きく実る期待感、すっかり根付いてしまったはやりの言葉で申しますと自己実現です。彼は、主イエスにお従いすれば、ついには、全世界をも手中におさめられるのではないかとすら思ったのかもしれません。だから「殺されるだなどと、弱気になってもらっては困るし、そんなことがあっては断じてならない」と主をいさめたのです。

それゆえ、主はペトロに仰せになられます。「あなたはわたしの邪魔をする者。」邪魔をする者、これは「つまずき」という意味があります。目の前を進み行こうとなさる主イエスに立ちはだかる者ということです。先ほどは、「あなたは、ペトロつまり岩」と言われ、「わたしはこのペトロ、つまり岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたそのペトロが、ここでは、主の御前に大きなつまずきの岩として邪魔をしているのです。

「神のことを思わず、人間のことを思っている。」「人間のこと」、それは、結局、自分自身のことです。言い換えれば、自分自身の栄光を求めているのです。つまり、自分のために神を信じている、自分のために宗教生活をする、ということです。それは、神のこと、神の栄光を求めていないということです。ここでは、神の栄光を求めることと自分の栄光を追求すること、その意味での自己実現とは両立できないということがはっきり示されています。

しかし顧みて、実に私どもは、自分を喜ばせるためにどれだけのエネルギーを費やすことでしょうか。自分のために使う一時間はあっという間に過ぎて、惜しまないのですが、他人のために使う一分は長く感じて、とても惜しいのです。夫婦で買い物をして、たとえば、10分でも待たされるといらいらする。20分になれば、明らかに顔に出ます。そのような些細なことのなかにも、私どもがどれほど、自分のことを求めている存在であるかを省みることができるかもしれません。しかしここで主が明らかにされた事は真剣、深刻であります。この御言葉であぶりだされるように見えてくるのは、人間の姿であります。「人間のことを思っている」これは、25節で主が言い換えておられます。「自分の命を救いたいと思う」ということです。

しかし、この御言葉を聞きながら、果たしてそれは、悪いことなのかと考え込んでしまうことはないでしょうか。自分の命を救いたいとの思いで、病院にまいります。生命保険にも入ります。社会保障の問題にも無関心ではおられません。何よりも、職業生活があり、学校の生活があります。これは、自分の命を救いたい、大切にしたい、楽しみたいと考えてのことではないでしょうか。そして、それを否定する人はいるでしょうか。あるいは、主イエス御自身は、我々の楽しい生活、命を救いたいという思いを否定しておられるのでしょうか。

ほとんど毎日のような悲しい事件が報道されて、私共は鈍感になってしまうことを案じるのですが、先日のニュースで、二人の大学生が、一人の壮年の男性を殺し、現金6500円を奪ったとして逮捕されました。小さなお店を出して、こつこつとまじめに生きて来られた一人の決して裕福とはいえない方を、何の抵抗もしなかった男性を、お金を奪う目的で殺してしまったのです。いったいこの青年たちは、命の重さをどのように考えていたのでしょうか。ここに、人間の罪を座にして暗躍するサタンの姿を見る思いが致します

また先週は、天皇と皇后が、サイパンに慰霊の旅をされました。万歳クリフと呼ばれる場所を訪れたのです。そこでは、多くの日本人が、天皇陛下万歳と叫んで、断崖絶壁から海に飛び込んだのです。いたいけなわが子をほうり投げ、あるいは、一緒に飛び込んだのです。天皇のために、死のうと、死ななければならないと私どもの先輩たちは、徹底した教育、ほとんど洗脳教育を施されました。あの激戦地で、敵である米軍の手に捕まったら、どれほどのひどい目にあうかと教え込まれました。そのためなら、自害した方が良いし、すべきであると命じられました。日本軍が、沖縄においては、自分たちを守るために市民を殺した、犠牲にしたのです。このような事々、それをサタンの企て、活躍と見ることができないでしょうか。サタンとは何でしょうか。それは、命を粗末にさせる存在です。命を軽んじ、死へと、滅びへと駆り立てる存在です。ですから、命を救いたいというその願いを、軽々しく否定することはとても、一方で、とても危険な臭いがいたします。我々は、命を大切にしなければならないと、子どもたちにも、誰よりも親の世代にも訴えなければならないと思います。

しかし、そのような我々の言わば常識、少なくとも常識とすべき考え方のど真ん中で、主イエス御自身が仰せになられます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
これは、主イエスが命を軽んじおられるというような発言では断じてありません。その正反対であります。いった主イエスが、なぜ、「サタン、引き下がれ」と叫ばなければならなかったのでしょうか。それほどまでに真剣に、おごそかにそこで見つめておられることはなんであったのでしょうか。それこそが、「いのちの救い」なのであります。このいのちの救いとは、あるいは命を得るといわれるいのちとはなんでしょうか。それは、神のいのち、永遠のいのちです。自分のいのちを救いたいと、人間のことを思うことが、神を神としない罪、神の栄光を求めない罪なのです。

「このときから」と主イエスが打ち明けられたメッセージがここで私共に改めて重く響いてまいります。「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」この御言葉は、もともとの言葉で読みますと、苦しみを受ける、殺される、復活させられると受身の形になっています。そして必ずそうしなければならない、とい言葉が用いられています。つまり、ここには、父なる神の聖なるご決意がはっきりと語られたのです。神御自身が、御子を私共の救いのために、提供する、御子の命を私共に与えてくださるとの父の御心が明らかにされたということです。しかも、さらに申しますと、ただ一点、エルサレムに行くという、行くという言葉は、受身ではありません。これは、主イエス御自身が敢然と、立ち上がって進み行かれるという強いご決意が示されているのです。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
と仰せになられた主であればこそ、私どもの命を買い戻すために、十字架への道、十字架の道を進み行かれるのです。私共の命を買い戻す代価こそ、御子のおいのちにほかならないのです。御子のいのちの重さと尊さと私共のいのちの重さと尊さがつりあってしまう、そのように神が、父なる神が、判断しておられるのです。そうであれば、いのちを大切にしなければならないという我々の常識と、神が、我々の命を大切にしておられることとは、ぶつかるのです。本当に、私共のいのちを大切にしていてくださるのは、他ならない神なのです。主の十字架への道、私共を本当に救う道、まことのいのちを与えようとしてくださる神の道を阻止しようとするのが、他ならない弟子のペトロなのです。主イエスは、何としてもペトロたち、すなわち私共を救い、いのちを得させるために、主は真剣に、このように命じられるのです。
「引き下がれ」 これは、先ほどの文語訳では、「後ろへ回れ」と訳しました。主の背後に退くことです。それは、主の後ろについて行くための定位置です。これこそ、でしたちの、私どもの定位置です。私どもはこの礼拝堂で、主に向き合っています。主を仰ぎ見ています。礼拝堂にも、すでにそれぞれの定位置のようなものがつくられているようですが、しかし、信仰の定位置とは、このように主のみ前に出ることですが、それは、いつでも、主の背後に回るということです。そこで、はっきりと見えてくるのは、主の背中です。主の背中を見る定位置とは、主に従う道です。主が進まれる道を、歩むのです。なぞるように歩むのです。
「引き下がれ」と言われた主の御心は明らかです。ペトロは、主に招かれたのです。決して、「邪魔だ、近寄るな」ではないのです。「あなたはわたしの後ろについて、しっかりとわたしを見ながら、一足、一足、ついて来るのだ」と命じられるのです。

 7月キャンプは今年も、雀のお宿に参りますが、最初に、すばらしい滝を観に行き、子どもたちにこの滝や小川の自然を用いて、モーセの物語を学んでもらいます。その滝までの道は、皆さん初めてですから、もしかすると、わたしが先頭を走ることになるかもしれません。先に行く者は、道を知っています。後をついて行くものが、気をつけることは、見失わないことです。自分はこっちの道を行きたいと勝手に歩けば、主の後ろ姿は見えなくなります。主イエスの後ろ姿、背中を見ようとするなら、私どもは、自分勝手に行きたい道、自分の考えるとおりの道を行くことはどうしてもできなくなるのです。信仰は、主が進む道を、その背を見つめて生きる道です。そのときには、すでに「自分を捨て」ているはずです。そのときには、必ず、既に私どもも「十字架を負って」歩き始めているはずです。
 
 先週の読書会で、中部中会が開催する、7月の平和集会の準備の意味も含めて、渡辺信夫先生の「抵抗権」についての学びをしました。12の単元で、6つを読もうとしましたが、皆様からの意見が活発に出まして、3つしか進めませんでした。それでよかったと思っております。洗礼を受けられてなお比較的日の浅い一人の姉妹が印象深い発言をされました。それは、職業生活の前線でキリスト者として生きている仲間たちが、異口同音に、「この職場に、神さまに遣わされていると信じる」と発言されたことを受けて、「遣わされるという言葉はとてもすばらしい」と仰いました。今日、職場で、キリスト者として遣わされ、生きることはすでにそれだけで、息苦しさと戦うことであります。信仰の節操をあいまいにさせられる誘惑と戦う以外にないのです。これも、一つのしかしはっきりとした十字架の道であります。自分を捨てる戦い、信仰の戦い以外のなにものでもないのです。
 
 主の背を見つめて歩く者は、既に、そこで自分を捨てているのです。自分の十字架を背負っているのです。私共の教会の源に立つ改革者、牧師カルバンは、キリスト者の生活を要約して、「自己否定の道」と言いました。それは、決して自分で自分を殺してしまう道ではありません。それは不可能です。しかし、主の背を見つめ、主について行く結果、そうなるのです。ならざるを得ないのです。主の背を見つめる歩みとは、主イエス・キリストと一つに結ばれて歩むことです。もとより、そこでも自分の力で一つになれるわけがありません。主が私どもお招きくださったのです。そして、繰り返し、引き下がれと主の御言葉によって諭していただくのです。その御言葉を聞いて、私共は祈りへと誘われます。そして、聖霊なる神は、神のみ言葉と祈りと、そして、今朝、主が準備し、招いてくださる聖餐の食卓によって、私共に主イエスの背を見つめる祝福へと招き入れてくださるのです。パンとぶどうジュースをいただくとき、私共のいのちを買い戻すために支払われた御子のおいのちを感謝するのです。感謝して、自分のいのちは、この御子のおいのちの重さ、尊さに匹敵するのだと、あらためて教え諭されるのです。そのとき、私共は、聖霊によって主イエス・キリストと一つに結ばれているのです。

 私どもは、今朝、ニカヤ信条を告白しました。あらためてここに戻ります。この告白をすることは、主の救いの道を言わばなぞるようなものです。私どもは、「主が十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従って三日目に甦り、天に昇り、御父の右に座したもう」と言い表したとき、それは、主の十字架の歩みをなぞるようなものではないでしょうか。ニカヤ信条のその最後の言葉で、私どもは、何と告白したのでしょうか。「我らは死者の復活と来るべき世のいのちを待ち望む」であります。それは、主が、ペトロに約束して励ましてくださった御言葉と同じことであります。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのです。」主にあがなわれ、永遠の命を受けている私共は、さらに主が再び来られるとき、さらに栄光の輝きのなかで、自分の地上の十字架を背負って歩いた奉仕が、驚くように報われることを知らされるのです。

 ニカヤ信条を告白し続けてまいりました、私共名古屋岩の上教会は、これからも、地上に生き、礼拝し、伝道する限り、何度でも、「サタン、引き下がれ」との主の厳かな招きの言葉を聞き続けたいと思います。そうでなければ、私共の教会も、つまづきの岩なる教会に転落する危険性があるのです。
わたしは、この後のぺトロ自身何度も、このときの主のみ声を思い出したに違いないと思います。なぜなら、彼は、この後の使徒としての歩みのなかでも、何度か、人間のことを思った過ちを犯したことが新約聖書に報告されているからです。しかし、ペトロはそこで、まさに、主の背後に回ったはずです。しかも、一人でまわったわけではありません。教会の仲間たちといっしょに背後に、信仰の定位置に戻ったのです。そして彼は、喜んで、自分の十字架を背負い直したのです。そこでは、自分の十字架を仲間たちと軽いとか重いとか比べることもなかったはずです。しかし、それぞれの行いに応じて報いてくださるその報いを、しっかりと見つめていたはずです。それゆえに心を高く挙げて、十字架の道を、いのちの道を生き生きと歩いて行ったのです。

この朝も、主イエスにいのちを救っていただいた、そのようにしてまことのいのちを与えられた、愛する皆様と共に、主のみ前に招かれました。そして、今週も共に、ほふられた子羊なる栄光の主の背中を見つめつつ、主イエスが開いてくださったこのいのちの道を、歩めることを改めて、心から感謝致します。願わくは、このいのちへの道を共に歩む仲間が、洗礼を受けることを志願する仲間が起こされますように。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あのときのペトロのように、「そんなことがあってはなりません」と自分の思い、自分の理性、自分の経験で、主の道の邪魔をすること、主の道から飛び出してしまうことが私共にもあります。どうぞ、この礼拝式で、あなたの御言葉によって、何度でも、「サタン、引き下がれ」と、あなたの招きの声、諭してくださる声を聞かせてください。そして、速やかに主イエスの背後に、私どもの定位置に着きなおすことができますように。そのようにして、いのちの道を、十字架の道を、豊かないのちとあふれるほどの喜びをもって、なぞり、踏みしめて行くことができますように。そして父なる御神、御心であれば、私どももまた、なおいっそう、率先して主のみ体なる教会の苦しみにあずかることができますように。      アーメン